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2012年7月27日 (金)

「亡霊のさまよう街 ― その2」 バギオの歴史

「亡霊のさまよう街 ― その2」

「これなんです。 バギオで死んだことしか 分からんのですよ。」

その細い紙切れには 西山義男がバギオで死んだ旨が二行書かれているに過ぎな

かった。

「どちらの部隊だったんでしょうか?」

「いや、それも分からんのです。 台湾の高雄からフィリピンに入ってレイテ島

に行ったかもしれないと言う事ぐらいで・・・。 熊本でいろいろ調べたんですが、

役所でもなにも分からないし、遺族会も無いようで、手掛かりは 最期はバギオ

というだけなんですよ。」

西山兄弟は二人共すっかり白髪である。 父親がバギオで戦死した当時、二人は

十歳と三歳であった。 

長男の義春には父親の想い出が残っていたが、三男の啓三には その面影すら

なかった。

「今まで 気がかりで、何度もフィリピンには来たいと思っておったんですが、

なかなか機会が作れんで・・・。 兄が身体が動くうちにと思って やっと来た

わけですよ。」

「それで、どこの師団で、バギオのどの辺りというのは・・・」

「いいや、それも・・・・。 それで、バギオとラ・トリニダッド辺りの戦没者

慰霊碑をお参りして回りたいんですが・・・。 ボントック道の21キロ地点

の慰霊碑の写真は あるんです。 

インターネットで探したんですが、どこかご存知ですか。 バレテ峠という

ところはどこにあるんでしょうか。 出来れば行ってみたいんですが。」

保にとっては、戦没者慰霊で知っていることと言えば、バギオのフィリピン大学

をちょっと下ったところにある「英霊追悼碑」がある庭園くらいである。

しかし、老兄弟は もうそこはお参りしてきたと言う。

事務所のフィリピン人に聞いてみると、バレテ峠はヌエバ・ビスカヤ州の

サンタフェ近郊にあるから、バギオから8時間くらい掛かるが、21キロ地点

なら分かると言う。 21Kという地名があるからだ。 

しかし、21Kという地区のどこなのかは分からない。

これは、事務所のフィリピン人に任せてエスコートしてもらうにはあまりにも

漠然としている。 

結局、バギオ日本人会の長老に慰霊碑の場所を聞き、保自身がエスコートする

ことにした。 

バギオに永住を決めた者としては、知っておく必要があった。

ある資料によれば、熊本で編制された師団は第23師団、通称「旭兵団」とある。

九州の門司港を出て、台湾の高雄経由でフィリピンに入っているという事である

なら、おそらくはこの師団なのであろう。 

資料によれば、この師団は昭和19年12月30日にかろうじて北サンフェル

ナンドに上陸したとあるから、バギオから車で一時間半ほど山を下ったビーチ

にあるラ・ウニオン州の州都サン・フェルナンド市である。 

マッカーサー総司令官率いる191,000名の兵力、艦艇36隻、輸送船

250隻、小舟艇500隻が押し寄せたリンガエン湾の 最前線に布陣する

こととなったのは、この旭兵団と 東北で編制された盟兵団であった。 

旭兵団の兵力は約3万人(生還5千人)、盟は1万3千人(生還1千名)とされる。

マニラからバギオへ向かう道は、今のガイド・ブックで見ると、マニラからの

高速道路を降りた辺りがアンへレスで、その後 ターラック、ウルダネタ、

ロサリオ、そして バギオへと向かうのだが、当時はマニラ街道と呼ばれていた

ようである。

ウルダネタの北から ベンゲット道の入り口であるロサリオの間には、

ウルダネタ・ビナロナン・ホソロビオ・シソン・ロサリオという町があるが、

マニラからバギオ行きの長距離バス ビクトリー・ライナーが休憩するのは

シソンである。

リンガエン湾を埋めつくし、今は海水浴客で賑わうサン・ファビアンの町に

上陸したアメリカ軍から見ると、旭兵団は ベンゲット道の右側を 

その師団司令部のあるシソンの町の奥に控える488高地を中心にして 

ビナロナン辺りまでに構え、 左側の標高2,330メートルのサント

トーマス山の一帯を盟兵団が陣取る構えになっていた。 

米軍の上陸地点を予測できなかった日本軍は迎え撃つ準備をする暇もなく 

