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2005年9月 7日 (水)

バギオの地図

これは バギオの中心部の地図です。

バーンハム・パークの北東にバギオ大聖堂があって、

一番賑やかな通りである セッション通りは その公園と大聖堂の間に

あります。 セッション通りを左から右へ登りつめたところに

地図では SMが建設中となっています。  バスターミナルのすぐ隣です。

この地図は 2003年ころの状況を表しているようです。

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(写真をクリックすると 拡大できます。)

もっと広域の概観図は こちらでどうぞ・・・

バギオの広域 概観図

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2005年9月 4日 (日)

Baguio Day 2005 バギオの日のパレード

About 13 students from Sato Kokusai Japanese language class participated the parade to celebrate the Baguio Day on September 1, 2005.

佐藤国際サービスの日本語学習者13名は、バギオ日本人会のご招待により、パレードを盛り上げました。 日本語学習者の女性たちは 日本の着物を着て バギオの目抜き通りであるセッション通りを練り歩き、日本人会の方々の太鼓の響きは バギオの空に響き渡りました。 太鼓の後には、鯉のぼりを披露する人たちも続きました。

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ホセ・リサール ノリ・メ・タンヘレを読む

このページは、以前からのホームページに記載していた
ものをブログへ引越ししたものです。  

2005年9月 佐世たもつ 

ホセ リサール JOSE RIZAL のことなど

「ノリ メ タンヘレ」 を読む。

3月18日、 国会図書館へ出かけてみた。  
フィリピンの人たちにとっての英雄である ホセ・リサールの
著書 「ノリ メ タンヘレ」 を読むのが目的である。
「ノリ・メ・タンヘレ」 というのは 「我に触れるな」とい
う意味のラテン語であるそうだ。

 
この本は、 ホセ・リサールが ヨーロッパ留学中の1886
年に、 スペイン語で表された長編小説である。
東京の岩波ホールで、その映画「ホセ リサール」が紹介され
たので、 ご覧になったかたも いらっしゃるであろう。
あの映画も 3時間の長編映画であった。

スペイン語で書かれた原本を読む語学力は無いので、私は岩崎
玄の邦文訳による 
「Noli Me Tangere -わが祖国に捧げるー」
(井村文化事業社発行・勁草書房房発売・ 1976年初版・ 
本文 374頁) を読むことにする。
この本は インターネット書店でも 既に絶版のために手に入
れることが出来なくなっている。  
もうひとつの小説 
「エル・フィリブステリスモ」(El Filibusterismo 反逆) も 
同様である。

これら2冊の小説は、 「フィリピン人の聖書」とも呼ばれて
おり、「フィリピン独立の父」の手による特別な本なのである。   
フィリピンの高等教育では、 ホセ・リサールの伝記と これ
ら2冊の小説を読むことが 義務付けられているという。
 
さて、 訳者の 岩崎玄氏であるが、 1948年にシンガ
ポールから復員したあとに、 日本語教師になっており、 
外国語教授法なども研究されたらしい。
1960年には フィリピン大学の客員教授、 1972年に
は デリー大学の客員教授でもある。
日本語教師としては、 国際学友会日本語学校や 早稲田大学、
東京工業大学などで 留学生などを指導している。
又、 1975年以降には リサールの関連書籍の翻訳に専念
されたらしい。

3月18日には、 図書館で正味5時間ほど読んだが、 本文
374ページ、それも 小さな字で 1ページ上下二段に
書かれた本の やっと 六分の一しか読むことが出来なかった。

この小説の第一印象 ? 
ホセ・リサールの天才ぶり、そして ヨーロッパ留学中のその
博学ぶりが その文にも表れていて、 意味のわからないとこ
ろも多い。  
しかし、 読みすすむうちに 次第しだいに 引き込まれて
ゆくのである。
ホセ・リサールは そうとうな皮肉屋であるようだが、 同時
にかなり 茶目っ気のある天才であったようだ。
35歳という若さで スペインによって 銃殺刑にされてしま
ったのは、 この天才をスペインが恐れたためであったろうが、 
かえって その事が フィリピンを独立へ向かわせたのは間違
いないのだろう。

さて、 読後の感想は、 次回以降に持ち越しとさせていただ
きます。お楽しみに・・・・。

   佐世 保 (3/21/2002)

the guy visited japanese national diet library in tokyo
on 3/18/2002 to read  "Noli Me Tangere"
written by Jose Rizal.
 
he cannot understand the novel written in spanish, so he
is reading the japanese version translated by Gen Iwasaki 
who used to be a professor at  the philippine university
in 1960.
 
the japanese version was published in 1976, but it is no
longer being sold in the japanese market.
the guy is trying to find the japanese version at second
-hand book stores in japan now.

