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2011年12月31日 (土)

「般若心経」の本(16) お釈迦様の教えを否定 ??  

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

ここでは、十二縁起の話が出てきます。

十二縁起は、お釈迦様が成道において初めて顕現し、観察した「諸法」そのもの
なのに、何故そこまで否定しているのか、ってところなんです。

ところで、成道の意味は、辞書によれば、成仏得道、つまり、悟りを開くこと
とあります。

一般的な解説書では、釈迦が教えたこととはいえ、小乗の教えだから、
大乗あるいは「空」の立場では、仏教の基本原理であっても否定しているのだ
との解説がほとんどだとしています。
著者は、ここで ちょっと待て、と疑問を呈しているんです。

どんな立場であっても、開祖の教えを否定するってことはあり得ないだろうって
著者は言っているんです。
じゃあ、この部分をどう理解するのか?

十二縁起は、
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死 です。

この順番に「生じる」のを観察するのが「縁起の順観」で、
同じく無明から「滅する」のを順番に観察するのが「縁起の逆観」なんだそうです。

この順番は因果関係の順番になっているんだとか。

ポイントを拾いますと:

ー 問題は、十二縁起という教理なのではなく、瞑想のプロセスとして
  順序づけられた各項目のダルマをどう観るかである。

ー 十二縁起を否定しているのではなく、観察されるダルマの実在性を
  否定
している。

ー 釈尊の成道を否定しているのではない。

ー ここで観察されるダルマの因果関係は、世間のレベルにおける通俗的な
  教訓として解釈してはいけない。

ー 無明(アヴィディヤー)の意味は「無知」のこと。
ー 無明の対極にある明知は、2階の世間レベルの知ではなく、3階の
  舎利子レベルの知である。
ー よって、無明とは「3階レベルの知の欠落」を意味する。

ここで、著者は、通常の人がいる1階と2階では、当然このような知はないから、
ダルマ云々ということは有り得ないって言っているんです。

3階レベルの人であって初めてそれが観察できるということです
2階レベルは無明そのものだから、無明を自覚することなど出来ないわけです。

で、結論的に、「無明」の意味は、1階及び2階レベルの世間そのものだと
しています。

「行」= 自己形成
「識」= 自己と他者との区別、分別。
「名色」= 固体的存在の精神的ならびに物質的な諸要素
「六処」= 感覚能力(センサー)
「触」= 対象との接触
「受」= 苦や楽などのさまざまな感覚
「愛」= 欲望
「取」= 執着、煩悩
「有」= 個人的自我の確立
「生」= 原語「ジャーティ」は「誕生」ではなく「生存の状態」と解釈すべき。
     よって、「日常の生活」が正しい。
「老死」= 老いること・死ぬこと

お釈迦様の時代には、上記のことをどう解釈するかとか、どう検証するかと
いうようなことではなく、瞑想を実践して如何にこれらを観察するかと
いうことだったのだろうと著者は言っています。
つまり、これを知識として理解しようなんてことは2階のフロアの世間レベルの
者たちがやることだってことです。

・・・今、私がやっていることは、それですね。
知識じゃ意味がない、瞑想という実践あるのみ、ってことみたいです。

そして、瞑想という修行を実践することによって、
「無明」という世間レベルから「明」である3階のフロアに昇ることが出来れば
無明のなんたるものかを知ることができる、そしてその無明に起因して何が
どのように起こり消えるかを観察できる、3階レベルでは老死も超克されている
ということになりそうです。

ー 老死に至る因果系列のすべてのダルマが苦である。
  苦=思いのままにならない=不如意
ー 真の問題は 苦の滅である。

だから、アビダルマ論師たちのようにダルマを実在、永遠にしてしまうと
問題は解決できない。

さらなる高いレベル、つまり4階の観自在菩薩のレベルで、そのダルマの
存在を否定する。
そうすれば、釈迦の悟り、仏教の基本教理を否定したことにはならない、
ってことになる・・・・そうです。

では、その(17)では、「四諦(したい」が出てきます。

やはり、般若心経は年内には終われませんでした。

来年も又、お付き合い下さい。

 

 

 

     

    

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2011年12月29日 (木)

あ~~あ、 年末は 心が急かないと いけないのか??

2日ほど前から、ラップトップ・パソコンのディスプレーが、画面がチラチラしていたんです。

時々、画面がさっと真っ暗になって、すぐに元にもどったんですけど、いつ画面が見えなくなるか、怪しくなっていたんです。

で、ついに、今朝、10時ごろだったかな、真っ黒になり、復帰しなくなりました。

でも、パソコン本体の方は なんとなく正常に動いているような感じだったんで、外付けのディスプレーを買えば大丈夫かも、って思ったんです。

SMバギオっていうモールの最上階にサイバー・エリアってのがありまして、その中にパソコンの修理屋があったんです。

お兄ちゃんがいろいろチェックしてみて、結局、外付けのディスプレーをくっつけてみたら、ちゃんと見えました。

で、同じフロアのパソコン・ショップに行って、買いましたよ。

Img_9527

こんなことに なっています。

まあ、本体が壊れなかっただけでも、良しとすべきなんでしょうが・・・

最近は 特にFACEBOOKをやるようになってからというもの、メモリー不足で 毎度 フリーズ寸前、または フリーズ頻発状態です。

しかし、設定がねえ。

いろいろといじくって、とりあえずは見えるようにはなったんですが、縦横の比率が違うみたいで、横長になっちまってんです。

マニュアルもなく、でたらめに設定していたら、必要な画面がでてこなかったり、変な画面になってしまったり。

まあ、なんとか、必要なものは使えるには使えるんですけど・・・・

Img_9526

はい、ここが私の仕事場兼パソコン・ルームです。

一応翻訳なんかもやっているもんですからね。

パソコンに死なれちゃ困るんです。

なんとか 来年の4月ごろまでがんばってくれるといいんですけど。

もう、XPは限界ですよね。

元々、このパソコンは 秋葉原で中古を買ったもんで・・・

あと半年・・・・頼むよ。

 

