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2012年10月 4日 (木)

「二つの仏教」 大澤真幸著 : 不純だから広く受け入れられる?

サンガジャパン発行 2012春 Vol.9「上座仏教と大乗仏教」の
雑誌の中から、社会学者である大澤真幸著「二つの仏教・分岐の必然性」
というのを読んだんです。

で、インドのカースト制度の続きなんですけど、

ー 菜食主義のバラモンは、・・・浄性の程度が高い・・・  
  バラモンは、生き物を殺さないこと、いかなる富にも執着を
  もたない
こと、この二つによって、食物連鎖や贈与の連鎖から
  距離をとり、浄性を維持している。

ー 不浄性の程度が大きくなると、その分、カーストやヴァルナの
  ヒエラルキーの低位に位置づけられる。

・・・とは言いながら、バラモンばかりじゃ社会システムは
成り立たないから、それを維持するには武力が必要なわけですね。
それが王ー戦士であるクシャトリヤなんです。

ー バラモンを定義している第一の要件「生き物を殺さないこと」に
  対する例外として登場する。

・・・これが、「例外を伴う普遍的規定」なんです。
同様に、生産活動、富にたいする条件でも、

ー バラモンを定義する第二の要件「富に執着しない」に対する
  例外のゆえに、・・・クシャトリヤよりも不浄性が高くなる集団・・
  ヴァイシャである。

ー さらに下には、動物を殺したり、死体を扱ったりといった、
  不浄性(例外性)が極大に達する活動に従事しなくてはならない
  社会的な層がある。 それが最下位のヴァルナ・・・

ー 基本的な論理は、普遍性(普遍的な浄)に例外を付していく
  という方法にある。

・・・さて、カーストのこのようなランク付けとは別に、
インドの興味深い慣習があると言うんです。
インドでは広く普及している独特のライフコースだというんです。

それは、「四住期」 と呼ばれるもので、

学生期: 師を見つけ、その下でヴェーダを学習
家長期: 家長として家族を守り、カーストに定められた仕事に従事
林住期: 森に住み、ヴェーダを唱えながら苦行
遍歴期: 乞食をしながら遍歴し、ヴェーダの復唱に専念

・・・これは男が前提のようですけど、このような四つの段階を
辿って人生を終える、ということなんです。
こういう慣習は、マヌ法典 というものに規定されているそうなんですが、
それよりも前からあった慣習なんだそうです

かのブッダも、この慣習に従って林住期に出家したんじゃないかと
いう話です。

ー マヌ法典の成立に先立つ時期に、多くの禁欲主義者たちが
  現れた、ということを示唆している。

ー 林住者として・・・苦行に励むにとは、「神の道」を通って
  ブラフマン(宇宙原理)に達する
が、村で祭式儀礼等を
  行っている者たちはブラフマンに到達できず、この世界の中に
  再生する(つまり輪廻する)ことになる・・

ー 禁欲主義(菜食主義)は、この連鎖から離脱することを
  意味しているのだ。

ー 人々とコミュニケーションをとることは、ほとんどの場合、
  他者に、負の贈与をなすことにつながるーーつまり他者に
  苦痛を与えたり、迷惑をあけたりする。
  仏教的な表現を使えば、・・・悪業を積むことを意味している

・・・おおおお、人としゃべったりするのは悪業ですってよ。
参ったな・・・。
「口は禍の元」って言葉もありますけどねえ・・・

そして、この四住期というライフスタイルにしたって、
家長期の部分は「例外」の時期だっていうことです。

普遍的には、浄く正しく生きる人生なんだけど、家族を養わなくては
いけない期間だけは例外扱いしているわけですね。

いいんじゃないですかね、こういう人生も。
出家だけじゃ社会システムとして成り立たないから、こういう
例外を設けたってことになります。

まあ、いい加減っちゃあいい加減ですけど、現実の世界ですからね。

そして、このシステムの限界があったんで、

ー 仏教が原型のままでは、救われざる多数派に寄生することで
  少数派のみを救う小さな乗り物にとどまることに
、仏教徒自身が
  不満や引け目を感じていたからに違いない。

ー すべての人が全員、林住期・遍歴期のみの人生を送るわけには
  いかず、・・・

ー ごく普通の生活ーこれが仏教の観点からはむしろ「例外的な生」
  ということになるのだがーを送っていたとしても、なお
  仏教的な普遍性に従って、覚りや解脱を目指して修行している
  と解釈することができる。
  上座仏教は、こうした解釈に立脚しているのではあるまいか。

・・・上座仏教(小乗仏教、部派仏教)が多くの信者を集めている
理由はこういう「例外規定」に
あるんじゃないかってことですね。

著者の「要約」は以下のとおりです:

「(多くの)例外を伴う普遍性」という原理において、例外を排した
普遍性(浄性)を追求したのが、大乗仏教である。
大乗仏教は、純化した「普遍性」の内に収容しうる社会的な
領域や生の領域をできるだけ拡張しようとしたが、それには限界が
ある。 ・・・・・
それに対して、上座仏教は「例外」もまた、広義の「普遍性」の中
にある、という点に着眼している。
「例外」の方こそが、社会的には一般的なので、上座仏教は、
一つの社会の全域に浸透することができたのである。

・・・なるほどねえ。  ずるいなあ~~。

そういう意味なら、「憲法九条」も ずるいなあ~~、って話ですよね。
もし、この理論が正しいとするならば、政治的右翼にとっても
憲法九条は今のままの方が便利だってことになりませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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