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2012年1月 6日 (金)

「般若心経」の本(21) 何故、ここに この一文があるのか  

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

さて、今日は、
「三世諸仏、 依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。」
の部分です。

この段は、般若心経の中でもユニークな部分なんだそうです。
なにが?

音写語だけで書かれているってことらしいです。

つまり、英文和訳だったら、英語の音をそのままカタカナで書いて
助詞をつけたような文だと言うんです。

般若波羅蜜多=「プラジュニャー・パーラミター」
阿耨多羅三藐三菩提=「アヌッタラ・サンミャク・サンボーディ」
           (この上ない、完全な、さとり)

そして、「三世」=過去・現在・未来のことで、「仏」=「「さとれるもの」
なので、ここの文は、
「過去・現在・未来のさとれるものは、般若波羅蜜多に依って、さとっている。」

「金持ちは 金を持っている。」

みたいな、反復した内容になっているということです。

で、著者は、ここで何が大事かって言うと、「依って」という部分に
力点が置かれているっていうんです。

「依」=「アーシュリトャ」(~を拠り所として、立脚して、基盤として)

だから、般若波羅蜜多を拠り所として、というのが一番大事なポイントだと。

そして、どういう意味があるかっていうと:

ー 釈尊などがさとりを開いたのは般若波羅蜜多に依るなどということは
  初期のいかなる仏典にも記されていない。

ー 大乗仏教の菩薩たちは、ついにこれこそ立脚すべきという確かなものとして
  般若波羅蜜多に辿り着いた。

よって、般若心経という経典は、仏の崇高なさとりの境地さえも、
実は般若波羅蜜多によるのであると確信し、ここに般若波羅蜜多を
高々と賞揚しているのだ、と著者は主張しているのです。

・・で、般若波羅蜜多って何だったっけ??

般若=プラジュニャー(智慧)
波羅蜜多=パーラミター(完成)

でしたね。

でも、ここは訳してはいけないんだそうです。
だからわざわざ音写しているわけですね。

さて、ここから、著者は、般若心経がどのように編纂されたのか
そして、翻訳の歴史の部分に光を当てて書き進めています。

ー 「般若心経」は出所の異なるいくつかの文が巧みに編纂されて
  一巻の経典として成立したものである。

ー 「般若心経」の大部分は、「大品般若経」の中から抽出されたもの。

ー 経典というものは、現代人が考える文学作品と違って、「作者」はいない。
  仏陀以外のだれが「私はこう説く」と言っても、それは経典の名に
  あたいしない。

ー 本段は、そもそも出所を異にした一文であり、何らかの意図をもって
  選ばれてここに挿入されたと考えられる。

・・で、ここで著者の推理があるんですね。

「三世諸仏、 依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。」という一文が
なぜここに挿入されえいるのか。

この部分は、元々は上記「大品般若経」の「無生品」第二十六の中に
これに相当する文章があるそうなんです。

この一文が挿入される前と後では、どんなことがあるかと言えば:

前は: 菩薩が実践する般若波羅蜜多の修行の成果を、舎利子へ瞑想指南
    いう形で述べた。

後は: 最終の場面として、般若波羅蜜多のマントラ伝授が行われる。

全体を通して、観自在菩薩の独壇場。

だから、ここで「三世諸仏」を登場させ、「大品般若経」を典拠とした
正統性を示す必要があったのだ、と言うわけです。

要するに、権威付けが必要だったということなんでしょうね。

さらに、著者は、ここで「まだ問題がのこります。」と言っているんです。

それは、その(22)で・・・・

                     

   

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2012年1月 5日 (木)

「般若心経」の本(20)   涅槃ってなに??

