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2012年5月26日 (土)

「ブッダのことば」 (18) お釈迦さんは何故出家したのか? 

 
岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「第三 大いなる章」というところに入ります。

「一、出家」では、お釈迦さんがどうして在家から出家になったのかを
書いてあります。

405 眼ある人(釈迦)はいかにして出家したのであるか、
    かれはどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、・・・

406 この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である
    ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)と見て、
    出家されたのである。

・・なんだか随分消極的な理由のように聞こえませんか?
まるで、息苦しい日本からフィリピンに逃げ出した日本人みたいですね。(笑)

そして、お釈迦さんはどこに行ったのかというと:

408 目ざめた人(ブッダ)はマガダ国の(首都)・山に囲まれた
    王舎城に行った。 すぐれた相好にみちた(目ざめた)人は
    托鉢のためにそこへ赴いたのである。

・・この一連の話は、ブッダの愛弟子で侍者であったアーナンダの話だと
されているそうです。
お釈迦様の十大弟子の一人で、多聞第一(たもん・だいいち)とも呼ばれ、
漢訳のお経に何度も出てくる「如是我聞」(にょぜ・がもん)「私はこのように
聞きました」の私=アーナンダであるものが多いとされているそうです。

「三、みごとに説かれたこと」

ー 師は告げていわれた、「修行僧たちよ。 四つの特徴を具えたことばは、
  みごとに説かれたのである。・・・その四つとは何であるか? ・・・」

450 立派な人々は説いたーー i.最上の善いことばを語れ。
    ii.正しい理を語れ、理に反することを語るな。
    iii.好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。
    iv. 真実を語れ。 偽りを語るな。

・・そして、この後にいろいろと書いてあるのですが、

451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。
    これこそ実に善く説かれたことばなのである。

452 好ましいことばのみを語れ。 そのことばは人々に歓び迎えられる
    ことばである。 感じの悪いことばを避けて、他人の気に入る
    ことばのみを語るのである。

・・実に分かり易い説法ですが、実行するとなるとなかなか難しいことですね。
言葉が持っている魔力というか、言霊の力というのか、他人に対してだけで
なく、自分に対しても 言葉は使い方によって禍となるってことでしょうか。

私なんぞは、天邪鬼の皮肉屋なので とてもとても・・・。 それに、正直に言ってしまうってこともありますよね。

「四、スンダリカ・バーラドヴァージャ」

この難しい名前は 火の祀りを行っていたバラモンの人物の名前です。

462 生まれを問うことなかれ。 行いを問え。 火は実にあらゆる薪から
    生ずる。 賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、
    恥を知って慎むならば、高貴の人となる。

・・ここは、インドですからね。 カースト制度があるインド。
その中で このようなことを説いていたお釈迦さんは やっぱり凄いんじゃ
ないでしょうか。

そして、この章では、この火の祀りをやっているこの人物が
「この供物のおさがりを誰に食べさせようか。」って質問するわけです。

それに対するお釈迦様の答え:

467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、
    平安に帰し、清涼なること湖水のような<全き人>(如来)は、
    お供えの菓子を受けるにふさわしい。

468 全き人<如来>は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸仏)
    と等しくして、平等ならざる者どもから遥かに遠ざかっている。
    かれは無限の智慧あり、この世でもかの世でも汚れに染まることが
    ない。 <全き人>(如来)はお供えの菓子を受けるにふさわしい。

・・如来という言葉が既にここに出ているんです。
それに「過去の目ざめた人々、諸仏」ってのもあります。
お釈迦様が ただ一人の仏さんかと思っていたら、そうじゃないんですね。
過去仏とか未来仏とかいう概念は あとの時代の大乗仏教の話かと思って
いたんですけど、既に その布石になるような諸仏のことが原始仏教にも
既にあったと理解していいんでしょうか。

477 自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが
    等しくしずまり、身体が真っ直ぐで、みずから安立し、動揺すること
    なく、心の荒みなく、疑惑のない<全き人>(如来)は、
    お供えの供物を受けるにふさわしい。

・・「自己によって・・」のところを巻末の解説でみてみますと、
「自己を自己なしと見て、かれはそのとき解脱する」、
それを認めることなくーー自己を実体としてそこにあると認めることなく
の意であろう。  と書いてあります。

もしかして、この辺りが、「般若心経」に書かれている「色即是空」
通じていくのでしょうか。

485 「かれに対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌してかれを
    礼拝せよ。 飲食物をささげて、かれを供養せよ。 このような
    施しは、成就して果報をもたらす。」

・・これは、祭祀の時に どのような人を礼拝したらいいかというバラモンの
人物に対するお釈迦さんの答えなんです。
ホームレスで乞食である出家の修行僧を見下してはいけないよ、ってことを
言っているようです。

さて、日本のホームレスの人たちに対して、こういう姿勢ができますか、皆さん?

