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2010年5月 1日 (土)

アーティストが集う 昭和の空間 - 大阪・中崎町

大阪では 結構 有名な場所であるらしい・・・

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大阪は梅田のすぐ隣。 中崎町という開発から取り残された町。

戦時中の空襲をまぬかれ古い家屋と狭いごちゃごちゃとした路地が残っている。

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雑然としたカフェの中。 ・・・・・しかし、それが心地よい。

ぶらりと入ってくるお客は、若いアーティストが多い。

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こんなにボロい入り口。 天劇キネマトロン という小さな映画館と カフェ朱夏。

そして、その隣には、小さな劇場があって、自主制作の様々な作品が上演されている。

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戦争をくぐり抜けてきた 元印刷工場であるとか・・・・

サロン・ド・アマントと呼ばれるカフェが 2001年に実験的に開店して以来、様々なアーティスト達や 特徴のあるカフェ、バー、レストラン、ギャラリーなど 100店あまりが、懐かしさの漂う町の中に集まってきたのだという。

街並みを写真に収める人たちや、映画撮影の俳優、スタッフが路地や古い家のぬくもりを発掘する。

懐かしくて、古くて、ちょっと変で、 新しい、若い人たちの町。

カフェで ビールを飲んでいたら、昔ヒッピーだったらしい、ターバンみたいなものを頭に巻き、ジャラジャラとしたエスニックなネックレスをいくつもぶらさげた 70歳くらいの爺さんにつかまって、えんえんと話を聞かされてしまった。

このおっさん 大丈夫かな・・・

いろいろなことを幅広く知っていて、記憶力抜群。

英字新聞を持ち歩き、俺は英語がぱっちり出来るんだぞ、と言いたげ。

詐欺師なんじゃねーか?

詐欺師が ヒッピーの格好するなんて逆効果だしな・・・

そこへ、アメリカ人らしいミュージシャンが入ってきた。

その爺さん

「おめえさん。 アメリカの下町に 永く居すぎたんじゃね~の?」

と言いたくなるくらい 英語が ぺらぺら だった。

ターバン頭を発見したら ご用心。

 

 

  

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異常なしって・・・・ しかと相違ないか?

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ここは 電車の中・・・

吊革の向こうに 「ワンマン列車乗車方法」なんて説明がぶら下がっている。

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ここは 福井県。 オバマ大統領で一躍その名を売った 小浜線。

敦賀市の大学に留学している日本語の教え子たちを激励しに訪問したついでに、三方町まで足を延ばした。

のんびりした田舎の電車。

それがいきなり途中で緊急停車。

「只今 鹿と接触しましたので、安全確認の為 しばらくお待ち下さい。」

左側は小高い雑木林、右側も開けているが美しい雑木林が続く。

ワンマンの運転手兼車掌が運転席から車内を後部へ走り、そして続いて、運転席に戻って車外に降りて行った。

・・・

そして数分後

「異常が無いことを確認しましたので、発車致します。」

・・・・

「しかと相違ないのか?」

「電車には異常がなくても、鹿はそうはいかんだろうなあ・・・」

・・・・

で、何をしに 三方町へ行ったのか。

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縄文博物館です。

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なかなか立派な博物館

その中にある映画館。

そのシアターで毎日何度も上映されているという「縄文時代の生活」を表現した映画を見に行ったんです。

日本古代史に造詣の深い哲学者 梅原猛氏が 初代館長を務めたという博物館。

その初代館長が作った映画に 純アマントさん が 縄文人として主演しているとの話を聞いたわけで・・・

大阪・中崎町の こちらで 日比国際平和演劇祭のDVD上映会を開いた際に話を聞き、 「そりゃあ面白そうだ」と思い さっそく縄文博物館へ行ったってことです。

その映画・・・ アカデミックな博物館的映画かと思ったら、かなりゲージュツしてました。

舞踏家である純さん。 

その映画の撮影中に、彼独自の踊りである「傾舞(かぶくまい)」の原点である 古代日本人、あるいはアジアの島国の伝統的踊りの原型を 縄文式土器のレプリカを持ったことから インスピレーションを得たのだとか・・・・

この人あってこその 縄文人役だったのでしょう。

・・・・

映画には 一切の台詞が なかった。

そりゃあ 縄文時代だもの どんな言葉をしゃべっていたのか 分からないよね。

言葉は 文字に書き表されてこそ・・・

しかし、縄文人がどんな言葉をしゃべっていたのか 知りたいもんだね。

奈良時代・・・

漢字が中国から入って来て、日本語が表記されるようになったとは言っても、明治時代ころまで 漢文が教養ある日本人の常識だってんだから・・・

縄文時代の日本人?の言葉は はるか遠くに・・・・

  

 

 

 

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2010年4月30日 (金)

ゾマホン 頑張れ !

