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2008年8月 4日 (月)

生き証人に聞く・・・ナギリアンの戦い 

第二次世界大戦中のルソン島での戦闘については、様々な小説や資料があるが、バギオ周辺での戦闘についてはケノン・ロード(ベンゲット道)キャンプ3での激戦が名高い。又、日本軍司令部のあったバギオ陥落後の悲惨な逃避行についてもいくつかの書籍にみつけることが出来る。

しかし、ケノン・ロードからのバギオ侵入を諦めた米軍がラ・ウニオン州のバウアンからバギオへ向うナギリアン・ロードから侵攻した時の日米の戦闘を物語る小説や資料にはなかなか巡り合うことが出来ない。

バギオへの戦没者慰霊を昭和50年から毎年続けている慰霊団がある。今年34回目のバギオ訪問をした「ライオン道戦跡慰霊訪問団」である。 慰霊団を始めた当初は、多いときには100名くらいも参加するほどフィリピン戦線から帰国した元日本将兵がいたが、今は愛知の鈴木さん、静岡の川崎さんのお二人以外は既に亡くなり、その父の慰霊をする次の世代に引き継がれている。

捜索第16連隊にいた鈴木さんの話によれば、ナギリアン道の守備に当たった同連隊の将兵はおよそ一千人。 軽戦車16両、トラック16両などでナギリアン一帯を守っていた。 米軍が侵攻してくる前まではフィリピン人ゲリラとの戦闘がほとんどだったと言う。 それまでケノン・ロードを攻める構えだった米軍が急にナギリアン・ロードへ重点を移した。 4月11日に始まったナギリアンへの米軍猛攻撃後 戦闘でジリジリと約三分の一が戦死したが、その多くはバナンガンから退却した盟兵団司令部が4月15日に入ったイリサンでの戦闘であったという。 バギオまであと5キロの至近距離である。軽戦車は米軍の戦車にまったく歯が立たず、山に穴を掘って米軍の戦車を迎え撃ったという。 

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そのイリサンの山肌は、雨に霞んでいた。 

イリサンの戦闘で負傷した将兵は、バギオの東方アンボクラオの集落からさらに東へ5キロほどのアグノ川の畔にあったインチカク(あるいはインタイカク)の野戦病院に収容されたが、その負傷兵の多くは空爆で命を落としていった。

捜索第16連隊は山下奉文大将司令部直轄の連隊で、鈴木さん自身は昭和20年1月3日から3月10日まではバギオからアシン・ロードを下ったアシン温泉にアメリカが建設した水力発電所の水源地の守備の任務であったという。 勝算のあった米軍はバギオへ電力を供給するその発電所を空爆することはなかった。 その当時、バギオを攻める道はケノン・ロードとナギリアン・ロードの二つで、その中間を走る今のマルコス・ハイウエイはアゴオからプゴを通ってバギオへ山越えする間道にすぎなかった。 米軍はそこに道を作りながら侵攻して来たとのことである。 (そのバギオ攻めの軍事用の道が、今のマルコス・ハイウエイの基となったようで、戦後完成している。 尚、米軍が進んできた間道は、アシン・ロードだという資料もある、。)

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あいにくの雨の中、線香に火をともす。

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慰霊碑も無い道路脇での合掌。

 

北サンフェルナンド(ラ・ウニオン州のサン・フェルナンド市)のポロ・ポイントと呼ばれる岸壁は、日本からの兵員・物資が命からがら揚陸された港にある。

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そして、バギオへ運ばれるはずであったが、多くの物資がその前に米軍の攻撃にさらされることとなった。

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今は静かな波音だけが聞こえるサン・フェルナンドの港。

米軍の潜水艦に撃沈され、日本からこの港に無事に辿り着けなかった船舶・将兵も多い。

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海水浴で有名なサウザンド・アイランドのあるリンガエン湾からこのあたりにかけて、500隻とも600隻以上とも言われる米軍艦船が海を埋め尽くしたという。

そして、艦砲射撃が一週間も続いたのだ。

サン・フェルナンドから南へ30分ほどのところにあるアゴオ(Agoo)の町。 

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その激しい艦砲射撃の中にあったであろう町役場の前庭には町役場の好意で、立派な「日比友好平和之塔」がある。

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そして、その記念碑の裏には このような銘文がある。

「独立混成第五十八旅団(盟兵団)隷下各部隊戦没将兵11,445柱の英霊此処に眠る。・・・1993年3月30日」

           

同じ捜索第16連隊の川崎さんは、昭和20年3月11日からバギオの東方、アンボクラオ道を下ったベンゲット州イトゴン、アシン、ダリグリップ周辺で米軍との戦闘をしていた。

