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2012年6月 1日 (金)

「ブッダのことば」 (22) おしゃべりな奴は地獄に落ちるぞ!!

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「10、 コーカーリヤ」

修行僧であるコーカーリヤさんが、ゴータマ・ブッダ(お釈迦様)に
こんなことを言ったんです。
「尊き師(ブッダ)よ。 サーリブッダとモッガラーナとは邪念があります。
悪い欲求にとらわれています。」

それに応えたお釈迦様は、
「まあそういうな。 サーリブッダとモッガラーナとを信じなさい。
サーリブッダとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
を何度も言うんです。

その後、そのコーカーリヤさんは、全身に腫れ物が出てきて、だんだん大きく
なって、結局は死んでしまって。

お釈迦様の前に、梵天が現れて、「修行僧コーカーリヤは、二人に敵意をいだいて
いたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。」と報告したってあるんです。
梵天は「サハー(娑婆)世界の主」と書いてあります。)

そして、その後に、いろいろな人間の性が語られているんです:

657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている
    愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

661 嘘を言う人は地獄に堕ちる。 また実際にしておきながら
    「わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。 両者ともに
    行為の卑劣な人々であり、死後にはあの世で同じような運命を受ける
    (地獄に堕ちる)。

664 口穢く、不実で、卑しい者よ。 生きものを殺し、邪悪で、悪行を
    なす者よ。下劣を極め、不吉な、でき損いよ。 この世であまり
    おしゃべりするな。 お前は地獄に堕ちる者だぞ。

他にもたくさん列挙してあるんですけど、とどのつまりがどうなるかって
いうと:

677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ
    胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。
    すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。

・・これってどうよ。 どんだけ永遠に地獄にいなくちゃいけないってこと??

だから、
「それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばと
こころをつつしむべきである。」

確かに、「口は災いのもと」ですもんね。

「11、ナーラカ」<序>

「ナーラカ」はアシタ仙人の甥とありますが、この<序>では、
ブッダが誕生したときアシタ仙人がその相を占って、ブッダの将来を
予言した、とあります。

679 よろこび楽しんできよらかな衣をまとう三十人の神々の群と
    帝釈天とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、
    アシタ仙は日中の休息のときに見た。

683 (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかの
    ボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽の
    ために人間世界に生まれたもうたのです、--シャカ族の村に・・」

697 その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の
    清らかな境地を予見していた。 その聖者に教えられて、かねて諸々の
    善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、
    みずからの感官をつつしみまもって暮らしていた。

さて、それから年月が流れ、ナーラカさんがお釈迦様に質問をする時が
やってきたわけです:

その質問は「聖者の境地、最上の境地」はなんなのか、ってことです。

703 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
    (罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)
    冷静に、高ぶらずにふるまえ。

709 かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで
    瞑想し、大いにみずから満足すべきである。

・・・ここに瞑想、つまり座禅をすべきだってことが書いてありますね。
しかし、喜怒哀楽というのか、感情を出さずに平然といるっていうのは
難しい。 私はポーカーフェイスは苦手なんです。

712 「<施しの食物を>得たのは善かった」「得なかったのもまた
    善かった」と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。
    あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても
    得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。

・・・これは、なかなかの比喩ですね。食べものをもらいに托鉢をしても、
そこに施す人がいるとかいないとかを気にしてはいけないってことのよう
ですね。

713 かれは鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるように
    するのだ。 施物が少なかったからとて軽んじてはならぬ。
    施してくれる人を侮ってはならない。

・・・「有難う御座います」なんて声を出しちゃいけないっていうんですね。
反対に、「もう少しくださいよ」なんてことも駄目。

718 独り座することと<道の人>に奉仕することとを学べ。
    聖者の道は独り居ることであると説かれている。 独り居てこそ
    楽しめるであろう。

・・・道の人っていうのは修行僧で、奉仕というのは在家の人たちが
托鉢に応えることを言っているようです。

721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く
    静かである。 愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は
    水の満ちた湖のようである。

・・・いかがですか?

