「ブッダのことば」(スッタニパータ)中村元訳(41)読み終わりました
岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。
(40)まで書いて、本の次のページをめくったら、
巻末の「註」のページでした。
これで、一応 「ブッダのことば」は読み終わったってことになります。
・・・で、何が書いてあったんだ?
それで、ほとんど何を読んだんだか忘れているってことに気が付きまして、
(1)から(40)までを読み返してみます。
2012年2月19日に読み始めたこの本、半年がかりになりました。
読み返して、心に残った、あるいは、ひっかかったところを拾いあげて
みます:
私なりの勝手な結論は(42)で。
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(1)釈迦の初期仏教の時代
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-b443.html
ブッダ(釈迦)はこのような単純ですなおな形で、人として歩むべき道を
説いたのである。
かれには、みずから特殊な宗教の開祖になるという意識はなかった。
修行者たちも樹下石上に座し、洞窟に瞑想する簡素な生活を楽しんでいた
ので、大規模な僧院(精舎)の生活はまだ始まっていなかった。
(2)歴史のおさらい
ー 真理に関する論議は盛んになされているけれども、・・・
「四諦」の説とは何の関係もない。
ー 歴史的人物としてゴータマ・ブッダ(釈尊)の逝去(西紀前383年頃)
ののちに、仏弟子たちはその教えの内容を簡潔なかたちでまとめ、
あるいは韻文の詩のかたちで表現した。
(3) <空>の思想と <中道>の思想、そして「ただ独り・・」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-196f.html
「この世と かの世とをともに捨て去る。 -- 蛇が脱皮して旧い皮を
捨て去るようなものである。」
この「事物のうちに堅固なものを見出さない」というのは、つまり<空>で
あるということである。 <空>の思想は、最初期にまでたどることができる
のである。
「走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく」は、
「努力精励しすぎることもなく、また怠けることもなく」の意。
つまり中道の思想を説いている、と書いてあります。
「子を欲するなかれ。 況んや朋友をや。 犀(さい)の角のように
ただ独り歩め。」
(4)出家はもちろん、在家も厳しい
仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。 また子らに対する情愛は
甚だ大である。 愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角の
ように ただ独り歩め。
「善い友だち」なるものは、世俗から離れるという方向において一致して
いたのである。 ・・・もしも聡明なる友を得たならば、共に行ぜよ、
もしそうでなければ一人で遍歴せよ、と言う事
諸々の味を貪ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、
戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のように
ただ独り歩め。
(5)妻も子も仲間も捨てよ。 孤独を愛するインド人?
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-eb3e.html
妻子に対する愛恋は堅固な束縛である。 このような観念の故に
聖者は子をもたない。 たとい結婚して妻子のある人でも、それに対する
愛着をすてて出家すべきである。
(6)お釈迦様の托鉢とは。 四種の修行者とは。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-23ae.html
私にとっては、信仰が種子である。 苦行が雨である。 智慧がわが
くびきと鋤とである。 はじることが鋤棒である。 心が縛る縄である。
気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである。
当時の聖者たちの説いていること、真理を、釈尊はただ伝えただけに
すぎないのである。
かれには<仏教>という意識がなかったのである。
(7)破滅への門
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/03/post-1a14.html
「睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励するこっとなく、怠りなまけ、
怒りっぽいので名だたる人がいる、---これは破滅への門である。」
「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房の
ある若い女を誘き入れて、かの女についての嫉妬から夜も眠られない、
-- これは破滅への門である。」
(8)賤しい人。 バラモン教の神。解脱。
「怒りやすくで恨みをいだく、邪悪にして、見せかけであざむき、
