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2012年8月27日 (月)

「ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ   

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んで
きました。原始仏教のお釈迦様の言葉です。

さて、この本は私にとって何だったのか

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元々は、私の親・家が浄土真宗だったので、まずは親鸞さんの考えを
学ぼうと「教行信証」解説本から入り、
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/06/post-8b94.html

法然さんの浄土宗関連で阿弥陀経の解説本を読み、
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/11/post-cafd.html

大乗仏教の日本での超人気本「般若心経」の解説本を読み、
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-e49a.html

一足飛びにお釈迦さんの時代、小乗仏教よりも前の時代を知りたくて
「ブッダのことば」を読んでみました。

前回(41)でピックアップした抜き書きを念頭に
私自身が仏陀の教えをどのように受けとめたかを整理してみます。

<お釈迦様は信仰、仏教をどう考えていたのか>

1. 仏陀本人はバラモン教時代のインドにあって、自ら仏教の
開祖になるというようなことは考えてはいなかった。
最初期の仏教は<信仰>なるものを説かなかった。 
何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかった
からである。

2. 洞窟や木の下で座禅・瞑想し、真理を求め、解脱することを
願う修行僧たちに、解脱の方法を問われるままに教えていた。

9. 解脱の意味が、バラモン教では死んでから行くところだった
ものが、仏教においては精神的な解脱の意味になった。

11. 釈迦にあっては、信仰は「理法に対する信頼」を意味しており、
個人に対する熱狂的服従ではない。

32. 釈迦は徹底した自力の立場を表明した。
わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ
得ないであろう。 ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、
そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。

ー やはり、本物の開祖と言われる人は、自分で意図的に宗教団体を
  創ったりはしないってことなんでしょうか。
  弟子と目される人たちが、当人の思想を素晴らしいと認めて
  引き寄せられるように宗教が生み出されて行くのでしょうね。

ー 仏教の場合は、お釈迦様に対する信仰でもなかった。
  それは、お釈迦様が説いた解脱の方法、理法にあったようです。

<古代インドでのお釈迦様の立ち位置>

19.釈迦の前にも 如来と呼ばれる人たちがいたらしい。

28. 釈迦は 従来の宗教を否定していた。
一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの
(宗教的)行為をも捨てて「清浄である」とか「不浄である」とかいって
ねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。
--安らぎを固執することもなく。

30. 病、餓え、気候変動などを耐え忍ぶことを求めているが、
釈迦自身 戦争については恐怖を感じている。

31. 祭祀をすることは煩悩である。 
供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。
伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、
わたしはそなたに説き明かすであろう。 その理法を知って、よく
気を付けて行い、世間の執著を乗り超えよ。

ー お釈迦様が生きていた時代のバラモン教の中にあって、
  その教条的な宗教を否定して、体得、実感できる解脱を
  追及していたように思えます。
  又、釈迦が認めた先達としての如来もいたのでしょう。

<どんな修行をしていたのか>

4. 修行については、「中道」の考え方であって、過激な修行は
不要であるとしている。

14. 座禅をして、瞑想し、
「戒律の規定を奉じて、五つの感官を制し、そなたの身体を観ぜよ
(身体について心を専注せよ)。 切に世を厭い嫌う者となれ。」

18.在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。
ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)と見て、
釈迦は出家した、とされる。

ー もちろん、中道の考え方は、過激な修行を実行したお釈迦様
  だからこその結論なのでしょうね。
  座禅、瞑想こそが修行の中心だったのですね。

  五感を研ぎ澄まし、それを制御して、自分の体が何ものかを
  観察し、そこには何も実体がないことを実感しろという
  ことでしょうか。
  認識論を頭で理解するのではなく、体感、体得するというのが
  座禅、瞑想の意味のような気がします。

<お釈迦様の思想>

3. 「空」の考え方は仏陀自身にあって、「事物のうちに堅固なものを
見出さない」
と言う言葉がある。
すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、
かれの存在するありさまを知っている。 すなわち、かれは解脱していて、
そこをよりどころとしていると知る。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を
空なりと観ぜよ
。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。

10.人間の迷いの世界である「世間」には五種の欲望の対象があり、
意(の対象)が第六であるとされる。
これらに対する貪欲を離れることによって、苦しみから解放されると
している。

16. 四諦と十二処
「究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに
見て、あらゆる(生存を構成する要素)を滅しつくすが故に、かれは
正しく世の中を遍歴するであろう。」
「究極の境地」=「四諦」
「あらゆる変化的生存の領域」=「十二処」

24.自分などというものはこの世に存在しない。
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、
<名称と形態>(個体)に執著している
。「これこそ真理である」
と考えている。
「般若心経」に出てくる 自分は五蘊(ごうん)である、と言えるか。
「釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教において
 アートマンの用語は一般的ではないと思われる。」