何があっても平然として、独り座禅をして、托鉢をする聖者。
それにくらべて、「おしゃべり」な我々凡夫。
その差の大きいこと大きいこと・・・・
私なんぞは紅蓮地獄にめっちゃ近いなあ。 いやだなあ~~。

   

   

 

   

   

   

   

   

 

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2012年5月31日 (木)

「僕たちはここにいるよ」 Naey Kami  東日本大震災の映像とともに

このyoutubeをまずお聴き下さい。

http://www.youtube.com/watch?v=cFeEApvQ1wY

フィリピン・北ルソン 山岳民族の言語 カンカナイ語で 子供たちが歌っています。

言葉の意味も分からないのに、子供たちの歌声に 涙が溢れてきます。

東日本大震災・大津波の被災地での映像がこの中で使われています。

曲名:「僕たちはここにいるよ」(Naey Kami)
制作: RCOレコード
歌: ガウィット、レア、バントル、ドンドン
   (コーディリエラ・フィルム・インダストリー)
言語: カンカナイ語(フィリピン・ルソン島北部の山岳民族の言語)
    (主にバギオ市から北にあるブギアス、マンカヤンなど)

歌詞:

日本の大津波を知っていますか
なにもかも壊されて、忘れられない
大きな町を飲み込んだ、
そして、多くの人々も

リビアの戦争を知っていますか
人々が殺しあって
果てしない欲のために

エジプトの地震のことを聞きましたか
人々が亡くなり、悲しみに暮れています
私たちの国の人たちも
そこにいたんです

中国にいる私たちの国の人のことを聞きましたか
その人は死刑になったんです
麻薬のために
家族は悲しみとともに残されて

  僕たちはここにいるよ、あなたのこどもです
  そしてあなたたちを支えます
  すべてのことは もう書かれていたのに
  バイブルにすでに書かれていることなのに
  人々はすぐに忘れてしまうから
  そして 人々はいたらないことばかりだから
  祈ることすら忘れてしまうから

私たちの国のことしか思い出せないのなら
大きな地震やピナツボ山の噴火がありました
台風オンドイやペペンが大きな傷跡をのこしました

マギンダナオ町での大殺戮を見ましたか?
関係ない人々が命を落として
だから、だから、みんなが手をとりあって
もうこんなことが起きないように

注: この翻訳は、原語のカンカナイ語を 
   Gawiden Kriz Pacursaさんが英語に、
   その英文を Sase Tamotsu が 和文に翻訳しました。

 

 

 

 

 

   

   

   

   

   

   

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2012年5月30日 (水)

「ブッダのことば」 (21) 絆を断て! 理想の修行者とは

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

原始仏教、つまりお釈迦さんが生きていた時代は、インドではバラモン教が
強大であって、バラモン教は古代ヒンドゥー教とも言われるそうです。
ご存知のカースト制度があって、バラモンはその一番上の階級の司祭階級だと
されています。

そのバラモン教を批判する形で、仏教やジャイナ教などが出てきたようです。

「九、 ヴァーセッタ」

このタイトルも人の名前でして、バラモンの青年なんです。
この青年がもう一人のバラモンの青年と「バラモンとはなにか?」で論争し、
決着が付かなかったので、お釈迦様のところに質問に来たってわけです。

彼の質問は「生まれによってバラモンであるのでしょうか。 あるいは
行為によってバラモンとなるのでしょうか?」 なんです。

お釈迦様の答えに バラモンという言葉が何度も出てくるんですけど、
ここでは「理想の修行者」という意味で使われています。

600 諸々の生物の生まれ(種類)の区別を、順次にあるがままに
    説明してあげよう。 それらの生まれは、いろいろと異なって
    いるからである。

・・と言って、お釈迦様はいろんな生物の区別を述べるんです。
草木、蛆虫、コオロギ、蟻、四足獣、腹を足として背の長い這うもの、
水の中に生まれ水に棲む魚ども、翼を乗り物として虚空を飛ぶ鳥ども、
などなどが出てきます。

607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、
    人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なって
    いるということはない。

611 身を稟けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだ
    ではこの区別は存在しない。
    人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ

614 人間のうちで、種々の技能によって生活する人があれば、かれは
    職人であって、バラモンではないと知れ。

・・つまり、人間の場合は、やっている仕事などによってその名称がつけ
られるということです。

・・・で、バラモンなんですけど:

621 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執着を超越して、
    とらわれることのない人、--かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

628 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、
    欲の少ない人、--

632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し
    ことばによって何人の感情も害することのない人、--