 

 

   

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娘ごころ と にせもの父さん

「子供のころから、お父さんと踊りたいなあと思っていたんです。
 それが、意外な形で実現したんです。」

ハリウッド映画でしたかねえ、そんな映画があったような気がするんです。
たしか、結婚することが決まった娘が、お父さんとしんみり踊るみたいな・・・

クリスマス・パーティーにいろんな国のリタイヤ組が集まっていたんです。
一番多いのは今をときめく韓国人ですね。
ヨーロッパ人、アメリカ人、台湾人、インド人、そして、日本人は10人ぐらい
でした。もちろんフィリピン人の関係もたくさんいました。

フィリピンの山岳民族の伝統的な踊りが披露されて、食事もいただいて、
そして、盛り上がってきたところで、ダンスをしましょうってことになって
ダンス音楽がかけられたんです。

だ~~れも踊ろうとしないんですね。
広く開けてあるフロアに 誰も出てきて踊ろうとしないんです。
・・・で、ちょっとひょうきんなおっさんが出てきました。
韓国人でした。
いっしょう懸命 女の子を引っ張り出そうとして頑張っているんです。
まあ、早い話が 酔っ払いのおっさんですよ。

主催者側が何人か桜を用意しておきゃいいだろうに・・・なんて思ったんです。

でも、そのおっさんがちょっと逆効果だったと思うんです。
むりやり引っ張り出された女の子二人とちょっとだけ踊ったんですけどね。
おっさんはきっと、盛り上げようとしていたんだと思います。
まあ、単なる酔っ払いの可能性も非常に高いですけど・・・

その音楽が終わった後、生の演奏が始まったんです。
まったく気づいていなかったんですけど、その中の男のボーカルが
私の知人だったんです。
私の元の職場で人事の仕事をしていた男。
昔はラジオでディスク・ジョッキーをやっていたというナイス・ガイです。

その演奏と歌が始まったもんですからね、これはちょっとこの場を
盛り上げなくちゃいけないな、って余計なことが頭にふっと浮かんだわけ。

・・・で、向こう側の席に座っていた私の教え子の女の子を誘ったわけです。

その女の子は二十歳そこそこで、日本のある団体の支援で日本の短期大学に
留学する候補生として日本語を勉強したんですけど、
残念なことに予算の都合で人数制限があって選にもれてしまったんです。

でも、この子も優秀で、残念だな~と思っていました。

それでも、彼女はあきらめず、日本・フィリピンの協定で実施している
看護師・介護士候補生としてのプログラムに挑戦しているんです。
で、この日。 受け入れ先の病院が決まったと教えてもらいました。

その彼女は、ダンスが好きな子でね、すぐに誘いに応じてくれたんです。

私の実の娘たちよりも、ひとまわりくらい年下の子です。

その子が、
「子供のころから、お父さんと踊りたいと思っていた。それが実現した。」
と言ってくれたんです。

まあ、「にせもの」のお父さんですけどね。

そう言えば、昔 まだ私の娘たちが小さかったころ、将来この子たちが
大きくなったら 一緒に居酒屋で酒を飲みたいなあ、なんて夢見たことが
ありました。
現実は厳しいですね。 うちの家族は私以外は ほとんど下戸なんです。

娘とダンスをしたいと思ったことは ありませんでしたがね。
西欧人の親父だったら そういう夢なんかもあるんでしょうかね。

・・・えっ? 下心があるんだろう、って??

そうなんですよねえ、こういう場所が場所だしねえ。
リタイアした爺さんたちが 若い女の子と手を繋いで歩いている光景は
フィリピンじゃあ珍しいことでも何でもないですしねえ。

まあ、周りからそう見られても当たり前みたいな環境ではあります。

まあ、でも、今回そういう風に二人で踊った理由は、
1. 生演奏のメンバーである知人の音楽を盛り上げよう。
2. 韓国人のおっさんが冷却したこの場の雰囲気を立て直そう。
3. こういう場所なんだから、もう少しスマートにやれよ!
   ってことを そのおっさんに見せてやろう。

1の理由が70%ぐらいでしたけどね、
この3つ目の いやらしい対抗心もあったことは素直に認めますよ。

いずれにせよ、「お父さんと踊れて嬉しかった。」と言ってもらって
意外な反応に うれし、はずかし、の偽者お父さんでした。

・・・で、その後 フロアの雰囲気は変わったのかって?
ちょっとだけは変わったと思いますよ。
もう一組だったかな、自然にフロアに出てきて踊っていましたからね。

ついでに思い出したんです。
なんで、こんな風に こんな場所で 俺は踊れるようになったんだろうってね。

やはり、二十歳の時から、三つのアメリカ系の会社でずっと働いてきたからだろうなって。

アメリカ系なんで、毎年クリスマス・パーティーを会社が開いていましたし、
当然ダンスもあったわけで。

そこで踊れないと楽しくないと思って、二十代のときに銀座のダンス・ホールで
入門コースを習いましたからね。

歳を取ると、点が次第につながって線になる。
かの有名な、最近亡くなった、天才経営者が言ったことですね。
私の場合は、内容がお粗末ですけど。

    

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「般若心経」の本(15)  6 X 3 = 18界  

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

第五章は「空の中には何もない」というタイトルになっています。
ここは、さらに難しい内容が解説されています。
なかなか難儀なもんです。
しんどいので、大雑把に行きますね。 この辺りが私の限界かなあ。

