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2011年6月16日 (木)

おお、なんとタイムリーな !

NHKの 歴史秘話ヒストリア ご覧になっていますか?

なんと、タイムリーにやってくれました。 「法然と親鸞」

「教行信証」のことも出てきましたね。

人はみな、救われるべきもの
~法然と親鸞 探求の道~

http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/91.html

たまたま 「教行信証を読む」を読んでいて、まだその感想の最後をアップしていないのですが、 テレビ番組を見ていて いろいろと視点が違うというのか、解釈が違うというのか、大変興味深い内容でした。

6月22日に再放送があるようですから、皆さんも是非 ご覧になってください。

著者の山折哲雄さんと番組内容の認識の違いもあって、ちょっと調べたくなってきました。

ただ、番組の参考文献に 『法然と親鸞』山折哲雄(中央公論新社)がはいっているんですけどね。
 

歴史って なかなか骨ですね。

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2011年6月14日 (火)

今日・業・新・症

こんな記事がありました。 

津波被害のレールを盗んだ男を逮捕 宮城・気仙沼

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110614-00000623-san-soci

この記事で思い出したんですが、

バギオという町がアメリカの植民地時代に、高原の避暑地、保養地として開発されて、戦争が始まろうとしていたころ、フィリピンには結構鉄道網があったらしいんです。

戦前にバギオにあった北部ルソン日本人会の会計担当だった方が書き残しているんです。 マニラからラ・ウニオン州のサン・フェルナンド辺りまで鉄道が走っていたようで、 バギオに赴任したその人は、ラ・ウニオンで汽車を降りて、バスでバギオまでケノン・ロードを通って上って来たんです。

確かに戦前は 鉄道が、線路が あったんです。

今はどうか。 

全然ありません。 フィリピンで鉄道と言えば、マニラから東の方へのびている長距離鉄道ぐらいのようです。 長距離はですよ。

それも、外国人は止めておいた方がいいよ、というものらしいんです。

・・・で、バギオ方面はどうかというと、昔あったものが全然ないんですね。

何故か?

地元の人に訊ねてみると、

「線路を持っていくやつがいるんだよ。」

だそうです。

昨日、たまたま 日系のIT会社で働いているフィリピン人男性と話す機会がありました。

「バギオ周辺での失業率は 御役所の掲示板で見ると 10%以下になっているけど、実際のところは どんな感じなんでしょうかね」

と聞いてみました。

「定職についていないという意味だと、6割、7割じゃないですか? 全国的に実態としてはそれくらいだと思いますよ。」

「じゃあ、役所の数字との差は なんですか?」

「いわゆる セルフ・エンプロイド(Self-employed)、つまり自分で何か小さい商売をやっていたり、時々アルバイト程度の仕事があるということですね。」

・・・ということらしいです。

自動販売機なんか置いたら、販売機ごと一晩で無くなりますよ、という話があるフィリピン。

線路なんて高価なものが 誰もいない場所に置かれていたら・・・

あったりまえでしょう!  かな?

 

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2011年6月12日 (日)

「『教行信証』を読む」を読む - その4

ここでは、山折哲雄著 岩波新書、「『教行信証』を読む、親鸞の世界へ」を読んでいます。

今回は この本に書いてある 親鸞さんの歴史の中での立ち位置などを見てみます。

親鸞さんが生きていた時代は、「浄土真宗 親鸞(1173~1262)は、はじめ、比叡産に登って天台宗を学んだが、のち法然の弟子となり、法然が流罪となったとき、同時に越後に流罪になった。」とありましたが、この「大学受験 詳解日本史」を読んでみますと、「鎌倉新仏教」(鎌倉期の高僧)として、次のような宗派の名前が載っています。

旧仏教: 法相宗、華厳宗、律宗、

新仏教: 浄土宗(法然)、臨済宗(栄西)、浄土真宗(親鸞)、

     曹洞宗(道元)、 日蓮宗(日蓮)、時宗(一遍)

そして、この時代の大きな出来事と言えば、

平家滅亡(1185年)、承久の乱(1221年)、元寇(1274年、1281年)などが書いてあります。

さて、以下は引用で、(  )の中が私のコメントです。

p iii

流罪以降の親鸞がどのようなことを考えていたのか、かならずしも明瞭な像を結んではいないということだ。 先にもふれたが法然はすでに念仏の重要性を説いていた。 あとにつづく道元もやがて「正法」を追い求め「打坐」にうちこむ一筋道を歩いていく。 日蓮もまた「題目」を主唱して、その運動をわき目もふらずに展開していく。

