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2012年3月24日 (土)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (9) 雪山に住む者という神霊が・・ 

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

今日のところは、ちょっと私の理解を超える、ぶっ飛んでいる内容なんですが、
般若心経につながるところがありました。

168「雪山に住む者という神霊がいった、「何があるとき世界は生起するの
    ですか?何に対して親しみ愛するのですか? 世間の人々は何ものに
    執着しており、世間の人々は何ものに悩まされているのですか?」

巻末の解説には、「中インドのサータ山に住んでいた神霊。 ヤッカ(夜叉)は
もとは神的存在、霊的存在を意味した。 鬼神の一種であり、北方の神である
毘沙門天の配下に属すると考えられた・・・」
・・・とあります。
その神霊がお釈迦さんに質問しているんですね。

この質問に対して、ゴータマ、つまりお釈迦さんは、それぞれ六つのものが
あると答えているんです:

巻末の解説には:
六つのものーー眼、耳、鼻、舌、身、意の六入をいうのであろう。
六根(六つの器官)すなわち六内処と、色(いろとかたち)、声、香、
味、触(触れられるもの)、法(以上のもの以外で考えられる対象)の六境
すなわち六外処をいうことになるが、それは原意ではないであろう。
・・・と書いてあるんですね。

つまり、この解説の前段だと思われるが、後段までの意味は無いってことかな?
般若心経なんかに出てくる内容にまでは到っていないということですかね。

171「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると
    説き示されている。 それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち
    苦しみから解き放たれる。」

世間」っていう言葉ですけど、解説には
人間の迷いの世界、迷っている人々をいう。」とありますよ。
まあ、確かに世間と交われば交わるほど、迷いが出てくるのは本当ですね。
「引きこもり」っていうのは、実はこの世間を避けている自己防衛反応なのかも
しれませんね。「引きこもり」と呼ばずに「修行中」と呼んだらどうですかね。

178「今日われらは美しい(太陽)を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく
    起き上がった。 激流をのり超え、煩悩の汚れのなくなった(覚った人)
    にわれらは見まえたからである。」

179「これらの千の神霊どもは、神通力あり、誉れたかきものどもであるが、
    かれらはすべてあなたに帰依します。 あなたはわれらの無上の師で
    あります。」

ここで、「千の神霊」ってなんだろうと思ったんですが、残念ながら解説には
説明がありません。
ただ、178の解説に、
「煩悩の汚れのなくなったーーここでは古来行われている太陽崇拝を受けている。
それが仏教に受容され、日本の日蓮宗に至るまで生きているのである。」

日本の太陽崇拝、神道に通じるものが、この時代にはあったということに
なるんでしょうか。 八百万の神と似たものがあったんでしょうね。

先日たまたま、フィリピン大学の美術科の女子大生が、北ルソンの山岳地帯の
山岳民族の間にある精霊信仰に関する自作の絵画をフェイス・ブックで紹介
していまして、バギオの画廊カフェであるVOCASで卒業制作として
展示していました。

その彼女に日本の神道もその信仰に似ているよって声を掛けたところ、
「はい、マウンテン州で行われている信仰儀礼が、日本の神道の儀礼に
似ているということを、ある本で読んだことがあります。」
との返事をもらいました。

宗教も元を辿っていけば、世界共通のところまで行けるんでしょうね。
ああ、それなのに、それなのに・・・・
現実の世界は、なんでこんなに諍いが多いのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Toyota Prius と 国粋主義者 と 日本語教師症候群

TOYOTA PRIUSやってきたの話に 宇宙人さんから こんなコメントをいただきました:

させさん、最近国粋主義者になってませんか?

なんて書くと、「なっていませんか?」が正しいなんて言われそうだな!

・・・ これはなかなか発想が広がるコメントなので 別立てにしますね。

まず、国粋主義者・・なんですけど、

確かに、昔私が中学生だったころに聞いたことがあります。

ある同級のボンボンがオーストラリアに交換留学かなにかに行ったんです。

そのボンボンは一年後に一学年遅れて日本の学校に復帰したんですけどね、

雰囲気が変わっていたんですね。

その時、「海外留学すると、国粋主義者、民族主義者、右翼・・・になるか、国際主義者になるかのどっちかだよね。」などと聞いたことがあるんです。

私の場合は、どうなんですかねえ・・・?