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

まず、涅槃の意味について、著者はこう述べています:

ー 一般には、涅槃とは釈尊の入滅を指す。
ー サールナートの仏伝レリーフでは、4階が釈尊入滅の図である。
ー 4階=涅槃のフロア
ー しかし、般若心経はその入滅について述べているのではない。

そして、「涅槃」の意味については、仏教大辞典などでも、
「燃え盛る煩悩の火を吹き消して、悟りの智慧を獲得した境地をいう」
などと普通には説明されているが、著者は この解釈は般若心経には
当てはまらないとしているんです

ー 涅槃(ニルヴァーナ)の語源
  動詞語根「ヴァー」=「(風などが)吹く」から派生した名詞。
  これに、接頭辞「ニル」がついて、「吹いて、なくす」の意味。
  それが名詞「ニルヴァーナ」(吹いて明かりを消す、熱さをさます」意味。

ー 「燃え盛る火」「燃え盛る煩悩の火」は元々ない。
ー 「煩悩の消滅」というのが涅槃の意味とはなりえない。

この解釈はどうもおかしい。
そこで、著者は、「ニルヴァーナ」の語根は「ヴァー」ではなく、
「ヴリ」ではないか、として空海の「般若心経秘鍵」を持ち出しています。

ー 空海は、「妨げのない自由な境地が涅槃に入るということである。」
  と解説している。

ー 般若心経は何でもかんでも「空」といって否定しているのではない。

ー 「ニルヴァーナ」の語源は、動詞語根「ヴり」(覆う)に否定の
  接頭辞「ニル」がついて、「覆いがとりのぞかれること」の意味。

従って、著者の結論は、

ー 「涅槃」には、「煩悩の」「燃え盛る火の」「吹き消された」
  「消滅した」などの意味はない。

ー 「覆いのない状態」をさすのみである

ー いかなる覆いもない、何ら妨げるものもない、心と呼ぶものすらない。

そして、観自在菩薩が舎利子に伝授しているのは、そのような自在な「観」
のみの、まったく開放された境地に大乗仏教の菩薩たちが4階にいるのだ
と言うことのようです。

ここで、他の本にどのように解説されているかを見てみましょうか:

「遠離一切顛倒夢想。 究竟涅槃」の日本語訳のところです。

ー 正しくものを見ることができない迷いを離れて、永遠の平安をきわめている。
(お経の本)

ー 一切の誤った認識や考え(誤解)から遠く完全に離れているので、
  永遠の平安の境地に安住することができる。
(仏教のすべて)

ー 一切の邪見偏見から自由になり、永遠なる心の静寂を得られたのである。
(現代語訳 般若心経 ちくま新書)

そして、この本では

ー ないものをあると考えるような見方を超越していて、
  まったく開放された境地でいる。

この本の解説にあった言葉でもう少し詳しく書き直してみますと:

ー ダルマ(諸法)が実在するなんて逆さまのことをいっているような
  3階の小乗の考えを超越して、この4階では心を覆うもの、つまり
  ダルマのない、まったく開放された大乗の境地になる。

てことになるんでしょうか。

こういう理解でいいのかな??

あと、七章と八章が 残っています。
次回 その(21)は 「三世諸仏・・・」のところに入ります。

      

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2012年1月 4日 (水)

「般若心経」の本(19)   いよいよ涅槃に辿り着きます

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

心無けー礙(けー=四+圭)
「心にけい礙なし」の部分なんです。

ここでもサンスクリット原語から漢訳、そしてさらに日本語へ翻訳する
場合の難しさが語られています。

ー ここの「心」の原語は「チッタ」
  「般若心経」の「心」(フリダヤ)とは違う。

ー ここの「心」(チッタ)の意味は、人間の内面の心のこと。

ー アビダルマ論師たちが分類した全七十五項目の中で心そのもの(心法)
  は一項目だけ。
  ただし、心のはたらき(心所有法)は五十二項目ある。

ー 人の心をどのように形成すべきかについては、般若心経は答えてはいない
  それは世間レベルの2階の問題である。

ー もろもろのダルマが離合集散しながら一つの織物のように自己を
  つくりあげていると観察するのは、3階においてである。

ー 「けー礙(けー=四+圭)」という漢訳の原語は「アーヴァラナ」である。
  原語の意味は、「妨げとなるもの」「閉ざすもの」「覆うもの」など。
  
ー よって、文の意味としては、「心に何の妨げもない」ということになる。
  妨げるもの=ダルマ である。

しかし、ここでも、著者は、これはあくまでも4階レベルでの話であって、
2階すなわち世間レベルで「こだわりを捨てよう」などという教訓を垂れる
のは話が違うっていっているんです。

