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2010年11月18日 (木)

へえ~~、 そうなんだ。  その7

「教行信証」の中身に関係のありそうな内容ということで、
浄土真宗では、 

よく読誦、読経される経典は 以下のものであるそうです。
(「お経の本」から要点のみ)

「讃仏偈」(さんぶつげ)
4言4句の経文。 御坊さんのお勤めや法要で読まれる。
出典は「無量寿経」
法蔵菩薩(後の阿弥陀様)が、師である世自在王仏を讃える内容。
法蔵菩薩の48の誓いと決意。

「重誓偈」(じゅうせいげ)
5言4句の経文。 よく読経される。
「無量寿経」の精髄とされる。
法蔵菩薩が、師の徳をを讃える。
48誓願を要約したもの。
重ねて誓っている仏の教えをほめたたえる詩と言う意味。

「十二礼」
龍樹が、阿弥陀仏の徳、浄土の美しい姿を讃えたもの。

叉、上記以外に お通夜、葬儀、法要で読まれるものは、

「正信偈」(しょうしんげ)
「阿弥陀経」

火葬場から帰った時の還骨勤行や初七日などに読まれるものは、

「白骨の御文章」

なお、仏壇の前で家族揃って おつとめとして読まれるものが、

「正信偈」
「念仏和讃」(ねんぶつわさん)
和讃は、仏や経典への賛歌を節をつけて朗唱するもの。

あるいは、短い念仏として
「南無阿弥陀仏」を6回称える。

「御文(御文章)」
蓮如が親鸞の教えを広めるため門徒に宛てた書簡。

・・・・ と、場面によって いろいろとあるようです。

それで、最初に驚いた、
「浄土真宗では、死者の冥福を祈らない」なんですがね、
一応 私の家が 浄土真宗となっているので、
どんな態度で 御葬式に出りゃいいの? ってことなんですけど。

「残された人々が真実の教えに出会う、尊い人生に目覚める場なのである。」
「引導を渡すこともせず、故人や先祖を偲ぶことによって、無常の人生を自覚する。」
「阿弥陀如来に報恩感謝する」

臨終の勤行は、
「遺骸に向ってではなく、仏様へのお経なので、
本尊に対して、亡き人と営む最後のおつとめをする。」

そして、死別は永遠の別れではないので、浄土で再会しましょうね、
という意味で、お墓に「倶会一処」(くえいっしょ)と刻んでいるらしい。

・・ これで 大雑把には 浄土真宗のお経のことが分かった・・つもり、
なんですが、

この後の私の 興味の行き先としては、
「冥福を祈らない」宗派で、 バギオの周辺で戦争中に多くの
日本人の方々が亡くなっていらっしゃるので、
その方々の為には どのお経が ふさわしいのかな・・・
ってことなんですよねえ。

つまり、戦没者の慰霊なんですがね。

 

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2010年11月15日 (月)

へえ~~、そうなんだ。  その6

「教行信証」の中身なんですが、「お経の本」によれば:

親鸞さんの主著である「教行信証」の行巻末尾にある、7言60行
120句の漢詩で、同書のエッセンスでもある「正信偈」。
(この「偈(げ)」の意味は漢和辞典によれば、「仏や仏の教えをほめたたえる
 韻文体の経文。 読経の最後に唱えることが多い。」とあります。)

これの前半では、阿弥陀仏の本願を説く「無量寿経」の教えが簡潔に
まとめられ、後半は、龍樹から法然にいたる真宗七高僧の徳を讃える
内容となっている、そうです。

「お経の本」には あまり詳しく書いてないので、
これから下は、インターネットで探した情報を、私なりに理解した
ものです。 

『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)
と言うのが「教行信証」の正式の名称で、全六巻。

http://www.tulip-k.co.jp/yougo/31.htm のサイトを読んでみますと、
「教行信証」と言うのは、「文類」とあるように、さまざまな文献を
集めたものという意味のようです。

つまり、
お釈迦様が説いた「経」、龍樹、天親などが書いた「論」、そして
善導や法然が書いた「釈」など、親鸞さんが大切だと思った文献を引用し、
それに親鸞さん自身のコメントである「私釈」をちょっとだけ書いてあるもの
だと言う事です。

・・・・ それで、ちょっと不思議に思ったんですけどね、
こういうアプローチって、何かの研究者、学者がとる方法なんじゃないかって。
確かに親鸞さんは宗教家なんでしょうけど、親鸞さん自身は この自分が書いた
本を 新しい浄土真宗という宗派の根本聖典にしようという意図はなかったんじゃ
ないかなと。