挺身斬り込み隊で海辺の最前線を維持しながら 全長45キロのベンゲット道

の渓谷へ押し込まれていく。

米軍の上陸が昭和20年1月9日であり、旭兵団は2月25日に488高地から

ベンゲット道の渓谷にあるキャンプ3に撤退を開始している。

キャンプ3の日本兵「慰霊之碑」はベンゲット道(ケノン・ロード)のすぐ

道端にあって、鹿児島歩兵第七十一連隊会によって建てられた高さ3メートル

程の立派なものである。 日本から黒光りする石碑を運んだと聞いた。 

西山義春は 花を供えたその石碑の前にしゃがみ込み、日本から

持ってきた線香に火を点しながら背を丸めてうずくまった。 

弟の啓三は その兄の姿を後ろから見守るように立っている。 キャンプ3は

ベンゲット渓谷の激戦地であり、鹿児島や熊本の兵士が多く倒れていったのだ。

その石碑から20~30メートルのところに 頑丈な橋がかかった渓谷が流れ

ている。

老兄弟はその橋の上からブエド川の谷を覗き込み、そして対岸にそびえる

黒い岩肌を仰ぎ見る。

このキャンプ3の洞穴に身を潜め、ブエド川対岸の山の合間から米軍の兵士が、

そして戦車が現れるのを、マラリアに冒され、食糧もなく、傷ついた身体で

待ち構えていたかもしれない父親の姿を遠く想っていた。 

日本兵の中では「地獄の三丁目」と呼ばれたキャンプ3であった。

二人は、花と線香の後片付けを 石碑の管理人だという家の者に頼み、

チップを手渡し、ラ・トリニダッドへと向かう。

キャンプ3からケノン・ロードを登り、バギオの町を通り抜け、

ラ・トリニダッドの町へ入ると左右に開けた盆地の 正面のどんづまりが

州庁舎である。

そこから右へ曲がりくねった道路を登っていくと、バギオーボントックの

高速道路に入る前に日本兵の慰霊碑がいくつかあるはずであった。 

道の脇に、以前は日本人向けのごぼうを生産していた日系人の農業協同組合

があって、その前がちょっとした空き地になっている。 そしてその横に

急な坂道があって、それを下ったところにいくつか墓石があるとの話であった。

運転手のスナイダーが 沿道の店の者に聞いてみるが、日系人の協同組合

を知っている者がいない。 

やっと得た情報は、協同組合は今はなく、たしか保育所になっているはずだ

との話だ。  

ごぼうは日本人には栄養価の高い野菜として知られているが、戦時中 

フィリピン人の捕虜に食事としてごぼうを出したところ、「こんな根っこを

食わせやがって」と反感をかったという話が残っている。 しかし、

その保育所も見つからない。

プロパン・ガスの店に座っていた暇そうなおばさんが、日系人ならバリクタン

という人がブラック・ハウスと呼ばれる家に住んでいると話す。 

車を後戻りさせ 小さな三叉路でその名前を唱えると、

「バリクタンは私だよ。」という初老の男が現れた。

「バリクタンの前の名前は 加藤だったんだよ。 爺さんが日系だったもので、

ここに日本人の墓をつくって守っているわけですよ。 うちの姪っ子が日本に

住んだことがありましてね、日本語もしゃべるんで、ちょっと呼んできましょう。」

その姪っ子は 日本語と英語を交えながら、ここに日本人の墓が出来た由来を

話した。

バギオの日系人の中では シスター海野の名前を知らない者はいないであろう。

シスター海野は シスター上田とともに 戦後の迫害に怯えて北ルソンの山の

中に隠れ住み、満足な教育も受けられなかった日系人を 地道に歩いて捜し続け、

日本からの支援を集めて、日系人が助け合う北ルソン日比友好協会

(北部ルソン比日基金)を創設した人である。

そのシスター海野がバギオを中心とする山々を訪ね歩き、日本兵や日本人

戦没者の遺骨を集め、ここに納めることにしたのである。

その石碑には、「独立混成五十八旅団」「比島遺骨収集団」「虎歩兵第七十六

連隊・平和之碑」などが刻まれている。 58旅団は盟兵団であり、

虎とは朝鮮半島北部の羅南で編制された第19師団のことである。

昭和20年4月24日バギオ陥落。 バギオの南、ベンゲット道はキャンプ3

を死守していた日本軍だったが、バギオの西、ラ・ウニオン州のビーチである

バウアンの町から登ってくるナギリアン道は米軍の攻撃に耐えられなかった。 