なにがしんどいかって言うと、難解な言葉が次から次に出てきて、その定義を
いちいち記憶しなくちゃいけないじゃないですか。
覚えられないんですよねえ。

はあ~~、では、進めましょう。 
観自在菩薩から舎利子への第三の伝授の部分だそうです。

般若心経の中の
「是故空中、無色無受、相行識、無眼耳鼻舌身意、・・・・」のところです。

読み下し文は
「この故に空の中には色はなく、受想行識なく、眼耳鼻舌身意なく、・・・」
となっています。

ー 問題は何がないかということです。
  ないものが列挙されている点が重要です。

ー 列挙されているのはすべて
  「自己という経験主体を構成する要素として瞑想の中に顕現して存在する
   もの」
としてのダルマ(諸法)です。

ー もろもろのダルマは3階の小乗レベルのフロアにおいて観察されるもの。
  これらは釈尊の成道において顕現した諸法である。

ー 4階にいる観自在菩薩がここで、4階にはいかなるダルマもないと言う。
  どのようなダルマがないかという その伝授内容がここで示される。

要は、小乗仏教から大乗仏教に変わっていくところみたいなので、
その違いを明らかにするってことみたいなんですね。

ー インドでは、仏滅後数百年を経て、アビダルマの派がいくつもあった。
  最も有力だった説一切有部が「五位七十五法」の体系を作った。

ー 「般若心経」では、その体系よりも以前に普及していた「五蘊・十二処・
  十八界」という分類法 = 三科 を取り上げている。

ー 十二処・十八界は、五蘊をさらに細分化したもの。

よって、五蘊 = 十二処 = 十八界 と考えてよいみたいです。
具体的には以下のように説明されています。

五蘊の中の「受」=視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚・心作用の六つ
        = 眼・耳・鼻・舌・身・意
        = 六根
        = センサー

上記の6つの感覚装置がとらえる対象領域・範囲
色・声・香・味・触・法 の六境である。
(この中の「法」は、心の働きが向うところの意味)

上記の 6根+6境=十二処 となる。

さらに、十八界 という言葉は、

上記の 感覚装置(根)と対象領域(境)に加えて、それらの認識作用として
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の 6識が加わって 合計18界に
なるのだそうです。

そして、観自在菩薩は、これらの十八界のダルマが 4階のレベルでは
すべて無いと伝授しているということになるそうです。

ここで、こぼれ話が出てました。

「どっこいしょ」の語源らしいのですが、
修験者が山登りをしながら「六根清浄」と称えるそうです。
テレビ番組で見た覚えがあるような、ないような。
この六根清浄が「どっこいしょ」の語源と考えられているそうです。

さてさて、ここで、次に観自在菩薩が「ない」と言っているもの、
それが十二縁起なんだそうです。

お釈迦様の成道において初めて顕現し、観察された諸法そのものである
十二縁起が「ない」としているそうなんです。
どういうこと??

お釈迦様の教えを否定しているのか?

では、その(16)で・・・・

 

 

 

 

 

      

     

     

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恐怖症の治療薬 - 即効 !! ??

昨日の夜だったんです。

フィリピン退職庁っていう政府機関が、クリスマス・パーティーを毎年やるんです。

この退職庁が 外国人向けに 退職者ビザっていう永住ビザを出しているんです。

それで、そのビザを持っている外国人のためのクリスマス・パーティーをやっているんですけどね。

3img_9440

(Yuletideって言葉。 聞いたことありますか? 辞書で調べてみてください。 私も今まで聞いたことも無い言葉でした。)

3~4年前は、バギオでも一番高級レベルにある キャンプ・ジョンヘイのカントリー・クラブなんかを 会場にしていたんです。

でも、会場費だけで予算を喰っていたんでしょうね。 料理が貧弱だったんです。

・・で、その後 会場が安いホテルになったんです。

なんか、見るからに 安普請って感じのホテルなんですね。

日本のビジネス・ホテルなんかよりも、殺風景な感じ。

本題の話はここからなんですがね。

パーティーは その殺風景なホテルの6階(だったかな)で開かれまして。

開場すると とりあえず飲み物だけ 出たんです。

それも、ワインとコーヒーだけ。

で、その6階のベランダに行ったんです。

安普請ですからね。 狭いベランダで、細い金属製のパイプで簡単にベランダを囲っているだけなんです。

子供なんかは見るからに危なくって 「ベランダに行っちゃだめだよ」っていいたくなるくらい、なんだか頼りないフェンスなんです。

私、高所恐怖症なんです。

昔は 高いところが好きだったんですよ。

屋根の上に登るのとか、ジェット・コースターなんかも好きでした。

ある日 突然 高所恐怖症になってしまったんです。

東京都庁でした。 原因は。

東京都庁の展望台に昇ったんです。

なんか、嫌な感じがするな、と思ったんです。

建物自体が ねずみ色。 金属質で、無味乾燥な嫌な建物。

そして、展望台の部屋、空間の 雰囲気がなんとも暗い感じだったんです。

それが原因かどうかは 分かりゃあしませんが、

それ以来、高所恐怖症になったんです。

で、その6階のベランダに行くと、下半身から ぞくぞくと恐怖症が沸いて来たんです。

夕焼け雲が いつになく 怪しく、綺麗でした。

その上に 三日月がくっきりと青空に映えていました。

宴たけなわになりました。

4img_9486

料理はまだ 解禁じゃなくてね、飲み物タイムが長かったんです。

「今日は やたらに引っ張るなあ~」という感じで、腹が減っていたんです。

ワインが 三杯目でした。

また、ベランダに行ったんです。

もう、高所恐怖症は消えていました。

気持ちが大きくなっているんですね。

怖いですねえ・・・・

 

 

 

 

   

 

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2011年12月28日 (水)

「般若心経」の本(14)  般若心経の読み方の本筋はこれか?? 