それならば親鸞にとってそのような主張、そのような目標にあたるものは、いったい何だったのか。・・・・ 「念仏」」であるといえば言えないこともない。 だが、それはすでに師の法然が言ってしまっている。 ・・・親鸞はそのほかに何をつけ加えようとしていたのか。

(つまり、親鸞が親鸞たる理由が、自分で独自の宗派をつくるつもりもなかった親鸞がその後浄土真宗ということになっていった理由は何なのかってことでしょうか。 法然の忠実な弟子だった親鸞。)

p22

「無常」をその身辺からはらいのけている親鸞が浮上してくる。 「無常」を忌避する「無常」嫌いの親鸞の姿だ。 もしもそうであるとすると、『教行信証』と『平家物語』の思想は、そのもっとも根元的なところでたもとを分かち、対立しているというほかはないことになる。

(皆さん、「無常」って好きですよねえ。 西行(1118~90)の「山家集」や、鴨長明(1153~1216)の「方丈記」が無常観をつくったそうで、末法思想の影響などを受け、現世をつきはなして外から観るような態度が出てきたそうです。 そういう態度とは親鸞は反対の立場だったってことがおもしろい。)

p23

「諸行無常の響」と「無明の闇」の対照性である。 さらに言えば「無常」と「無明」の対立である。 前者は「無常」の響きに耳を澄まして聴けと言っているし、後者は「無明の闇」を破れ、と言っている。 この世は無常だとささやきかける声、それにたいしてこの世の無明から脱出せよ、と呼びかけている声である。

p26

だが、この親鸞によって忌避されたはずの「無常」が、後世になって再浮上してくる。 阿弥陀如来信仰圏における異変の発生、と言っていい。 いわば本願寺教団の拡大と大衆化にともなって生じた変化である。 ときは、本願寺第八代の法主、蓮如の世紀、すなわち応仁の乱として知られる十五世紀である。

(親鸞さんの時代はあまり浄土真宗はパッとしなかったんですね。その後、蓮如さん(1415~99)がバリバリの営業マンで、平易な文章と講組織で大衆化をはかり、福井県を中心に北陸一帯にチェーン店開拓をすすめて力をつけ、京都にその本店である本願寺を再建したそうです。 やっぱ、経営者次第、あるいは、商品が元々売れるもの、魅力的なものだったってことになりますか。 でも、そこで、営業戦略としては「無常」を取り込まざるを得なかった。 ・・むずかしい。)

p60

元久二年(1205)になってかれは師の許しをえて「選択」を書写したのだという。 この年、親鸞三三歳。 ここでいう「選択」とは、言うまでもなく法然の『選択本願念仏集』のことだ。 「われは念仏のみを選択する」と天下に宣言した記念碑的な作品である。

(「選択」の読み方なんですけどね、今 Wikipediaをみたら「せんちゃく」ってなってて、「せんじゃく」って読み方は「浄土真宗では」と書いてあるんですね。 でも、私自身は大学受験勉強中は「せんじゃく」って習ったんです。 実際「詳解日本史」には「せんじゃく」とかながふってあります。 今どきの普通は「せんたく」ですからねえ、日本語ってなんて面倒な言語なんですかね。 ともあれ、ここで親鸞さんは、あこがれの先生から書き写すことを許されて感激してるわけですよ。)

p61

選択とは、夾雑的思考の枝葉を切りはらって芯をつかめということにほかならないが、同じような内面的衝動にかられて、「妙法蓮華教」のみを選びとったのが日蓮だった。 

・・・・道元もおそらく同じように険峻な崖っぷちを歩いている人間のひとりだった。 もっともかれがその額に掲げようとしていたのは、親鸞や日蓮の場合におけるようなテキスト(経典)ではなかった。 ・・・・「正法」とは何か、それをつかみ直すためにかれが選んだ方法が「座る」ということだった。 ・・・それがやがて只管打座(ひたすら座れ)という言葉に結晶する。 

(インド、中国の仏教経典はものすごい数がありますからね。 この鎌倉時代の新仏教の中で、それぞれが「これが本物だ」ってやってたわけですよね。 そしてそのベースには自分が求めるものが何がしかあった。 自分の心に中にもやもやとある何かを物凄い数の仏教経典の宝の山から掘り出すという作業をやったってことでしょうね。 そして、出会った。)

p64

法然、親鸞による「念仏」の選択から、道元による「正法」の選択をへて日蓮の「題目」の選択に至るまで、およそ八〇年の時間が流れていくことになる。 言ってみればそれは、平安時代三五〇年の神仏棲み分けの体制にたいして、その屋台骨を揺るがすことになる反時代的な危機の一〇〇年であった。