米軍はベンゲット道から侵攻して来ると思い込んでいた日本軍は

裏をかかれた格好になった。 米軍は3月3日の時点で戦略の変更を決定していた。 

ここから日本人住民と日本兵の険しい山岳地帯への逃走が始まることとなる。

元々 山下泰文将軍が方面軍司令部を置いたのは、ケノン・ロードをバギオへ

登りつめた所にあるバギオ総合病院(BGH)であった。

そこにおよそ一千名の傷病兵を収容していたが、1月23日の米軍のジュウタン

爆撃によって、患者の多くが爆死。 その後の野戦病院でなんの治療もなく

寝かされ、バギオをかろうじて脱出できた傷病兵はおよそ一千名。 

バギオから北西方向へ向かうと ラ・トリニダッドまでおよそ5キロ、

さらにくねくねと北東へ進むと21キロ地点・山下道三叉路につながる。 

山下道とは、ボントック道の21キロ地点とヌエバ・ビスカヤ州アリタオを結び、

カガヤン渓谷の穀倉地帯を食糧の補給地として意図されたものだった。 

この21キロ地点・山下道との三叉路まで バギオから5日間もかかっている

のである。 しかも、到着できた患者は三百名弱。  周辺は屍が重なる地獄

と化していた。 

兵士たちはバギオを「地獄の四丁目」と呼んでいたから、すでにそこを通り

過ぎたことになる。 

「地獄の五丁目」と呼ばれたのはアンブクラオである。 アンブクラオは

バギオから東方向にあって、さらに北東のボコドの密林地帯へ迷い込む前には 

「三途の川」と呼ばれたアグノ河が横たわっていた。

ボコドの北方には、カバヤン さらに ブギヤスへと アンブクラオ湖の東側

を通る道があり、湖の西側を通るボントック道と ブギヤスの北で交差している。

その道の東側には北ルソン最高峰のプログ山、2,928メートルがその山麓

を広げている。 日本軍の最後の砦となったのはこのブログ山麓であった。

西山義男は 昭和19年10月8日深夜、サンフェルナンド港に到着した江尻丸

の中にいた。 義男が所属した熊本工兵23連隊は、昭和20年3月24日、

師団命令によりキャンプ3を死守していた鹿児島歩兵71連隊の指揮下に入った。

ブエド川を挟んだ対岸には米軍が迫り、孤立していた。 

すでに食糧の補給は途絶え自給自足であったし、医薬品などもなく補給もなかった。

野戦病院の傷病兵は頻繁な移動を強いられ、路傍に動けなくなるものが飢餓地獄

を呈するようになっていた。 

4月16日、歩兵71連隊と 義男のこの工兵連隊に対し、米軍が押し寄せて

いるナギリアン道にあるイリサンへの急行命令が出る。 義男はキャンプ4から

バギオ市街を通り抜けイリサンへ向かった。 

イリサンを挟んで、北を盟兵団、南を旭兵団と虎兵団が守る形ではあったが、

すでにちりじりになった兵士たちが、山岳地帯へ退くところをバギオの日本軍

の検問所で捕捉され、最前線に送り返される状態となっていた。

方面軍司令部はすでにバギオを離れ、ナギリアン道には米軍の戦車が日本人

墓地のある公営墓地に迫り、フィリピン人ゲリラが市街で動いていた。 

ここでも孤立する恐れがあった。 義男の工兵連隊は戦車隊の進軍を押し

とどめる為に、片側が断崖になっているナギリアン道の破壊を行ったのだが、

日本兵がそれまで見たこともなかった米軍のブルドーザーが なんなく補修

して進入して来た。 

日本人墓地から谷を隔ててナギリアン道の戦車隊に狙いを定めていた歩兵

連隊もなすすべがなかった。 

日本軍の編制は完全に崩れ、対戦車の肉弾特攻隊すらも浮き足立っていた。

4月23日、師団司令部から歩兵71連隊に対して、バギオ東側地区を占領し、

第一線部隊の後退を援護の後、アンブクラオに集結の命令が下る。 

これはバギオ放棄の命令であった。 義男の工兵連隊も、

ついに「地獄の五丁目」アンブクラオへの逃避行が始まった。 

バギオの東側地区には、現在、展望台のあるマインズ・ビュー・パーク、

夏の大統領官邸と呼ばれるマンション・ハウス、その前にある乗馬で

観光名所のライト・パーク、そして米軍の保養地キャンプ・ジョンヘイなどがある。

そのライト・パークの前にあるロータリーからパクダル地区へ入る道が 

アンブクラオ道である。 

工兵23連隊は キャンプ3の洞穴にいた去る4月11日夜、キャンプ3に