641 人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、--

そして、お釈迦様の結論は:

650 生まれによって<バラモン>となるのではない。
    生まれによって<バラモンならざる者>となるのでもない。
    行為によって<バラモン>なのである
    行為によって<バラモンならざる者>なのである。

654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。
    生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。--
    進み行く車がクサビに結ばれているように。

・・ 「理想の修行者」は 「人間の絆を捨て」ってところが凄いですね。
それに「在家者・出家者のいずれとも交わらず」ってどういうことなんでしょう。

ちなみに、この質問をしたバラモンの青年は 大富豪のバラモンのところに
いる青年たちみたいなんですけどね。

東日本大震災以来、日本では「絆」一色ですけど、仏教の僧侶としては
どう考えるんでしょうね。

「ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の
感情も害することのない人」ともあるんですけど、

普通の人は心から思っていることを(真実と信じていることを)素直にしゃべってしまうと、多くは周りの人たちの感情を害することにもなってしまいますよね。 もっと大人になって、気遣いをして、話し方に気をつけなさいってね。

前回の(20)のような 
「子供が死んでも嘆き悲しむのは無益である」
なんて言っちゃったら 被災者の感情を害することになるんじゃないですかね。

どう考えたらいいんでしょう・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年5月28日 (月)

祝 ぞろ目 111111  有難う御座います。

皆様、毎度 ご来場ありがとうございます。

めでたく 111111 達成です !!

5img_5339

抜け目なく ばっちり撮影できました。

今回は 偶然 タイミング良く ゲットです。

 

 

  

   

    

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「ブッダのことば」 (20) 子供が死んでも嘆き悲しむな

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「六、サビヤ」

サビヤさんは、遍歴の行者で、一人の神から
「サビヤよ。<道の人>であろうとも、バラモンであろうとも、汝が
質問をしたときに明確に答えることのできる人がいるならば、汝はその人の
もとで清らかな行いを修めなさい。」と言われて いろんな有名な人たちに
教えを請いに歩き回ったんです。

それで、満足のいく結果が得られずに 最後にゴータマ・ブッダ(お釈迦様)の
ところに来たというわけです。

ってことなので、この章は いかにブッダが凄いかってことをいろいろと
書いてあるんです。

そこで、この時のブッダの立場がわかる記述があるんです:

「ここにおられる<道の人>ゴータマもまた衆徒をひきい、団体の師であり、
有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められ
ている。」

「<道の人>は若いからといって侮ってはならない。 軽蔑してはならない。
たといかれが若い<道の人>であっても、かれは大神通があり、大威力がある。」

そのゴータマ・ブッダに、サビヤさんはいろんな質問をするんです。

513 サビヤがいった、<修行者>とは何ものを得た人のことをいうのですか?
    何によって<温和な人>となるのですか? どのようにしたならば、
    <自己を制した人>と呼ばれるのですか? どうして<目ざめた人>
    (ブッダ)と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、
    わたくしに説明してください。

・・・いやはや、随分遠慮のない 機関銃のような質問ですね。
そして、お釈迦さんは この質問にひとつひとつ答えるんですけど、
ここでは その一部だけをご紹介します。

517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら
    思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに
    至った人、--かれを<目覚めた人>(ブッダ)という。

530 内的には差別的<妄想とそれにもとづく名称と形態>とを究め知って、
    また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である
    束縛から脱れている人、--そのような人が、まさにその故に
    <知り尽くした人>と呼ばれるのである。

・・・そして、すべての質問に答えたお釈迦さんに対して、サビヤさんは
いろんな言葉を使って賞賛するわけです。

544 神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。

という風に。

そして、サビヤさんはゴータマ・ブッダさんに帰依し、修行のあとに聖者の
一人となったとあります。

この後の章 「七、セーラ」は、バラモンであるセーラさんが、最初はブッダに
疑いの目を向けていたのに、三百人の仲間とともに出家し、聖者となったこと
を書いてあります。

「八、 矢 」

この章のタイトルですが、巻末の解説によりますと:

近親が亡くなった悲しみに打ちひしがれるな、という教えを述べている一節である。
或る在俗信者が子を失って、悲嘆のあまり、七日間食をとらなかったのを
ブッダが同情して、かれの家に赴いて、かれの悲しみを除くために、この教えを
説いた。
と書いてあります。