誤った見解を奉じ、たくらみのある人、--かれを賤しい人であると知れ。」
「生まれによって賤しい人となるのではない。 生まれによって
バラモンとなるのではない。 行為によって賤しい人ともなり、
行為によってバラモンともなる。」
神々の道ーー神々の道とは「リグ・ヴェーダ」では神々が天界から祭場へ
往来する路、あるいは死者の霊が神々のもとへ赴く路を意味した。
解脱って言葉が、死んでから行くところだったものが、
仏教においては精神的な解脱の意味になったということのようですね。
(9)世間の欲望
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/03/post-105c.html
「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると
説き示されている。 それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち
苦しみから解き放たれる。」
「世間」っていう言葉ですけど、解説には
「人間の迷いの世界、迷っている人々をいう。」とありますよ。
(10)信仰とは。 托鉢で文句を言ってはいけない。
「この世では信仰が人間の最上の富である。 徳行に篤いことは安楽を
もたらす。 実に真実が味の中で美味である。 智慧によって生きる
のが最高の生活であるという。」
信仰を意味する原語はいろいろあるが、saddhaというのは、理法、教えに
対する信頼を意味するのであって、個人に対する熱狂的服従ではない。
「他人から与えられたもので生活し、(容器の)上の部分からの食物、
中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)
ほめることもなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の
賢者は、かれを、<聖者>であると知る。」
(10)-2 なまぐさ坊主
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/03/post-fc8d.html
「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、
詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、
--これがなまぐさである。 肉食することが<なまぐさい>のでは
ない。」
(11)友とは。 幸せとは。
「恥じることを忘れ、また嫌って、「われは(汝の)友である」と
言いながら、しかも為し得る仕事を引き受けない人、--かれを、
「この人は(わが)友に非ず」と知るべきである。」
「諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を
尊敬すること、--これがこよなき幸せである。」
知識に乏しく、計算や才覚が下手でも、心の安住している人は
賢者なのである。
「修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ
(ニルヴァーナ)を体得すること、--これがこよなき幸せである。」
在家であっても「安らぎ」は得られる。
(12)牛と乳製品
「もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、
獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、
自分の塵汚れを増す。」
恐らく世俗の世界においては
カーストを容認して、高い立場から見るとカーストの上下関係は無意味である、
ということを言おうとしたのであろう。
「母や父や兄弟や、また他の親族のように、牛はわれらの最上の友である。
牛からは薬が生ずる。」
「牛から生ずる五味をいいう。 すなわち乳と酪と生酥(ショウソ)と熟酥
(ジュクソ)と醍醐をいう。」
(13)嫉妬
「未だことがらを理解せず、嫉妬心のある、くだらぬ人・愚者に親しみ
つかえるならば、ここで真理(理法)を弁え知ることなく、疑いを
超えないで、死に至る。」
「嫉妬心のあるーー師が弟子に対して嫉妬心があり、弟子の成長発展に
堪えられないことをいう。 この点では、原始仏教が主知主義的また
貴族主義的表現を愛好していたことが知られる。 そうしてこの点で、
原始仏教は、ストアの哲人を思わせる。」
(14)座禅をしなさい。 息子にも平等に。
起てよ、座れ、って言っているのは「しっかりせよ」「足を組んで
禅定を修せよ」という意味で、「眠っては駄目」ということなんだそうです。
「神々も人間も、ものを欲しがり、執着にとらわれている。 この執着を
超えよ。 わずかの時をも空しく過ごすことなかれ。 時を空しく
過ごした人は地獄に墜ちて悲しむからである。」
「戒律の規定を奉じて、五つの感官を制し、そなたの身体を観ぜよ
(身体について心を専注せよ)。 切に世を厭い嫌う者となれ。」
「世俗社会の階位的秩序あるいは勢力関係が出家者の教団の内部に
入り込むおそれは、仏教の最初期から存在していた。ゴータマ・ブッダは
それを恐れていたのである。」
(15)「生」っていうのは「悪魔の流れ」ってことですか?