ノリ・メ・タンヘレ  Noli Me Tangere を読む

「われに触れるな」は ホセ・リサールの運命なのか?
 
国会図書館に毎日出かけるわけにも行かず、地元の図書館で蔵書
検索をしてみたところ、 運良く 「ノリ・メ・タンヘレ」は見
つかった。
ホセ・リサールの著書はこれ一冊きりであった。
ただし、 これも共同倉庫なるところにはいっているそうで、
あまり読む人はいないらしい。
2週間の貸し出しが出来たので、興味ある部分を抜書きしなが
ら やっと読み終えることが出来た。
 
ひとことで感想をいうならば、 26歳であったというホセ・
リサールは この「ノリ・メ・タンヘレ」で 自分自身の運命
まで書き上げてしまったのではないか、と言うことである。  
35歳で銃殺刑に処せられるまでの彼の人生は、この本を 
そして この後に書かれた二作目「エル・フィリブステリスモ」
(邦文訳「反逆・暴力・革命」)を書き、 フィリピンを
スペインからの独立に向か
わせるためだけのもののように思えてくる。
 
「あるいは おまえの思い出にふけろうと思い、 または他の
国と比較しようと思って、 なんどおまえの姿を思い起こそう
としたことだろう。 ・・・・・ なつかしいおまえは、 
いつも これと同じような社会的な がんに苦しんでいる姿で 
目の前に現れてくるのだった。  ・・・・・  わたしは 
真実のためにはすべてを、自尊心でさえ犠牲にして、 この
病をおおうベールを もちあげることにしよう。」
 
最初のページに書かれたこの「序」は、 たしかに この本へ
の決意を表しているのであるが、 読後感としては ホセ・
リサールの遺書の書き出しでもあるかのように響いてくるので
ある。

 
このことを 手っ取り早く ご理解いただくには、 
ホセ・リサールの略歴をご紹介したほうがよいであろう。
 

ホセ・リサール略歴
1861年6月19日 ラグナ州カラムバ町で誕生。
1877年 アテネオ・ムニシパルで中等教育終了。
       同年サント・トマス大学入学。
1882年 スペインへ出発。 
       同年末、マドリッド中央大学入学。
1883年 フリーメーソンに加入。
1884年 医学コース終了。 学位を受ける。
1885年 哲学・文学コースの学位を受ける。
1886年末まで、 パリで医学実習。 終了後、
       ハイデルベルク、 ライプチッヒ経由
1887年 ベルリン着、2月22日「ノリ」を完成、出版。
       ドイツ、オーストリア、イタリアを旅行。
       8月5日マニラに帰着。
1888年 総督の国外退去の勧告を受け、2月3日
       マニラ発、日本(2月28日ー4月13日)、
       北米経由、6月中旬ロンドンに落ち着く。
1889・90年 プロパガンダ運動の強力な闘士として
       活動。 政治論文を多く発表。
1891年 正月ビアリッツで「フィリ」原稿完成。 
       9月18日、ゲントで出版。
       11月ホンコンで医業開業。 繁盛する。
1892年6月26日 帰国。 
     7月14日ー1896年7月31日 
       4年間ダピータンに流刑。 
       一度マニラに帰り、スペインに向かった
       が、 船中で再逮捕。
1896年11月3日、フォート・サンチャゴに監禁。
      12月30日、バグムバヤンで銃殺刑。 

(上記すべて  岩崎 玄 訳 より)
ノリ・メ・タンヘレ  風景・人々

「ノリ・メ・タンヘレ」(岩崎玄 訳本)より引用

< >内の見出しは便宜上 私が付けました。
pXX は 同書の中でのページ数です。
((   )) 内は 私の感想など。

風景===

<マニラの川> p02
この支流というのは、ビノンド川ともよばれている川で、 
マニラのすべての川とおなじように、 水浴場、下水みぞ、
洗たく場、 魚つり場、運輸交通の手段といったような たくさんの役割も
はたすものであって、 はては 中国人の水売り人が 好都合
だと考えれば、飲料水にまでなるのである。

<サリサリ・ストアー?> p21
昔に変わらぬ きたならしいカーテンをさげ、細い丸鉄棒を
つけた中国人の店々があった。  
「なんと移り変わりのおそいことよ!」口の中で言いながら・・・

<マニラの風景> p45
早がけで行き交うたくさんの二輪馬車、荷馬車、それぞれの
衣装をつけたヨーロッパ人、中国人、フィリピン人、くだ物
売り、ブローカー、はだかの荷かつぎ人夫、食料品の屋台店、  
宿屋、レストラン、あきない店、哲学しながら荷物をひっぱる
のを楽しんでいるような無感覚な水牛のひっぱっている荷車
にいたるまで・・・・