ここでは、アビダルマ論師、つまり小乗仏教の人たちが絶対視し、実在している
としたダルマから開放される境地として、大乗仏教の菩薩たちが体験できる
境地なんだというわけです。

だから、我々世間レベルの人間としては:
ー 私たちの心は頑丈な幾十もの檻に閉ざされている。
ー 最も頑丈な檻は自分自身である。自己を構成するダルマである。
ー よって、自己を捨てて脱出など出来ない。
ー 自分自身を振り回しているのは自分の心そのものである。

そして、著者のここでの結論は:
ー 「般若心経」は「心の大切さ」を説く経などでは全くない
ー その反対に、「心というようなものはないのだ」ということが観察できる
  4階というフロアがある、ということを説いているのみ。

「遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」
(一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟せり。)

いよいよ、涅槃に入りますよ。

ここで、著者は、「一切」という文字は、サンスクリット原典にも玄奘訳
にもなく、羅什訳にしかないと書いています。
でも、おそらくこれは、意味上はあってもなくても大した影響はないので
リズムを整えるために入れたのだろうとしています。

おまけに、「夢想」についても、サンスクリット原典にはないそうなんです。
だから、結局「遠離顛倒」だけが元々の原典にはある ってことになります。
「夢想」は「顛倒」を強調するために漢訳で追加されたようだとしているんです。

ー ダルマを「ある」と錯誤している3階のレベルに対して、
  4階に行けば それは「ない」と断言している。

ー 「妄想を離れよ」」などという教訓を述べているのではない。

ー 「遠離する」=「超越する」である。
  原語「アティクラーンタ」」=「階段を昇り切っている」である。

さて、皆さん。 ここで「階段を昇りきっている」という意味が原語に
あるんだよ、と著者は述べているんです。
4階構想は ここに来て、正当でしょう、妥当でしょう、って言っているんです。

ー 「涅槃を究竟せり」=「涅槃に安住している。」「涅槃を達成している。」

さて、やっと涅槃に辿り着いたんですが、
涅槃については その(20)で考えます。

                           

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お父ちゃん、お母ちゃん、そして 兄弟・・・・ だよ。

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最近、ちょっと元気が足りない お父ちゃん。

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お母ちゃん。 顔はふくよか なんだけど、身体はとっても痩せちゃって・・・

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いろいろ心配事があってねえ・・・

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でも、でも、

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がんばるっきゃ ないわよねえ。

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なにやってんの~~。

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階段が高いんだよ~~。

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僕、もういいや・・・

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ほんとに それでいいの~~?

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ふれくされちゃってるよ・・・ いいのかな?

 

 

    

     

     

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生きろ、生きろ、元気に 生きろ !

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お母ちゃん、がんばって !!

 

 

 

 

 

 

    

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「般若心経」の本(18) 「知識以前」じゃなくて「前に進める」んだよ  

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

般若波羅蜜多とは何なのかというところにやって来ました。

「以無所得故、 菩提薩た(た=土+垂)、依般若波羅蜜多故、
 心無けー礙(けー=四+圭)」

ここでの読み下し文は、
「得る所なきをもっての故に、菩提薩たは 般若波羅蜜多によるが故に、
 こころにけいげなし。」
となっているんですが、
著者は、ここで、「実はサンスクリット原典と一致しない」と言ってるんです。

だから、サンスクリットをちょっとでも読める研究者は困惑するそうなんです。

なにが違うかといいますと:
「以無所得故」の一句について、

ー わが国の伝統的な訓読の仕方では、この一句はこの段の一部とせず、
  前の段の文章に含ませて「智もなく、得もなし、得る所なきをもっての
  故に」と読ませています。

