« 堀田善衛著 「インドで考えたこと」(15) 虚無の音が恐怖となって・・  | トップページ | 映画「Eleuteriaの夢」 島の娘Teryaの夢とフィリピンの現実 »

2012年12月10日 (月)

堀田善衛著 「インドで考えたこと」(16完)生きるエネルギーとしての色即是空 

岩波新書 堀田善衛著 「インドで考えたこと」を読んでいます。

002

さて、読書の完了となる最後の回です。

著者はエローラの洞窟寺で無気味な音、こだまを聞いたのですが・・・

p201
重い足をひきずって暗闇から外に出たとき、見透かす、荒涼たる
デッカン高原の美しさに、私は全身うたれたように思った。

p202
そして思い出した。・・・
「・・一面に於いて無差別、唯一、他面に於いては多様、無限、
なにもかもが同一で、しかも同時だ、・・・
有に非ず、無に非ず、内に非ず、外に非ず、・・・」

それまでは、貧しい荒涼とした風景だ、虚無的なまでに広いだけだ、
などとしか思わなかった風景を、今度は逆にきわめて美しい
ものに思って歩きながら、・・・

そして、著者は川端康成の「末期の眼」の思想を思い出すのです。

p202
一切の努力は空しい、闘争も抵抗も空しい、この世にある醜悪さも
美しさも、なにもかもが同じだ、・・・
・・私は あの思想は「人類の敵だ」というようなことを云い、
同席した亀井勝一郎、三島由紀夫の両氏も、しぶしぶながら、
・・・是として認めた・・・。
それから、・・「方丈記」の・・「そのとき、心更にこたふる事なし」
というものまで思い出した。

この「心更にこたふる事なし」を このサイトで発見。
一番下にある「早暁の念仏」、下から5行目に出てきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/houjouki2.htm

現代語訳を見てみますと、
「その時、私の心は答えることができない。ただ、身近な舌を借りて、
何の願いもない念仏を二、三度唱えたのみで終えてしまった。」

と言うところですね。
鴨長明の「方丈記」」の結語の部分です。

そして、著者は、これじゃあいかん、と思っているようなんですね。

p203
これらの思想に、決定的に欠けているものは、一言で云って、責任、
人間の責任という体系である。
・・・私自身の内部に於いても、戦う方法よりも、むしろ私自身にも
内在するこの思想の方がふとりつつあるのを感じる。
・・それに対する・・・共鳴が、恐らくあの
「ゴーボア・・・ルルル・・ン」であった
のではなかろうか。

そして日本が求めていたものがどんなものだったかと言えば、
著者は、

p204
・・ひたすらに方法的な西欧に求めた、・・・どうにもぴたりと
身につかなくて、
・・借り物の域を出なかった、・・
身についたらしい部分は、政治的、軍事的な面、すなわち
帝国主義的なかたちでだけだったのではないか。

そして、今の現代にも ひしひしと通じるような恐ろしいことを
この著者は述べているのです。

p204
こういうわれわれの悲喜劇を、アジアの新興諸国が、徒らにくりかえす
可能性は、悲しいことに、なくはないと思われる。

そして、同時に著者は デリーで受けたインド思想についての
レッスンを思い出していいます。

p205
わたしは質問をした。
「しかし、それらはすべて死の思想ではないか?」
と。 これに対して、言下に、
しかり、しかるが故に生の思想である。」
という返答をえた。

・・・民族ぜんたいのエネルギーを結集せしめるに足る目標が
そこに存在するならば、たとえどんなに厭世的、消極的、
生よりも死を思索の中心とするものであっても、・・質的に、
勢いのよい、生きのよいものに転換出来るものなのだ、・・・

p210
インドの古代文明は、エジプトやギリシアのそれのように
まったく死んだものではない。 けれども、いずれそれは
比較の問題であろう。 死んだものを、未来に対する「希望」の、
その礎として生きかえさせるのが歴史というものなのだ。

「その歩みがのろかろうがなんだろうが、アジアは、生きたい、
生きたい、と叫んでいるのだ。 
西欧は、死にたくない、
死にたくない、と云っている。」

・・・・・

私はこの本を、インドの風土、特に仏教との関連に於いて、
龍樹の「中論」を読む前に、ちょっと知っておきたかった、
ということで、正直あまり期待もせずに読んでみました。
難解中の難解といわれている「中論」に入る前に ちょっと
息をついておきたかったからです。

でも、期待以上に、読んでよかったと思っています。

仏教というものが、インドという、日本人が思うアジアという
イメージとは相当離れているヨーロッパにつながる
広大な大陸に生まれた宗教であるということ。

よくいい加減な日本人の口癖として例示される「しょうがない」という
言葉が持つネガティブな意味内容にも、もしかしたら、ここで
著者が述べたような仏教的な意味合い、エネルギーの源泉としての
ポジティブな内容があるのかもしれない、と感じたからです。

そして、そのいわゆる「無常観」、親鸞が嫌いだとしている
無常観、ではなくて、生身の人間が現実の娑婆で生きて行く
エネルギーとしての「色即是空」
なるものが そこにあるような
気がしてきました。

==完==

その(1)に戻る場合は こちらへどうぞ:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-783b.html

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリピン バギオ 古代インド 初期仏教 ブッダ 釈迦 原始仏教 般若心経 龍樹 小乗仏教 部派仏教 大乗仏教 浄土宗 浄土真宗 法然 親鸞

|

« 堀田善衛著 「インドで考えたこと」(15) 虚無の音が恐怖となって・・  | トップページ | 映画「Eleuteriaの夢」 島の娘Teryaの夢とフィリピンの現実 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/134315/56291687

この記事へのトラックバック一覧です: 堀田善衛著 「インドで考えたこと」(16完)生きるエネルギーとしての色即是空 :

« 堀田善衛著 「インドで考えたこと」(15) 虚無の音が恐怖となって・・  | トップページ | 映画「Eleuteriaの夢」 島の娘Teryaの夢とフィリピンの現実 »