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2012年7月27日 (金)

「亡霊のさまよう街 ― その3」  フィリピン バギオ

「亡霊のさまよう街 ― その3」

寄りかかった洞窟の壁から 私の背中には米軍の砲弾の振動が伝わってくる。

私はナギリアン道の洞窟の中で、義春と啓三のことを想っていた。 

義春は小学三年だが 責任感の強い優しい子だ。 家で飼っていた子猫が

近所の野良犬に咬まれた。 

気づいた時には傷口にウジが湧いていた。 義春は泣きながらそのウジを

一匹一匹小さい指でつまみ出し、泣き腫らした目を服の袖で拭いていた。

消毒液を何度も何度も塗りつけた。 しかし、数日後に 

その子猫は死んでしまった。 それ以来、義春は動物を飼おうとは言わなくなった。

啓三は、まだ三歳である。 妻の貴子を困らせてばかりで、気が強い。

元々あまり出が良くなかった貴子の乳を欲しがっては、今でも乳首を噛み

切らんばかりに甘える。 

貴子は、「痛たたたたっ! なにも出ないわよ。困った赤ん坊だ。」と

笑いながら、片手に薄い粥のおわんを抱えていた。 結婚前に看護婦だった

貴子は、病人と子供の扱いには慣れていた。

洞窟がにわかにざわつき始めた。 私はふっと我に返った。

「転進だ! 転進だぞ!」

4月24日。 いつ撤退するのだろうと皆がじりじりしていたのだが、

やっと夜になってからの撤退命令である。

私はなんとか体を起こした。 我々の隊はこれからバギオの東地区で

抗戦しながら、アンブクラオまで後退するはずである。 

その日は、夜になっても米軍の攻撃が収まる気配はなかった。

洞窟をふらふらっと出ると、眩しいまでに米軍の照明弾が周りを照らし出し、

砲弾が恐ろしい唸り声をあげながら降り注いで来る。

周り中に私と同じようにマラリアに侵され、体中に傷を負った傷病兵が

ごろごろとしているが、体を起こせる者は数えるほどしかいない。

先を争って撤退する兵士たちは、既に死んでしまった者や起き上がれない

者たちに 蹴つまづきながらバギオ市街へと走り出した。

バギオ市街を通り抜け東地区へ到達するのは容易なことではない。

ナギリアン道を少しくだり、セント・ビンセント教会の前を登り、三叉路を

右にアバナオ通りをバギオ市役所を右に見ながら下り、市営市場の付近から

今度はバギオの目抜き通りであるセッション通りを登りつめ、レオナルド・

ウッド通りを下って又登りライト・パークまで歩かなくてはならない。

そのライト・パークの先を登ると、夏の大統領官邸と呼ばれるマンション・

ハウスがあり、さらに登って行くとマインズ・ビューの丘につながる。 

このマインズ・ビューには七百人もの日本兵が道の側溝に埋められている。 

一月二十三日の米軍の大空襲によってバギオの陸軍病院が壊滅状態となり 

傷病兵や病院関係者が死んでいるのだ。 そこの傷病兵は朝食を食べたあと 

山の中に退避し、昼食時にまた病室に戻ったところを米軍のグラマン、

ロッキード、そしてB29の猛攻の餌食となってしまったと聞いていた。

右方向には日本軍のバギオでの拠点となったキャンプ・ジョン・ヘイがある。 

マンション・ハウスから その周辺にかけて我々の工兵連隊はあちこちに

壕掘りをしていた。 おそらくその付近でバギオ最後の

抗戦をすることになるのだろう。

たかだかライト・パークまでは4キロほどしかないが、やっと起きた体には、

果てしない遠さである。 

それも、照明弾の下 砲弾が降り注いでいる。 道筋は、あちこちで火の手が

あがり、燃え上がった商店建物が崩れてくる。

「お願いします・・・、 連れて行ってください。 おねがいします・・・」

と消え入りそうに叫ぶ路傍の傷病兵たち。それに耳を塞いで、置き去りに

しながら、自分だけは生き延びなければならない・・・。

野戦病院からも火の手があがり、逃げられない八百人の重症患者が毒殺された

と噂が流れてくる。 

バギオ市内は大混乱状態となっていた。 東地区に行ったところで、

命令書どおりの抗戦が出来るとは思えない。 私は、火の粉の舞う

セッション・ロードの坂道を、マラリアの熱に襲われながら、

ころがる死体の間を這うように登った。 

登りきったところで、振り返ってバーンハム・パークを見下ろすと、

通ってきた市役所方面から左の南側山筋にもあちこちで炎が上がり、

照明弾が煌々とそれらを照らしている。

逃げようとする東方面にも既に火柱は上がっていて、とても任務どころでは

なくなっている。 

日本人は北のラ・トリニダッド方面か、北東の山伝いに山岳地帯へ逃げる

しかなかった。 

「ライト・パークから アンブクラオ道を逃げるしかないな・・・。」

私は既に連隊からはかなり遅れて歩いていた。 とにかく、自分の連隊が

集結するアンブクラオまでは・・・。

「こんな処で死ねるもんか・・」「貴子・・・、た・か・こ・・・・」

私は、朦朧としながら妻の名前を念仏のようにつぶやいている。 

そうでもしなければ歩けなかった。