 

 

 

 

 

 

 

 

   

   

   

   

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2012年5月24日 (木)

「ブッダのことば」 (17) 出家はホームレスである 

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

一ヶ月間 日本に一時帰国して中断していましたが、
この本の続きを読んでいきたいと思います。

(最初のその(1)に戻る方は こちらへ。)

(前回の(16)は こちらです。)

「一四、ダンミカ」 の章です。

ー ダンミカという在俗信者が五百人の在俗信者とともに師のおられるところに
  近づいた。

376 智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。 ・・・教えを聞く人は
    家から出て出家する人であろうと、また在家の信徒であろうと、
    どのように行うのが善いのですか?

・・ここに在俗とか在家とかいう言葉、そしてその信徒がでてきています。
巻末の解説には、「教えを聞く人」とは、在家、出家の両方を意味していたと
あります。 小乗だとか大乗だとかいう区別はもちろんここにはないんですね。

380 毘沙門天王であるクヴェーラも、また教えを請おうとして、・・・
    かれもまた(あなたの話を)聞いて、喜んだ姿を示しました。

・・「毘沙門天」という日本でもおなじみの神様が出てきました。
解説では、「多聞天」とも訳されると書いてあります。

385 (師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。 煩悩を除き去る
    修行法
を汝らに説いて聞かせよう。 汝らすべてはそれを持て。
    目的をめざす思慮ある人は、出家人にふさわしいそのふるまいを
    習い行え。

・・お釈迦さんは在家であろうが、出家であろうが、「煩悩を除くための
修行法」を教えたということなんですね。

少なくとも 神様を信じなさい というような話じゃなさそうです。

387 諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、ひとびとを
    すっかり酔わせるものである。 これらのものに対する欲望を
    慎んで、定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ。

・・托鉢で朝食を得るわけですね。
しかし、むやみに村に行っちゃいけないよと言っています。
それに、外界のいろんな刺激に酔ってはいけない。厳しいねえ。

388 そうして修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、
    ひとりで退いて、ひそかに座れよ。自己を制して、内に顧みて
    思い、こころを外に放ってはならぬ

・・「こころを外に放ってはならぬ」って、まるで引きこもりの勧めみたいですね。

389 かげぐちや他人を誹謗することばを発してはならぬ。

393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。 このように実行する
    人は善い(教えを聞く人)(仏弟子)である。 純然たる出家
    修行者に関する規定は、所有のわずらいのある人(在家者)
    これを達成するのは実に容易ではない。

・・在家はなんらかの所有をしている人なんですね。 所有=わずらい なんです。
在家者には出家者の真似は難しいから、以下のことをやりなさいって言っています。

そして、この後に、「いきものを殺してはならぬ」、「なんでも与えられて
いないものを取ってはならぬ。」、「他人の妻を犯してはならぬ。」、
「偽りを言ってはならぬ。」、「飲酒を行ってはならぬ。」、などが述べて
あります。

404 正しい法(に従って得た)財を以って母と父とを養え。正しい商売を
    行え。 つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、
    (死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く
。」

・・ここまでがお釈迦さんの答えなんです。

在家に対する教えが書かれています。
真面目な在家は往生できるってことを言っているんでしょうかねえ??
「光を放つ」ってのは もしかして大乗仏教の阿弥陀仏につながるんでしょうか。