 

(ここで言っているのは、それまでは「神仏習合(神仏混淆)」で、日本の在来の神と同じようなものとして考えられていたのが、ここで「選択」されちゃって仏さまが神さまの上にきちゃったらしいんですね。 そりゃあ、体制側にとっちゃあえらいこってすよね。だからいろいろと弾圧が始まった。)

p68

法然の『選択集』(『選択本願念仏集』を略す)は、阿弥陀仏の本願に帰依信順し、ただ念仏だけを唱えること(称名念仏あるいは専修念仏)だけで往生できるという主旨を、論理明晰に説き明かしている。 ・・・二つの命題を対比しつつ、その一方を次々と否定していく論法は鮮やかであり、知恵の法然房とまでいわれた面影がその鋭い筆鋒に躍動している。 

(はい、ここが問題なんですね。 親鸞さんが敬う法然さんは「論理明晰」「論法は鮮やか」「知恵の法然」「鋭い筆鋒」なんですよ。 主張がはっきり、しっかり、バッチリなわけね。 それに比べて この親鸞の『教行信証』はなんなの? 全然わかんな~~い、ってことになっちゃうわけですよ。 何を言いたいわけ? ってね。)

p95

その第十八願には「除外規定」があるではないか。 それはなぜか。 その除外規定があるかぎり、第十八願はとうてい万人成仏思想たりえないのではないか、という疑問である。

・・・

浄土教の伝統のなかでは、「五逆と誹謗正法」を除外することがあたかも当然の前提とされてきたかのように、親鸞の目には映っていたのかもしれない。

・・・

「われは、念仏を選ぶ」といった師の法然にたいして、それでもなおその師に抗して「われは、大無量寿経を選ぶ」と言わざるをえなかったのはなぜか。 

(それで、その法然さんが信奉している浄土三部経のひとつ「大無量寿経」は絶対なわけ。親鸞さんも「これだよ!」って宣言した。 ところがどっこい、よくよく読んでみると、「みんな助ける」けど「こんな悪いやつは例外だからね」ってことが書いてあったわけですよ。 親鸞さんは困った。 「ぼくは例外なく助けたほうがいいんじゃないかなと思う。」って多分思っていたんでしょうね。 ・・・で、まずいな、先生と考え方がちがっちゃう、どうしよう。)

p134

「坂東本」落書きの原文をそのまま記す。

・・・・

先の「信」巻の中表紙裏に書きつけられた「落書き」を読み下すとき、その言々句々がおそらく親鸞によって慎重に選びだされていたであろう文章だったことが推測される。

かれは長文の「大般涅槃経」を引用しながら、いつもこの部分につよい関心をもちつづけていたのではないだろうか。

p136

私は、この悉知義大臣についての親鸞の「落書き」には、大逆大罪を犯す国王というものへの批判が塗りこめられていたと思う。 ・・・親鸞の時代の国王たちも、人間の道にあるまじき大逆大罪を犯して王位をついでいる、といったきびしい批判の目をかれは持っていた。

(この「坂東本」は親鸞さんの直筆の『教行信証』なんだそうで、東本願寺に保存されているそうです。

こちらのサイトで詳しくご覧ください。

http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/08/news0801/news080103/news080103_03.html

それで、そのちょっと落書きっぽい「落書き」、メモみたいなのがあって、それが以外と重大なんじゃないかってことなんですね。 「大般涅槃経」というお経の中に親殺しの悪人がどうなったかってことがあったわけですよ。)

p138

わが師、法然と門徒の数名が、その行為のいかんを問われることもなく、無法にも死罪にされ、また僧の身分を剥奪され、俗人の姓名を与えられて遠国に流罪となった。 自分もそのうちの一人だ。

こうなった以上は、自分はむろん僧でもなければ俗人でもない。 禿の字をもって姓とするほかはないのである。

法然とその一門は、文字通り四面楚歌のなかにいた。 援軍がどこからも手をさしのべてくれない。 旧仏教の雄、興福寺が密告の挙に出て、念仏門弾圧の斧が後鳥羽院の号令のもとにふり降ろされる。