3月21日に右手を負傷。 ダリグリップの小さな教会で軍医の治療を受け一泊した。しかし、その後この教会は米軍に爆撃されたという。

3月25日、バギオの旧パインズ・ホテル(今のSMバギオがある場所)の陸軍病院に収容されたが、治療できる薬などはまったくなかった。

おまけに、食糧などを入れていたザックを枕にして寝ていたが、一晩でザックごと盗まれ、食べるものも支給されず、自分で芋ほりなどをして食糧を探すことになる。病院自体も空爆にさらされ、近くの松林の中で負傷兵が身体を横たえていた。

  

4月16日、いよいよバギオも危なくなり、バギオの北方ラ・トリニダッドへ逃げる。バギオからラ・トリニダッドの道は屍が累々と重なっていた。 (山下司令官もこの夜バギオを抜け出し、バンバンへ向った。 尚、当時のバギオの日本人会がバギオ脱出を決めたのは4月18日であった。) それからは、9月13日に投降するまで、山々の中をテントひとつ抱えて逃げ回っていたという。

   

山下奉文方面軍司令官がバギオのジョン・ヘイで正式に降伏文書に署名したのは 昭和20年9月3日のことであった。

そして、8月15日の無条件降伏の日から、9月13日の投降までの間に、バギオからさらに山奥で飢餓状態で死んだ日本の将兵は数え切れない・・・

 

(2008年8月3日に聞き取り) 

 

 

 

尚、マルコス・ハイウエイについては こちらのサイトで次のような情報があります。

「マルコス・ハイウエイは実際のところ、特にバギオとの間で商品を持って上がったり・下ったりする人たちの為に、1991年7月16日の地震でケノン・ロードが壊滅した後にもその活動を続けられるように 代替道路として建設されたものでした。」

とあります。

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コメント

ささきさん、
大家さんにマルコス・ハイウエイがいつ出来たかを聞いてみましたところ次のような返事でした。

マルコス・ハイウエイはマルコス大統領の時代だから 1965年から1986年の間に出来たはずで、おそらく1975年前後だったと思う。
その時に、今は破壊されてしまった ハイウエイ脇のあのマルコスの頭像も作られた。 グリーン・バレーの別荘地が出来た時と同じ頃だった。

今ひとつはっきりしませんが、その頃から舗装されていたはずだ、とのことでした。

投稿: させ | 2008年8月 8日 (金) 11時35分

ささきさん、そうすると その地震の後道路が改修されて その時からマルコス・ハイウエイという名前になったんでしょうか?  ハイ・ウエイというからにはちゃんと舗装されてそれなりの広さがないといけないだろうと思うんですが・・・

戦前から間道としての道はあった。
そこを米軍が戦車を通らせる為にすこし広げた。
それが地震の時まで舗装されずに続いた。
地震の後に舗装されて ハイウエイになった??
という事になりますか。

投稿: させ | 2008年8月 5日 (火) 10時20分

マルコスハイウェイですが、地震の後 建設されたと言うよりは改修されたといったほうが良いですね。
道路は以前からありましたが、バスはケノンを使っていたぐらいマルコスハイウェイは舗装されていませんでした。

投稿: ささき | 2008年8月 5日 (火) 10時05分

philerさん、お立ち寄りいただき有難う御座います。
バギオは知れば知るほど、日本とは切っても切れない関係に思えて来ます。
それで、何も知らないので、せめてバギオ周辺だけでも歴史を勉強しなくてはと思ってまして・・・

やはり、戦争の時の話は体験者に勝るものはありません。 10年前の駐在員時代に それに気づいておれば もっと体験者の話も聞けたのですが・・・

philerさんの邦人が銃で撃たれて亡くなったの記事読みました。 やはり職業柄 バギオであってもかなり用心されているんですね。 私はぼ~~っと歩いていますけど・・・注意してるのはバック・パックがフロント・バックになっていることと、エスカレーターで下る時に前の人との間にスペースを空けることくらいです (笑)

投稿: させ | 2008年8月 4日 (月) 20時31分

たもつさん、こんにちは。
終戦時のバギオでの戦闘の話、特にナギリアンロードでの戦いについて、興味深く読ませていただきました。
以前、バギオからリンガエンへ向うバスの車窓から、アゴオの町役場に建てられた「日比友好平和之塔」を見つけ、こんな場所にも戦争の跡が・・・と感慨深く思ったことがありましたが、その背景にはこのような物語があったのですね。
それからバギオからラ・トリニダッドへ抜ける道はわたしも何度も往復しましたが、かつてはそこに屍が累々と重なっていたとは・・・ただただ驚きです。

投稿: philer | 2008年8月 4日 (月) 19時35分

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