バギオには戦前の移民の方もいらっしゃいます。

今はもう亡くなりましたけど、特にその女性は、その言葉遣いからして、昔の女性言葉が残っていたんです。 素晴らしいなあと思ったんですね。 ちょっと気品が感じられたんです。

そして、戦前からのいろいろな日本人移民の素晴らしさも話していただきました。

日系人としてのアイデンティティ、そして、誇りを忘れないようにしようという意識だと思うんです。 それが、海外で強く生きていくための背骨になる、ということなんでしょうね。

国粋主義という言葉の意味をちょっとチェックしておきますか:

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%F1%BF%E8%BC%E7%B5%C1

国家主義・国家権威に傾倒する主義・思想。もっとも広義に用いる場合、排外主義/ショービニズム(chauvinism)の同義語として用いられる。

これは欧化主義への過度の傾倒を諫め、日本人が古来から培ってきた特質(これを国の精髄と見なして国粋Nationalityと呼んだ)を重んじるべしとした思想である。

・・・と書いてあります。

私の場合は、国家なんて言葉が入るほどの根性はなくて、ミーハーのレベルですからね。

排外主義ってのはどうかと考えると、ちょとあるかもしれないですけど、それはフィリピンに対するものというよりも、最近バギオに溢れている韓国製品への嫉妬心ですかね。

電気製品も自動車も韓国製に圧倒されてますからねえ。 悔しいわけですね。

だから、後段の「欧化主義への過度の傾倒を諫め」ってところが私の感覚かもしれません。

地元のフィリピンの山岳民族の文化は、もっと出てきて欲しいと思っているんですよ。

そういう意味じゃあ、国際主義的ですけどね。

考えてみると、まったく異なる文化は面白いから いろいろとコラボレーションするといいんじゃないかと思うんですけど、現代の産業分野ってのは所詮競争・競合ですからね。

「がんばれニッポン!」になっちゃうんですね。

・・・・・

さて、宇宙人さんのコメントの後段ですが、日本語教師病なんです。

確かに、「なってませんか」じゃなくて、「なってませんか」なんです。

なぜかって言うと、外国人に日本語の文章を作ることを教えることと、日本人が日本語を国語として分析的に解釈することは、まったく反対の方向で学ぶことなんですね。

乏しい語彙を使って、日本語の文章を書くときは、それなりのルールを踏まえて文を組み立てていくわけです。

だから、そのルールが良く理解できるように基本的なところを教えるわけですね。

「なる」 「なります」 「なっています」 「なりました」

「ならない」 「なりません」 「なっていません」 「なりませんでした」

って具合ですね。

「なってません」 は 「なっていません」の省略形だと教えることもあるますけどね。

でも、正しく文章を書くときには、「なってません」は使えませんからね・・・

NHKのテレビ番組に 日本人に日本語を教えている番組がありましたね。

そこに先生が出て来まして、正しい日本語を使うんですが、

いつも気になるですね。

「いつも気になるですね。」

・・・分かりますか? 

話し言葉だったら 普通は「ん」なですが、この先生は「の」を使ってしゃべるです。

話し言葉だったら 普通は「ん」なですが、この先生は「の」を使ってしゃべるです。

私が生徒に教えるときは、

話し言葉では「ん」でもいいよ、って教えるんですけどね。

「の」っていうのは 教えるのが難しいんです。

「名詞化の「の」」って呼ばれているみたいなんですけどね。

彼女が好きだったは私じゃなくて彼だった。

「彼女が好きだった」という動詞文を「」で名詞に変える効果があるってんですね。

この場合は

「彼女が好きだった」は私じゃなくて彼だった。

「の」=「男」と置き換えが効くんですね。

もうひとつは、 この文例の場合は、「の」を「ん」には出来ないってことですね。

「彼女が好きだったは私じゃなくて彼だった。」

・・・ここでの「ん」は 完全に間違いとは言えないけど、ちょっと無理がありますよね。

ちょっと方言的なニュアンスが出ますね。

ことほど左様に、「の」と「ん」は 難しいんです。

教える時には、毎度悩んでいるところですね。

 

  

  

 

 

 

 

 

  

   

  

   

   

    

 

 

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TOYOTA PRIUS がフィリピン・バギオに やってきた!!