ー しかし、原典には、この一句の前に 「この故に」という接続詞が
  ありますから、やはり本段の一部と考えるべきでしょう。

そして、著者は、「無所得」という漢訳についても、多くの解説者が
「損得の打算を超えた心境」などという珍解釈をしていると笑っているんです。
     
著者は、「得に対する非得、すなわちダルマを分離させるはたらきのこと」だ
としています。

しかし、いずれにせよ、この箇所はサンスクリット写本によってかなり異同が
あって意味がとりにくいということのようです。

で、著者の結論としては、
「四階のフロアにおいては、ダルマが結合することも分離することもない、
 なぜならいかなるダルマもないのだから」
と解釈するのが文脈に合っているとしています。

そして、またまた、別の重大な問題が ここにはあると言うんです。
漢訳では、「菩提薩たは 般若波羅蜜多によるが故に」としか読めないが、
原典では、違うっていうんです。

サンスクリット原典では、
ー 菩薩の語が所有格、つまり 菩提薩たの般若波羅蜜多 となる。
ー 菩薩の語は 複数形
ー なのに、熟語である動詞は単数形

だから、菩提薩た は文法的には 主語になりえない。
一方、漢訳だけを見ると、菩提薩た が主語になっている。

ー 玄奘だけでなく、他のすべての漢訳は菩薩を主語としている。
ー 原典では主語が明示されていない。
ー サンスクリットの構文は、動詞一語でも文が成立する。
  だから、原文自体に不備があるとは言えない。

さてさて、皆様 お立会い、この文の主語は誰なの~~~???

岩波文庫本は「人は、心を覆われることなく住している。」と訳しているそうです。

ー 涅槃の心境の場面だから、単なる「人」であるはずがない
ー 語り手は観自在菩薩であるから、自分自身のことを言うわけはない。
ー お釈迦様か、あるいは観自在菩薩の仲間の菩薩のことか???

ー お釈迦様が最適かもしれないが、観自在菩薩が舎利子に伝授している
  この場面では、いかにも不自然。

ー よって、ここの主語は、大乗仏教の担い手である仲間の菩薩のことだろう。

で、著者の結論としては、

「菩提薩たは、(菩提薩たの)般若波羅蜜多によって・・・」 と主語を補い、

(   )の部分の所有格を省略したものと考えれば、漢訳と原典が一致する、
として、サンスクリット学者に解説しているんです。
へえ~~、凄いねえ。

さて、著者は、ここで一旦、般若心経を振り返り全体の流れをまとめています。

ー 舎利子への三つの伝授は、観自在菩薩の修行の結果としての境地を
  披露したものである。

ー その結果は、般若波羅蜜多の修行によって得られたものだった。

ー 般若波羅蜜多は、修行の到達点であると同時に修行のプロセスでもある。

ー 般若=智慧(プラジュニャー)
  波羅蜜多(パーラミター)=完成
  「智慧を完成させる」ではなく、「智慧という完成」という意味。

ー この智慧とは 4階フロアの智慧である。

ー 4階で瞑想のプロセスを実践することが「般若波羅蜜多の修行」である。

だから、世間一般で山ほどある般若心経の解説書にあることは
的外れなことばかり、そして、処世訓なんてちゃんちゃら可笑しいって
言っているわけですね。

そして、次に「智慧」(プラジュニャー)の正しい解釈について述べています。

ー 「プラジュニャー」
  = 「プラ」(接頭辞・前にの意味)+「ジュニャー」(動詞・知るの意味)
  これを、ほとんどの学者は、知識以前の知=無分別知 と説明している。
  
ー この説明は間違いである。
  「プラ」は「前方に進める」という意味にとらなくてはならない。
  「通常の知を一歩進めた高度な知」又は「高度な知をもたらす知」
  解釈すべきである。

つまり、著者の4階建てマンション構想に当てはめて考えると、
1階から2階、2階から3階、3階から観自在菩薩のいる4階へと
レベルを昇っていく、進めていく知のことであるとしているのです。

次回 その(19)は、涅槃に入れるかなあ?

      

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2012年1月 2日 (月)

2011年にバギオを宣伝してくれた日本人 ?