574 この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるか
    解らない。 惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

576 熟した果実は早く落ちる。 それと同じく、生まれた人々は、
    死なねばならぬ。 かれらにはつねに死の怖れがある。

580 見よ。 見守っている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、
    人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる

584 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない
    ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。
    亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。

593 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得た
    ならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、
    安らぎに帰する。

嘆き悲しむのは無益である、ってお釈迦さんは言っているんです。

普通の人ならば、泣き悲しむことが人間らしくて、愛すべきで、素晴らしい
ことだと思うんですが・・・
煩悩をなくす、悲しみを超越するということが、いささか「冷たい人間」に
なることのように響きませんか?

確かに客観的にみれば お釈迦様のおっしゃる通りなんですけどね・・・

でも、根底のところで、人間の心の強さというものも分かっていらっしゃる
ということなんでしょうね。

   

   

 

   

   

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日本語教師症候群-「ホッチキス」って元々英語だっけ?

日本語教師として日本語の入門の生徒にカタカナを教えるんですけどね。

カタカナは基本的には外来語を表記する時に使うんだよって教える訳です。

それで、教室にある身の回りの物を使って、その例をあげていくんです。

例えば、

ホワイト・ボード、 テーブル、ノート、ボールペン、カレンダー、

エアー・コンディショナー は エアコン、

ラジオ・カセット・プレーヤー(古いですが・・) は ラジカセ、

ってな具合です。

まあ、以上は 元々英語だから フィリピンの生徒にも分かり易いですよね。

そこで、いつも説明に困るのが 「ホッチキス」なんです。

恥ずかしながら 私も昔は 「ホッチキス」は英語だろうって思い込んでいたんです。

学校の英語じゃあ 教えてくれないでしょ?

・・で、アメリカ系の会社で仕事をするようになってから

「ステイプラー」だってことが分かったんです。

もう、40年も前の話ですがね。

・・・・

今日、この難問が片付きました。 解決しました。

このニュース・サイトの記事です。

「ホッチキス」という名称を巡る意外な事実

http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/spa-20120521-207744/1.htm

「ホッチキス」は、アメリカのホッチキス社が作って、日本では伊藤喜商店(現、株式会社イトーキ)さんが明治後期に「ホッチキス自動紙綴器」という名前で輸入販売を始めました。ホッチキス社製なので、「ホッチキス」と名付けたのです。

なんと、アメリカの会社の名前でした。

そういう意味じゃあ 英語って言えなくもないですけどね。

これで、すっきりしました。

・・・・・

まあ、似たような話はいくらでもあると思います。

フィリピンの人たちは 「コピーする」ことを 「ゼロックス」っていいますし、

「セロテープ」のことを 「スコッチ・テープ」って呼ぶんです。

CANONのコピー機を指差して、これは何だ? って聞くと、

生徒達は XEROXだって答えるわけですよ。

だから、これは XEROXじゃない、CANONだ、って日本製を強調するわけ。

最近は 私もフィリピンスタイルに慣らされてしまって 「スコッチ・テープ」と言うように

なってしまって、「セロテープ」って言葉を忘れていました。

日本で通用する言葉を教えないといけない日本語教師としては

この 忘れてしまう ってことが恐ろしいんです。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

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眠れない夜・・・ このCDは 速攻で効きます

このCDなんですけどね、

このCDをプレーヤーにかけて 布団にはいって聴きながら横になっていると、

テキメンに効きますよ。

5分もあれば ぐーすか 眠れます。

http://white8899.com/blog1/?p=600

だから、なかなかCDの一枚目を最後まで聴けず、何度も何度も

最初の部分だけを 毎晩くり返して聴くはめになってしまうんです。

中村元さんの「ブッダの言葉 スッタニパータの解説」CDです。

私が今読んでいる本の解説をCDに収録してあるんですけどね、

実によく効きます。

嘘だと思うなら 試してみてください。

仏様の教えって・・本当にありがたいものです。 (笑)

・・・・

付録:

ここで 「眠れる」、「眠られる」が気になった方へ:

「ら抜き言葉」の判別法についてのサイトがありました。

http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n1900

  

 

 

    

 

  

  

  

   

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2012年5月27日 (日)

