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2012年2月16日 (木)

松原泰道著 「般若心経入門」 4回目 - 人間性の教えか、真義の追求か

ここでは 松原泰道著の「般若心経入門」(祥伝社黄金文庫)を読んでいるの
ですが、先に読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)
と私なりの比較をしながら 勝手なことを書いています。

ーーー

松原氏のこの本が、一番力を入れているところは、「空」についてのようです。
その部分を拾い集めてみましょう:

ー 「空」、広辞苑には<よりどころのないこと>とあります。
ー つかみどころのない心だから、よりどころがないのです。
  ・・・実体がないため、何も得られなかった。 ・・・あるようで、
  ないようであるのが「心」の本質かもしれません。

ー 空しさを嘆くことから踏み込んで、空しさに徹するより方法は
  ないようです。 このことを般若心経は「色即是空」とわずか四字で
  ずばりと言いきるのです。

ー この形あるものを否定するところの、いわば「空しさ」いっぱいの情感が、
  空の持つ第一の意味
です。 この空しさを感ずるところに、人間の進歩も
  あるのです。

ー いったん否定した<色>をさらに空ずるという、二つの否定を経て
  人生を眺めようじゃないか。 そうしたら、別次の風光があるに違いない
  と教えてくれるのが「空」の持つ第二の意味です。

ー いまこそ空しさを知り、空しさに徹し、空しさに生きる「般若の知恵」を
  身に付ける絶好機です。

ー 般若心経は、「現実の空しさ、うつろさを徹底して実感せよ(色即是空)、
  すると、現実に生きる価値と意義が十二分に自覚できる(空即是色)」
  と教えます。

う~~ん、般若心経を「心」の意味にとらえると、「空」の概念が
このように理解されるんですね。

この「色即是空・・・」の部分を、一方の宮坂氏がどう解説したかといいますと、

ー 観自在菩薩が四階のフロアにおいて階下の舎利子に向って語っている
  言葉なのです。
  五蘊の「色」は三階(小乗仏教)のフロアで観察された言葉です。
  「空性」は四階(大乗仏教)のフロアで観察された言葉なのです。
  いずれも舎利子より下の世間のレベルとは無関係のところで示されている
  言葉です。

要するに、宮坂氏は、「色」を観察できるのは小乗仏教の出家修行者であり、
「空」を観察できるのはその上のレベルの大乗仏教の観音菩薩のレベルであって、
どちらにしても一般の人間の世間の話ではない、と言っているわけなんです。

それだからこそ、般若波羅蜜多という名前のついたマントラ(真言、祈りの言葉)
を唱えて修行することが必要だってことみたいです。

(この宮坂氏の「色即是空・・」の解釈については、こちら「般若心経」の本
 (12)「ダルマ」」とは? でチェックしてみて下さい。)
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-3ce7.html

ついでと言っちゃあ悪いんですけど、ここで、観音様や舎利子(シャーリプトラ)
のことをどのように描いているかを読んでみましょう。

赤コーナー、この松原泰道氏の本では:

ー 観自在菩薩は観音さまのことですが、偶像ではありません。
  「自在(由)を観ずる大いなる人間性」の象徴です。
  真の自由を得て人間らしい生き方を願う私たちの象徴そのものなのです。
  真実の自由・自在をあらわす観音さまは、現代人が要請する、深くて
  豊かなこころを持つ「人間像」にほかなりません。

ー 自由にして深い慈愛に富んだこころの眼のはたらきが、「人間の身に
  埋もれたままで存在している」と釈尊はさとられたのです。
  このはたらきを誰の目にもわかるように象徴的に示されたのが観音さまです。

ー 当時の舎利子は、修行もまだ浅いし、前の懐疑派哲学的なものの考え方
  の影も残っているので、知恵よりも論理的な知識のほうが旺盛です。
  こうした条件下の舎利子が、般若の知恵の象徴である観自在菩薩から
  「空」を語りかけられるというのが「般若心経」です。

ー それは観世音菩薩の発言という形での、現在の私たちへの釈尊の
  呼びかけでもあります。

次に、青コーナー、宮坂宥洪氏によりますと:

(下記は、以前に私が書いたブログの一部からです。)
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-87b5.html

アビダルマ研究者(論師)たちが、ダルマを永遠に存在するものと言い
出したので、より上位のレベルをつくる必要が出てきた。
そして、釈迦の真意を追求した結果、大乗仏教に到ったということのようです。

一番の問題点は、ダルマを実在のものだとしてしまったところにあった
と言います。

大乗レベルの観自在菩薩が、小乗レベルの舎利子に伝授するというのが
「般若心経」の中心場面として設定されたのだ、としているのです。

だから、「空を特徴としている諸法」というのは、「4階のフロアで観察した
諸法」
ということである。
従って、3階の小乗レベルでは「空を特徴としている」レベルではないので、
「不生にして不滅、・・・」と言うことにはならない、3階のレベルでは
「諸法は因によって生じ、また滅す」ということでしかない、としています。

・・・・

つまり、宮坂氏がいうアビダルマ論師というのが舎利子がいる小乗仏教の
レベルということになりますね。

そして、観音様については、宮坂氏は:

ー 「観自在」とは、文字通りには「観ること自在」という意味です。
  この方が得た境地というのは、ある高みにおける見晴らしの良い眺望
  ともいうべきものでした。

ー 何を観察するかというと、仏陀の示した法、すなわち仏法を観察する
  のです。 これを観法といいます。

ー インド哲学という場合、この「哲学」の原意は「観ること」です。
  ・・・いわゆるインド哲学というのは、すべて瞑想実践の中から
  生み出された体系なのです。

ー すなわち、観自在菩薩が諸法をどのように観察したかということが、
  まさに「般若心経」の中心場面となっているのです。

松原氏の言う「自在(由)を観ずる大いなる人間性」の象徴とは
かなり違った解釈になっていますね。

「自由を観る」のか「自在に観る」のか・・・・

松原氏は、般若心経の元々の真義はともかく、僧侶として人間性を見つめる
ことを庶民に説くという立場で書き、
一方 宮坂氏は、歴史的に今まで間違った解釈をしてきた学者や高僧を
含む仏教界の指導者に 般若心経を見直すことを訴えているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

    

   

   

   

   

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