((小説の風景描写の中には、馬、水牛の二輪車、そりのよう
なパラゴスなどの乗り物や、 牛、馬、白さぎ、鹿、いのしし、
せみ、こうろぎ、とかげ、大やもりなどの生き物も登場する。   
豚という名前が出てこないのは、いのしし=豚ということでも
あろうか。  食べ物として 「いのししの干し肉」や「野生のかもの足」
などというのもあったらしい。  小説の中のフィリピンの
風景は、ホセ・リサールの眼には かなりうつろなものとして
映っていうである。))

人々===

<堕落させる・・・> p22
この国へ、スペインでは はしにも棒にもかからないようなの
が来ると、 たとえいい人が来ようとも、すぐさまこの国が 
堕落させてしまうのです。

<他人事> p33
土人の悪口をいっているのを聞くと、自分のことは土人だと
は思っていないので、口うらをあわせて もっと悪く言った。  
中国系のあるいはスペイン系のメスティソが非難されていると、
自分が生粋のスペイン人であると思うのか、同じように非難した。

<外国へ・・> p48
かの国の人たちは、金をさがしにやって来る。  おまえたち
は われわれの国にはない別の金をさがしに、 かれらの国に
いくがいい!けれども光るものが全部 金とはかぎらぬことを忘れるなよ。

<中国人の墓> p66
「どうか腹をたてねえでくだせまし、だんなさま」 かれは まっさおになって ふるえながら答えた。
「中国人のなかには埋めませんでした。 中国人のなかにいる
よりゃあ、おぼれ死にのほうがなんぼかましだろ、 わしゃ
そう考えて、死体を水の中にほうりこみました。」

<なぜ自分だけが・・・> p98
むち打たれた者は、やがて ほかの者に その番がまわること
に、慰めをみいだし、他人の泣き声に満足して、ほくそえむ
ようになるのです。

<中国人の洗礼> p171
中国人の ろうそくやたちには かきいれ時だった。
その中国人たちは 感謝の気持ちからか、洗礼を受けようかと
考えていた。
もっとも カトリックの教えに対する信仰からではなく、 
妻をもらいたいからなんだ、と言った人もいるけれども。
だが それに対して、信心ぶかい婦人たちはこう答えている。
「たとえそうだったにしても、あんなにおおぜいの中国人が、
一度に結婚するのも奇跡じゃありませんか、 もう その妻が
夫を改宗させているんだから、」

ノリ・メ・タンヘレ  人々・慣習

130年前、それはもう「慣習」だった 

<いやらしいほどの人物描写> p227

夫人はいつもの習慣どおり、手をつかねて、幅の広いひじ掛け
いすの上で眠っている。 着物はいつものとおり、ということ
は、みすぼらしく、ものすごいかっこうである。 髪かざりと
いったら、頭にパニュエーロをしばりつけただけで、こんがら
がった毛の、 小さい短い束は乱れほうだいだ。
昔は白かったにちがいないと思われるシャツの上に、青いフラ
ンネルのシャツを重ね着して、 色のあせたスカートが、はげ
しくけいれんする、組み合わせた、やせて平らなももの形を見
せている。
口からは葉巻の煙をはき出す。  すると煙は かの女が目を
開いたときに見つめる空間にモクモクとふきあがっていく。
ドン・フランシスコ・デ・カニャマケが こういう瞬間のかの
女を見たら、かの女の町のボスか、  あるいはマンククラム
だとおもって、あとでこの発見を、かれが独特の使用法を発明
した市場のことばで、記録して美化することであろう。

((小説の中に登場するのは、スペイン人、ヨーロッパ人、
中国人 そして 土人と表現されたフィリピン人である。  
日本人は未だこの時代にはうろうろしていなかったようだ。   
スペイン人は植民地の支配者としての役人や、それに勝る権力
をもった修道会の聖職者として 描かれるが、土人と自虐的に
表現されているように フィリピン人はとるに足らない者か、 
あるいは虐げられた者か 果ては反逆者か という設定になる。
130年ほど前のこの時代には、中国人はまだフィリピン社会
に溶け込んだ存在ではなかったようだ。 現在でもその名残が
あるのだろうが、その理由はやはり経済的な力の差なのであろう。  
カトリックの聖職者から吹き込まれていたとはいえ、 異教徒
である中国人は 山岳民族やミンダナオのイスラム教徒である
モロ人 さらにはプロテスタントと同列であり、かなり憎しみ
の対象でもあったようだ。
ホセ・リサールの人物描写は 修飾語がこれでもかというくら
い続き 長々とした文章になっている。 くどい文章といって
しまえばそれまでだが、このくどさが倦怠感という その時代
の空気を如実にあらわしていると言ってもいいかもしれない。))