 

昼飯を喰っていたんです。

小さな鶏が庭で遊んでいたんです。

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なにげなく眼をやると、日頃見かけない車、それも似たような車が二台停めてあったんです。

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日頃、特別に車に興味があるわけでもないんですが、ちょっと格好いいなと思ったんです。

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おおおお、いいじゃあないか。 TOYOTAじゃないか・・・

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なな・・なんと、TOYOTA PURIUS  プリウスじゃあないか!!

HYBRID ハイブリッドじゃないか!!!

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おお~~~~、ついに ハイブリッドが、トヨタが フィリピンに バギオに来たのか!

来てくれたのかあ~~~~!!

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男ばっかり七人・・・・

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何事かと話を聞けば・・・

この男たちは、車の雑誌、カー・マガジン「トップ・ギア」の会社の連中で、

TOYOTA PRIUS の2車種の デモンストレーションとテスト走行をやっているのだと。

5img_1936

つまり、トヨタ・プリウスの性能を フィリピン国内で評価をして、雑誌に掲載するってことですな。

それで、既に、イフガオ州の世界遺産で有名なバナウエの棚田の辺りにも行ったそうな。

そして、今回は、フィリピンの山岳都市である、避暑地であるバギオに来たんですね。

5img_1945

・・で、その雑誌に、各地の見所、歴史、産物などの情報も書くのだとかで、

バギオの日本がらみの歴史的情報なども知りたい・・・

とかなんとか言われて、話が盛り上がり・・・

・・・乗せてもらいました !!

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トヨタさん。 頼りになるねえ~~。

頑張って欲しいよ。

バギオのSMで TOYOTA車をずらりと並べて、日本車の存在感を再認識させて下さいよ。

待ってますよ~~~、トヨタさん !!

三菱さんも、ホンダさんも、ニッサンさんも、・・・・

たのんまっせ ! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

   

   

 

    

   

   

   

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2012年3月22日 (木)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (8)賤しい人 

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

前回の(7)で神というのが出てきたので、それが気になっているんですが、
読み進むなかでこの本に説明がでてきたらご紹介するとして、
次の「賤しい人」に進みましょう。

116「怒りやすくで恨みをいだく、邪悪にして、見せかけであざむき、
    誤った見解を奉じ、たくらみのある人、--かれを賤しい人であると知れ。」

怒り易いっていうか、頭に血が上るってことは時々ありますね。
かっとするって言うんですか。
でも、最近は血圧が上がらないように気をつけていますけど・・・
恨みってのは、ほとんど記憶にないほど、抱いたことがないですね。
のほほんとし過ぎているんでしょうかねえ。

117「・・・この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、
    --かれを賤しい人であると知れ。」

犬や猫は可愛いんですけどね、ゴキブリはねえ・・・
蜘蛛は、大きいのは「こりゃヤバイ」って殺虫剤をかけちゃいますけど、
いわゆる「ハエ捕り蜘蛛」ですか、あれは可愛いから殺しませんね。
人間って勝手なもんですよね。 
人にその見栄えで安らぎを与えたり、なにかに役に立つとなると殺さない。
そうじゃなければ殺しちゃう。

128「他人の家に行っては美食をもてなされながら、客として来た時には、
    返礼としてもてなさない人、--かれを賤しい人であると知れ。」

・・・これは、ちょっと反省しなくちゃいけません。
まあ、うちは下宿なんで、ろくなもてなしも出来ないんですけどね。

130「食事のときが来たのに、バラモンまたは(道の人)をことばで罵り
    食を与えない人、--かれを賤しい人であると知れ。」

これは意味不明ですね。 当時の事情が分からないと理解不能ですね。
この本の後ろの解説のところに:
「バラモンあるいはシラマナは食事時が来たときには在家の人のところへ
 行って食物を乞うのであった」
とあります。
ようするに、托鉢のお坊さん、修行僧に食べ物をあげないといけません、って
ことのようです。