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/04/post-1267.html
「師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する
妄執を断ち切ったのである。 長いあいだ陥っていた悪魔の流れ
を断ち切ったのである。」 五人の修行者の最上者であった
尊き師はそのように語られた。」
「ここで仙人とはブッダをいう。 釈尊(ブッダ)が世に出る以前に過去に
六人のブッダが出て、釈尊は第七人目にあたるという。」
(16) 占いはだめよ! 四諦と十二処
「師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを
完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を
遍歴するであろう。」
「究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに
見て、あらゆる(生存を構成する要素)を滅しつくすが故に、かれは
正しく世の中を遍歴するであろう。」
「究極の境地」とは「四諦」のことと理解されているようです。
又、「あらゆる変化的生存の領域から」については「十二処」と
考えられているそうです。
(17) 出家は ホームレスの引きこもり ?
智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。 ・・・教えを聞く人は
家から出て出家する人であろうと、また在家の信徒であろうと、
どのように行うのが善いのですか?
お釈迦さんは在家であろうが、出家であろうが、「煩悩を除くための
修行法」を教えたということなんですね。
修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、
ひとりで退いて、ひそかに座れよ。自己を制して、内に顧みて
思い、こころを外に放ってはならぬ。
正しい法(に従って得た)財を以って母と父とを養え。正しい商売を
行え。 つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、
(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。
修行者は「われらは、森に住む者、托鉢して食物を得る者、
残食が鉢に盛られるのを楽しむ者」・・とあります。
最初期の仏教修行者は住居とか臥床というものをもっていなかった。
さらに、せいぜい毛布か布にくるまって寝ていただけ、とも書いてあります。
(18) なぜホームレス(出家)になったのか
在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。
ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)と見て、
出家されたのである。
自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれたことばなのである。
お釈迦様が ただ一人の仏さんかと思っていたら、そうじゃないんですね。
過去仏とか未来仏とかいう概念は あとの時代の大乗仏教の話かと思って
いたんですけど、既に その布石になるような諸仏のことが原始仏教にも
既にあったと理解していいんでしょうか。
「自己を自己なしと見て、かれはそのとき解脱する」、
それを認めることなくーー自己を実体としてそこにあると認めることなく、
の意であろう。
(19) 金儲けと お金の使い方
修行者は、ただただ托鉢をして、食物を在家の人たちからいただくんだけど、
それは 何かに対する報酬としていただくわけではない、ってことなんです。
修行者に、乞食に、托鉢の修行僧に、食物をあげるのは在家の務めらしいん
です。
実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した
<全き人>がいる。--そのような人々にこそ適当な時に供物を
ささげよ。
修行者に供物を与えるときに、心から喜びをもって与えれば、
梵天界に生まれるという功徳が得られる、ということのようです。
(20) 子供が死んでも泣くんじゃない
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/05/post-f318.html
内的には差別的<妄想とそれにもとづく名称と形態>とを究め知って、
また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である
束縛から脱れている人、--そのような人が、まさにその故に
<知り尽くした人>と呼ばれるのである。
泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。
ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。
亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
煩悩をなくす、悲しみを超越するということが、いささか「冷たい人間」に
なることのように響きませんか?
(21) 絆を断て!
身を稟けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだ
ではこの区別は存在しない。
人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、
とらわれることのない人、-かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。
人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、
(22) おしゃべりな奴は 紅蓮地獄におちるぞ、ってさ。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/06/post-b49f.html
人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
口穢く、不実で、卑しい者よ。 生きものを殺し、邪悪で、悪行を
なす者よ。下劣を極め、不吉な、でき損いよ。 この世であまり
おしゃべりするな。 お前は地獄に堕ちる者だぞ。
村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)
冷静に、高ぶらずにふるまえ。
かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで
瞑想し、大いにみずから満足すべきである。
(23) 悟りを得るには
第一の観察法:「これは苦しみである。 これは苦しみの原因である。」
第二の観察法:「これは苦しみの消滅である。 これは苦しみの消滅に
至る道である。」
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起こる
のである。」
第二の観察法:「しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、
苦しみの生ずることがない。」
第一の観察法:「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こる
のである。」
第二の観察法:「しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、
苦しみの生ずることがない。」
この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように
輪廻してきた。 しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの
生存に戻ることがない。
「苦しみは食料の縁から起こる」と、この禍をしって、一切の
食料を熟知して、一切の食料にたよらない。
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、
<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真理である」
と考えている。
「非我なるもの」=名称と形態=仏教では、両者で個人存在を意味すると
考えられた(漢訳では「名色」と訳す)。
「般若心経」に出てくる
自分は五蘊(ごうん)である、と言えるか。
つまり、自分は「色、受、想、行、識」そのもの である、と言えるか。
って言うところに繋がりそうですね。
(24) 執着しないと、ぶれてしまう?
