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2012年11月22日 (木)

井上靖「天平の甍」を読む。- 12  栄叡の志を継ぐものはだれか・・

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

p111
(栄叡と普照)現在二人にわかっていることは、今自分たちは広い唐土の
南端から、さらにまた南方にある島の
、しかもそこのいちばん南の端の
一河口に身を置いているということであった。

鑑真は・・・無表情に押し黙っていた。
その表情からはいかなる感情も、いかなる意志もまったくうかがい知ることは
できなかった。

p112
祥彦、思託以外の僧たちは明らかに栄叡と普照の二人に冷たい眼を
向けていた。 二人の日本僧のために、どうして自分たちはこのように
何回も死ぬ目に会わなければならぬのかといった気持ちを露骨に
顔に現していた。

p113
一行の宿舎は正式に大雲寺とさだめられ、鑑真初め三十余人の者は
その寺へはいった。 ・・・伽藍も境内もひどく貧しく見えた。
ことに仏殿は荒廃して、いつ倒壊するかわからぬような状態にあった。

鑑真たちは、土地の工人たちを指揮して、仏殿を作る工事を始めた

日本への将来品のすべてを、仏具も、仏像も、経典も自分たちが八か月を
過ごした大雲寺へ納めた。
・・・業行から預かってきた写経の箱二個もこの寺へ納めることにした。

あ~あ、日本へ行くはずがとんでもなく南の海南島に流れてしまい、
日本へ持っていくはずの物すべてをそこの小さなお寺に納めてしまうって
ことになったわけですが・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F
こちらのサイトによれば、748年に5回目の渡日のために出発したのが
748年で、揚州に戻るために海南島を出たのが751年ってなっている
んですよねえ。 一回漂流しただけで、3年ぐらいは流されたところで
うろうろすることになってしまったんですね。

p114
普照ばかりでなくたれの眼にも万安州までの四十余日の行程は栄叡には
無理に見えた。 けっきょく鑑真の勧めで、栄叡は海路を取って先回り
して乗船地崖州に向かうことになり、普照が彼に付き添っていくことに
なった。

・・・ここで、崖州っていうのは、まだ海南島の中なんです。
そこまでが四十日ですもんね。
しかし、この崖州の南蛮寺で、栄叡は寝込んでしまうんです。

p116
(鑑真一行が)この開元寺へはいってから三日目に、街に大火が起こり、
開元寺も類焼の厄に会い、一同は焼け出されの身の上となった。

大使張雲に乞われて、鑑真はここで寺の再興に当たった
・・仏殿、講堂、塔等の伽藍をつくらねばならず、その材木の入手が
一苦労であった。
・・・新しい伽藍が竣工すると、鑑真は登壇受戒し、律を講じ僧を度した。

多年にわたる流離の生活の中に少しも傷つかず、その行く先々で
寺を建て、戒を授け、人を度す和上が仏陀そのものに見えた。

・・これは、本当にそう思いますよね。
漂流の身であるのに、その先々で伽藍を建てるなんて。凄いことです。
この一行が修行僧の一団だからできることなのでしょうか。
もっとも、日本へ渡る目的は、様々あって、この一行が日本に
仏教はもとより唐の様々な文化や技術を持ち込むという集団であった
からできたことなんでしょうね。

p118
一行は振州に漂着依頼一年余の歳月を過ごした海南島を離れて
海に浮かんだ。

p119
鑑真の一行は久しぶりで大陸の土を踏んだ。
・・雷州から羅州、・・・桂林に到着した。
桂林からは湘江を舟で下って江南へ出る予定であった。
・・・ひとまず渡日を断念したうえで選んだ高弟であった。

そしてなぜかこの桂林で一年足らず滞在ということになっちゃったみたいです。

p121
蘆換は唐代の一流の名族、・・・玄宗の信任の厚い人物であった。
蘆換は・・鑑真一行を広州へと迎えしめた。

p122
一行が土地の役人に導かれて竜興寺の門をくぐったときはすでに
死は栄叡を取り巻いてしまっていた。
寺にはいった栄叡の亡骸を前に、鑑真はその枕頭にすわって
さながら生ける人間に対するように言った。

「・・・広州からの招きに応じたのは、叡の健康が回復したので、
江南へ帰る代わりに広州へ行って日本への船便を得ようと思ったため
である。しかし、いまやすべてはむなしいことになってしまった。」

開元二十一年(天平五年)に入唐してから十七年を経ている。
普照は一行の中でいまやただ一人の日本人であった。

普照自身にしてもこの八年間の流離の日々はまったく栄叡に引きずられて
来ていたと言ってよかった。

さてさて、こちらの年表でご確認ください。
http://coolrip.b.ribbon.to/tokyo.cool.ne.jp/jiangnanke/jianzhen/jianzhen_nianbiao.htm
鑑真さん一行が広州に向かったのは 751年になっています。
742年に鑑真さんが渡日を決意したとあります。

p124
(広州の)婆羅門の寺へ行ったとき、普照はこの寺に日本僧が半年ほど
前より止宿していることを聞いて、ひどく懐かしい気持ちがして、
・・・見出した人物は思いがけず戒融であった。

戒融も・・・前歯が二本抜けていたので、笑うと多少妖怪じみて見えた。

だんだん日本人に会うのがいやになる。 故国の土を再び踏むまいと
決心した者には、故国の匂いを持っているものはなべていやなものだ」

戒融は梵僧といっしょに暮しているためか、何から何まで梵僧臭く
なっていた。

・・・ひさびさにあった流浪の托鉢の日本僧戒融ですが、もう唐を飛び越えて
インドの坊さんに成りきっていたわけですね。

フィリピンに住んでいると、いろんな日本人の方がいらっしゃるんですが、戒融と同じように日本人に会うことが鬱陶しいと思う人もいるようです。 まあ、分らないでもないですけど・・・

==その13へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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