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2011年11月11日 (金)

「『教行信証』を読む」を読む - その8(最終回)

山折哲雄著「『教行信証』を読む」を読んでおります。

親鸞さんの「懺悔」というのがどういう意味なのか、それを見てみます。

以前引用したんですが、私の復習にお付き合い下さい。

p vii

かつてインドの王舎城に、ビンビサーラという王が統治していた。 ところが王子のアジャセがこの父王を殺して王位をのっとり、母のイダイケ王妃を獄に幽閉してしまう。

この父殺しの悪人アジャセは、はたして救われるのか。 『教行信証』という作品の全篇に流れる基調低音であり主題である。 ・・・人間における根源悪についての問題提起であり省察だった。

p viii

親鸞が最終的にたどりついた結論が、条件づきの悪人救済の道だった。 善き師につくこと、そして深く懺悔すること、の二条件がそれである。

(はい、ここに 「根本悪」とか、「懺悔」って言葉が出てきているんです。

これが、キリスト教の 「原罪」とか、「告解」に近いんじゃないかって思うんです。 

・・・と言っても、 キリスト教に対してもっている私のイメージに過ぎませんから、

責任は持ちません。 悪しからず。 ) 

p109

大量の引用経典の、まさに隘なとしかいいようのない谷間に、突然懺悔の場面が投げ込まれたというしかない。 ――自分は「愛欲の公海」に沈没する悲しい愚者である。 名利の世界に迷い、本心では浄土への往生も仏のさとりの境地ものぞんではいない愚かな人間である。 ああ、何ということだ。 恥ずべし、傷むべし・・・。

(親鸞さん自身が 自分ではどうしようもない煩悩に悩んでいるわけですね。 何か社会的な罪のようなものを語っているわけじゃないんですね。 元々人間が持っている煩悩なわけです。)

p113

(「アジャセ逆害」の物語)「涅槃経」から

「難治の機」すなわち闍世王(アジャセ)は、はたして救われるのか。 救われるとしてどのような手立てがあるのか、その救済への道筋をめぐって、このあと曲折に富む物語が展開していく。 まず、苦悩する闍世王が「六大臣」のもとを訪れ、自己の罪の行く方を問いただす物語。 ついで、名医「耆婆(ぎば)」の門を叩いて、逆害の罪から救われる正道を聴き、最後に釈迦のもとにいたって滅罪、求道の生き方を教えられて、信を獲る。

・・・・

五逆と誹謗正法の罪を犯した難治の機が、やがて「信」をえて救済されていく場面である。 おそらく親鸞が、もっとも熱い視線をそそいでいたであろう「大般涅槃経」のテーマである。

p116

耆婆(ぎば)との出会いによって、闍世(アジャセ)は懺悔の重要性を教えられる。 「重悔」と「慙愧」の心によって犯した罪が洗われ、病苦から逃れることを知る。

・・・名医、耆婆の口からほとばしる「よいかな、よいかな」の励ましの言葉は、闍世に向ってだけではなく、親鸞の頭上にも温かく降りそそがれていたであろう。

p117

闍世は耆婆の導きによって、やがて釈迦のもとにおもむき涅槃(さとり)への道を教えられる。 世の中には無数の罪が存在すること、その地獄から脱出するための滅罪の法が説かれる。

(「教行信証を読む」の中では、上のように、親殺しという大罪を犯したアジャセが、懺悔を通して救われるという話になっているんです。 )

(別の本なんですが、学研の「キリスト教の本」ってのがありまして、その論点3「人類は原罪を背負っているのか?」というページに、下のような記述があります。)

原罪は、神にそむく罪、つまり不信仰という罪であるから、神を信じない者は、たとえ道徳的、法律的に正しい人間であっても、すべて罪人であるとされたのである。

・・・この原罪から赦されるためには、イエスがキリストとして、すべての人間に代わってその罪を負い、十字架の上で死んだことを信ずる以外にないと説いている。 キリストによる贖罪を信じることによってのみ、「罪の奴隷」の状態から解放されるというのである。

親鸞さんの言う「煩悩」と、キリスト教の「原罪」というのが似ているのかどうかは、キリスト教の中でもいろいろと違った考え方があるようなので、決め付けるわけにはいかないんですけど、 私的には、似ているんじゃないかな~~、と無理やりに思うわけなんです。 ところで、キリスト教の「原罪」ってのは、アダムとイブが神の言いつけを守らずに、りんごを食べちゃって、楽園から追い出されたっていう あの話ですね。 )