フィリピンじゃあ、気軽に昼飯時に他人の家に行ってご飯を食べますね。
どちらもそれが当たり前という雰囲気があります。
うちの下宿のお婆ちゃんは、私の顔をみるたびに「ご飯たべた?」ですからねえ。

その点、日本は・・・
日本人は構えすぎるんでしょうかねえ。 きら~~くに食事に誘ったり
誘われたりする雰囲気が出来るといいんでしょうが。
住宅事情でそうもいかないのかなあ・・・
江戸の下町の長屋の生活の雰囲気が戻ればなんとかなるのか・・・

136「生まれによって賤しい人となるのではない。 生まれによって
    バラモンとなるのではない。 行為によって賤しい人ともなり、
    行為によってバラモンともなる。」

お釈迦様の時代は、バラモン教、ジャイナ教の時代なんですね。
だから、ここでは、賤しい人に対するものとしてバラモンが高貴な人という
意味で使われているようです。

後ろの解説をみたら:
仏弟子ー仏弟子は、出家者と在家者と両方を含んでいた。
ゴータマ・ブッダに帰依する人々は、古くはすべて弟子と呼ばれていた。
その原義は、おそらく「教えを聞く人」という意味であったらしい。
・・・原始仏教聖典の古層においては在家信者のことを「教えを聞く人」
と呼ぶことが非常に多い。 これはジャイナ教における用例に一致するもの
であり・・・
ところが、後代の仏教では(小乗仏教でも、大乗仏教でも)「声門」と
漢訳され、小乗仏教教団の僧侶たちの意味になった。 後代の仏教が
最初期の仏教とはいかに異なり、いかに変質したか、ということが
この点からも明らかであろう。
・・・と書いてあります。

どんな思想でも、どんな宗教でも、人が集まるに従って変化していくって
ことでしょうかね。

139「かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、欲情を離れて、
    ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれも、かれが
    ブラフマンの世界に生まれることを妨げなかった。」

これは、説明がないと大いに意味不明なところなんですが・・・
解説がありました:

神々の道ーー神々の道とは「リグ・ヴェーダ」では神々が天界から祭場へ
往来する路、あるいは死者の霊が神々のもとへ赴く路を意味した。
ウパニシャドになると、ブラフマンの明知を得た個我が身体を脱出してのち、
火葬の炎とともに上昇し、日、月の満ちつつある半か月、太陽の北行する
・・・・ヴァルナ神の世界を経てブラフマンの世界に達する・・・
これが人間の理想であり、解脱に相当するものであると考えていた。

ところで仏教はウパニシャド以来のこの思想をいちおう承認し、それを
道徳的精神的な意味に転化したのである。

・・・要するに、解脱って言葉が、死んでから行くところだったものが、
仏教においては精神的な解脱の意味になったということのようですね。

「賤しい」って言葉で私の子供時代のことを思い出しました。

食事の準備を母親や歳の離れた姉がやっている最中に、お腹を空かせて
ちょっと失敬したりすると・・・

「こら~~、なんばしよっとね! ほんなごて、そがん賤しかことはせんと!」

と怒鳴られたもんです。

あっ、翻訳ですか:

「こら~~、なにしてるの! ほんとうに、そんなに賤しいことはしちゃだめ!」

でしょうかね。

  

   

    

    

    

    

    

    

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「ブッダのことば」 中村元 訳 (7)  破滅しちゃうぞ!!

