« 2009年11月22日 - 2009年11月28日 | トップページ | 2010年1月10日 - 2010年1月16日 »

2009年12月 3日 (木)

政治はギャンブル? マジですか、大家さん・・・

2010年5月に 下院議員、バギオ市長、バギオ市議会議員の総選挙があるそうな。

09img_7176

明日午後2時に某公園で集まりがあるんだけど、どう?

大家さんがそんな話をする。

面白そうですね、行きましょう。

なんと、大家さんの弟君が バギオの市長選に出るのだという。

マジでええええ~~~!

09img_7178

2時にその公園に行くと、その公園にはそれらしい気配がなく、まったく関係のないイベントが進行中・・・

おかしいな。 携帯で連絡をしてみると・・・

御免、御免、 たった今 2時半から 別の公園に変更になっちゃって・・・

・・・・・なんちゃってか?

09img_7215

・・・で、 その公園に行くと、決起集会かと思えば、ただ単に 支援者と集まって、すぐ近くにある 選挙管理委員会の事務所に 立候補の届出に行くのだと・・・

ここがその選挙管理委員会の事務所。 UC大学の隣にある えらく古そうな建物・・

その前に 現下院議員のドモガン氏や市議会議員などがすでにお集まり。

09img_7181

そして、立候補を届ける人たちへの税務局からの御案内。

皆さん、税金はちゃんと払ってますか・・・?

09img_7185

その事務所へ入り、立候補の届けを出す皆さん。

09img_7195

届出終了。

外で待っていた支援者と「よろしくね」の握手。

・・・・・・・

しかし、 どういう勝算があっての立候補なのか・・・

バギオの日刊紙サン・スター・バギオが11月30日に掲載した記事によれば、来年5月の総選挙に立候補を届け出た候補者は以下のようである。

下院議員2名

Leandro Yangot Jr. (LP)

Bernardo Vergara(Lakas-Kampi-CMD)

市長5名?

Jose Molintas(LP)

Ramon Jun Labo

Mauricio Domogan

Elaine Sembrano

Peter Puzon

Julius Mandapat


市議会議員 21名?

Rafael Delson (LP)

Fred Bagbagen,  Isabelo Cosalan Jr.,  Richard Carlos,  Kathleene Bilog,

Antoni Cortes Jr.,  Jose Olarte Jr. ,  Pablito Gumnad (以上 LP?)

Benjie Macadang-dang,  Carlos Asiatico  (以上 ジュン・ラボ派?)

Betty Lourdes Tabanda,  Nicasio Palaganas, Erdolfo Balajadia,

Edilberto Tenefrancia,  Elmer Datuin Jr.  Mabini Maskay,

Patrick Dangatan,  George Dumawing,  Fred Pangonon,

Rufino Panagan, Sonia Daw-as,  Arturo Quilop

これが最終的なものかどうか分からないが、バギオ市長への立候補者は かなりの有力者ばかり・・・

大家さんの弟君は、何十年か前に ケノン・ロードを車で駆け上がるラリーで 前人未到の記録を作り、今でもその記録保持者のスピード狂であったらしい。

さて、この市長選のレース。 車のように自由に操れるものなのか・・・・

ちなみに、この弟君。 前回は市議会議員に立候補し、惜しくも次点で落選しているのですが・・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月30日 (月)

「わたくし率 イン 歯―、または世界」 川上未映子著

「ぬいぐるみの中に入って外を眺め、そしてそれから出た後に、私は自分の身体も脱げないものかと思ったんです。 自分の身体に、これが本当の私の姿なのかという違和感をずっと覚えていたから・・・」

もう2~3か月前だったろうか、テレビ番組のトークショーに出ていた作家、あるいは文筆歌手とされている若い女性が上のような妙な話をしていた。

ぬいぐるみと言うのは正確ではない。 観光地やイベント会場などにある、立て看板に人物や動物などの絵が描いてあって、その人物や動物の顔の部分がくり抜いてあり、そこから自分の顔を出して記念写真を撮るような、あれである。

その作家が書いたこの小説。 最初から読み進むが、頭の中は空回りした。

なにが描いてあるのか分からない。

そして、やっと32ページ目に理解できる文章が出てきた。

「子供のころも、道で人とすれ違うようなときも、ああ、あの人が見ているものをあの人の視力を使ってお母さんは絶対に見ることは出来ないのだなあ、・・・」

「お母さんの世界には、体を持ち、同時にそこに意識を持った人たちが数え切れないほどいて、その誰もに他人と自分を間違えようのない、私、としか名づけようのない、なにか中心のようなものがあって、そこからそれぞれの世界を開いているのですよ。」