年に一度の日本への一時帰国。

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いきなり・・ですが、吉田松陰さんです。

以前からお会いしたいと思っていた御仁。

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お目当ては、ここ。  松下村塾。

説明によれば、この八畳間、そして プラス十畳半の狭~~い部屋で あの時代を変革する人物が生まれてきた。

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その弟子たちとは、皆さんご存知 こんな方々・・・

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・・・ん ?

それが どうしたって おっしゃる ?

ごもっとも。

唐突ですが、 かのゾマホンさんは ベナン共和国の吉田松陰だ、 と私は勝手に思い込んでいるからなんです。

母国ベナン共和国で「たけし日本語学校」を開き、日本語教師を送り込み、小学校を建て、井戸を掘り、様々な分野での勉学に意欲のある若い人たちを 日本に留学させ、無私の精神で、身を粉にして支援し、新しい国づくりを目指す ゾマホンさん。

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・・・で、何も出来ない男は せめて「ゾマホン、がんばれ!」 と この松蔭神社にお参りして来たっちゅうことです。

 

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そして、 その 「松蔭 ゾマホン」 をサポートしている日本の若者たち。

(・・・・・ 一人 年寄りが混じっているのは 無視して下さい)

この支援グループであるNPOに 興味が湧いたら、是非 こちらへ どうぞ・・・

ところで、 松蔭神社の社務所で買った本の一節をご紹介しましょう:

本のタイトル: 「維新の先達 吉田松陰」

著者:  田中俊資

発行:  松蔭神社社務所

この一節は、吉田松陰がペリーの黒船で密航を計り失敗した事件が ペリーの日本遠征記にどう書かれていたかを紹介した部分です。

「この事件は我々を非常に感激させた。 教育ある日本人二人が、命を棄て国の掟を破ってまでも、その知識を広くしようとする炎えたつような心を示したからである。 

日本人はまことに学問好きで研究心の強い国民である。・・・

この計画ほど、日本国民が如何に新しいことを好む心が強いかを示しているものはない。

 この精神は厳しい法律と、たゆみない監視の為に抑えられてはいるが、日本の将来に、実に想像も及ばぬ世界を拓くものではなかろうか。」

・・・・・

叉、松下村塾の様子や門下生については: 

「足軽以下庶民の教育の場としては、多くの私塾や寺子屋があったが、松下村塾は、その私塾の一つとして、師松蔭の学識がすぐれその憂国の情熱は、真に時勢に適し、当時の青少年が求めんとして果たさなかったものを授けたので、一面に於いては過激危険新奇とされつつも、明倫館でかって松蔭の兵学門下たりし者、その他身分低い士分庶民の子弟で、ひそかに教えを乞う者が次第に現れて来た。」

<身分のある武士の家から出た人>

高杉晋作、 久坂玄瑞(久坂義助)、 山田市之允(山田顕義)、 佐世八十郎(前原一誠)、 久保清太郎(久保断三)

<身分の低い武士、叉は庶民の家から出た人>

山県狂介(山県有朋)、 伊藤利助(伊藤博文)、 品川弥二郎、 入江杉蔵(入江九一)、 野村和作(野村靖)、 吉田栄太郎(吉田稔磨)、 松浦松洞

「塾生の多くは地元の松本村や川を隔てて西の萩の町から通って来たが、特別に希望するものは食料持参で、自炊しながら塾に寝泊りをした。 ・・・・・ 叉長州の最北部須佐の郷校育英館からも、松下村塾と塾生交換の形で、多くの者がやって来た。 ・・・・ 育英館の学頭小国融蔵と松蔭とは親友で、勤皇海防を説くその思想も相通ずるものがあったから、折々塾生を交換して指導したのである。」

叉、松下村塾の家屋は、馬小屋に手を加えた八畳一間が教室で、これに増築した十畳半の控え室、合わせて十八畳半の広さしかなく、その増築も門下生などの手作りだった、などが詳しく記述してある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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