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

ちょっとマニラに行ったあと、仕事やなんやで、この本にほこりが積もって
おりました。 まだ、翻訳の仕事や、来週からの日本語やらで忙しくも
あるんですが、読まないと気になってしょうがない・・・

今日の中身は「破滅」ってところなんです。

一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころ、・・・師(ブッダ)のもとに
近づいた。 ・・・そうしてその神は師に詩を以って呼びかけた。

95 「・・・先生! 第三のものを説いてください。 破滅への門は何ですか?」

96 「睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励するこっとなく、怠りなまけ、
    怒りっぽいので名だたる人がいる、---これは破滅への門である。」

これは、私にすっぽりはまりますねえ、参ったなあ。

最近眠くてしょうがないし、昼寝しないと一日持たないし。
集会に行くのは嫌いじゃないし、あげくに酒なんかしょっちゅうだし。
奮励なんて言葉は遠くに行ってしまい、怠りなまけて・・・

怒りっぽいってのは、最近 そういう血の気もうせてしまってますけどね。

参りましたね。
やっぱ、体力がないと、仏教も無理ってことですかね。

98 「みずからは豊かで楽に暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を
    養わない人がいる、---これは破滅への門である。」

これは、なかなか厳しく、現実にありそうなことですね。
しかし、釈迦の時代にも、インドにも、現代のようなことがあったという
ことになりますね。

私は、早々と父母を亡くしましてね。
母は61、父は70でした。
父が逝ったのが、私が30の時でしたからね。
父母の老後の面倒を見るというようなことを考える暇もなく、逝ってしまった。
と言うよりも、次男坊ですから、長男、長女などが面倒をみてくれて、
私はそういう心配もなく、のほほんと東京で働いていたってことなんですが・・・

今になって、自分は父母のことを何にも知らないなあ、と思うことがあります。

103「おびただしい富あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいもの
    を食べるならば、これは破滅への門である。」

これは、フィリピンに居る私から見れば、日本全体がそうですね。
もちろん、今は、大震災・津波などの犠牲者の方々がたくさんいらっしゃいますが、
総体として、フィリピンなどのいわゆる貧困な国と比べれば、国として
「ひとりおいしいものを食べている」と言えるかもしれません。

108「おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、
    ---これは破滅への門である。」

こういうことをお釈迦さんが言っていたんですね。
かなり刺激的な言葉だと思いませんか。

この前に106で、飲む、打つ、買うも出てきているんですけどね。
一応酒は飲んでますけど、「酒にひたり」の範疇に入るのかなあ?
打つと買うは、お足がないんで、やりたくても出来ないという幸せな状態に
おりますが・・・

おお、さらに刺激的な言葉がありました、

110「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房の
    ある若い女を誘き入れて、かの女についての嫉妬から夜も眠られない、
    -- これは破滅への門である。」

う~~ん、これはまさに破滅しそうですね。
「青春を過ぎた」男、ってのが味噌ですかね。
「青春真っ只中」なら、あたりまえの、自然現象ってことを
お釈迦さんも認めているんでしょうか・・・・

この歳になって、破滅したら、それこそ「困窮邦人」になっちまいますからね。

御用心、御用心・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  

  

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2012年3月19日 (月)

スジが よろしいようです・・・・ 将来の日本語教師 in Baguio

フィリピン人の日本語の先生を育てたい、ってのが私の最大の目標なんです。

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それで、今、日本語教師養成講座ってのをやっているんです。

まっ、講座を受講しているのは一人だけなんですけどね。

でも、いいんです。

この教室を経営しているフィリピン人女性も、私の昔の生徒だったので、

二人目ってことになります。

この二人目も、なかなかスジがいいんです。

5img_1893

彼女は、まだ大学生でして、今まではマニラの大学で勉強していたそうなんですが、今はバギオ近郊の大学で教育学を専攻しているんだそうです。

その彼女にオーディションみたいなことをやっているんです。

要するに模擬授業ですね。 実習です。

講師の私が生徒役で、受講生の彼女が先生役をしているわけ。

私は、東京の某専門学校で講師をしていたことがあるんですけどね、日本人であっても、教壇に立って教える実践は、これがなかなか難しいんです。

日本人はクヨクヨと考え過ぎるのかもしれませんね。

この彼女は表面的に見るとソフトで優しい雰囲気なんですけどね、度胸があるんですねえ。

それに飲み込みが早い。

スジの良い弟子ってのは気持ちがいいですね。

週一回の3時間の講義と この模擬授業が 6月まで続きます。

楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

   

   

   

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2012年3月18日 (日)