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

さて、もしかしたら、この部分が一番重要なんじゃないか、という核心部分に
さしかかってきました。

なぜ「般若心経」は、観自在菩薩が舎利子に伝授するという形になっているのか
という全体の構想です。

4階建ての4階にいる観自在菩薩は、大乗仏教を象徴する人。
一段低い3階にいる舎利子は、小乗仏教の代表という立場であると言うのです。

例によって、ポイントだけを拾っていきます:

ー 苦しむ自己から開放されるには、自己そのものがないというごく単純な、
  しかし深遠な事実を知ればよい。

ー 自己は五蘊というダルマが仮に集まったものにすぎないと観察し、
  世間のレベルを超えて無我の境地を達成せよ。

要するに、ここまでが、釈迦が開示してくれた仏教の3階のフロアだったのだから、
と著者は書いています。

ところが、アビダルマ研究者(論師)たちが、ダルマを永遠に存在するものと言い
出したので、より上位のレベルをつくる必要が出てきた。
そして、釈迦の真意を追求した結果、大乗仏教に到ったということのようです。

一番の問題点は、ダルマを実在のものだとしてしまったところにあった、
と言います。

大乗レベルの観自在菩薩が、小乗レベルの舎利子に伝授するというのが
「般若心経」の中心場面として設定されたのだ、としているのです。

だから、「空を特徴としている諸法」というのは、「4階のフロアで観察した
諸法」ということである。
従って、3階の小乗レベルでは「空を特徴としている」レベルではないので、
「不生にして不滅、・・・」と言うことにはならない、3階のレベルでは
「諸法は因によって生じ、また滅す」ということでしかない、としています。

ここで、著者は「不生不滅」の意味について、一般にかなり誤解されている
のではないかとして、以下のように言っています。

ー 「広辞苑」で「不生不滅」は「生じもせず滅しもせず常住であること」と
  説明されている。 仏教用語としては間違っていないが、「般若心経」では
  そういう意味では使われていない。
  
ー ある解説書には、「初めも終わりもないということで、永久とか永遠な
  ものをさしている」(松原泰道著「般若心経入門」)とあるが、
  これはデタラメもいいところだ。
  それは「般若心経」が批判の対象としているアビダルマ論師の見解そのもの
  である。

つまり、観自在菩薩が伝授しているのは、そうした永遠のものはない
ダルマは実在しない、ということを説いているのだから、
生ずることも滅することもないということなんですね。

そして、さらに、サンスクリットでかかれた原典を読める著者ならではの
解説が続きます:

ー 観自在菩薩が舎利子に語りかける際に、原典では
  「ここにおいて、シャーリプトラよ」といい、「ここにおいて(イハ)」
  という言葉を使っている。
  この言葉は 漢訳では省略されている。

原典には「ここにおいて」という言葉があるのに、どの漢訳をみてもこの言葉が
ないそうなんです。

そして著者は、
岩波文庫本では原典からの訳として「この世においては」と訳しているけれども、
これは論外だと切り捨てています。
「この世」っていったら、「あの世」ってのを自然に対比して思い浮かべるだろう
ってね。 そういう余計な問題を起こすような訳は良くないってことです。

皆さんは、もうお分かりですよね、
はい、「ここにおいて」=「この場所」「このフロア」「この4階のレベル」
つまり観自在菩薩がいる4階の大乗仏教のレベルのことなんですね。

玄奘さんや他の漢訳者でもその重大な意味が分からず省略され、、日本の解説書の
著者にも真意が分からなかった
この「ここにおいて」の意味は、4階建ての家を、小乗から大乗へと上昇する
仏教の歴史的背景を、踏まえていないと理解できないでしょ、ってことを
著者は言っているみたいです。

・・・う~~~~ん、翻訳って めっちゃ難しいですねえ。
怖いですねえ、怖いですねえ・・・・

では、その(15)で、またお会いしましょう。

   

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2011年12月27日 (火)

「つまされる」だから 受身形だと思ったんです

「身につまされる」ってことを書いたんですけどね、
ちょっと意味が気になって 辞書をひいてみたら:

つまされる
①情にひかされる。「かわいさにーー」
②自分にくらべてあわれに感じる「身にーー」
(三省堂 国語辞典)

ってのが書いてあったんです。
あれれ、俺が思っていた意味と違うじゃないの・・・・なんで?

それで、「つまされる」だから受身形だと思ったんです。

手近なところで インターネット辞書で調べたんです:

つまさ・れる
①情愛にひかされる。恩愛にほだされる。「親の愛に―・れる」
②(「身に―・れる」の形で) 人ごとでなく感じられて、哀れに思われる。
世間胸算用3「我が身に―・れ、人知れず泣きけるが」
(出典:『広辞苑』)

身(み)につまさ・れる
他人の不幸などが、自分の境遇・立場と思い合わさって切実に感じられる。
「―・れる苦労話」
(YAHOO辞書)

身につまされる <身>
sympathize deeply 《with》; feel deeply 《for》
身につまされる話
a story which arouses one's immense sympathy
用例  彼の話を聞くと身につまされて涙がこぼれた.
Hearing his story, I wept in sympathy with him.
(研究社 新英和中辞典)

まあ、意味は私が思っていたものと同じものが出てきたんで、
安心したんですけどね。 辞書形はなんだ? が未だ分からない。

同じような疑問を考えた人のサイト。
やっぱり結論は出ていない。
http://8105.teacup.com/happynewday/bbs/4619

このサイトの方は、辞書形は「つむ」じゃないかと言っているんですけど、
私は個人的には、もしあるとすれば受身形「つまされる」の辞書形は「つます」
であるべきかなと思うんですけどねえ。 ないですね。

例えば 「試す」だったら受身形は「試される」
    「干す」だったら受身形は「干される」
ってのがありますからね。

混乱してきたんで、パソコンに入れている SUPER日本語大辞典っていう
ほとんど漢和辞典みたいなので調べてみたんです:

つまされる
《自動詞下一段活用》─
〔愛情・恩義などに〕心が動かされる。
─用例(芥川竜之介)「親の愛につまされる」《文語形》つまさ・る《下二段活用》

ここで、「つまされる」は自動詞下一段って書いてあるんですよね。

自動詞下一段の動詞ですと:
     未然形   連用形  連体形  仮定形  命令形 
現れる  現れない 現れます 現れること 現れれば 現れよ 
見える  見えない 見えます 見えること 見えれば 見えよ
消える  消えない 消えます 消えること 消えれば 消えよ

つまされる つまされない つまされます つまされること つまされれば つまされよ

だから、受身形じゃない、受身形はないってことになりますね。

ああ、これでほっとした。

一件落着でした。
お粗末。

どうもねえ、日本語教師をやっていると だんだん自分の日本語に

自信が持てなくなってくるという 変な病気に掛かるんですよねえ。

 

 

 

 

    

          

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今 日本で流れているという噂のCM ・・ 身につまされる

サッポロ・ビール 黒ラベルのCM 64階 北野武さん

http://www.sapporobeer.jp/beer/64/page_03.html

大人ってなんだ?