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/06/post-ab05.html
実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。 また他人から聞いた
ことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。 誹ることばが
起こっても、聖者はそれに近づかない。 だから聖者は何事に
ついても心の荒むことがない。
諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの論議(誹り、噂さ)
を受ける。 (偏見や執著に)たより近づくことのない人を、
どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?
(25) すべてを受け入れ、こだわるな。
ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」
と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真理に達した人々>
は語る。それ故に修行者は、見たことと・学んだこと・思索したこと、
または戒律や道徳にこだわってはならない。
智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見を
かまえてはならない。 自分を他人と「等しい」と示すことなく、
他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか
考えてはならない。
聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、
憎むこともない。悲しみもものおしみもかれを汚すことがない。
たとえば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。
(26)凡夫とは。 論争は何の役にもたたない。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/06/post-8601.html
かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、
車が道からはずれたようなものである。 世の人々はかれを「卑しい」
と呼び、また「凡夫」と呼ぶ。
かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の
教えは清らかでないと説く。 「自分が依拠しているもののみ善で
ある」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。
これらの論争が諸々の修行者の間に起こると、これらの人々には
得意と失意とがある。 ひとはこれを見て論争をやめるべきである。
称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。
(27) 釈迦は宗教を否定?
「教義によって、学問によって、知識によって、
戒律や道徳によって清らかになることができる」とは、わたくしは
説かない。 「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、
戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる」とも
説かない。 それらを捨て去って、固執することなく、こだわる
ことなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。
(これが内心の平安である。)
家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことの
ない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、
人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。
「祭祀や儀礼が宗教にとって本質的なものであるという見解に従うならば、
原始仏教は宗教を否定しているということになる。」
(28) 非難されても・・・ 「我」は存在せず。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/07/post-ff29.html
快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、
信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して
(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を
特に気にかけることはない。 それ故に、かれは論議されても、
動揺することがない。
争闘と争論と悲しみと憂いとものおしみと慢心と傲慢と悪口とは
愛し好むものにもとづいて起こる。 争闘と争論とはものおしみに
伴い、争論が生じたときに、悪口が起こる。
「愛執にもとづく断定と誤った見解、すなわちアートマンがあると思う見解
にもとづく断定と、二種あるという。」
「釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教において
アートマンの用語は一般的ではないと思われる。」
名称と形態とに依って感官による接触が起こる。 諸々の所有欲
は欲求を縁として起こる。 欲求がないときには、<わがもの>と
いう我執も存在しない。 形態が消滅したときには<感官による接触>
ははたらかない。
(29) 一切の断定を捨て、論争に組しない。
一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中
で論争をなすに至る。 一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で
確執を起こすことがない。
一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの
(宗教的)行為をも捨てて「清浄である」とか「不浄である」とかいって
ねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。
--安らぎを固執することもなく。
(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない
また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。
それ故に、諸々の論争を超越している。 他の教えを最も勝れたものだと
見なすこともないからである。
聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、
党派にくみすることがない。 かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、
泰然として、執することがない。
ー 他の人々はそれに執着しているのだが。-
(30) 我思う、故に我あり。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/07/post-3b81.html
師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる
不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。 内に存するいかなる妄執をも
よく導くために、常に心して学べ。
近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす
第一歩であった。 しかし古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、
むしろ制し、滅ぼされるべきものであった。
眼で視ることを貪ってはならない。 卑俗な話から耳を遠ざけよ。
味に耽溺してはならない。 世間における何ものをも、わがものである
とみなして固執してはならない。
(31) 占いも、医術も ご法度です。
食物や飲料や硬い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。
またそれらが得られないからとて心配してはならない。
わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いと