「ブッダのことば」 (19) 金儲けは悪いことなのか?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

出家のことを読んできたんですが、じゃあ在家はどういう位置づけなのか。
在家の金儲けは悪いことなのか?
出家ばかり、乞食ばかりじゃ世の中は成り立ちませんからね。
そこんところは どうなのよ! ってことが疑問なんです。

480 詩を唱えて得たものを、わたしは食うてはならない。 バラモンよ、
    これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなす決まりではない。
    詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。

・・ここが難しいところなんです。
バラモンから「どんな人に供物を捧げたらよいか」という質問をされて、
お釈迦様がそれに答えるんですけど、その答えが素晴らしかったから
この供物を受け取ってくださいってバラモンがお釈迦様に差し出すんです。

それに対しての答えが上の言葉なんです。
つまり、なんらかの報酬として食べものを得てはならない、ってことですね。

修行者は、ただただ托鉢をして、食物を在家の人たちからいただくんだけど、
それは 何かに対する報酬としていただくわけではない、ってことなんです。

それに、乞食(こつじき)をして、食物をもらっても、修行者は「ありがとう」
なんてことは言わない。
修行者に、乞食に、托鉢の修行僧に、食物をあげるのは在家の務めらしいんです。
現代でも小乗仏教の国にはそのような常識があるようですね。

「五、マーガ」

マーガというのは、青年実業家みたいなんですけど、その彼が質問をしている
んです。

ー 「ゴータマ(ブッダ)さま。 わたくしは実に、与える人、施主であり、
  寛仁にして、他人からの施しの求めに応じ、正しい法によって財を求めます。
  そのあとで、正しい法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、
  ・・・さらに多くの人にも与えます。
  ・・・このように与え、このようにささげるならば、多くの福徳を生ずる
  でしょうか。」

これに対して、お釈迦様は「多くの福徳を生ずる」としています。

そして、さらにマーガは尋ねます:

487 この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳を
    めざして供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行する
    ときには、何者にささげた供物が清らかとなるのでしょうか。」

つまり、どんな人に供物を捧げるのが適当であるかってことみたいです。
これに対するお釈迦様の答えは たくさんあるんですが:

490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した
    <全き人>がいる。--そのような人々にこそ適当な時に供物を
    ささげよ。

494 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、
    欲望をもたぬ人々がいる。--そのような人々にこそ・・・

なるほど。 単なるホームレス、乞食、怠け者は いただけないみたいですね。
やっぱ世の中厳しいな。

503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、
    全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。
    -- そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。
    -- バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

・・・バラモン教の聖典であるヴェーダのことが出てくるんですが、
お釈迦様の時代にはバラモン教が支配的で、そこにお釈迦様の仏教が芽ばえて
行ったんですね。

そして、さらに青年実業家マーガさんが質問します:

508 誰が清らかとなり、解脱するのですか? ・・何によってひとは
    みずから梵天界に至るのですか? ・・どうしたならば、梵天界に
    生まれるのでしょうか?

509 マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、
    施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。 施しの求めに応ずる
    人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、
    と、わたくしは説く。

ちょっと分からない言葉がでているんですけど、検索してみますと:

梵天界とは=禅定の深まりの中で体験する心(輪廻)の中の世界。
六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天界)の世界に転生する
ことはなく、死後(肉体を失った後)は欲界を大きく超えた世界、「梵天界」
へ生まれ出るとのこと。

・・などが引っかかってきます。

「三種の条件」は、巻末の解説では:
三種とは三つの時期をいう。
与える前、与えつつある時、与え終わった後、の三つの時期。
「与える前にはこころ楽しく、与えつつあるときには心を清浄ならしめ、
 与えおわっては、こころ喜ばしい」

・・つまり、修行者に供物を与えるときに、心から喜びをもって与えれば
梵天界に生まれるという功徳が得られる、ということのようです。

よって、ホームレスの乞食修行者に ご飯を上げるときは、
眉をひそめたり見下げるような心では駄目で、心の底から喜んで
施しをしなさいってことですかね。

そうすれば 在家であっても 功徳が得られますよ。

お金を稼ぐことに才能がある人は、その財貨で、立派な修行者に施しをしなさい、ってことになりますね。

 

 

 

  

  

  

  

  

  

  

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