(念仏で「南無xxxx」って言いますね。 この「南無」の意味を調べたら、南無とは、無条件に帰依すること。南無三法だったら、三宝とは、仏・法・僧の三宝のことで、 つまり「私は、仏・法・僧に従います。」という意味だそうです。 南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏におまかせします」という意味だと聞いたこともあります。 

一方、キリスト教の「アーメン」って何だろうと思ったら、「然り」「そのとおり」「かくあれかし」「たしかに」「まことに そのようでありますように」等の意味なんだそうです。 これまた無理やりですけど、「まったくもって おっしゃるとおりでございます。」で、「異議な~~し!」、「そのお説に従います。」って意味にとれませんか?

つまり、 言いたいのはですね、 どちらも修行などによって自力で克服するというよりも、親鸞さんが言っているように、ただただ念仏を信じて阿弥陀様にお任せする、絶対他力なんじゃないかな・・・って。 そのベースに「懺悔」が共通してあるんじゃないかな、と感じるわけです。 その懺悔は、人間が根本的なところで持っている、どうしようもない、自力では克服しようのない「煩悩」、「原罪」、に対するものなんじゃないかってね。 はい。)

さて、これで最終回ということにさせていただきます。

なんとなく、「教行信証」がどんなものだか、我が家の浄土真宗というものがどんなものだか、初めて分かったような気がします。

長々とお付き合いいただき、有難うございました。

「その1」を書いたのが6月5日でした。 

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/06/post-8b94.html

だらだらと読んで来たので、まとまりが付きませんでしたが、なにせ仏教のことを勉強するのは初めてのことですので、ご容赦ください。

そもそも、なんで「教行信証」に興味を持ったのかという、最初の最初に遡って、「お経の本」や仏教を読み始めたところは、こちらでどうぞ。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2010/10/post-ed72.html

 

 

 

 

 

   

   

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「『教行信証』を読む」を読む - その7

その6を書いてから、「懺悔」という言葉を考えたいと思ったんです。

恥ずかしい話なんですがね、「懺悔」って言葉はキリスト教のもんだと思い込んでいたんです。

私の世代の人なら、「懺悔」って聞いたら、この音楽をすぐに思い出すんじゃないですか?

「懺悔の値打ちも無い。」

http://www.youtube.com/watch?v=9sGzq04Y69Q

(しばし、なつメロをお楽しみ下さい。)

この曲が流行ったから、洒落ていたから、キリスト教・・って思い込んだんでしょうかね。

   

インターネットの辞書で調べてみたら:

  1. 仏教用語。罪悪を告白して許しを請うこと。

  2. キリスト教用語。正式には告解、悔悛、或いはゆるしの秘跡と言う。カトリック教会でのみ秘蹟とされ、プロテスタント諸派の多くでは秘蹟(聖礼典)とは位置づけられていない。confession

なんと、一番最初に「仏教用語」ってあるじゃないですか。

そして、キリスト教じゃあ「告解」が正式だなんて。 さらに、カトリックでは赦しの秘跡」というように呼ばれているそうな。

おまけに、wikipediaを読んでみたら:

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「」の意味を持つ。

ここで、仏教での読み方が元々は「さんげ」だったのが、キリスト教では「ざんげ」と読まれて、それが一般化したと。 (濁点の有無ですね。)

あ~~~あ、こんなことも知らなかった。 面目ない。

巷に溢れている雰囲気的な言葉を信用しちゃいけないんですねえ。

ただ、仏教での「懺悔」の上記解説の中では、僧侶の間で行われていたようで、一般庶民ではなかったようですね。

なんで「懺悔」を調べてみなくっちゃと思ったかって~~と、

さらに自分の恥をさらすんですが、 もしかしたら、親鸞の念仏ってのはキリスト教の懺悔(告解)に近い考えなのかなあ~~と思ったんです。

・・で、ちょっと探してみたんです:

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/es003/shinran.html

親鸞の悪人正機説は『キリスト教の原罪』に近い部分があり、自己の内面や行動を反省(内省)することで、善人になろうとしてもなりきれるものではない『自己の原理的な悪性(煩悩)』を洞察することにその始まりがあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA

新約聖書で原罪について最もよくその思想を語るのはパウロだが、イエス・キリストの言葉にも原罪を示唆するものがあると解釈される。それは「なぜ、わたしを良いというのか。神お一人のほかに良いものはいない。」(マルコによる福音書10:18)や、「私はぶどうの木である。あなたたちはその枝である。私につながるものは豊かに実をむすぶが、私から離れてはあなたがたが何もできない。」(ヨハネによる福音書15:5)といった言葉である。

そして、もう少し分かり易い新約聖書の中のパウロの言葉は、次のようなものです。

私は神の律法のうちに喜びを見出していますが、自分の奥底ではわたしの体の中には、別の法則があって心の法則と戦い、わたしを罪のとりこにしていることがわかります。私はなんと悲しい人間でしょう。だれが死に定められたこの肉体から救い出してくれるのでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7:15-24)

じゃあ、親鸞さんはどういう感じだったのかって言うと:

(ここで、 次回 その8で、「教行信証を読む」に戻りますね。)

   

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2011年11月 7日 (月)

職人になれなかった・・・

昔はアートなんぞを観るという趣味も、興味もなかったんです。

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私は和菓子の職人の息子でしたから、親父の手先の動きを眺めながら育ったようなもんなんですね。

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ちょっと、比較するのは失礼なんですが、いわばこの方のような職人というかアーティストというか・・・ まあ、そういう人の仕事をじっと、と言うより、ぼ~~っと眺めているのが習いになっていたような・・・

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・・・で、こういう作品なんかを眺めて・・・「いいじゃん。」なんてことを思うわけです。

この作品なんか、綺麗な、美味しそうな和菓子に見えませんか?

もう45年ぐらいも前の話なんですがね・・・

親父の跡を継いで、和菓子屋の職人になることを覚悟していたんです。

家は貧乏だったし、兄は外に出ていたし・・・

しかし、結局次男坊だったもんですからね、家を出ることになった。

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・・・・で、流れ流れて、フィリピンにいる。バギオにいる。

家を出ると決めた頃は、英語が好きだったんですね。

だから、英語でもやっていりゃあ、将来食いっぱぐれはねえだろう・・・

・・・まあ、そんなことで、英語を学び、外資系に勤め、穀物の輸入商社、メジャーの石油卸業者、そして、半導体製造会社を渡り歩いた。

結果的にラッキーだったと思います。

いろいろと面白い仕事が出来ましたからね。

仕事ってのは、出会うもんだと思いました。

でも、それが自分に向いていたかどうかは今でも分からない。

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そして、こういうものを自分の手で生み出している人を羨ましく思うわけです。

私にこういう才能があるとは思えない、でも、子供の頃から職人として手が覚えてくれれば、それはもしかしたら自分にあっていたのかも・・・と思ったりするってことなんです。

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もともと、私は理詰めで考えるタイプじゃないもんですからね。

感覚派なんですね。 

和菓子の職人だったら 良かったのかもしれない・・・・

なんてことを今更ながら 振り返ったり。

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「作る」って言葉と、「出来る」って言葉が、ふっと頭に浮かんだんです。

人が意図を持って「作る」んですね。

すると、そこに何かが「出て来る」んですね。

で、そこで「出来た」ってことになる。 ・・・・ ほんとかな?

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職人はおそらく、「作る」、そしてその結果「作った」ってことになるのかな。

そして、アーティストだったら、「作る」と「出来た」ってことになるのかな、ってことをふと思ったんです。

何が違うかですか?

「作る」は 他動詞なんですね。 「出来た」は自動詞なんです。

なんのこっちゃ?

もしかしたら、職人は人の意志で作る、アーティストは人の意志でというより、いわばアートの神様がその人に「作らせる」から「出来た」という自動詞になるんじゃないか、なんて・・・

まあ、わけの分からんことを考えたりしてるんです。

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などど言いながら、こういうところで ワインでも飲んでいると、

「思えば 遠くへ 来たもんだ・・・」

なんていう歌の文句が 頭をよぎるってことなんです。

「なんで俺はこんなところにいるんだろう。」

人生って夢みたいなもんですね。

その夢を、覚醒した自分の意志で動かしたことがどれほどあるだろうか、

ず~~っと夢の中にいるような気分が 若い頃からあるんです。

だから、手を使う職人だったら、もしかしたら、もっと人生が夢じゃなくて、現実に近くなったんじゃないか・・・・

頭を使い過ぎちゃいけません。

もっと手を使いましょうね。

   

  

   

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