慣習===

<フィリピンの宴会> p20
フィリピンにおいて、 晩餐会や宴会でいちばん必要がないの
は、 その主催者である。
まず その家の主人を道ばたにほっぽりだしてから 会を始め
てもいい。あとはすべてが安穏に運ばれるだけであろう。

<祭りの行列> p169
聖母の像のあとから、われわれスペイン人や、その他の聖職者たちが従っていった。
司祭者たちは バランガイの組長どもが ともどもにささげ持
つ天がいにおおわれて進み、行列の最後は 名誉ある自衛隊の
儀丈兵隊だった。
多数の現地人たちが 火をつけた大ろうそくを うやうやしく
ささげて、 行列の二列をつくっていたことは言うまでもある
まい。

<神父の頭痛の種> p185
説教者はだんだん熱をおびてきた。
昔のこと、すべてのフィリピン人が聖職者に出会えば、かぶり
物をとって片ひざを地につき、 その手に口づけをした。 
・・・・
マニラまたはヨーロッパで勉強して ラテン語を多少こころえ
た高慢な学生は、手に口づけするかわりに、握手をする権利が
あるとこころえておる!
ああ! さばきの日は近づいている。

ノリ・メ・タンヘレ  慣習・宗教

フィリピン人にとっての神とは・・・

<交通整理> p215
行列にまじって警察権の行使者である警夫が 行ったり来たり
している。
かれらは列が乱れないよう、人々が一ヶ所にたまらないように 
気をくばっていたのだ。 そのためには 警棒を利用して 
適宜に またかなりの力をもって 人々をぶんなぐって、 
霊魂の教化のための 宗教的な大行列に 栄光をそえようと
努力していた。

<フィエスタの翌朝> p245
祭礼は終わった、町の人々は毎年のように、また改めて、こん
なことを感じるのである。 財布はすっかり軽くなった。  
働き、汗を流し、眠りも犠牲にした、 が、たいして楽しい
こともなかった。  新しい友だちができたわけでもない。
つまり高い金を払って、大騒ぎと頭痛とを買ったんだ。
でも、まあいいじゃないか。 来年も同じことをやるだろう。 
来世紀も同じことを。これが今までのしきたりなのだから。

<闘鶏> p268
闘鶏という人を熱くさせる楽しみは、外国からはいって来て、
百年来この国で発達したものだが、 中国人の間に発達した
アヘン吸飲よりも、さらに重大な悪習のひとつである。
・・・・ 財布がからになることはあっても、この執念だけは 
とどまる所を知らないからである。  そこには活気をおびて
いない顔はない。  そこには 例の 怠惰で、無気力で、
だまりこくったフィリピン人はいない。

((宗教行事というお祭り騒ぎは 130年も前のこの時代に
も すでにやめるにやめられない 金のかかる一大年中行事
だったことがわかる。 フィエスタは 貧乏人の土人にとって
は それこそ 一年間の生活を犠牲にするほどの負担でもあっ
たようだ。
聖職者の手に口付けをするという「マナー」は、「土人」の
高等教育の広がりにあいまって すたれていったことが読み
取れるが、 これは現在でも 中流以上の家庭での子供の
しつけには生き残っているようである。
小さい子供にこれをしてもらうと、意味を理解できない日本
人でも 偉くなったような心持ちになるし、しつけをよくして
いる家庭だなあ、などと見当はずれの見方をしてしまう。))

宗教===

<神よ・・> p79
そしてまた、なやんでいる人たちのために説かれた宗教よ、
おまえは貧困の中でしいたげられた者を慰め、金力のある
もののおごりを抑えつけるという おまえの使命を忘れて、
富んだ者、おまえに金を払うことのできる者にしか 約束を
与えないのか ?

<真理の服装> p147
「真理が はだかだからといって、はだかのゆえに 真理を
愛するものは、 ひとりもありませんよ!」 老人が答えた。
((裸の真理子ちゃん ではありませんよ、 「しんり」と
呼んで下さい・・・))

<政府vs修道会> p148
政府がこの国と母国のために、国を偉大にしようという欲求を
いかに強く持っていようと、 また、二、三人の役人が 
カトリックの王たちの高尚な精神を思い起こして、それを唱道
しようとも、政府は 司祭と修道会管区長とが 見、聞き、
判断させようとすること以外は、 けっして 見も、聞きも、
判断も しないのです。

<修道士の説教> p180
おまえたち、大いなる罪人どもよ、 永遠の生なる海を 肉と
現世の力強い舟に乗って荒らしまわる モロびとに 心をとら
えられた者どもよ。
例のリポーターが 粗野な現地人とよんだ人たちは、この段階
から、「自衛隊」 「賊」 「聖ディエゴ」「聖フランシスコ」
という語しか 聞き取ることができなかった。

