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2012年11月25日 (日)

井上靖「天平の甍」を読む。- 16  鑑真は奈良の都へ。仲麻呂は・・・

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

さて、沖縄から北へ 鹿児島に向かって出航します。

p168
その翌朝南風起こって、三船はただちに、半月停泊した阿古奈波島
発した。 が、発航して間もなく、先頭を進んでいた清河の第一船は
座礁して動かなくなってしまった。

・・・第一船から合図があって、第二船、第三船はかまわず出航する
ことにした。
・・第一船では乗員ことごとくが船から降りて浅瀬にたち、そのうちの
何十人かが離礁作業に従事しているのが見えた。

なんとなんと、大使が乗った一番大きな船がいきなりの座礁です。

p169
普照の乗っている第二船は・・・
終日暴風雨に見舞われ、一同は生きた気持ちもなかった。 午後浪の上に
山頂を見た。薩摩の国の南部の山であろうという舟人の言葉で、乗員全員
がわずかながら生色を取り戻した。

そして、普照は夢とも現実とも分からないものを見るのです。

p170
船は何回も波濤の山に上り波濤の谷に落ち込んだ。
普照の耳には何回も業行の叫び声が聞こえ、普照お眼には何回もおびただしい
経巻が次々に透き通った潮の中へころがり落ちて行くのが見えた。

p170
この日の午後、第二船は薩摩国阿多郡秋妻屋浦(薩摩半島西南部の漁村)
へ着いた。

p171
上陸すると、副使古麿を初め遣唐使の一行は時を移さずただちに大宰府に
向かって出発した。

やりました、やりました、鑑真さん、普照さん、ついにやりました。
九州に到着です。

p171
二十年ぶりで故国の土を踏んだ普照の眼には、故国の自然が小さく見えた。
山も、川も、森も、平原も、そして平原に散らばる人家の聚落も、何も
かおがひどく小さかった。

たしかに、これは分かるような気がします。
中国大陸にせよ、アメリカ大陸にせよ、アホみたいに広いですもんねえ。
日本はまさに盆栽の国かな?

p171
普照は鑑真の一行とともに二月一日に難波に到着した。
・・・一行は三日河内の国にはいった。
・・翌四日、一行は・・・大和の平原を降って平群の駅に至った。
・・一行はただちに奈良の都を目指した

p172
東大寺にはおびただしい出迎えの人が群がっていた。 
武人もいれば、公卿も、僧侶もいた。

・・大仏は一作四年四月に開眼供養を行ったばかりで、まだ全面には
鍍金がかけられていず、半造りの感じであった。
普照はこんどの清河たちの遣唐使の使命の一つが、この大仏に塗る金を
得ることであると聞いたことがあった・・・・

そして日本国内の事情も二十年前とはすっかり変わってしまって
いたんです。

p175
宗教界そのものの事情もこの二十年の間にすっかり変わっていた。
普照が渡唐する当時は、課役を免れる目的で百姓の出家が多く、これが
大きい社会問題となっていたし、行基を指導者とする一派が民衆の
間に根強い力を持ち始めて、そこから来る混乱が全国的に広がっており、
・・・いかなる法律も無力であった。
・・・しかし、民衆の支持を得た行基は・・・ついに大僧正に任じられる
に至ったが、・・・数年前にはこうじていた。
・・・強権をふるう人物は相次いで物故し、・・・前回の遣唐船で
日本へ来た異国の僧たちがその学才を認められて替わって登用されるに
至ったのであった。

p176
伝戒の師を求めるということには、二つの意味があったが、
・・・政治的と言うべき意味は完全に解消し、今や授戒伝律はまったく
宗教的の問題だけになっていた。

さて、普照と鑑真一行は 無事に奈良の都についたのですが、
他の船はどうなったかっていうと、

p176
第二船に少し遅れて、副使真備の第三船は同じく薩摩の国に漂着したが、
大使清河の第一船と、判官布勢人主の第四船の消息はまったくわから
なかった。

p177
三月十七日に、・・・大宰府が使いを阿古奈波島に派して調べたところ、
清河らは帆を挙げて奄美を指して去ったが、その後のことは不明であると
いうそれだけの知らせであった。

p178
この日本での最初の天子の授戒が行われてから十日ほどして、・・・
第四船が薩摩国石がき浦に到着したという報がはいった。

あきらめていた第四船が日本に到着。
大使や業行の第一船も まだまだ希望があるということになったわけです。

p179
五月、鑑真は唐土から持ってきた如来の肉舎利三千粒を初めとして、・・
将来品を宮中に献じた。

p180
大使清河の第一船の消息は長いこと日本には伝わらなかったが、
その遭難の噂が唐の長安に伝わったのは天平勝宝六年(天宝十三年)の
夏のことである。
・・・しかし、清河、仲麻呂はその翌天勝宝七年六月に、十余人の
生存者とともに都長安にはいって来た。
・・船は遠く安南のかん州沿岸に漂着し、大部分の乗員が土人に襲われたり
病没したりしたが、・・・かろうじて身をもってのがれて来ることが
できたのであった。
生存者の中に業行の姿はなかった。

・・・しかし、こういう情報が日本に伝わるのに、それから4年も
掛かったって言うんですから・・・・

う~~ん。 分からん。
第一船は沖縄までは到着していたのに、そこから流され流されて安南国
そして中国に逆戻りってのが 不可思議ですよね。
安南国ってベトナムのことみたいです。

ベトナムのかん州というのがどの辺りが分かりませんが、
沖縄から台湾を通り越して、フィリピンのず~~と西、
鑑真が流された海南島よりもずっと西の海ですからねえ。
むちゃくちゃ風任せの航行だったんですね。

こちらのサイトで、ベトナムと「日本との関係」を見ていただくと
当時の安南は唐が支配していたとあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 
それに、風任せというより、海流で流されたようですね。

阿倍仲麻呂さんの人生・・・波乱万丈ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%80%8D%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82
なんと「ベトナムに赴き総督を務めた」とあります。
結局日本への帰国はならず中国で亡くなったんですね。

さて、肝心の鑑真さんは、その後どうなったんでしょうか。

==その17へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

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