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2012年6月 7日 (木)

「朝」とは 何時からなのか? 日本語教師の悩み・・・

バギオでフィリピン人の女子大生に日本語教師養成講座をやって、
あとは修了試験を残すのみの段階まで来たんです。

つい先日その講座で実習をやったんですけどね、「時間」を
どのように教えるかという授業の練習だったんです。

彼女が生徒に説明する絵を描いていましてね、
横軸を24時間の目盛りで刻んで、6AM辺りの点に
太陽が昇ってくる絵を描いているわけです。

0時から6時ころまでの空を黒く塗って、又、19時から
24時までのところも空を黒く塗って、月や星を描き入れて
いるんです。

さて、この教材を使って、朝、昼、夕方、夜、と教える
わけなんですけど、彼女が説明の中で、
0時から6時あたりまで黒く塗った部分を全部「朝」だと
言ったんです。

「???」

午前3時前後が朝??

AMが全部 朝??

私はちょっと驚いたんですね。
もしかして、フィリピン語や英語での感覚というのは
日本語とは違うのかな、ってね。

こういうのがあると、自分の日本語に対する感覚というのも
不安になるものなんです。 日本語教師症候群のひとつですね。

辞書で調べてみました:

朝 = 夜が明けてからの数時間

早朝 = 朝の早いうち

夜 = 太陽がしずんで暗くなっている間。
    日の入りから日の出までの間。

真夜中 = 夜更け、深夜

深夜 = 夜更け、「深夜放送=午前零時以後の放送」

およよ、やばいな。
この辞書でみると、私の感覚、考えも間違いみたいなんです。
4AMは朝じゃないのか?

そこで、類語辞典で、午前2時、午前4時や5時の頃をどう表現
するのが正しいのかをチェックしたんです:
ただ、地域によって微妙ですけどね。

夜中 = 夜の半ばごろ。

夜更け = 夜中よりも遅いころ。

真夜中 = 夜が最も更けたころ。

深夜 = 真夜中のやや文章語的な言い方。

暁 = 夜が明ける前、空が明るくなろうとするところ。

曙 = 夜が明ける前の、ものがかすかにみえるころ。

朝ぼらけ = あけぼの

早暁 = 暁の早い時

残夜 = ざんや、暁になったばかりのころ。

未明 = 夜がまだ明けきらないころ。

朝未き = あさまだき、未明。

明け方 = 夜明けのころ。

・・・さて、皆さん、どう思いますか ?

朝、昼、夕方、夜、とするならば、朝の前は「明け方」ですかね?

私の感覚では、
4AMあるいは5AMごろなら、「朝」って言うフィーリングじゃないか
と思うんですけど・・・

ただ、その広い「朝」の範囲のフィーリングの中で、日頃使っている言葉と
したら「明け方」ぐらいかなと思いませんか?

上に書き出した言葉って、どれもこれも日常的には、会話的には使いませんね。
「明け方」ぐらいしか使いませんよね?

でも「朝」が「日の出」以降だという辞書の定義が間違っていないとすれば、
「日が昇る前は全部夜」なんでしょうかねえ???

あなたの「朝」は、何時に始まりますか?

 

 

 

 

 

 

 

   

   

   

   

フィリピン 日本語教師 バギオ 教授法 教え方 海外で教える 日本語学校 養成学校

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2012年6月 6日 (水)

「ブッダのことば」 (24) ぶれないのがいいのか、執著しないのがいいのか

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

さて、前の章は かなり難しい話になっていましたが、
今日読んだところは、分かり易いところで、又 考えさせられるところです。

「第四 八つの詩句の章」

「一、 欲望」

769 ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢、傭人、婦女、親族、
    その他いろいろの欲望を貪り求めると、

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難
    がかれをふみにじる。 それ故に、苦しみがかれにつき従う。
    あたかも壊れた舟に水が浸入するように。

・・・宅地や家を購入し、それが長年の悩みの種になったり、
株で大損こいたり・・・まさしくおっしゃる通りでございます。

「ニ、 洞窟についての八つの詩句」

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、
    (死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、--
    「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を
    知り尽くして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行い
    をしないで、見聞することがらに汚されない。

・・・ここは、中道ってことを示唆しているんでしょうか?