若い頃の恥ずかしいことを思い出す。

そんなことを思い出すのが大人・・・

私にも 3つか 4つくらい、フラッシュバックのように蘇る恥ずかしい思い出があるんです。

ひとつは、この前書いた 「しゃべり虫!!」事件なんですね。

その他には、

「健康診断全盲事件」

「800メートル走・超びりっこ事件」

「銀座ダンス教室まねっこ事件」

最初のは、本当に申し訳ないことをしてしまったという後悔。 中学生時代。

真ん中のは、なんであんなに馬鹿正直だったんだろうという赤っ恥。これも中学。

最後のは、俺も若かったなあ~、と顔向けできない恥ずかしさ。 二十代の時。

まあ、いずれその話をすることがあるかもしれません・・・・

そして、北野武さんが「強さとは?」に応えているフレーズ。

「鈍感なんじゃないの?」

はい、これは多分わたしに当てはまる言葉なんじゃないかな。

人それぞれ、敏感な分野と鈍感な分野があるとは思いますけどね。

私の場合、鈍感な分野は、

暑さ・寒さ・・・・昔っから、子供の時から、気温にあまり関係なく厚着でしたね。

それでのぼせてしまったり・・・ 気持ちが悪くなってしまったり・・

15歳も上の姉が「脱げばいいでしょう!」と よく言っていたような記憶が。

新聞配達をしながら学校に通っていた頃は、鈍感なのが幸いして、雨や雪の時にもあまりめげることはありませんでした。

もうひとつは、人間関係でしょうか。

要するに気がつかないんですね。

所詮 人間同士は分かり合えないという気持ちがあるんですね。

自分自身だって分からないのに、ましてや他の人の気持ちなど分かるわけがない。

昔の歌にありましたね、

「男と女のあいだには、暗くて深い川がある~~~」だったかな?

男と女は かなり深いと思いますが、男同士でもそりゃあ程度の差でしょう。

確かに、鈍感というのは良い・悪いじゃなくて、強さにはなると思いますね。

どんな分野で敏感か鈍感かってのは、もうこれは性質のレベルの話ですからね、

気づかないものを気づけと言っても お話にならないんですね。

「飛んで火に入る夏の虫」みたいに、

熱さも分からずに飛び込んでしまうんでしょう・・・

気づく人にとっては、それがかえって 傷つく原因になってしまったりね。

人の間とは よく言ったもんです。

般若心経で言えば、そういう人の心の動きは「ない」境地・・・なのかな?

ちょっと違うか・・・(笑)

 

  

  

  

 

 

 

    

  

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「般若心経」の本(13) 「ダルマ」 大乗仏教成立以前 

 

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

この本によれば、ダルマ(諸法)に関する最も根本的な内容とは:

ー 三蔵 = 経蔵(経典類)+律蔵(戒律類)+論蔵(論書類)
ー 三蔵は中国では仏典の翻訳をする僧の称号となった。
ー 現在のスリランカ、タイ、ミャンマーなどで上座部仏教に伝承されている
  三蔵は、大乗仏教成立以前の編纂によるものが残っている。
  サンスクリットに良く似たバーリ語を使う。 バーリ聖典。

ー 律蔵大品の中の「大けん度」(けん=牛+建)に、
  初期仏教教団の成立にかんする話がまとめてある。

ー 釈尊の成道を伝える冒頭の「成道篇」に
  「熱心に瞑想に励む修行者に諸法が顕現するとき」という言葉が繰り返し
  出てくる。
  くっきりと明瞭に目の当たりに現出したものが「諸法」(ダルマ)だった

ー 諸法(ダルマ)とは:
  無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、
  老、死、愁、悲、苦、憂、悩 をさす。

ー 無明が最初で、後の項目が順次生じていく。
ー この内、「老、死、愁、悲、苦、憂、悩」は、般若心経などでは「老死」と
  括られている。
  よって、これが 十二縁起と呼ばれる。
ー 縁起=いかなるものも必ず何らかの原因・条件によって起こるという意味。

ー 順観=十二縁起を順番に「生」じる次第を観察すること
ー 逆観=「滅」が順番におこることを観察すること

ー 釈尊の成道にかんする律蔵大品の「公式見解」は、
  「諸法が顕現する」という一点にあり、それを成道の場面では十二縁起
  として示し、最初の説法の場面では五蘊(並びに四諦八正道)として
  示している。

ー この中では、「五蘊は苦の原因というのではなく、苦そのものである」
  としている。

ー 諸法(ダルマ)は瞑想の中において初めて顕現するものだが、
  最終的に否定されなければならないものだ。
  これは「般若心経」の中で、五蘊(ごうん)は皆空であるとしている
  ことと同じである。
 
要するに、ここで言っているのは、あくまでも「瞑想」をする中で
諸法(ダルマ)=十二縁起 が観えてくる、ってことみたいですね。
そして、一旦みえたものが、消えてなくなるってことでしょうか。

さて、ここで又、著者の厳しいコメント、一刀両断が出てくるんですねえ。

「是諸法空相」の「空相」=「空という特徴」という意味
これを「空の相(すがた)」と読んでいる人がいるが、それは誤りだ!!
(例えば、金岡秀友校注「般若心経」講談社学術文庫)

「相」の言語「ラクシャナ」=「AをA以外から区別するための目印」
             =「特徴」

なんであるから、
「諸法は空を特徴としていて、不生にして不滅、・・・」などと読むのが正しい、
って言っています。

ここで、著者は、観自在菩薩が舎利子に対して第二の伝授、つまり、
五蘊を含む諸法全般にかんする瞑想の指針が示される場面だとして、
以下のように解説しています:

ー 「諸法は空を特徴としていて」という言い回しと「諸法は空である」という
  言い方は、実は意味が違ってくる。
ー 「特徴としている」という言葉がどうしても必要

ー 多くの解説書は、諸法が不生にして不滅、・・・と、さも当たり前のことで 
  あるように受けとめているが、・・・決して当たり前のことではない。

ここで、何故か、舎利子がお釈迦様の弟子になっていきさつが出てくるんです:

ー 舎利子は、釈尊の大勢の弟子の中でもよりすぐりの十大弟子の中で
  「智慧第一」として知られていた。

ー 「神通第一」と言われた目連とともに、釈尊の二大弟子といわれた。

ー 釈尊の時代の新興マガダ国には、旧習にとらわれない多くの自由思想家が
  いた。 旧習とはヴェーダ聖典にもとづいて祭祀・供犠を行うバラモン教
  のこと。 釈尊もヴェーダの権威を認めない自由思想家の一人だった。

そして、舎利子がお釈迦様のもとに入ったときのいきさつ:

ー 自由思想家のある教団に、来世や善悪業の果報について不可知論を説いた
  サンジャヤという人がいて、そのもとで舎利子と目連は修行をしていた。

ー 舎利子が托鉢をしていた時に、ある一人の修行者に出会った。
  そして師匠の名を尋ねたところ、釈尊であった。
  
ー その師匠がどんな法を説いているのかを問うたところ、
  「諸法は因より生じる・・・・」という詞を その修行者は披露した。

ー この詞に感銘した舎利子は、目連とともに、250人のサンジャヤの
  弟子たちを引き連れて釈尊に入門した。

ー この詞は「縁起偈」(えんぎげ)と呼ばれ、仏教の根本義である
  四諦のうち、苦集滅の三諦を説いたもの。

ー この詩は、「諸法は生じ、かつまた滅す」と言っている
  これは、たしかに釈尊が説いた十二の因果系列だった。

ところが、ここで、著者いわく、
「般若心経」では、これを聞いて感銘を受けた舎利子に対して、
観自在菩薩は、正反対のこと、「諸法は生じることなく、滅すことなく、・・・」
と伝授している
、と解説しているんですねえ。

そして、ますます深みにはまっていくんですが、
「般若心経は当たり前のことを言っているのではない」、そんじょそこらの
人生訓とか処世訓なんかを導きだせるような世間のレベルの話じゃないと
言いつつ、著者はその背景を説明しています:

ー 釈尊の成道において、釈尊が瞑想の中に初めて顕現したのが諸法(ダルマ)
  だった。
ー 仏陀入滅後百年にして、教団は「上座部」と「大衆部」に分かれた。
ー 根本上座部より分派した「説一切有部」は、最も有力な部派だった。
ー 「説一切有部」とは、「すべてのダルマは過去・現在・未来の三世に
  わたって実在する」と説いたことに由来する。
ー 説一切有部は、すべてのダルマを整理して、「五位七十五法」という
  分類法を編み出した。
ー このダルマの精緻な研究の一方で、それに対して批判的な人たちも
  出てきた。 それが大乗仏教の成立につながった。

そして、ここで大乗仏教の話が出てくるんですが、
釈迦の研究が、ダルマの研究が進むにつれて、専門的に成りすぎて、
かえって釈尊の教えから遠のいていく結果になったからだとしているんですね。

ー ダルマ(諸法)の研究のことを「アビダルマ」と呼ぶ
ー アビダルマの研究者たちは、いかなる場所も想定することなく自立的に
  存在するものという意味で、ダルマを「それ自体で存在するもの」と
  きわめて特殊な定義づけをした。

ー この考え方は、ダルマを苦蘊と捉え、それを滅す瞑想のプロセスを説いた
  釈尊の教えから離れていった。

ー 釈尊は 「ダルマが生じ、かつまた滅す、その次第を観よ」といった。
  しかし、アビダルマ研究者は、ダルマを重んじるあまり、ダルマを永遠に
  存在するものと考えるようになった

そして、ここで、小乗に対する大乗仏教が出てくることになるんですが、
その批判的な経典が「般若経」という形になったそうです。

そして、大乗仏教は、ダルマの本質的なありようを示す決定的な一語
編み出した。 それが「空」であった。
「空」とは、ダルマを解体するための言葉だった。

ー 諸法は空である
ー 諸法は空を特徴としている

やっと、ここに戻ってきました。 よかった。
「特徴としている」という言葉がどうしても必要だという説明をするために
ここまで読んできたんですよ。

つまり、舎利子に向って 観自在菩薩が教えている場面なので、
「あなたがたが考えているダルマは、釈尊の真意から遠ざかってしまっている。
ダルマの特徴とは何か。教えてあげよう。 それは「空」なのだ。」

ってことを「般若心経」では宣言しているってことだそうです。

観自在菩薩は大乗仏教の立場、4階のレベルから、小乗仏教、3階のレベルで
修行をしている舎利子に 瞑想の仕方を伝授している
ってことなんですね。

・・・でも、もうひとつの疑問に まだ答えが出てないですね。
なぜ、お釈迦さんが言ったことと、正反対のことを観自在菩薩が言っているのか。

次回、その(14)は どんな話になるんでしょうか・・・

 

 

 

 

 

 

      

             

   

          

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2011年12月25日 (日)

あなたは どのレベル ?