迫っていた米軍に対しての攻撃命令を受け、義男は切込挺身隊の一人として

キャンプ2に回って米軍の背後を遮断する作戦に参加した。 

周り中に米兵がいる接近戦、手榴弾の投げ合いで義男の左手首が吹き飛んでいた。 

イリサンにはなんとか付いてきたものの、 義男は二日前からマラリアに

冒されていた。 おまけに、食べるものなど疾うの昔になかった。 

バギオの師団司令部跡に放棄された倉庫には、ワインや食糧など

があるとの噂も流れたが、義男が口にすることはなかった。 現地徴発の

米や芋にしても、義男の手元にはもうなかった。 小銃には弾丸が12発。 

薬などは野戦病院を転々としても手に入るわけもなかったし、病院に入ったら

最後、死ぬのを待つばかりだと言う事も分かっていた。 

西山義春と啓三は、バギオ・ベンゲット高速道路を21キロ地点へと向かっていた。

運転手のスナイダーは「21Kならすぐに分かりますよ、大丈夫です。」と請合った。

フィリピン人の「大丈夫です」程あやしいものはない。 保は助手席に座って

そう思っていた。

バギオーボントック道の料金所を通って、20分ばかり走った右側に、店が数件

あって小さな横道がある。その向い角にサリサリストアがあるとの情報だった。

スナイダーはそれを目標に必死に目をこらしてどんどん進む。

「道路の標識は21Kを過ぎちゃってるよ。 いいの?」

「ええ、大丈夫です。 21Kってのは地区の名前なんで、道路の実際の

キロ数は23キロでも24キロでも地区名は21Kなんですよ。」

スナイダーの答えはもっともらしかった。

しかし、行けども行けども店らしいものが並んでいるところがない。

「もう29キロだけどな・・・本当にいいの?」

山が切り取られ両側が壁になっている所までくると、さすがにスナイダーも

不安になってきた。 

もう30キロを超え、その先にはただ道路だけがありそうな雰囲気である。

「すみません、ちょっとあの店で聞いてきます。」

小さな作業小屋なのかドライブインなのか分からないような店にスナイダーは

入っていった。

「ちょっと戻らないといけないみたいです・・・」

この辺りは、おそらく標高1,600メートルくらいなのだろう。 

道は尾根道であるから、左右に視界が開けている。 遠くに広がる山々を

眺めながら、保は立ち小便をしていた。

「はい、了解。 じゃあ、戻りましょう。」

「これが、21Kの慰霊碑の写真なんですが・・・。役に立ちますかね。」

義春と啓三は 車の中で心配そうに書類を取り出した。

インターネットなどから得た記事や写真を丁寧に貼り付けてある。

慰霊碑の写真は 十字架の上に花などが飾られているものだった。

尾根をひとつ越えて戻ると、展望のいいところにポツンとサリサリストアが

あって、お婆さんが店先でいねむりをしている。 

「あのお婆さんに聞いてきます。」

スナイダーは写真を持って車を飛び出した。

「もっと戻ったところに、この十字架があるそうです。」

「あそこに左に入っている道がありますね。 あそこみたいです。」

「よかった、よかった。 それじゃあ・・・」

さて、そこに着いて、左に入った道を歩いてみるが、「入ったら10メートル

くらいの右側にある」はずの慰霊碑がない。

「もう一度聞いてきます。」

「・・・・・」

さらに戻ること数キロメートル。 道がカーブしているところにサリサリ

ストアがあった。

「この店の裏にありました。 ありました。 こっちです。」

スナイダーの嬉しそうな顔。

店にいた数人の男たちが 何だなんだと顔をだす。

西山兄弟は、やっと その21キロ地点に立った。

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注記:  このシリーズ中、戦争関係の資料については、

      鹿児島の「歩兵第71連隊史」や 高木俊朗著「ルソン戦記」

      (文春文庫)、

      その他 いくつかのインターネットで得た資料を参考にしております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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