を行ってはならない。 鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったり
してはならぬ。
(31)-2 古代インドの医術とは
B.C.6c頃、インドの医学は古代諸文化・民族中、技術も科学性も最高位であった。
ギリシア医学との共通点は多いが、多くの点で特に外科では遥かに進んでいる。
中世ヨーロッパよりインド医学の方が遥かに科学的で優秀である。
お釈迦さん自身も 相当に医術を学んでいたとあります。
(32) お釈迦様も恐怖した戦争
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/07/post-1591.html
殺そうと争闘する人々を見よ。 武器を執って打とうとしたことから
恐怖が生じたのである。 わたくしがぞっとしてそれを厭い離れた
その衝撃を宣べよう。
世界はどこも堅実ではない。 どの方角でもすべて動揺している。
わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみ
などに)とりつかれていないところを見つけなかった。
(33) 生命の危機にも平然と
病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶ
智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。
奥まった土地に臥す不快に堪えよ。 次の四つの憂うべきことに堪えよ。
すなわち「わたしは何を食べようか」「わたしはどこで食べようか」
「(昨夜は)わたしは眠りづらかった」「今夜はわたしはどこで寝ようか」
--家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。
他人からことばで警告されたときには、心を落ち着けて感謝せよ。
ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。 善いことばを発せよ。
その時にふさわしくないことばを発してはならない。 人々をそしることを
思ってはならぬ。
(34) 呪いをかけられたバラモン
「無明が頭であると知れ。 明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力
とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」
「無明」=「無知の意。 しかしここではもう少し深い根柢的な意味に
解されている」とあります。
「悪いことをすると、その報いとして、その人の頭が砕けてしまうという
教えが古ウパニシャドのうちにしばしば述べられていて、それを受けて
いるのである。
すなわち仏教以前のバラモン教では、分を超えて論議をする人、不当な
ことをする人は、首が落ちてしまうと考えられていた。」
「アジタよ。 世間は無明によって覆われている。 世間は貪りと
怠惰のゆえに輝かない。 欲心が世間の汚れである。 苦悩が世間の
大きな恐怖である、とわたしは説く。」
(35)祭祀をやるってことは、煩悩の最たるものだって
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-c8d0.html
ブンナカよ。 かれらは希望し、称讃し、熱望して、献供する。
利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。
供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。
世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺する
ことなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、
-- かれは生と老衰とを乗り越えた、--と、わたしは説く。
実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに
近づく。 だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、
再生の素因(=執著)をつくってはならない。
伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、
わたしはそなたに説き明かすであろう。 その理法を知って、よく
気を付けて行い、世間の執著を乗り超えよ。
(36) お釈迦様は 他の人たちを助けることはできない
ドータカよ。 わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ
得ないであろう。 ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、
そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。
「ここでは、徹底した<自力>の立場が表明されている。 仏は、
人々を救うことができないのである。」とあります。
「釈尊はバラモン階級の出身ではなかったけれども、理想的な修行者と
見なされていたのであろう。」とあります。
「理法と呼ばれているものは、真理と訳して差し支えないが、それは事実認識の
表象内容としての真理ではなくて、実践的認識としての真理なのである。」
師(ブッダ)は言われた、「ウパシーヴァよ。 よく気をつけて、無所有を
めざしつつ、「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。
諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)
数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して
滅びてしまって、 (存在する者としては)数えられない のである。
(37) 解脱、ニルヴァーナの安らぎの境地、その方法。
わたしは「すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている」
と説くのではない。 この世において見解や伝承の学問や想定や
戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをも すっかり捨てて、
妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々ーーーかれらは実に
「煩悩の激流を乗り超えた人々である」とわたしは説くのである。
この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する
欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは
学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない。
(38) 願いのない人が 聖者である。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-fb8a.html
かれは願いのない人である。 かれはなにものをも希望していない。
かれは智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようとはからいする人
ではない。 トーデイヤよ。 聖者はこのような人であると知れ。
かれは何ものをも所有せず、欲望の生存に執著していない。
いかなる所有もなく、執著してとることがないこと、---これが洲
(避難所)にほかならない。 それをニルヴァーナと呼ぶ。
それは老衰と死との消滅である。
過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。 未来には何ものも
ないようにせよ。 中間においても、そなたが何ものにも執著しない
ならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
平静な心がまえと念いの清らかさ、---それらは真理に関する
思索にもとづいて起こるものであるが、---これが、無明を破る
こと、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。
(39) 世界を空なりと観ぜよ
物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも
「なにものも存在しない」と観ずる人の智を、わたくしはおたずねする
のです。 シャカ族の方よ。 そのような人はさらにどのように
導かれねばなりませんか?
すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、
かれの存在するありさまを知っている。 すなわち、かれは解脱していて、
そこをよりどころとしていると知る。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を
空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は見ることがない。
(40) 生存に戻るな 信仰を捨てよ
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-58dc.html
ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、
そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは
怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないように
せよ。
即時に効果のみられる、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の
消滅>、をわたくしに説示しました。 かれに比すべき人はどこにも
存在しません。
「ニルヴァーナは即時に体得されると考えていたのである。」とあります。
(師ブッダが現れていった)、
ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去った
ように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。 そなたは死の領域の
彼岸に至るであろう。 ピンギヤよ。
恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗教の教条(ドグマ)に対する信仰を捨てよ、
という意味なのであろう。
最初期の仏教は<信仰>なるものを説かなかった。
何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかった
からである。
・・・・
さて、皆さん、思い出していただけたでしょうか?
私なりのまとめは次の回で。
フィリピン バギオ 宗教 原始仏教 般若心経 小乗仏教 大乗仏教 南伝 北伝 釈尊 お釈迦様 ブッダ ゴータマ 座禅 瞑想 禅宗 浄土宗 浄土真宗 法然 親鸞
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コメント
田隈様
ご案内いただき有難うございます。
目次の中で興味を引かれたところは:
「人類の家族と類人猿の家族」
「野生動物の煩悩」
「ブッダの悟りは日本人に不向き」
などでした。
最近は、分子生物学や、さらには素粒子論的な仏教の本がないものかと思っております。
===
このたび、ドーキンスの「利己的な遺伝子」と最古の仏典「スッタニパータ」を基礎として、「愛とは何か 悟りとは何か」というタイトルの本をアマゾンから電子出版致しました。ついでの折にでも、アマゾンで、本の紹介と目次等をご笑覧下さいますれば幸甚に存じます。
ドーキンスの「利己的な遺伝子」から「愛の原型は、子育てにおける親の利他的行動」、また「スッタニパータ」からゴータマ・ブッダの反生物的、反社会的な悟りをそのまま素直に受け取り、これこそ、心安らかな死を迎える人生哲学、との認識に至りました。付録として、スッタニパータの5章全72経の概要をつけております。
投稿: 田隈泰信 | 2018年8月 2日 (木) 20時31分
村石太マン&公共施設を これ以上つくるなと思う男 さん
「女 だます」で「原始仏教」とは 随分大胆なつながりですね。(笑)
「仏陀の教えは 原始仏教なのだろうか」というのも理解しにくいですね。
「仏陀の教え」とおっしゃるのは現代における仏陀の教えという意味ですか?
あるいは、現代「原始仏教」と呼ばれている、研究対象となっている文献、経典のことをおっしゃっているんでしょうか?
いずれにしても、面白い論立てですね。
投稿: させ たもつ | 2013年2月13日 (水) 20時58分
女 だます で プログ検索中です
仏陀の教えは 原始仏教なのだろうか?
厳しい戒律は 現在 生きる人間には とうてい難しいことかなぁ。仏陀が 今のこの社会に 生きていたら
何を注意するのだろうか
宗教研究会(名前検討中
投稿: 村石太マン&公共施設を これ以上つくるなと思う男 | 2013年2月13日 (水) 20時11分