 

こんな一行がバギオの地元紙に載っていたんです。

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Japanese Baguio promoter of the year・・・・ Hidenobu Oguni

直訳すれば 「その年の日本人のバギオ・プロモーター」でしょうか。

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・・・・で、何なのかと言いますと、新聞記事のこの欄「ノミネーション2011」の一部なんです。

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これがその新聞の一面です。 左下に NOMINATIONS 2011 があります。

で、この新聞は バギオ・ミッドランド新聞っていう北ルソン随一の信頼と部数を誇っている新聞なんですね。

そして、ノミネーション2011って言うのは、地元の人に聞いたところ、2011年の様々な出来事を振り返って、バギオ・ミッドランド新聞の編集員などが、真面目に協議をして、いろいろな評価をして決めているらしいんです。

良い評価、悪い評価、皮肉を込めたタイトルとか・・・

それに、「2011年にバギオを宣伝してくれた日本人」ってことで選ばれたみたいなんです。

個人的には「プロモーター」っていう言葉にあまり良いイメージがないんですね、それで辞書で調べたんです。

主催者、興行主、発起人、発頭人、興行師、創設者、創始者、促進者、推奨者、張本人、首唱者、発注者、遺伝子のスイッチをオン・オフして発現を制御されるとされる遺伝子

この翻訳語を眺めながら、はて私は何をやったのかな、って考えたんです。

この言葉を読んでもなんかぴんと来ないんです。

敢えて選べば「促進者」あるいは「推奨者」くらいでしょうか。

まあ、「バギオを宣伝した」ってことぐらいに理解すればいいのかな?

そして、もうひとつ:

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Theater event of the year ........ Over the Milky Way - Tanabata Festival 2

「2011年のシアター・イベント・・・天の川を越えてーたなばた祭2」

ってのもあったんです。

・・・ああ、これか!

これで、何故 「2011年の出来事」にノミネートされたかが なんとなく分かったんです。

バギオに北ルソン日本人会ってのがありまして、そこで活動しているんですけど、 7月に日比友好月間なんてものがありましてね、七夕祭りをやったわけですよ。

それ以外にも、日本大使館や地元の団体、個人の人たちに協力をいただいて、地元の大学などで日本映画祭やら写真展やらをやったりしたんです。

どうも、そういうのを評価していただいたみたいなんです。

「バギオを宣伝した」ってことだと あまりピンと来ないんですけどねえ。

そういう意味では、上に書いたような行事を一番宣伝してくれたのはマニラ新聞あたりじゃないかと思うんです。

マニラ新聞はマニラを中心に日本人向けに発行されている新聞ですからね、それはバギオの宣伝にはなります。

実を言いますとね、ここは北ルソン日本人会の名前を出して欲しかったという思いが強いんです。

自分の名前が新聞に載るっていうのは気恥ずかしいじゃないですか。

悪い気はしませんけど、ちょっとねえ~~。

フィリピンって国は、日本と違って、学校でも会社でも地域でも、やたらめったら褒め称えますからね。

日本じゃあ、そんなことで賞状を出したりはせんだろう、っていうような小さな事でも表彰したり、証明書を出したりするんですよね。

だから、まあ、大したこっちゃないと気軽に受けとめりゃあいいようなもんなんですけど、私みたいな者に 日本国内じゃあ こんな名称を付けたりなんて 金輪際有り得ないことですからね。

もったいなくて、気恥ずかしいんです。

でも、推薦してくださった方には、本当に有難うございます、と御礼いたします。

どこのどなたの推薦なのかは 不明なんです。

多分、あの人かな? その人かな? この人かな? 

ってのはありますけどね。

一番嬉しいのは、バギオという町に関わって 通算すると9年。

北ルソン日本人会が出来て 4年。

地元の皆さんに認めていただいたと言う事が、私の宝です。

素直に喜びたいと思います。

ありがとう ございました。

      

 

 

 

 

Japanese Association in Northern Luzon,  Baguio Midland Courier, January 1, 2012 issue, nomination 2011,  Japan embassy,  Japan foundation, Manila shimbun newspaper

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「般若心経」の本(17) ダルマ(諸法)の実在性が問題だ   

宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)を読んでいます。

ついに、この読書も年を越してしまいました。

もう少しのところまで来てはいるんですがね、なにせ中身が濃いもんだから・・・・・

「無苦集滅道、無智、亦無得」 の部分です。

ここで四諦(したい)について書いてあるんですが、著者は「微妙な問題」がある
と解説しています。

まず岩波仏教辞典に掲載された「諦とは真理のこと」という部分をとらえ、
そうじゃないと言っています。

この辞典には、「苦滅にいたるためには八つの正しい修行方法(八正道)に
よらなければならないという真理。」と書かれているのですが、
著者は 以下のように書いています:

ー 釈尊は、愛欲にふけることと、苦行で身をさいなむこと、この両極端
  を離れて中道を実践しなさいと教示した。
 = 八正道の実践。

ー なぜならば、ということで、次に説いたのが「四諦」だった。

ー 「諦」という漢字は仏教用語としては、「仕方がないと思い切る、
  断念する」という意味ではない。

ー サンスクリットでは「サトヤ」で、「真理」という意味はある。
ー しかし、「苦集滅道なく」という一文では、「真理はない」とするのは
  おかしい。

ー 問題になっているのはいろいろなダルマであって、真理ではない。

ー 「苦諦」=「苦聖諦」の略 
ー 一般には この「聖諦」(アリヤ・サッチャ)を「聖なる真理」と
  訳しているが、この訳は間違いである。
ー 「アリヤ・サッチャ」は「確実なもの」と訳すのが妥当
  よって、「苦聖諦」は「苦というダルマ」とすべきだ

つまり、無苦集滅道という部分の
「苦」=「苦諦」は、無明から老死に至る因果系列のすべてのダルマ(諸法)
が苦であって、確実なものだ、と解釈すべきだと、著者は言っているんです。

同じように、
「集諦」=欲望の尽きないことが苦の原因として確実なもの。
「滅諦」=欲望のなくなった状態が苦の滅尽として確実なもの。
「道諦」=八正道つまり苦の滅尽に至る道として確実なもの。

そして、著者は、「般若心経」は四諦八正道を否定しているのではない
否定してしまったら、お釈迦様が悟りを開いたこと自体を否定することに
なってしまう。

いくらなんでも それを小乗の考えだからといって否定してしまったら、
大乗の空の立場から「こだわってはいけない」などとやってしまったら、
お釈迦様をすべて否定してしまうことになるじゃないか、って言ってるみたいです。

だから、否定しているのは、あくまでもダルマの実在性なんです、ってことの
ようです。

開祖であるお釈迦様の教えを否定するとはなにごとか、
そのように般若心経を解釈するのは それこそ「世間レベル」の無知に
よる冒涜であるよ、って宮坂さんは言ってます。

あくまでも、観自在菩薩さんが伝授している内容であって、決して世間レベル
(2階)の話じゃないんだよってことですね。

そして、またまた、著者のなで斬りが続きます。

ー 私の知る限り、この「智」と「得」について正しく解釈した本は
  一冊もありません

だとさ!!

ー 今のどの解説者も、「智もなく、また得もなし」を一つの文と解している。
ー 大本「般若心経」のいくつかでは、「智もなく」と「得もなく、非得もない」
  となっている。

ー 「智」(ジュニャーナ)は 般若の智慧(プラジュニャー)ではない。
  般若の智慧を説いている経で、それを否定するわけがない。

ー こういう禅問答的な表現を好む人が、般若、般若といって、空の智慧を
  強調しながら、それを否定している、と解説するのは呆れたものだ。

ー この「智もなく」は、八正道の成果としての智慧と解すべきである。
  つまり、舎利子レベルの3階での知全般のことを言っている。

そして、次の「得もなく、非得もない」のところなんですが、

ー もろもろのダルマを結合させるはたらき、すなわちダルマの獲得作用
  のことを「得」(プラープティ)といい、分離させるはたらきのことを
  「非得」(アプラープティ)という。

ちなみに、この「無苦集滅道、無智、亦無得」の部分を

他の本で どのように翻訳してるかっていいますと:

「苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。
知ることもなく、体得されることも無い。」
(お経の本)