ノリ・メ・タンヘレ  宗教・生活

一ペソ、 されど 一ペソ

<タガログ語の説教> p184
説教の第二部、すなわち タガログ語の部については、 ごく
簡単な書きぬきしかない。  ダーマソ神父は タガログ語の
説教を即席につくったのだ。  かれがタガログ語をよく知っ
ていたからというわけではなく、 フィリピン人のいなか者な
んかには、 修辞学はわかるはずがないと思っていたので、 
かれらの前ではまずいことをいっても平気だったのである。

<深遠なる説教> p184
この説教の大すじが聴衆のだれにも よくわからなかったと
いうのは 周知の事実だった。  聴衆の理解力はまことに
弱く、説教者は ルーファ信女も言ったように 深遠だった。  
だから 聴衆は泣き出す時を 今か今かと待っていたのだが、
とうとうそのきっかけをつかむことができなかった。

<反キリスト者> p197
はっきりいいますが、神こそ人間の中の唯一のもの、 生命に
対する唯一の権利者でなければなりません。  人間がその
代理をすることを考えてはいけないのです。   
「わたしは人間を信じることができなくなったから、いよいよ
神を信じなければならなくなったんです。」  
船頭は 質問をそらせて、 こう答えた。

<夜明け前の死> p369
わが祖国に夜明けの光がさす前に、 おれは死ぬ・・・!
その光を見るものたちよ、それを歓呼して迎えてくれ・・・
だが、夜のうちに散った者のことも忘れないでくれ!

((ホセ・リサールは 神を信じるがゆえに、フィリピン
宗教界のスペイン人聖職者の口にするキリスト教と闘うことに
なったと言えるだろう。
小説の中でも、政治的権力を握る総督は理解のある人間として
描かれており、修道会の聖職者こそが 総督を超える実質的権
力者として フィリピン人の最大のそして醜悪な敵として描写
されている。    
現実の改革の口火を切った人々の中で、フィリピン人の聖職者
が重要な位置をしめたことは、  当然であるし、それが 
キリスト教を救ったとも言ってよいだろう。))

生活===

<一ペソ> p80
買わなければならない免罪符のことをかんがえているのだ。
「一ペソ」と かの女はいう。  「一ペソは ・・・ わた
しの一ヶ月分のたくわえだ。 女になろうとしているむすめの
一枚の服代だ ・・・」
・・・・
情のない男の妻で、 かの女が 子どもの生活のかてをかせい
でいるのに、夫はブラブラ歩き回って、闘鶏とばくをやってい
る。

<鰯の干物>
シーサは 木のベンチに腰をおろして、自然石の四角ばったの
で作ったかまどの中で、 トロトロ燃えている 何本かの枝を
見つめていた。
三脚テーブルの上に、飯をたいた土なべがのっていて、熱い火
の上には 干物のいわしがのせてあった。  銅貨二枚で三つ
買えるあれだった。

<料理> p131
アユギンは シニガンがいいですよ。
ビアは酢漬けにして、 ダラグとブワンブワンは ペーサにし
ます。
ダラグは いつまでも生きていますからね。・・・ エビは
フライですよ。
バナクは焼きものに、 バナナの葉につつんで トマトをつめ
物にしてね。

<年貢の納めどき・・・?>
町のそとでは、山の衆、小作の衆が、地主のところへ 食い太
った鶏や、いのししや、鹿や鳥を持っていくというので、 
いちばん上等の衣装を着こんでいた。

<説教の値段>
老タシオは言った。 「たった一度の説教に二百五十ペソか! 
ひとりの人間が、それもたった一度だけだ!  三晩もたて
つづけに働く役者たちの 一日分だ! きみたちはたいした
金持ちだよ!」

ノリ・メ・タンヘレ  教育 そして 革命

貧困、 教育がもたらす闇と光・・・

((貧富の差というのは 130年前はもっとひどかったと
いうべきだろうか。
家族で喰うやくわずの家庭では 一ペソが一か月分の生活費で
ある一方、  聖職者の一度の説教は 二百五十ペソのお値段
だった。
私も食べたことのある あの塩が超効きすぎた鰯の乾物は 
昔から米と一緒に食べるには 貧乏人の空腹を満たしてくれる
強い味方だったのだろう。
それにしても スペイン人聖職者というのはひどかった。  
地主として年貢を取り立てる、それもいいところを持っていく、
フィエスタで 貧乏百姓に大枚を出させる、宗教上の免罪符を
買わせる、貧乏人の子供を侍祭としてムチ打ってこき使い、
さらにに庶民から金を巻き上げる闘鶏までを牛耳る、 土人を
ひざまづかせて手に口付けを強要する・・・、これが教養とい
うものか? ん?? ))

