「現代語訳 般若心経」を読む その(10)(最終回)「陀羅尼」を唱えて
玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。
ここで、「小本」の訳が書いてあるんですが、その訳を今までに読んだ
2冊で一部だけ比較してみましょう。
玄侑訳
舎利子よ。 あらゆる物質的現象には自性がないのであり、しかも自性が
ないという実相は、常に物質的現象という姿をとる。
およそ物質的現象というのは、すべて自性をもたないのであり、逆に
自性がなく縁起するからこそ物質的現象が成り立つ。
宮坂訳
シャーリプトラよ、ここにおいて、色は空性であり、空性は色である。
色とは別に空性はなく、空性とは別に色はない。色なるものこそが空性であり、
空性なるものこそが色である。
(宮坂訳では、
色=「般若心経」では、人間の自分の体を意味する。
空性=「空」の最も本質的な意味は、まったくの開放的な広がり である。
「空」とは、ダルマを解体するための言葉だった。)
これを見て明らかなことは、「色」をどのように解釈しているかですね。
玄侑さんは、これを「あらゆる物質的現象」と捉えているから、
原子物理学だの量子力学という現代科学の話に発展したのでしょう。
宮坂さんの場合は、般若心経の歴史的背景に論拠を求めて、サンスクリット原典
を詳細に探求した結果を著していると思います。
玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」に戻りますと、
以上の意味を忘れて「般若心経」を音読してください、と続いています。
ー 「般若波羅蜜多」は結局 咒文の実践だ。
ー 「般若心経」ぜんたいが、一つの「陀羅尼」と考えることができる。
「陀羅尼」=「総持」=普遍的な真理を理解し、記憶し、保つ能力のこと。
ー いったん記憶された音の連なりは、一切の思考を伴わずに出てきます。
ー 五蘊が空であることを常に自覚させる力そのものとして、陀羅尼は
再生されるように感じる。
ー 「陀羅尼」を唱えているときの「私」の殻は、少しずつ薄くなっていく
はずです。 その薄くなった殻を透かして、私たちは「空」という
本当の関係性に気づいてゆくのです。
ー 般若心経を唱え、「いのち」の響きのうちに少しずつ「私」を
霧消させてやすらぎを感じとってください。
・・・これは自分というものが真の意味で変革される最上の方法です。
・・・それ以外には人間の成長する道はないはずです。
と言う事で、著者は臨済宗のお寺の副住職として、修行のひとつとして
この般若心経を唱えることを薦めています。
そして、解説書ではなく、現代語訳とした理由として、
ー 著者自身が実感をもえる言葉に置き換えようとした。
ー 仏教学的な議論を持ち込まない。
仏教学の内部には収拾がつかないほど意見の違いがあるから。
ー 出来る限り祖師たちの文章も引用しないようにした。
ー 仏教が辿り着いた世界認識は、今のところ科学分野の成果とそれほど
大きな齟齬がないと思う。
ということを述べてあります。
私が歴史的背景から般若心経を理解したいと思っている限り、
この本はちょっとお門違いだったかもしれません。
一方で、真言宗のお寺の住職である宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」では、
「般若心経」は「心の大切さ」を説く経などでは全くない。
その反対に、「心というようなものはないのだ」ということが観察できる
4階というフロアがある、ということを説いているのみ。
と宣言しています。
少なくとも、この点においては、私が今読み終わった2冊の著者の主張は
やっぱり相反すると理解したほうがよさそうですね。
ちなみに、宮坂さんは、「今日から自分を変えられる本」というのを
出版しているようですから、何らかの教訓を得たり、人間として成長したい
向きにはそちらを読んでくれということでしょうか。
これで「般若心経」に関する本を二冊読み終わりました。
チャンスがあれば、3冊目、4冊目を読んでみたいと思っています。
お付き合い、有難う御座いました。
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