「さらに、苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを滅することも、
苦しみを滅する道もなくなるのです。
また、実体のない世の中、「空」の立場に立てば知ることもなく、
得ることもありません。」
(仏教のすべて)

そして、この著者の上記の解説を敢えてまとめてみると:

「苦諦」は、無明から老死に至る因果系列のすべてのダルマ(諸法)
が苦であって、確実なもの。
「集諦」=欲望の尽きないことが苦の原因として確実なもの。
「滅諦」=欲望のなくなった状態が苦の滅尽として確実なもの。
「道諦」=八正道つまり苦の滅尽に至る道として確実なもの。
この四諦すべてが 4階から観れば 無いのです。
八正道の成果としての智慧もありません。
さらに、ダルマの獲得作用はなく、分離させるはたらきもないのです。

ってことになるんでしょうかねえ。

まったく自信がありません。

では、その(18)を ・・・・頑張ります。
次回は いよいよ 第六章「涅槃の境地」です。

 

 

 

 

 

 

    

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ゾマホンさん、駐日大使就任 おめでとう ございます。

皆様、あけまして おめでとう ございます。

旧年中は、多くの皆様にこのサイトにお立ち寄りいただき、心より感謝を申し上げます。

今年も益々 私自身が勉強をしながら、且つ、明るいタッチでのブログ更新に努めていきたいと考えております。

コメントの書き込み、よろしく御願い申し上げます。

さて、表題の件です。

皆様には既にニュースなどでご存知のことと思いますが、

ベナン共和国のゾマホンさんが、今年の1月には新しい駐日大使として就任することが決まったとのことです。

こちらの動画ニュースでご覧下さい:

http://www.dailymotion.com/video/xn3m5z_yyyyyyyyyyyyyyyy_news

毎日新聞でのニュースはこちら:

http://mainichi.jp/select/world/news/20111219k0000e030146000c.html

ゾマホンさんについては、ほとんどの日本人の皆様は、タレントとしてしかご存知ないかと思います。 たとえば、「これが変だよ日本人」での大声のアフリカ人とか ビートたけしさんの付き人であるとか、二代目そのまんま東とか。 ですが、母国のベナン共和国では ある意味 国民のホープであり英雄であろうかと思います。 実際に、母国では大統領特別顧問という立場でもあった方です。

私の目から見れば、そういう姿こそがゾマホンさんであり、タレントというのは日本における仮の姿にしか見えません。

私自身がゾマホンさんと会うことになった折には、ゾマホンさんがタレントであることを知らずにおりました。 テレビ番組で大人気だったことも。

日本語教師養成学校の講師として働いている時期に、ゾマホンさんから彼が母国に作ったIFE財団が運営する「たけし日本語学校」に是非とも日本語教師が欲しいという話があって、彼の真摯な志に打たれて、つまり意気に感じて、1年間 初代の日本語教師を務めることになりました。 もう随分昔の話になってしまいました。

IFE財団、ゾマホンさんの公式ホームページはこちら:

http://www.zomahoun.com/

ゾマホンさんは、昔から変わらず、自分の生活は犠牲にしても、母国ベナン共和国のことを第一に考えている方です。

子供達の生活と教育に熱心で、又、国の将来を支えるべき若者たちの教育にも昼夜をおしまず尽力をされている方です。 

私は個人的に、ゾマホンさんは「ベナンの吉田松陰だ」と考えています。 そして、その「たけし日本語学校」は、「松下村塾」だと信じています。

日本国内ではタレントとしてのイメージが強いゾマホンさんですが、信念の人である「ベナンの吉田松陰」が 本来の彼の実力を発揮するのはこれからだ、と信じてやみません。

ゾマホンさん、おめでとう ございます。

夜もろくに寝ないで働くゾマホンさんの身体だけが心配です。

今や、ベナン共和国にとっても公式に大事な人になりました。 

くれぐれも健康にだけはご留意下さい。

又、そのゾマホンさんを ベナンや日本で陰ながら支えている人たちがいます。

その皆様のご健康とご多幸を祈りながら、新しい年をお祝いしたいと思います。

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新品ですからね、新品 !! (笑)

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2012年 元旦

させ たもつ

   

   

 

 

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