教育===

<教師の末路> p97
学校教師には、知識も情熱も必要ない。 ただ あきらめと、
屈従と、惰性だけが要求されるのです。  そして、神よ許し
たまえ、わたしはみずから、 良心と理性とをすて去りました。
けれども、わたしは こういう国にうまれついて、生きていか
なければなりません。

<教科書> p101
学校で教える本は 大部分がスペイン語で、 タガログ語の
教理問答書だけが例外です。  この問答書は、司祭の属する
修道会によってちがいますがね。
・・・少しずつタガログ語の著作、 まあ オルテンシオと 
フェリサの行儀作法とか、農業要綱のようなものですが、・・・

<老哲学者の説得> p308
ところが、われわれフィリピン人は、進歩の車の三世紀も後を
歩いていて、やっとのことで中世記を脱しようとし始めたとこ
ろだ。
それだから、ヨーロッパでは後進的なイエズス会も、この国で
見れば、進歩を代表している。
フィリピンはやっとうまれた教育と、十九世紀の精神である自
然科学とを、かれらに負っている。 それは、ドミニコ会に
スコラ哲学を負っているのと同じだ。

<両刃の剣> p354
子どもに教育を与えることは、悲しい将来を与えることになる。
子どもは宗教の敵になり、絞首刑になるか、国外追放にあるか、
それをおまえは見なければならぬ。  教育しなければ、暴君
になるか、堕落するかだ!

((ホセ・リサールは、フィリピンの修道会の中でも 大学を
経営していたドミニコ会には 相当の恨みがあったようだ。 
中等教育までの学校を経営していたイエズス会は 進歩的であ
り、フィリピンへも自然科学の教育を持ち込もうとしていたが、
ドミニコ会の大学では 露骨な人種差別にもあったらしい。  
そして そのドミニコ会こそ 好き放題に フィリピンの
「土人」を虐待したことになっている。
訳者である岩崎氏は、 日本でも高等教育は「赤」につながる
という「母親の心配」があった時代がある、と述べている。
フィリピンの場合は、それが 国外追放か絞首刑か あるいは
ホセ・リサールのように 銃殺刑になったということである。
ともあれ、フィリピンにおいては、この時代になって やっと
「土人」への高等教育が始まり、それが 革命へ結びついたと
いうことである。
では現代のフィリピンはどうなのであろうか。 現実を見れば 
未だに改革はその途上にあるというべき現状なのであろう。
ホセ・リサールの時代には スペインvs植民地であったが、 
今は 金持ちvs貧乏人という体制が ふたりめのホセ・リサ
ールを待ち望んでいるとも言えよう。))

以上、 岩崎氏の訳本からの引用と 読後感でした。
みなさまも 是非、 図書館へ・・・

4/20/2002 させ たもつ

岩崎玄による 巻末の注は 面白い

ノリ・メ・タンヘレの注は 130年前のフィリピン

「ブヨ」
びんろうじの実と石灰を、ベテルの葉で巻いたもの。
かむと口中がさわやかになるという。
つばが はでな赤色になり、まち中でそれを遠慮なくはき散
らす。アジア一帯にひろがっている。

「自衛隊」
原語は ダワルディア・シビル。  軍隊とは別で、しかし
軍に準じた組織をもち、町、道路などの治安維持にあたる。  
フィリピンでは悪名が高い。
ほかに町には 町に属する警史がいる。

「怠惰」
フィリピン人の怠惰については、 リサールの「フィリピン
人の怠惰について」という、ひじょうに興味ある好論文がある。
趣旨は、フィリピン人の怠惰は、ほかならぬスペイン人が教え、
強制したものだ、 というにある。

「ドクトラ」
ドクトルの女性形。  フィリピンの習慣では、ドクトルの夫
人の敬称としても用いられる。  従ってこの語は、 女医、
医師夫人の二義をもつ。
プロフェソーラなども同じ。

「ヘレ・ヘレ・バゴ・キエレ」
ほんとうはひどく欲しいのに、欲しくないようなふりをして見
せる子に対して、 まわりの人間が声をあわせてからかうとき
に使うはやしことば。
スペイン語・タガログ語の混合で、現代の人でも、みんな知っ
ている。

「ペソの購買力」
当時のペソがどのくらいの購買力を持っていたか、なかなか
うまい比較がみあたらないのだが、 1882年に作者がサン
ト・トマス大学から スペインの大学へ勉強にいったとき、
家族はかれに毎月50ペソ のちに35ペソずつ送ることをき
め、それでリサールは学生生活ができたことから、 大体の
想像がつく。
フィリピンの生活費がスペイン本国より安かったことは予想で
きる。
現在(1975年)ペソの公定は 100ペソが 6.76ドル、 
従って、 1ペソ約44円。