阿弥陀仏の別名は「無量の光明の仏(amitaabha)アミターバ」ですしね・・・

解説によれば、修行者は「われらは、森に住む者、托鉢して食物を得る者、
残食が鉢に盛られるのを楽しむ者」・・とあります。

そして、最初期の仏教修行者は住居とか臥床というものをもっていなかった。
さらに、せいぜい毛布か布にくるまって寝ていただけ、とも書いてあります。

つまり、出家者を簡単に言えば、ホームレスの人たちってことになりますね。

おまけに、出家は托鉢で食べものを乞うことによって食事をしていたわけで、「乞食(こつじき)」なんですね。 こちらの語源辞典をご覧下さい。

http://gogen-allguide.com/ko/kojiki.html

修行僧はホームレスの乞食ということになります。

  

 

 

 

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

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一時帰国中 何が一番心配だったかっていうと・・・

 

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この子達のことが 心配で、心配で・・・

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・・・なんでかって言うと、

この子猫ちゃんたちが生まれたばかりだったんです、一ヶ月前は・・・

3img_5317

このお母ちゃんにご飯をあげる担当は、

下宿のお婆ちゃんと 私だったんですけどね、

そのお婆ちゃんがアメリカの子供たち家族のところに行っちゃって・・・

半年ばかりはアメリカ滞在なんです・・・

3img_5312

でも、心配は要りませんでした。

猫をいじめていた男のヘルパーちゃんが ちゃんとご飯をあげてくれていたみたいです。

ちっちゃい子猫ちゃんたちを いじめるわけにはいかないものねえ。

 

 

 

 

  

  

  

  

  

  

  

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日本語教師症候群  もうひとつ ・・・・ 終電の反対語は?

「終電」って言葉はよく使いますよね。

じゃあ、「終電」の反対って何かご存知ですか?

「始発」?

「終電」って「最終電車」のことだから、「最初電車」?

電車のぶら下がり広告で こんなのを発見したんです:

Ap1060579_s

JRの線路工事の案内なんですけどね、もうちょっと拡大しますと:

Ap1060579_b

「終電」、「初電」、「始発」、「終着」、などの言葉が出ています。

・・・・

恥ずかしながら、今まで「初電」という言葉を聞いたことがありませんでした。

「はつでん」って読むんですか? それとも「しょでん」?

「始発」= その電車が走り始める、出発点。 始発駅 始発電車

「終着」= その電車が走り終わる、到着点。 終着駅 終着電車

「この電車は 新宿始発の電車で、終着は品川駅です。」とか使えますね。

・・・で、「終電」と「初電」は?

「終電」= ある路線のある区間で、一日の最後に走る終わりの電車。

ってことは、

「初電」= ある路線のある区間で、一日の最初に走る初めの電車。

・・・って定義でいいんでしょうか?

「終電」には「始発駅」も、「終着駅」もあるわけですね。

だから、「初電」」にも「始発駅」と「終着駅」があるってことになります。

・・・ でも、でも、

日頃使っている言い方を振り返ってみると、

「明日の 上野駅からの始発は 朝の何時ですか?」

って言いませんか?

これって、もしかして、正しくは、

「明日の 上野駅からの初電は 朝の何時ですか?」

って言うべきなんでしょうかね???

・・・

つまらないことなんですけど、日本語教師って、こんなことで悩むんですよねえ~~。

   

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

日本語教育 日本語教師 フィリピン バギオ 反対語 熟語 ニュアンス 単語の意味 鉄道用語 始発電車 終着電車 最終電車 最初電車?

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日本語教師 症候群が・・・ また発症か・・・

電車の中で このぶら下がりを読んでいたんですけど・・・

0img_5293

全体を何度か読んでいて、どうも後段のすわりが 

いまひとつだなあ~って感じたんです。

三つの段の最後の段なんですけど・・・

皆さんは何か感じませんか?

     

「期待するほど 自分を見ていて くれないが」

「がっかりするほど 見ていなく ない。」

助詞の使い方なんですけどね。

「がっかりするほど 見ていなくも ない。」

」と言うより、「」って言うのが多いような気がしませんか?

例えば、

「試合に勝ったとは 言えないが、負けたと 言えない。」

これを、

「試合に勝ったと 言えないが、負けたと 言えない。」

とは言いませんよね。

あなただったら、後段にどっちを使いますか?

「は」ですか、「も」ですか?

後段にも「は」を使っているのには 何か意図があるんでしょうかね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

  

  

日本語教師 助詞 使い方 変な日本語 電車 ぶら下がり広告 

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