FACEBOOK に こんな画像がアップされていたんです。

Facebook  

上から:

偉大な人 - アイデアについて話す。

普通の人 - ものについて話す。

小さい人 - 他の人のことについて話す。

偉大な人っていうのは、スティーブ・ジョブスみたいな人のことを言うのでしょうね。

http://www.youtube.com/watch?v=qQDBaTIjY3s

そのスティーブの有名な演説を Youtubeでどうぞ。 (1)と(2)があります。

STAY HUNGRY、 STAY FOOLISH という言葉は 私を癒してくれます。

ハングリーであれ、馬鹿であれ。

自分の好きなことをやれ、他人にかまうのは二の次だ。

これも、私を楽にしてくれます。 我儘な男なんでねえ。

・・・・

さて、普通のレベルの人。 平均的なレベルの人。

「物」の話をする人たちだそうです。

私には なぜか物欲がないんです。

たまに物欲なんかを出すと、失敗するしね。(笑)

株で大損こきましたからねえ。 ぜ~~んぶ塩漬けですよ。

当分 再起不能ですな。

何が欲しいかって言われたら、本が欲しいっていうでしょうね。

別に読書家という訳でも無し、いろんな知識が貯まるわけでもなし。

読んだら かたっぱしから すぐに 記憶の彼方にいっちまいますしね。

敢えていえば、考えるヒントが欲しい、ってところでしょうか。

頭を動かさないと、眠くなるだけだもんねえ。

本を読むと、考えていると、スッキリするじゃないですか。

・・・・

そして、小さい人。 人間が小さいってことですよね。 器が小さい。

他人の話が好き。 世間話が好き。 ゴシップが好き。 芸能人の話が好き。 

ってことになりますか?

私は、基本的にはあまり他の人の話をすることはないんです。

なぜかって言うと、二十代の頃に 失敗をして、今でもはっきりと覚えている

恥ずかしいことがあったんです。

ある尊敬する年上の女性がいましてね。 キャリア・ウーマンでスポーツ・ウーマンでした。

まあ、一言でいうなら、カッコいいお姉さまですかね。

その人といろいろ話す機会があって、ちょっと立ち入ったことなども聞くことが出来たんですね。 何を話したかなんて そんなことは覚えちゃいませんがね。

それが嬉しかったんでしょうかねえ、他のところで、それも会社で一番おしゃべり好きなグループの女性達のところで しゃべっちまったんですな。

それから数日、そのあこがれのお姉さまから一言、

「しゃべり虫 !!」

この言葉が 30年以上経っても 蘇ってくるんですなあ。

言わば トラウマですね。

ものいえば くちびるさむし ・・・・・

最近の政治を見ていても よく思います。

本音を言うと 叩かれる。

正直すぎると 足をすくわれる。

世間の人たちは 政治家に 嘘を言えと、綺麗なことを言えと いいたいんでしょうかね?

かと言って、あまり無口でいると、説明が足りないと これまた 叩かれる。

・・・・

スティーブ・ジョブスの言葉は やはり偉大な人の言葉ですね。

小さな人間が 偉大な人の真似をしても 無理なんでしょうが・・・

今、般若心経を読んでいますが、流石に学ぶことは多いですね。

人が発する言葉の本当の意味も分からないのに 分かったような気持ちになったり、

人が発する言葉を 気にする必要もないのに いつまでも気にしたり、

逆に、気にしなくてはいけないことを 気にしなかったり。

その一方で、自分がなにげなく言ったことを とても重要にとらえる人がいたり、

大事だと思って言ったことを まったく感じてもらえない人もいたり。

自分が死ぬほど恥ずかしいと思ったことを、周りの人は なんとも思っていなかったり、

自分はなにも考えていなかったのに 周りの人がとても気にしていたり。

本当に 人というのは 独りよがりなんですね。

自分の心の中の出来事が 真実であったりするわけですね。

本当は、現実は、客観的には そうではないのに。

誤解だらけで成立しているのが 世の中、世間ってものなんでしょうかねえ。

いやはや、住みにくい現世ではございます。

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

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[般若心経」の本(12) 「ダルマ」」とは? 

 

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

「舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是。」
(しゃーりーし、 しきふーいーくう、くうふーいーしき、
 しきそくぜーくう、 くうそくぜーしき、 じゅーそうぎょうしき、
 やくぶーにょーぜー。)

この一番有名な部分ですけど、ちょっと他の本でどんな読み方をしているか
チェックしておきましょうか:

A本では:

舎利子よ、物質的現象は実体のないことを離れてはないし、実体がないといっても、
それは物質的現象から離れてはいない。 物質的現象は、すべて実体がない
仮の存在であり、実体がないということは、そのまま物質的な現象なのである。
感覚、表象、意志、知識も同様に実体がない。

B本では:

舎利子よ、世の中のあらゆる存在や現象(色)は実体がない「空」」に
ほかならず、同時に「空」であるからこそ存在、現象であり得るのです。
ですから、存在、現象はすなわち「空」の性質そのものだから、「空」の
性質をもつ存在、現象こそ大事にしなければならないことなのです。
世の中のあらゆる存在、現象が「空」であるように、精神の構成要素である
感覚も、さまざまなものを想起することも、意志も、認識もまた同じく
「空」なのです。

この本では: (原典からの翻訳)

シャーリプトラよ、ここにおいて、色は空性であり、空性は色である。
色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない。色なるものこそが空性であり、
空性なるものこそが色である。 受・想・行・識についてもまったく同様である。

まあ、この3つを比べると、この文からだけ判断すると、B本が一番
分かり易いといえば分かり易いですかね?
いままで読んだ解説をふまえて、これを読み替えてくれってことですね。

あえてトライしてみますと、この本は

シャーリプトラよ、ここにおいて、人間の自分の体は「からっぽ」という性質が
あり、その「からっぽ」という性質が人間の自分の体なのである。
(あとの二度の繰り返しは単なる繰り返しだと解説にあるので意味はない。)
感覚的に知ること、イメージとして知ること、潜在意識、分別して知ること
についても、まったく同様である。

こういう意味になるんでしょうかね。
こう言い換えてみるとかなり具体的になりますね。

さて、これを踏まえて、次の第二の伝授である「諸法」(ダルマ)に進みます。

著者は この諸法(ダルマ)について:

ー 「法」は仏教において最も重要な語の一つ。
ー サンスクリットで「ダルマ」と言うが、これには細かく数えると
  60以上もの意味がある。
ー しかし、「般若心経」での「ダルマ」は、法律とか法則とか理法などの
  意味では使われていない。