「顔を見たいけれど、顔を見たってわからないことが多すぎます。 おまえにはまだ顔がないかも知れないから、顔のことはぴんとこないかもしれないけど、・・・(中略)(顔は)誰にでもどこで見せているものだから、ほんとうに大事なところがおのずと薄れてくるのかもしれないなあと、思うのです。」

「会っている最中に、もしも黙りあうことがあって苦しくなったら、そのときは、さっとお互いの口をああんとあけて、奥歯を見せあうことにすればどうかなって思ったんです。」

私は二十歳の頃、哲学じみた本を読んでいた。 その時に一番引き込まれた本は西田幾多郎の「哲学入門」とショーペン・ハウエルの「意志と表象としての世界」だった。 そこに何が書いてあったのかは今となってはさっぱり覚えてなんかいない。 覚えているのは、その時に、世界あるいは宇宙の体系を実感したということだけだ。 これが美というものなのか、真理というものなのか、と感動したのだった。 世界を宇宙を丸ごと飲み込んだような気になって、変な、身に覚えの無い自信がついてしまった。

その中で私が理解できたのは、と言うよりも、理解出来たと思った部分は、認識論であった。 所詮人は他の人を認識あるいは理解できない、というのが私の記憶に残っている結論であった。

言葉ってものは本当に不可思議なものである。

「印象は無いを受け取って、無いに石膏が盛られて再び、有るに生まれ変わるのです、・・・」

(「印象」とは歯科医院で歯の欠けた部分の型をとるピンクの練り物のことらしい。)

「あなたは何ですか、ともし誰かに訊かれたら、(中略) 奥歯です、と答えようと思っています。」

こんなに妙な文章から何か具体的なことがおおよそ想像できるのだから。

そして、ある女がこんなことも言う。

「ほれ、人は自分の話聞いてくれるよね、一生懸命したらそういうのって必ず受け止めてもらえるよね精神ちゅうのがすけすけで、あたしはそれがひたすら鬱陶しい。 っていうかまず人に話するときの努力をしろよ。 おまえよ。 間違ってるやろがそもそもが。 みんな忙しいねん。 ・・・」

おそらくこれが普通のことなんだろう。 もっと万人に共通の言葉でなくてはならんのだ。

おなじ言葉でなくてはならない。 ・・・しかし、同じ言葉だったとしてもそこに含まれる意味は一人ひとり違っている。 分かった、理解した気持ちになっているだけ・・・。

シンパシーが無い。 自分は自分のことを 昔からそう感じている。 鈍感なのだ。

鈍感だから生きて来られたのかもしれないなどと思う。 鋭敏な人はさぞかし辛いのだろうと。 映画館でぐぐっと涙がこみ上げてくる程度のシンパシーしか持ち合わせてはいないのだ。

人体は細胞で出来ているネットワーク、電気的な信号が行きかうネットワークだという。 そしてその細胞は日々生まれ変わっている。 そして遺伝子も進化している・・最近はそういうことになっているらしい。

 

「ゆくかわの ながれは たえずして しかも もとのみずに あらず。 よどみにうかぶ うたかたは かつきえ かつむすびて ひさしく とどまりたる ためしなし」と鴨長明は方丈記の中に書いている。 昔っから分かっていたことなんだろう。

どこに自分という認識の主体がいるのか。 それは遺伝子の中にいるのか、はたまた、よどみに浮かぶ泡沫なのか。

そのウタカタは別のウタカタの電気的信号を直接受け止めることが出来るのか。 出来るのだったら「私」と「私」は理解が出来そうな気がするのだが・・・・。

しかし、そうなってしまったら、おそらくその「私」と別の「私」は同じ「私」になってしまうのかもしれない。

こんなことを考えさせてくれたこの本は嬉しい。

おそらく著者が書いた、意図しているものとは、全く違った理解なのだろう。

これは、小説ということになっているが、これは日記の形をした詩だと思う。

詩なんだからいいじゃないか、分からなくても、と思うんだけど・・・。

1度読んだくらいじゃ分からないから、あと2~3度は読んでみないとね。

その前に、大阪弁?の通訳が必要ですな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年11月22日 - 2009年11月28日 | トップページ | 2010年1月10日 - 2010年1月16日 »