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2008年10月 4日 (土)

う~~ん、そうきたか・・・・

我が下宿で こんなこと がありまして。

その対策が こんなんで

まあ、 始めっから、もくろみ通りにいくなんて ち~~っとも思っちゃあいなかったんですがね。

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なんか、いい感じで、家族仲良くやってんですよ。

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まあ、「オリ」って こういう使い方をするってのは「想定外」だと思うんですよ。

日本人としては許せないっていうかあ・・・

でも、ここはフィリピンだし・・・

それにしても、猫が喜びそうな寝床を 屋根の上にいつの間にか作っちゃうってのが やっぱ納得いかねえんだよなあ。

たまに子にゃんこちゃんが 屋根から落ちてるっていうし・・・・

 

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2008年10月 3日 (金)

「ソルヴェイグの歌」 ― 2

マリアが一瞬ギクリとしたことは、ダンにも伝わった。しかし、白いワンピースの清楚なよそおいの母は、その顔には何事もなかったかのように、もう一度静かにピアノを開いた。ゆっくりとピアノが歌い始めた。 ダンの目には母の指先が震えているようにもみえる。

昭和19年、マニラは緊迫の度を深めていたが、まだこの頃は、ゲリラの散発的な攻撃をのぞけば、比較的静かなバヨンボンだった。 日本軍が持久戦の為の食糧供給基地と定めただけあって、穀倉地帯には地平に延びる稲田はもちろん、椰子の実、ザボン、グワバナなど桃源郷の雰囲気さえたたえていた。

バヨンボンには日本軍の後方支援の拠点があり、陸軍の病院や疎開村などもあったが、年末になって、マニラ近郊から雪崩を打つように在留邦人、日本軍が押し寄せるまでにはまだ時間があった。

ダンは戸口から離れて、母の陰に隠れるように日本人将校の様子を覗き見た。 山本は戸口に近い籐椅子にゆっくりと腰を掛けると、膝に両肘をつき、うなだれるようにピアノの音に聞き入った。 

マリアの指はしなやかさを取り戻していた。 ダンは母のやさしい匂いで鼻をくすぐりながら、ワンピースの後ろを握りしめていた。

マリアの家は昔の名家のたたずまいを今も残している。 竹をふんだんに使った昔風の家ではあったが造りはしっかりして、街並みの中では風格のある屋敷であった。 遠くに広がる山々の稜線が深紅の背景に映えてくっきりと、しかし点々と黒い雲がざわめいている。窓の外には将校の部下らしき制服が二人ほど立って警戒していた。

山本はオーケストラ演奏のレコードを日本で聞いたことがあると思い出していた。 日本を出る前にそれを聞いたのは、田舎の同窓生であり音楽教師をしていた川西康子に「とっても素敵なレコードが入ったのよ。」と誘われて、放課後の音楽教室で聴いたものだった。 「このレコードの中でもこれが一番好きなの。」と康子が言ったのが「ソルヴェイグの歌」だったのだ。  

マリアのそのピアノの旋律は、しかし、オーケストラ演奏で聴いたそれよりも美しく哀愁がひときわこもっていた。 康子はその物語を黄昏の教室で静かに話してくれたのだった。 ノルウェーの文豪イプセンが書いた「ペール・ギュント」。 世界をまたにかけた冒険の物語。 そしてその主人公ペールは、白髪の老女となっても彼を待つソルヴェイグのもとへと子供のように帰っていくのである。

マリアのピアノは夕風の中に消え行くように終わった。 そして、マリアは静かに日本人将校の方に眼をやった。 その将校は頭を下げたまま、じっとして動かない。 しかし、その肩は小刻みに震えているようであった。  軍服の膝の上に小さな水滴がひとつ、ふたつと染みを作っていた。 そして、その将校は肩の震えを必死に抑えるかのように小さく嗚咽していた。 

(続く)

注: この話はフィリピン人の体験者から直接聞いた話を元に創作しております。   

   尚、著作権は放棄してはおりませんので、ご留意下さい。

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2008年10月 2日 (木)

「ソルヴェイグの歌」 - 1

 

山本は田舎町の並木が続く道を歩いていた。

穀倉地帯の夕暮れはフィリピンとはいえ心地よかった。

しかし、ここは戦場だ。 抗日ゲリラは毎日のように山本の部隊を悩ませていた。アメリカ軍がいつ上陸反攻に転ずるのか、それは時間の問題であった。

田舎道の遠くに、夕風にかすかに流されてくるピアノの旋律が聴こえている。ヌエバ・ビスカヤ州のバヨンボンは日本軍がマニラ陥落の時には在留日本人を始め傷病兵などが退避すべき町のひとつである。

ピアノの音色はしだいに近くなってきた。

ゆったりとして、そしてあまりにも悲愴で、か細いその旋律は、山本の足を止めずにはおかなかった。 山本はそのピアノの音色に吸い寄せられるようにその軒先にたたずんでいた。 

その曲には聞き覚えがあった。グリーグ作曲 劇音楽「ペール・ギュント」組曲の小品「ソルヴェイグの歌」であった。

ダン・ディゾンはその頃3歳。 しかし、そのピアノ曲のことはしっかり覚えているという。 ダンは、細く、しかし、しなやかに鍵盤をとらえる母の指先を飽きることもなく眺めていた。 母はマリア、ピアニストである。

そして、マリアが弾き終わったその時であった。 

「もう一度弾いていただけませんか。」

いつの間にか、戸口に日本人将校が帽子を手にもって立っていた。

山本であった。

(続く)

注: この話はフィリピン人の体験者から直接聞いた話を元に創作しております。

   尚、著作権は放棄してはおりませんので、ご留意下さい。

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2008年9月28日 (日)

伊之助は どこへ?