ライト・パークに私がなんとか到着したのはもう真夜中を過ぎたころだったろう。

逃げ遅れた傷病兵や日本人住民が、破壊された教会を左にみながらパクダル

地区に入り、アンブクラオ道の入り口をぞろぞろと登っていく。

アンブクラオまでは直線距離でも16キロくらいある。 まして、

くねくねの山道、尾根をいくつも越えて行かなくてはならない。

倍以上歩かなくてはならないだろう。 さらにアグノ川を渡って、

数キロ先に行けば、インティカクに野戦病院が置かれていると聞いていた。 

「インティカクまで行けば、少しは残った薬で治療をしてもらえるんじゃないか? 

あちこちから部隊が集結してくるからな・・・」 

気休めだとは分かっているが、道端でぐったりしている私に、となりに

座って休んでいた鹿児島弁の兵隊が私の左手首を見ながら言った。 

高井熊二郎というその男は、ベンゲット道キャンプ4からの脱出組であった。

「夜が明けたら 米軍が押し寄せて来るぞ。 とにかく、山の中に早く

逃げ込むことだな。」

高井は、そう独り言のように言いながら山道の暗闇に消えていった。

「こんなところでは、死ねない・・・・」

私は その兵隊の後を追うように ふらふらと立ち上がった。

ここからが、死の山道になるとは、私にもまだ分かってはいなかった。

アンブクラオ道の入り口から二キロ程、二百メートルほどの高度差を登ると 

アンブクラオ道のピーク、およそ1、660メートルの標高に達するが、

それからアグノ川のあるアンブクラオまでは 下り坂で、

谷底までおよそ一千メートルを下っていくことになる。

「とにかく、朝までに行けるところまで行こう。 この道なら米軍の戦車

が入ってくることはない。夜が明けるまでは 眠ってはだめだ。」

私は自分に言い聞かせていた。

昼間は米軍の戦闘機が機銃掃射をしてくるのである。 どっちみち道筋を

歩いてはいられない。 

それに、私には洞窟の中で久々に配給された 親指ほどの小さな芋が五本

あるに過ぎなかった。 

昼間は山の中に潜り込んで 食糧も探さなくてはならない。

キャンプ3のブエド川あたりで米軍と向き合っていた3月末ころには、

熊本工兵23連隊の小隊には15名ほどがいただけで、交替で食糧調達を

やっていた。 

しかし、山岳地帯でもあるし、畑があったにしても近場の畑にはもう

小さい芋も残ってはいない。

一旦出かけると三~四日は掛かるほどの作業になっていた。 それでも、

一日二食に指ほどの芋が2~3本配給されるに過ぎなかった。 

調達係は、調達したものを全部小隊に持ってくるわけではない。 

一部を自分自身のために隠しおくのは皆がやっていることだった。 

目の前にブエド川があるから、蛙でも見つかればいいのだが、対岸には

米軍がいるのであるから、死にに行くようなものだった。

小隊が潜む洞穴では、米軍に見つかるのを恐れて、排便も洞穴内でやっていた。

しかし、ほとんど喰ってもいないのだから、毎日排便するということもなかった。 

食べるものはなんでも残さず胃腸に吸収されてしまうような状態だ。 

おまけに、小便ですら出すのがもったいないような気持ちになっていた。 

しかし、なにか喰わないことには体力がもたない。 我々は それまで

米と芋とその葉っぱをうすい雑炊にして食べていたが、今は米など一粒もない。 

何か別に喰えるものを探さなくてはならない。

夜明けにはアンブクラオ道のピークまではと思い坂道を登り始めたのだが、

そう簡単ではなかった。 

米軍の照明弾で時折明るくなるとは言え、深夜の山道だ。バギオ市内への

砲撃でいっせいに逃げ出した住民や兵士、傷病兵が この道にも押し寄せている。 

小さな子供連れもいる。 日本人もフィリピン人も日系人も。 

持ちきれない物を抱えた者もいる。 着の身着のままの者もいる。 

私は ぐにゃりと気持ちの悪いものを踏んだ。 

「うう・・・」と呻き声。

足元を見ると、歪んだ顔が照明弾に照らされてちらちらと光った。

「あっ・・・。」

私は 四十度くらいの熱に朦朧となりながら、乾ききったかすれた声でつぶやいた。

ここまで来るのがやっとだったろう。 痩せこけた兵士が道のあちこちに倒れて

いるのである。 

死体なのか、まだ生きているのか。 それが分からないまま、その身体を

避けながら、そして踏みつけながら、私は歩かなければならない。

もくもくと無言で坂を上る息づかい。 時折子供の泣く声。 そして足元の

呻き声。

私の脳裏には、義春と啓三、そして貴子の顔が替わるがわる現れていた。

「ここから先は 下りだぞ。」

誰かがそう言うのを聞いたのは 遠くに連なる山々が白み始めるころであった。

私は、道を左にそれて林の中に三十メートルばかり入った。木の根っこが

這っている岩に背中を預けて、どすっと座り込んだ。 私は意識を失う

ように眠り込んでしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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