(興福寺というのは法相宗で、親鸞さんの当時は上に書いたように旧仏教だったんですね。 ・・・だからって、浄土真宗の私が 法相宗に恨みがあるってわけじゃないですからね、御間違いなく。 まあ、そのお陰っていうか、それで「愚禿親鸞」って名前も出来て、後世に名を残したんですからね。 ただ、そういう敵であっても、悪人であっても、救済されるようなお経はないのか、って親鸞さんは探し求めていたんですよね。)

p162

私は、親鸞と道元の時代に「大般涅槃経」(だいはつねはんぎょう)という大乗経典がもっていた重大な意味を眼前に突きつけられて、あらためて驚く。 「武者の世」を迎えて時代が大きく転換しようとしているとき、闍世逆害と悪人救済の物語がどれほど当時の戦乱に明け暮れる支配階級の心を揺さぶったか、その衝撃の深さを思わないわけにはいかないからだ。

親鸞のするどい国王批判の言葉も、そして道元の激しい権力批判の行動もまさにそこに発していたような気がする。 親鸞の『教行信証』も、そして道元の『正法眼蔵』も、もしかするとそのような時代の見えざる手によって生み出された作品だったのかもしれない。

(平安の時代から武家の鎌倉時代になって、世の中には戦さが当たり前になり、多くの人びとが殺されていったんでしょう。 そして、その殺人者でも救ってくれるのか、ってことがポイントになってきたわけですよね。 特に為政者に対しては 反発、批判は当然なんだけど、そういう大量殺人をする悪人であっても 救われるのか?)

p194

師の法然が『選択本願念仏集』で示した論理明晰な手法とは、あきらなに質を異にしている。 あるいは源信の『往生要集』に展開されているような、みごとに整理された浄土・往生論の手法とも似てはいない。 そこに見出されるのは、苦渋にみちた親鸞自身の思考と背中合わせになっている、重層的で螺旋状の論理としか言いようのないものではないか。

(ここでまたまた、法然さんと比べて、ちょっとなあ・・・、その上、源信さん(平安時代中期、天台宗の僧、浄土真宗の七高僧の一人)とも比べられて、「みごとに整理され」てもいないってんですから。 「どんだけ?」っていいたくもなりますよね。 それでこの本の著者も苦し紛れに「重層的で螺旋状の論理」って形容したんですかね?)

p221

親鸞によってつかみだされた『末法灯明記』の核心の文章は、正像末の「三時」の説明からはじまる。 正法は、如来の教えが生動し、修行がおこなわれ、悟りを手にすることができた時代。 像法は、教えと修行だけが残り、悟りが喪われた時代。 末法は教えだけが形式的に残って、修行も悟りも滅尽した時代――それが大乗仏教のほぼ共通した認識だった。

(正法ってどういう意味かなと調べたら、「正法 (しょうぼう、しょうほう)とは、仏教で、正しい法(教え)のこと。邪法に対する語。」とありました。 で、ここでは、親鸞さんの生きた時代は末法の時代だから「教えだけが形式的に残って、・・・」の時代だとされていたんですね。 だから、そこに生きる自分もダメなんだ、駄目な坊主なんだと自覚していたんでしょうね。 迷いが多い坊主として。)

p234

その思考のプロセスを明示的な形であからさまに表現することは、さすがの親鸞にも、ためらいがあったのかもしれない。 そのことに怖れの気持ちを抱き、慎重になっていたのかもしれない。 それが自分の作品にたいして、あえて『選択本願悪人念仏集』とか『選択本願悪人往生集』といったような形で命名することを回避することにつながったのではないかと私は推測する。 もしもかれがそのような挙にでることがあれば、世間はそれを師にたいするあからさまな挑戦、反逆とうけとることが避けがたかったからだ。 『選択本願念仏集』という師の仕事にたいする冒涜的な行為と映ったとしても、反論のしようがなかったからではないだろうか。

(で、要するに。 親鸞さんは尊敬する法然さんに むちゃくちゃ遠慮していたってことみたいなんですね。 それで、本当は心の中に、「悪人でもみんな助けてあげたい。」って思っていながら、それを赤裸々に主張するような本は書けなかった。 だれでも簡単に、明快に、すっきりと、理路整然と、分かり易く、書いちゃうと、主張しちゃうと、ヤバイよねって思ったんじゃないか。 だから、「あんた何が言いたいの?」って思われるような感じで、本のタイトルも「方法序説」みたいなノリの「教行信証」なんて、まったく主張の意味のないタイトルにしちゃった。 その上、グダグダと みんなが信奉している格式の高い経典から引用、引用で、これでもか、これでもか、分かってよ、分かってよ、って積み重ねて、それで、自分の本音を 小出しにちょこちょこと書いて言った、ってことみたいなんです。)

わかっていただけますか?

なんだか、弁護疲れしちゃいますよね。

その5 は こちら です。

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