さて、私のご先祖 伊之助は どこへ行ったのか。

  

この当時のフィリピンへの日本人移民の状況を「ダバオ国の末裔たち」 天野洋一著 (風媒社、1990年発行)より要約すると以下のようなことになる。

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日本からフィリピンへ

の本格的移民の第一陣は 

「ベンゲット移民」

と呼ばれ、

1903年(明治36年)に始ま

り、1903年と1904年だけ

5,138名がフィリピン

群島へと渡った。

ベンゲット道(ケノン・ロード)が

1905年1月29日に開通し、

マニラに日本人失業者が溢れた。

 

 

 

 

移民の第二陣は、1914年(大正3年)の第一次世界大戦勃発によって、艦船用ロープとして使われたマニラ麻の価格の暴騰によってもたらされた「ダバオ移民」である。

「新移民」とダバオで呼ばれた日本人移民は「大正六・七年組」とも称された。

伊之助がフィリピンに渡ったのが1915年(大正4年)となっているから、バギオへの道 ベンゲット道路が既に完成し、バギオ市も1909年に始まり、マニラに日本人失業者が溢れて10年、このダバオ・ブームの前という事になる。

その頃のダバオのアバカ・プランターは、ハワイやアメリカ本土での日本人移民の評判を耳にして 日本人移民の誘致をしていた。

1909年(明治42年)には、日本人経営の麻山で最初の収穫を迎え、1912年(明治45年)ころには、国策移民として熊本、広島、沖縄などからの移民が多かったとされる。

しかし、第一次大戦が1918年11月に終戦を迎えると、反動不況がダバオのアバカ景気を襲った。 80ペソの高値をつけたものが 1922年には12ペソ台まで暴落したのである。

 

 

面白くなってきたぞ・・・・・

探偵ごっこみたいで、なかなかワクワクするもんだ、このご先祖様の謎解きは

   

 

(フィリピンと日本の「日比交流史」に興味をお持ちの方は こちらのフィリピン日本人商工会議所のサイトで 詳しくご覧下さい。)

 

 

 

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伊之助とは何者なのか?

もう数年も前の話だった。

私が随分久しぶりに佐賀県に住む伯父を訪ねた時のことだ。

「今、フィリピンに住んでいるんですよ。」

「ほう、そうか。 う~ん、確かうちの一族の中に昔フィリピンに移住した者がいたな・・・」

そして、詳しい話を聞く間もなく、その伯父が亡くなった。

葬儀が終わって、従兄弟にその話をしてみたが、

「そんな話は一度も聞いたことがないな。 その頃は親父も時々認知症が出ていたから、何か勘違いでもしていたんじゃないだろうか。」

そして、今年、2008年。

ず~っと気になっていたその話を、日系人会を毎年訪問される戦前にバギオで生まれた日本人写真家にしてみた。

そして、私はそのことを忘れていた。

ところが、その写真家の方からメールが入った。

「私の資料で、明治(1890)から昭和(1941)にかけてのフィリピン渡航者リスト、延べ85,000名から、あなたからいただいた名字を検索しましたが、次の二人の方が見つかりました。」

大正時代(1915) XX伊之助 佐賀県 藤津郡 五町田村 xxxx xxxx

なんと、私の父の出身地ではないか。

さっそく、戸籍を遡って調べたところ・・・・

私の祖父の戸籍に載っている住所・所番地まで全くおなじである。

いろいろと戸籍上複雑な関係があるのだが、それを簡略化すると以下のようになった。

        徳一郎(生年不明) (戸主)

           I        I

  +-----+       I

卯作(明治7年生)     伊之助(大正4年渡比)

  I 祖父

  I

民夫(明治43年生) - 智一(伯父)

  I 父

  I

たもつ(私)

 

伊之助は私の先祖の一族の人間であった。

最近の戸籍は除籍から80年間しか保存されないとのことである。

伊之助が大正4年(西暦1915年)に

フィリピンに渡って、その後どこでどうしたのか。

そして、フィリピンのどこで死んでいったのか・・・、それはもう失われている。

もしかしたら、マニラか、ダバオか、あるいは 私が今住んでいるバギオにいたのだろうか・・

仮に伊之助が20歳でフィリピンに来たとすれば、1895年生まれだとすると、終戦の1945年ころには年齢が50歳だったことになる。 そうだとしたら、伊之助は戦争を生き延びたのだろうか・・・・

伊之助という人間が、私を今まで以上にフィリピンに近づけていくことだけは確かである。

 

 

 

 

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