おばあちゃんの戦争
マニラからバギオへ向うちょうど中間地点にターラック州はある。
そのターラック州のヘロナ(Gerona)の町には 国道沿いに今はイスダアン(Isdaan)という立派な水上魚料理店がある。
そこから見渡すかぎりの稲やサトウキビの畑へ入っていくとプラの村である。
リリンはその頃20歳。 小さな村プラで畑仕事に汗を流していた。
彼女の小さな家は、元々納屋だったのだが、リリンが独立する時に増築し寝泊りが出来るようになった。 緑に包まれた平和で静かな村にも戦争の足音が押し寄せていた。
父は SEVERINO JAVIER SR. 日本軍の占領下にあったプラの村で、
1942年から1944年まで村長に任命された。
(この写真は今でも村役場に歴代の村長の写真とともに掲げられている。)
父は親日派とみなされ、その頃活動が盛んになっていた抗日ゲリラに付け狙われる運命にあった。 そしてその家族も例外ではなかった。
ある日の事、日本軍はこの村役場前の広場に、捕らえられた十数名の抗日ゲリラを並べ、銃殺刑にすることを命じていた。 住民に対する見せしめであった。
村長は日本軍に決然と言った「このゲリラ達を銃殺したいのなら、まず私を銃殺してくれ。」
ゲリラたちの銃殺だけは免れることが出来た。
そして、1944年8月31日。 終戦まではまだ1年くらいあった頃。
彼女のこの畑に抗日ゲリラがやってきた。 リリンが騒ぎに気付いて「お父さ~ん!」と叫ぶと、その父は「お前は来るな、隠れるんだ!」といいながら畑から出て行った。
しかし、結局、その父と弟のジュニア、そして妹のルズまでが行方不明となってしまった。
今、プラの村の墓地に、道路に向ってこんな記念碑が立っている。
「第二次大戦中の1944年8月31日以来 父と弟と妹が行方不明となった。」
そして今、2008年。
86歳になったリリンは 下宿人でアメリカ・カリフォルニアから来た
エリザベスと日本からきた保と一緒に この記念碑にしみじみと見入っている。
アメリカと日本の植民地争いの真っ只中に投げ込まれたフィリピン。
そして、フィリピン人同士でさえ引き裂かれた歴史。
リリンの戦争は この記念碑で 終わることが出来たのだろうか・・・・
That's life !
「人生ってそんなものなのよ。」
リリンお婆ちゃんの口癖である・・・・
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