ー 座禅で自らの体を観察して、自分などというものは存在しないことを
  体得できれば、すべての感覚、現象は常に変化するもので
  あるのだから、それに悩まされるという苦しみから解放される
  ことが出来る、ってことになりますか。
  逆に言えば、その感覚、現象に執着するからこそ
  世間は煩悩に溢れているのだと。

<解脱の方法>

17. 釈迦は、在家・出家に限らず「煩悩を除くための修行法」を
教えた。

23. 悟りを得るために、
第一の観察法:「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こる
        のである。」
第二の観察法:「しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」

33. 安らぎの境地、ニルヴァーナ。
「ウパシーヴァよ。 よく気をつけて、無所有を
めざしつつ、「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ
諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する
欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
即時に効果のみられる、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の
消滅>、をわたくしに説示しました。

ー 無明とは無知であることですから、お釈迦様の言う理法を知って、
  何も存在しないのだということが体得できれば、妄執を消し去って、
  安らぎの境地、すなわちニルヴァーナを得られるってことですね。
  それも、即効ですよって営業トークまでありますね。

<出家修行者の理想像>

5. 出家修行者のあり方については、
妻、子供、家族、親戚、世間との一切の接触を断ち、「独り」で
村はずれの洞窟や木の下に住み 一切の所有をしないことを求めている。
最初期の仏教修行者は住居とか臥床というものをもっていなかった。
さらに、せいぜい毛布か布にくるまって寝ていただけ、とも書いてあります。。

6. 食事は托鉢で得ることを前提としているが、
村人にどのような感情を抱かれ、何を言われようとも、喜びもせず、
恨みもせずに、淡々と乞食をすることを是としている。
又、食事の内容や量、あるいは、有無についてすら、超然とした
態度であることを求めている。

7. 惰眠、集会、怠惰、怒り、そして色欲は破滅への門である。

25. すべてを受け入れ、こだわらず。
修行者は、見たことと・学んだこと・思索したこと、
または戒律や道徳にこだわってはならない

27. ひきこもりのホームレスか?
家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことの
ない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく
人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

8. カースト制度のインドにあって、「生まれによって賤しい人と
なるのではない、行為によって賤しい人となる」としている。

ー もう、これは、最近の日本の社会現象用語で形容するならば、
  ひきこもりのホームレスじゃないでしょうか。
  もっとも、ただ独りという意味においての「ひきこもり」であって、
  出家の意味で「ホームレス」ってことですが。
  食事については、修行者の場合は、托鉢ですけど、
  日本のひきこもりは 家族に持ってきてもらうってことになりますね。

  しかし、私はどうも、この托鉢ってのが良くわからないんです。
  なぜ修行者は山の中で自給自足でもやらないんでしょうね。
  托鉢ってのは、結局世間との関わりの中でしか成立しないのに。
  もともとあったバラモン教の中での修行者を支える社会構造が
  そのまま継承されたということなんでしょうか。

  日本で増え続けるひきこもりの人たちを、仏教はなんらかの仕組みで
  普通のこととして受け入れることが出来るような気もするんです
  けどねえ。

  ひきこもって、インターネットで一喜一憂して煩悩を増幅させる
  よりも、山野で座禅、瞑想する方が安らぎの境地に入れるんじゃ
  ないかと思うんですけど。

<在家生活上に関わるお釈迦様の考え方>

12. 肉食や乳製品は許されているが、生き物を殺すこと、
打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、騙すこと、
邪曲を学習すること、他人の妻に親近することは「なまぐさ」だと
された。

15. 占いと医術はやってはいけない。
当時のインドの医術はヨーロッパよりも科学的で高度であったのに。
 
13. 賢者と交わり、愚者とは親しまない。
心の安住している人が賢者である。

20.正しい方法でお金を儲けたら、修行者に喜びをもって供物を
与えたらよい。 梵天界に生まれるという功徳が得られる。

21. 子供が死んでも嘆くのは良くない。
人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。
亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人であれ

22. 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
おしゃべりは紅蓮地獄に落ちる。

26. 親鸞さんは これかな?
かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、
車が道からはずれたようなものである。 世の人々はかれを「卑しい」
と呼び、また「凡夫」と呼ぶ

29. 見ざる、聞かざる、食べざる・・・
眼で視ることを貪ってはならない。 卑俗な話から耳を遠ざけよ。
味に耽溺してはならない。 世間における何ものをも、わがものである
とみなして固執してはならない。

ー 牛は当時のインドにおいては、家族同然だともありました。
  肉食妻帯はダメっていうのが仏教と思っていましたが、そうでも
  なさそうなんですね。

  占いや呪術などはいけないってのは分かるんですが、当時世界
  最先端であったインド医術もダメだったんですね。
  お釈迦さんは自然治癒力の信奉者だったようです。

  基本的に友達を作るなって言っているんですが、修行の友、
  それも賢者が相手ならば良いとなかなか厳しい交友選別です。
  世間にあっても、おしゃべりや集まりは避けるべきもののようです。
  