ー 七転び八起きの達磨大師の意味でもない。

ー 「ダルマ」には宗教・教え、という意味もある。
  仏教のインド名は、「バウッダ・ダルマ」である。
ー 日本に仏教が伝来した当初は、「仏法」と呼ばれていた。

ー インド人は「あなたはどういうダルマを持っているか」というような質問を
  する。 この場合は、信仰というより、自分を律するもの、行いの根拠、
  という意味に近い。

ー 「ダルマ」の原意は、「保持されるもの」である。
ー インドの哲学用語としては、「ダルマ」=「場所に存在するもの」である。

それで、著者は 最終的にこの翻訳を:

「ダルマ」=「自己という経験主体を構成する要素として瞑想の中に顕現して
       存在するもの」

     =「存在するもの」

としています。

  
そして、又また問題が出てきます。

「是諸法空相・・・・」の部分です。

漢訳では、「この諸法は」となっていて、五蘊(ごうん)をさしている。
しかし、一方 サンスクリットの原典では、
「存在するものはすべて」という言い方をしているので 五蘊だけではない
次の第三の伝授のところに出てくる全ての項目をさしている。

そして、その「諸法」=「もろもろのダルマ」=「五蘊を含む全ての項目」は
どこに「保持されている」のだろうか、と著者は続けます。

もちろん、ダルマの保持者は自分自身である、ということになります。

「体は自分そのものではなく、自分のいわば所有物というべきもの。」
「体は自分のダルマである。」
「五蘊(ごうん)はすべて自分のダルマである。」

と言い換えをしています。

ここまでは、なんとなく理解できたんですが、

観自在菩薩が見極めたことは、五蘊というダルマだけがある、「自分という場所」
がない、
ということだった。

自己が五蘊に解消される --> 五蘊以外の何物もない --> 自己なる
ものはどこにもない --> 無我であることをさとる

と続くのですが、いまいち分からない。
ここまで来ると「世間のレベルを超えた高度な境地」とありますからねえ。

ちょっと頭の中がごちゃごちゃです。

その(13)は どうなってしまうのか・・・・

            

   

   

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「般若心経」の本(11) 自己の正体はなにか  

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

さて、次は「空」とは何か です。
もう「からっぽ」であることはわかりました。

ー サンスクリットでは、「Xがある」ということと「Xの無がある」
  どちらも何かが「ある」ということにおいて等価である。
ー 「シューニャ(空なるもの)」という語は「膨らむ」という意味の
  動詞から派生した名詞で、「膨らんだ状態」が原義
  シャボン玉が膨らんだような状態をさす。
ー それが転じて「からっぽ」という意味になる。

インドにはゼロの概念がありますね。
だから、「7がある」と「ゼロがある」が同じように使われるということ
なんでしょうね。

ー 世間レベルを超えるとは、世間レベルの自分を否定することではない
  世間レベルの自分を冷静に観察できることだ。
ー それによって、自分の存在にさまざまな枠付けをしていることが分かる。
ー その枠付けがなかったら自分の存在はどこにもないということ
  見えてくる。
ー それが「無我」を了解するということだ。
  しかし、この時点では、まだ枠付けがあるということを理解しただけ。

ここまでが、舎利子の境地なんですね。
それで、それからさらに先に行くと:

ー さらに観察を続けると、膨らんだシャボン玉が消えるように、
  枠付けが消えて、開放された広がりが現れる。
ー 「空」の最も本質的な意味は、まったくの開放的な広がり である。
ー 空を「観る」とは、観る対象と観る自分とが別ではなく、
  自分自身が空に「成る」という意味になる。

このようにして、完全に開放された境地に至る、としています。
ここが観自在菩薩がいるレベル、つまり4階ということですね。

さまざまなものを列挙して、これもない、それもない、あれもない、と言って
いるのは、3階のレベルでは大事で確かにあるものが、4階のレベルになると
それらから開放されるということのようです。

観自在菩薩のレベルになると、それまでの各階を昇りきって、自己を「自在に観る」
最高の観点にまでやてきたということになるそうです。

以下、五蘊のひとつひとつの定義を見ていきますと:

「色」(ルーパ)= 何らかのものを「かたちづくる」から派生した
          「姿かたちあるもの」という意味
          「般若心経」では、人間の自分の体を意味する。
          物質的現象一般ではない。

「受」(ヴェーダナー)= 「知る」を意味する語の使役形名詞で
             「知らしめる作用」のこと。 
           = 「感受作用」
           = 感覚的に知ること

「想」(サンジュニャー)= 「知る」を意味する語に「集合」を意味する
              接頭辞がついて、「全体的に知る」の名詞形。
            = 「表象」
            = イメージとして知ること

「識」(ヴィジュニャーナ)= 「想」と同じ意味の語に「分ける」を意味する
               接頭辞がついて、「分けて知る」の意味の語の
               名詞形。
             = 分別して知ること = 識別、判断
             = 「識」だけが、言葉を介して知ること を意味する。

著者いわく、この「識」について 通俗的な説教では 特別なもの、般若の智に
目覚めよなどと説いているが、そうではなくて、一般的に「あの人には分別がある」
という場合の「分別」とこの「識」は同じレベルのものだそうです。

そして、ここで著者は「行」を最後に解説しています:

「行」(サンスカーラ) = 何らかのものをまとめて「つくり出す」が原意。
            = いろいろなイメージを総合して集めて意識を
              生み出す作用。

            = 潜在意識

そうして、上記を大雑把にまとめると、
「知を主体とした形成作用」 = 五蘊(色・受・想・行・識)の総体 
                      = 自己の正体

という結論を出しています。
つまり、形成するものですから、初めから自己というものがあるわけじゃない
ってことのようです。

「自己形成」というプロセスがまずあって、その後 無我という上位の
レベルの境地に行けるということです。
そのさらに上に開放的な広がりの境地があるってことになります。

自己形成かあ~~。 それもなあ・・・・
無我なんて、やっぱあの世に行かないと無理だな。

次回 その(12)では、「ダルマ」さんです。

    

    

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