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2012年11月21日 (水)

井上靖「天平の甍」を読む。- 9  密航・・そして座礁。 鑑真は・・

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

だれも「私が日本に行く」とは言わない、鑑真の弟子たち。

p72
たれも答える者はなかった。 すると鑑真は三度口を開いた。
法のためである。 たとえびょうまんたる滄海が隔てようと
生命を惜しむべきではあるまい。 
おまえたちが行かないなら私が行くことにしよう。」
一座は水を打ったようにしんとなって・・・・

・・三十余人の僧の頭はことごとく深くたれていた。
・・鑑真は一人ひとりの名を口から出した。・・鑑真と、十七名の
高弟が日本へ渡ることが須臾のあいだに決まったのである。

さすがに鑑真さんですね。
「法のため」に自らが命を投げ出すのみならず、弟子をも決めた。

これは史実なのかどうか、井上靖の創作部分なのかはわかりませんが、
何度も失敗し、失明をしながらも日本へついに渡ったという事実から
判断すれば、このような状況、決意があったことを即座に小説だと言い切る
のは憚られるくらいです。

p73
四人の日本僧と三人の唐僧と一人の高麗僧は、それぞれ郊外の寺へ
分宿することにした。 官憲の眼を免れるためであった。
もともと四人の日本僧の帰国のための渡航さえ非合法的なもので
あったが、まして唐土から鑑真ら十八名、道抗ら四名、総勢二十名を
越える一団が日本へ渡るということは表向きには許されるべきことでは
なかった。

なんと、なんと、この鑑真さんの渡航は密出国の企てだったんですね。

p75
(鑑真は)二十一歳のとき、長安の実際寺において登壇、具足戒を受けた。
実際寺は朱雀街の西、太平坊の西南隅にある寺で、三論の学者吉蔵も
ここに住し、ここに寂し、浄土門の高徳善導もここで法を説いた

ほうほうほう、出ました「浄土の善導」さん。
鑑真さんが修行をした同じ寺で、法然さんの師とも言うべき善導さんが
法を説いていたんですね。

さてさて、この密航のたくらみなんですが・・・

p76
四人の日本僧のいる寺は役人の検索を受けた。問題の如海が、自分一人が
渡航から除外されると思って、道抗を海賊の首領とし、日本僧をその
一味として採訪使の庁へ訴えたためであった。

p78
栄叡らは四月に獄に投ぜられ、放免されたのは秋八月であった。
便船のあるまでは従前どおり官の支給を受けて生活し、便船のあり次第
揚州の採訪使庁の指図で帰国させられることになった。

そして、いろいろと脱落者などがあってから・・・・

p81
準備まったく成って、人と物とをこぼれるように満載した軍船が、ひそかに
揚州を発したのは十二月下旬、月明の夜であった。

p82
帆を挙げて大江を下った。 浪溝浦(江蘇州太倉)まで来ると、
・・悪風が吹き始め、波浪は高くなった。 ・・・舳先のほうが破れて
海水が浸入してきた。・・・
・・・最後に船は岩礁の上に座礁するに至った。 ・・・船体は幾つかに
割れた。
・・飢餓と渇に苦しみながら、百八十五人の乗員は狭い荒磯の上にすわって
三日を過ごした。

あ~~あ、これが二度目の失敗ですね。
座礁してから5日間は荒磯の上で助けを待ち
揚州を出てから40日目に救助船に助けられたってんですから・・・

このころの仏教っていうのは、もちろん宗教なんですけど、
お寺で総合的な学問をしているような、今で言えば大学みたいな感じ
だったようなんですよね。

例えばキリスト教の宣教師みたいな立場なら布教の為にという
使命感が当然要求されたんでしょうけど、こういう学問を修めようという
学徒みたいな人たちにとっては 命を犠牲にしてまでというのは
どんな感じだったんでしょうか。

==その10へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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