誰が言ったか知らないが・・・「頭の体操」 日本語教師

一応、日本語教師なので、時々、発作的に、日本語が気になるんです。

日本語教師性過剰反応症候群なんです。

NHKのテレビで夏目漱石の小説「虞美人草」について小説家などが数名
集まって座談会みたいなことをやっているのを見ていたら・・
見ていたといっても、途中からだったので、議論の筋は分からないまま。

その中で、「真面目」って言葉と「済みません」って言葉が
出てきまして。

「まじめ」と「しんめんもく」という読み方がちょっと議論になったんです。
「しんめんもく」と読むのは、あまり馴染みがなくて、
「ああ、そういえば、そう読むんだな。」という感じでした。

真面目 = 真 + 面目
まじめ = しん  めんもく

漢和辞書によれば、
「しんめんもく」:そのもののもつ本来の姿・力。真価。
         本領。真面目(しんめんぼく)。
         「真面目を発揮する。」
         ありのままの姿。 真相。 実相。

「まじめ」: <日本語での特別な意味>
       実直なこと。 また、本気なこと。

面目(めんぼく):
 世間や周囲に対する自分の名誉。
 世間や周囲から受ける高い評価。
 人にあわせる顔。 面目(めんもく)。
 顔つき。ようす。
 世間や人にあわせる顔。体裁。名誉。

ここで、ちょっと驚いたのが、「まじめ」という読み方が
日本語での特別な意味>だってことです。
普通には「まじめ」の方がよく使われてますよね。
 
日本語での特別な意味ということは、中国語で真面目という
漢字熟語はあるけれども、意味としては「しんめんもく」の
意味で使われているってことなんでしょうか。

早速、インターネット翻訳で調べてみましたら:

(中国語) 「真面目」 -> (日本語) 「真の姿」

と出ました。 なるほどね。

そこでさらに、日本語の古語辞典での意味を読んでみますと、

古語辞典では、

真面目だー>忠実なり・実なり(まめ・なり)
ー 浮気でないこと・好色でないことを表すことが多い。
ー 忠実だ、誠実だ、まじめだ。
ー 実用的だ、実際的だ。
ー やる気がある、熱心だ、勤勉だ。
ー 健康だ、達者だ。
 
「そのものの本来の姿」という事ではなく、「まじめ」は
元々「浮気でない」「忠実だ」「熱心だ」ということに
なるわけですね。

テレビの座談会では、夏目漱石がどちらの意味で使っているんだろうか、
といった話の内容だったと思います。

考えてみると「本来の姿」と「忠実だ」という意味の違いはなかなか
微妙ですね。

「自分に忠実」であることが「自分の本来の姿」ということになるのかどうか。

「あるがままの自分」であることが「まじめだ」と周りが認めることになるのかどうか。

そうなることが、一番良いことだと、私は思うのですが・・・

・・・・・・

「済みません」

感謝の意を表すとき、頼むとき、あやまるときなどに
使うことば。 申しわけありません。 ありがとうございます。

本当に日本人は口癖のように「すみません」を使いますね。
しかし、ちょっと考えてみると変な言葉だと思いませんか。

「済みません」じゃあ済みませんよ!
って言われたことはありませんか?

これをフル・センテンスにしたら、元々どういうことだったんでしょうね。

「いくら感謝をしても、それで済まないことは分かっていますが、有難うございます。」
「謝っても、それで済まないことは分かっていますが、ごめんなさい。」

ってことだったんでしょうかねえ。

「済む」を辞書で調べてみると:

ー 物事が終わる。完了する。
ー かたがつく。 解決する。
ー 用が足りる。 間に合う。
ー 申し訳が立つ。 義理が立つ。
  (多く打ち消し・反語の形で使う)
  「すまない・すみません」

つまり、「申し訳がたたない」「義理が立たない」ってことなんですね。

感謝するとき、頼むとき、謝るときに、

「いくら感謝をしても、義理がたたないけれども、本当に有難う。」
「こんなことを頼んで、御迷惑を掛けて、申し訳がたたないけれども、よろしく。」
「謝っても、トラブルが解決するわけではないけれども、本当にごめんなさい。」

ってことで、皆さん使っているんでしょうか・・・・。

 

 

 

 

 

 

  

  

  

  

  

  

  

  

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