「ヘスス・マリア・イ・ホセ」
ヘススはイエスのスペイン読み、 ホセは聖母マリアの夫で、 
イエスには養父にあたる。
すなわち聖家族の名を全部呼んで、救いをもとめたり 驚き
をあらわしたるするのである。
教育のない者はこれをなまって、 「ヘスマリオセプ!」と
やる。
この作にもたくさん出てくるし、 今でもまちを歩いていれば 
かならず耳にする叫びである。

「今夜キリスト教徒の信仰が略奪を許す」
これは、万聖節の夜にかぎって、 他家の鶏を失敬して食って
もとがめられない、という 妙な風習がこの国にある。  
老タシオは、 その風習に便乗して本をぬすまれることを 
心配したのである。  いなかの部落の家々には、 とびらも
かぎもないのがふつうである。

「地震の時に紙っきれに図をひく」
当時のイエズス会が自然科学に貢献したことは本文にも出てく
るが、 とくにこの会の神父の指導下にあった マニラ天文台
は世界的に有名で、 その中でもファウラ神父を先頭とする
地震学的観測は著名だった。
このファウラ神父には、リサールもアテネオ在学中に指導を受
けている。

・・・ しかし、 この本が絶版とは 実に惜しい。

   

エル・フィリブステリスモ El Filibusterismo  を読む

ホセ・リサールの革命は今も続いているのか?
「エル・フィリブステリスモ」は 「ノリ・メ・タンヘレ」
とは別の小説かと思っていたら、これが 全くの続編で
あった。 「続・ノリ・メ・タンヘレ」である。
ちなみに、 スペイン語のフィリブステリスモは
分離主義という意味であるそうだ。
 
「ノリ」を読み終わって、その本を地元の図書館に
返却し、同時に「エル」の貸し出し注文をしたのだ
が、 県立図書館から回ってくるのに 一ヶ月を
要することになった。
 
本来なら 2週間の貸し出し期間に 読み終える
ことも出来るのだが、 あいにく メルボルンへの
出発が間近であるので 全部は読めそうにない。

288ページの内 半分ほどを読んだところではある
が、 やはり ホセ・リサールは 今も躍動している
フィリピンの英雄である。
 
この本が手に入る前に、 たまたま 鶴見良行著の
「バナナと日本人」(岩波新書)を読んだのであるが、
その1982年発行の 多国籍企業による バナナ
プランテーションにおける 農民の現状を告発する
報告は、 まさに リサールが告発した 植民地
フィリピンの農民の苦悩と 同じであった。
 
又、岩崎玄訳の「エル」の巻末には、 リサールの
論文である「フィリピン人の怠惰について」(1890年)
が掲載されており、 その四に以下のようなくだりが
ある。

・・・ フィリピンの住民の心が、失望のうちに落ちて
いたからとて、なんの不思議があるだろう?
これほどたくさんの惨禍の中にいて、自分のまいた
種が 芽を出すのを見られるかどうか、 自分の田畑
が 自分の墓になるかどうか、 そして 自分の収穫
が 自分の死刑執行人の腹を こやすことになるか
どうか、 かれらには わからないのだ。

敬虔であるが無知な、当時の修道会士たちが、
エンコメンデーロの圧制からのがれるために、 鉱山
労働をやめよ、産業を放棄せよ、織機をぶちこわせ
と忠告し、唯一の希望として 天を指し、 唯一の
慰めとして 死に対して準備させようとするのに、
なんの不思議があるだろうか ?
・・・・・・・

05/09/2002

the guy read the El Filibusterismo written by
Jose Rizal,  and thought that he is still
alive in the heart of us, or  he should alive
even in 2002.
why ?
because,  the situation in the philippines is
still showing the same issues that were
written by Rizal.....

エル・フィリブステリスモ 
El Filibusterismo

岩崎玄 訳 「反逆・暴力・革命」 から
 
ホセ・リサール著、 岩崎 玄 訳の
El Filibusterismo は、 
Noli Me Tanngere に比べると わくわく
するような小説ではない。

しかし、その前半部は フィリピンの地元民が 情け
容赦無く 財産を奪われ、農地も奪われ、 さらには
家族の命すら 奪われていく スペイン政府、
修道会、そして みずからの政府の構造を明らかにしていく。

その内容は、 現在のフィリピンの状況にもつながる
底流を理解するには 最適というべきであろう。

中ほどからは 綿々と人物描写が続く。
特に 大学生のスペイン語教育の要求をとりまく
聖職者たちと 政府高官などの動きを辿って
いくのだが、 そこに姿を変えたイバルラが 
革命を画策する 宝石商として登場する。
 