・・・で、こんなサイトが引っかかってきました。
http://yondance.blog25.fc2.com/blog-entry-2018.html

「読み始めると、経典、また経典の引用である。
そして多くの経典の引用のあとに親鸞の文があるが、それはほんの少しだけ、」

「正しい仏法を主張し、おのが信仰に余人を引き入れるために書かれた書ではない。
「教行信証」は「説得の書」ではないと梅原は言うのである。」

「その本は人に見せるべきものではないのである。
その意味において。この書は、一つの説得の書ではなくて、内省の書なのである」

「ところが、親鸞は引用をもとにしてなんら思想らしきものを論述しない。
短い述懐をもらすのみである。論理展開はなく感情表出にとどまる。」

・・・しかし、このサイトはなかなか面白いことを書いているサイトですね。
   お急ぎでない方は 是非 全体をご一読下さい。

「「教行信証」は難解なのか。もしや稚拙なだけではなかろうか。純粋と
言ってもよい。」

「しかし、親鸞が劣等生だったというのはどうやら事実のようである。」

「信仰の楽しみは感情に属するため、なかなか言葉にならない。
この本来なら言葉にならぬ喜びを文字に筆写したのが「教行信証」とは
考えられぬか。」

・・・ これを読んだら、「難解だ・・」と言うだけで、少なくとも私は「教行信証」を読む気にはなれませんねえ。
それでも読んでみたい方は こちらで どうぞ。
http://www.biwa.ne.jp/~takahara/shoka_0.htm

梅原猛さんが書いた本はちょっと読んでみたくなりましたけど・・・。

親鸞さんに 今まで以上に親しみは感じますよ。

さて、その親鸞さんが やたらめったら引用しているものって
なんなんでしょうか。
次回は 中身に関係のありそうな部分を調べてみます。

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2010年11月14日 (日)

へえ~~、 そうなんだ。  その5

さて、いよいよ 親鸞さんの「教行信証」なんですが、
その前に 浄土三部経と言われている「大無量寿経」「観無量寿経」
「阿弥陀経」ってどんなことが書かれているんでしょうか。

「お経の本」によれば:
「死後世界を説いた経」、
「本来それらは、死者の往生を祈願するためのテキストにすぎなかった。」
「阿弥陀には無量寿、無量光の名称がある・・」
「阿弥陀経は、阿弥陀仏の名号を称念することで、その世界に行くことができると説く。」
「無量寿経には、法蔵菩薩が衆生を救済するために48の本願をたて、
長い修行を重ねたのち、阿弥陀となったとある。」、
「阿弥陀の姿や極楽浄土の有り様は観無量寿経に・・・と記されている。」

つまり、
「無量寿経は 仏の願いと誓い」
「観無量寿経は往生するための行」
「阿弥陀経は仏の国土である極楽の様子」
を説いているようです。

「阿弥陀」の意味は 「阿」と「弥陀」に分かれていて、
元来は 「ア」と「ミター」 の当て字のようです。
「ア」は「否定」の意味で、「「ミター」は「量る」の意味。
よって二つ合わせて「量ることが出来ない」=「無量・無限」だとか。
そして、「アミターバ」=「量ることの出来ない光明・智慧」
「アミターユス」=「量ることの出来ない寿命・慈悲」の意味を
含んで「阿弥陀」となっているそうです。

そして、浄土真宗においては、親鸞さんが「教行信証」の中で、
「大無量寿経」が一番大事だよと言っているらしい。
なぜかって言うと、
「お釈迦様がこの世に現れた目的は、阿弥陀如来の本願を説きたかったから」
だそうです。

だから、浄土真宗で日常的に使われているお経も この無量寿経の
一部なんだそうです。

無量寿経には、法蔵菩薩の48の願いが書かれていて、
特にそのなかの第18願が大切なんですって。

その第18願と言うのは、
「すべての人々が、心の底から私を信じ喜び、浄土に往生したいと願い、
私の名を称えて、もし浄土に生まれることができなかったら、
私は決して仏にはならない」
と言ったとか、言わなかったとか。

つまりは、
「私を信じてくれたら浄土に行けるよ。
もし行けなかったら、私が責任とるからね。」
・・・・ってことみたいですね。

ところで、「南無阿弥陀仏」という念仏は お経とはまったく違うもので、
「阿弥陀という名前の仏様に すべてお任せします」という
宣誓あるいは信仰表明の言葉、意味だそうです。

それで、法蔵菩薩って だれなんだっけ??
調べてみたところ、
阿弥陀仏が その師匠のところで 本願を立てた時の 別名らしい。
つまり法蔵菩薩が昇進して阿弥陀仏になったってことだよね。

でも、答えになっていないな・・・

インターネットでこんなサイトがありまして、
http://www5.ocn.ne.jp/~ono13/page108.html
下のように書かれております:

「漢訳では法蔵菩薩は「国を棄て、王(位)を損てて、行きて沙門となり、
号して法蔵といえり。」(4)(149頁)と説かれているが、梵文和訳には
国と王位を棄てて沙門となったという記述は欠けている。
▼このように法蔵菩薩の本生譚だけを取り上げてみても、正しい理解は
容易ではないのである。諸経典の説く阿弥陀仏の本生の身分をみても
国王とするもの六、太子とするもの三、比丘とするもの四、法師とするもの一、
菩薩とするもの一、(1)(343頁)となっている。
本生の身分を国王と説く漢訳の「無量寿経」と諸経の説く本生の身分は
全てが同じというわけではない。

さらに、
http://www.zenshoji.or.jp/fuku/shin-akunin.htm では:
「阿弥陀仏も真如より来現するものという意味で如来であるが、歴史上の実在
である釈迦とちがって、より抽象的な存在である。」

ってことで、お釈迦さまと同じように実在した人物なのかどうか 
結局よく分かりません。

 

 

 

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