  出家だからということでもなく、子供が死んでも嘆くのは
  意味がないってお釈迦さんは言うんですけど、普通に考えれば
  かなり冷たい人間ってことになりますね。
  現代人が宗教に期待するものとは かなり違う感覚です。

  色欲に関しては、かなり厳しい見方ですね。
  親鸞さんが悩むわけです。 凡夫、愚禿親鸞ですもんね。

  
  
さて、なんとなく「まとめ」てみました。
これが私の中で 今後どのように発酵していくか分かりませんが、
仏教の原点を少しは知ることができたので、これをベースにして、
仏教の歴史的な流れに沿って、小乗仏教、大乗仏教、中国での
浄土教、日本の法然さんの浄土宗、そして親鸞さんの浄土真宗への
一筋の系譜を辿っていけるような気がしてきました。

それでどうすんだ? って聞かれても困るんですけど、
最初のきっかけは バギオ周辺の日本人戦没者の慰霊で
少しはまともな心でお経が読めるようになりたいってことと、
バギオ在住の邦人に万一のことがあった際に 心を込めた
読経ができればいいな、と言うことも片隅にありました。

・・・ってことで言うと、般若心経と阿弥陀経ぐらいは
暗記できるように練習しなくちゃいけないっすねえ。
困った・・・・

このシリーズの(1)に戻る場合は、こちらへどうぞ:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-b443.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリピン バギオ 宗教 原始仏教 禅宗 座禅 自力 他力本願  釈迦から親鸞まで

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コメント


こちらのサイトをみると、御釈迦さんが実際にどんな座禅なり瞑想をしていたかというのは難しい問題で、いろいろと説がありそうですねえ・・・・

http://blog.goo.ne.jp/tensho-ji/e/7929cb802efe0778800ab75958cc9580

投稿: させ たもつ | 2013年12月23日 (月) 00時21分

スマナサーラさんのサイトは見たことがあるけど、原始仏教は日本でいきなり
というのはかなりハードルが高いとおもいますねえ.

確かに、原始仏教は出家のもので、 一般は托鉢に応じるということで
いてもらわなくちゃ困る・・・みんなが出家になったら社会的に成立しない.


浄土っていうのは、wikipediaによれば、
「「浄土」という語は中国での認識であるが、思想的にはインドの初期大乗仏教の
「仏国土」がその原義であり、多くの仏についてそれぞれの浄土が説かれている。」
となっているから、多分原始仏教・上座仏教では、自分の為の修行なんでしょう.


自分の理解では、原始仏教・上座仏教は自分の為だけで、
その後大乗仏教で他も救済するとなったけど、あくまでも修行であって、
日本では法然さんの浄土宗までは 戒律と修行があったわけなので、
親鸞さんの浄土真宗との間には 断絶ともいえるような飛躍があったんだと
思う.

つまり、それまでは戒律・修行で自己の研鑽というのが主たるもので、
その後は「信仰」ということになった・・・

ヴィパッサナー瞑想というのは初耳だけど、座禅と瞑想の違いすらわかりません・・・

wikipediaでは 「さまざまな流儀のものが存在するが、共通するのは「今という瞬間に
完全に注意を集中する」ということである。何をしていても「今・ここの自分」に気づい
ていく。この「気づき」(サティ、sati、梵smṛti、英語mindfulness、漢語「念」)が、
この瞑想のもっとも大切な技術である」

と書いてあるのを見ると、最近仕入れた右脳・左脳の働きで安直に考えて、
おそらく右脳を働かせる瞑想ってことになるのかなあ・・・などと思います.


投稿: させ たもつ | 2013年12月23日 (月) 00時01分

原始仏教(=上座部仏教)には日本で布教活動してるスリランカ人のおぼうさんのスマナサーラ長老という人の本がきっかけで興味をもちました。お釈迦様の言葉を伝えた初期のものということで、このスッタニパータは私も買いました(が、一部読んだのみ)。犀の角のようにただ一人歩め、のところは結構人気があるけど、そのスマナサーラさんによればこれは出家者向けの言葉だとも…。人の死に関しては原始仏教では人として逃れられない生病死苦の一つだから、それは理として受け入れろってことで、他の宗教で死後の世界があり死者は魂としては生きてるとかいうのは妄想でありまやかしだというような扱いのようです。そこからすると、念仏を唱えれば浄土にいける思想を持つ浄土宗系はキリスト教に近いというのはよくわかりますね…。あと、修行の手段として日本の仏教出版界では「ヴィパッサナー瞑想」がここ数年以上ポピュラーで、多分あれこれ文章で読むより瞑想方法を学んで実践する方が理解が早いのかなと思います。

投稿: かおり@中野 | 2013年12月21日 (土) 17時29分

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