時間に追われて じっくり読めなかったのだが、
以下に 現代のフィリピンにも通ずるところを
引用してみたい。

== 乗船客の様子 ==
(一、 「上部デッキ」 より)

それでも この国と似ている点が まだ不足だという
なら、 この乗客たちの顔ぶれを見るがいい。
下部デッキには、貨物やトランクの間に、現地人や
中国人や メスティソが、 その特徴をなす あさ黒
い顔や、 黒い頭髪をのぞかせて 充満している。

一方、 その上の上部デッキには、日よけの下に西
洋の服を着た乗客、 修道会士や 政府の官員
らが それぞれ葉巻タバコをくゆらしながら、 快適
なイスに腰をおろしている。

かれらは、 船長や乗組員たひが、 川の中の
じゃまものを よけるために 努力している様子には
いささかも気づかないように、 あたりの景色に
ながめいっている。

== 奪われる農地 ==
(四、「カベサン・タレス」 より)

それで かれらは、 町との境界にある 深い森林の
木を切り倒し、 根や草を とりのぞいた。
その土地は、持ち主のないものと信じられていた。

・・・・最初の取り入れをしようという時になって、
近くの町に地所を持っている修道会が、その土地が
自分たちの荘園の境界内にあると言いたて、
その田地の所有権を主張し、その証拠のために、
ただちに標識をたてようとした。

== フィリピン人のアイデンティティーとは ? ==
(七、「シモウン」 より)

きみたちは 権利の平等を、 きみたちの風習のスペ
イン化を、 こい願っているのだが、 実は きみたちの
こい願っているのが 死であり、 国民性の破壊であ
り、 祖国の破滅であり、 暴君政治の聖化であるこ
とが わからないのだ!

きみたちは将来どうなるのか ?
性格のない人民に、 自由のない国民に、なるのだ。
きみたちの中にあるものは、 みんな借り物になる。
欠点でさえも。

== 日本人の血 ? ==
(二十、 「委員長」 より)

・・・機械的労働または 模倣芸術でないもの、 たと
えば 化学、医学、あるいは哲学のような領域で、
りっぱな仕事をしているものがあることを聞くと、 こう
言った。
「フム! あの男は将来があるな、・・・ばかじゃ
ない!」 そして、そのような土人の血管には、
スペイン人の血がどっさり流れているのだ、と
うけあった。

そして、 ・・ その血を見出すことができなかった
時には、日本人の祖先をみつけ出そうとするのだっ
た。 というのは、 ちょうど そのころ、フィリピン人の
持っているいいものを、すべて日本人 または
アラビア人のせいにすることが  はやりだしていたから
である。

「フィリピン人の怠惰について」 1890年の論文

スペイン植民地以前のフィリピン人は・・・
 
マラヨ・フィリピン人は、 ヨーロッパ人の到来以前
には、自分たちの間だけではなく、近隣のすべての
国とも、 活発な交易を営んでいた。
 
・・・ ルソン島の商人たちの活動と 正直さとに
言及している。
かれらは、中国の産物を取り集めて、 九ヶ月間
諸島を回航してまわり、 品物をくばって歩き、
その後で、中国に帰ってきて、中国人が渡した
ことを覚えていない商品の価格まで、きちょうめんに
支払うのだった。
 
逆に、フィリピン諸島から輸出する生産物は、
生ワックス、もめん、真珠、べっこう、ペテル・ナット、
織物などだった。

・・・ ピガフィッタは、 1521年に マゼランと
いっしょに来て、 フィリピンでは最初に サマール島
にたどりついたが、 そこで 第一に気がついたこと
は住民たちの礼儀正しさと、親切なこと、それに、
かれらの商業だった。
 
・・・ なんども引用される モルガ博士の証言は
ものを言うだろう。
博士は七年間フィリピンで、総督代理および
マニラ裁判所の判官をつとめ・・・・

モルガは 第七章で、・・・
「現地人たちは、 このような職務をはたすどころ
ではなく、 かれらが異教徒だった時代にも、
また、国が占領された後も、 長い間やっていたこと、
鳥や家畜や もめんの栽培と飼育、 機織などを、
まったく忘れてさえしまっていた。」
(「フィリピン諸島誌」リサール全集 第六巻)

上記のように、ホセ・リサールは、 ヨーロッパ留学
中に さまざまな文献を読み漁り、 植民地以前の
フィリピン人の本来の姿を 追い求めたのである。
 
そして、この論文によって、 フィリピン人の怠惰と
言われるものは、 生来のものではなく、
スペインの植民地政策によって ねじ曲げられて
来た結果なのだ、と立証している。

05/14/2002 佐世 保

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