780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。 また他人から聞いた
    ことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。 誹ることばが
    起こっても、聖者はそれに近づかない。
 だから聖者は何事に
    ついても心の荒むことがない。

・・・これは実におっしゃる通りですね。
私はいわゆる「誹謗中傷」などという言葉自体が嫌なんです。
よく最近は、インターネットなどでこのような言葉が氾濫していますね。
こういうサイトは見ないに限ります。
そういう言葉で誹り合うのって 傍からみていても嫌なものです。

781 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見
    超えることができるだろうか。 かれは、みずから完全であると
    思いなしている。 かれは知るにまかせて語るであろう。

・・・確かに、自分の偏見というのは自覚していても乗り越えるのは
難しいですよね。 自分が受けた教育やら経験やらを超えるというのは
なかなか難しい。いろんな本を読み、理解すると言っても、自分の考えの
範囲内でしか理解できるものではありませんしね・・・
じゃあ、どうしたら乗り越えられるのか・・・

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、
    自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。
    故に人はそれらの(偏執の)住まいのうちにあって、ものごとを
    斥け、またこれを執る。

・・・はい、その通りだと思います。 小人と呼ばれる所以でしょうか。

787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの論議(誹り、噂さ)
    を受ける。 (偏見や執著に)たより近づくことのない人を、
    どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか

    ・・・・

・・・偏見や執著がなければ 言いがかりはつけられない、ってことなんで
しょうけど、最近はやりの「ぶれない」人って言うのは、やっぱり色々と
批判されることにもなるんでしょうね。

偏見や執著がないってことは「君子は豹変する」ってことにもなるのでしょう。
臨機応変であることと、ぶれないことは 両立できるのかって議論も
ありそうですね。

昔は、「こだわり」ってことは悪い意味で使われていたように思いますが、
最近は何事にも「こだわり」がないといけないような時代になってしまいました。
要は、専門性やら、「ぶれない」やらが、この「こだわり」、執著ってこと
なんじゃないでしょうか。

やっぱり、この世、娑婆では、執著って 切っても切れないものなんでしょうね。

 

次回 (25)は こちらへ飛びます:

 http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/06/post-0b11.html

 

 

 

 

 

  

  

  

  

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2012年6月 4日 (月)

「ブッダのことば」 (23) ええ~っ! 食べちゃいけないの?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「一二、 二種の観察」

この章は、内容がだんだん難しくなってきて、訳がわからんのですが、
場面としては、
「そのとき尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、
満月の夜に、修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。」

要するに、坊さん達の集まりの場でのセミナーみたいなもんですかね。

「善にして、尊く、出離を得させ、さとりに導く諸々の真理を聞くのは、
 何故であるか。」

(「出離」=煩悩から離れること。出家すること。悟りの境地に入ること。)

「二種ずつの真理を如実に知るためである。」

二種とは何であるか。」

1)
第一の観察法:「これは苦しみである。 これは苦しみの原因である。」

第二の観察法:「これは苦しみの消滅である。 これは苦しみの消滅に至る道である。」

そうすれば、「二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。」

これらを知ることができれば、

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する
    かれらは(輪廻を)終滅させることができる。 かれらは生と老いとを
    受けることがない。

次に、
「また他の方法によっても二種のころがらを正しく観察することができるのか?」

「できる」
2)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」

そして、その後にさらに、「他の方法があるのか」に答えて、「ある」なんですね。

3)
第一の観察法:「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」

ここで、「無明」って何? なんですけど、

730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように
    輪廻してきた。 しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの
    生存に戻ることがない。

「無明」は 百科事典には このように書いてあります:

http://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E6%98%8E
真理を知らないという無知。サンスクリットでアビドヤーavidy?。
原始仏教においては〈四諦の理を,あるいは縁起の理を知らないこと〉
が無明であると定義される。大乗においては〈真如の理を知らない〉
あるいは〈有を無と見,無を有と見る〉と定義される。

・・・ここでは、原始仏教ですから、前者の意味になりますね。

さらに「四諦」ですけど、

http://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
仏教で説く四つの真理(諦,サティヤsatya)のこと。四聖諦ともいう。
仏教の開祖である釈迦は,ブッダガヤーの菩提樹下でこの四諦の真理を,
あるいは十二因縁という縁起の法を悟ったといわれる。四つの真理とは苦諦,
集諦(じつたい),滅諦,道諦の四つをいう。

・・・ってことは、どうも今読んでいるところは この本の佳境に
差し掛かっているのかな??

これで、もう終わりかなと思ったら、とんでもない、まだありました、
他の方法です。

4)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って
        起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」

まだまだあります、

5)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)
        縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」

6)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触
        縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」

7)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受
        縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」
8)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて妄執(愛執)
        縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」
9)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著
        縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」
10)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動
        縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」
11)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料
        縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」

・・・なんと、難しい言葉が並ぶ中に「食料」が出てきました。

748 「苦しみは食料の縁から起こる」と、この禍をしって、一切の
    食料を熟知して、一切の食料にたよらない

・・・むむむ? 食料にたよらない、ってどういうこと?? 食べちゃいけないの??

12)
第一の観察法:「およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺
        縁って起こるのである。」
第二の観察法:「しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、
        苦しみの生ずることがない。」

この先の文章はちょっと違ってくるんですが、

13)
第一の観察法:「従属する者は、たじろぐ。」」
第二の観察法:「従属することのない者は、たじろがない。」

14)
第一の観察法:「物質的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている。」
第二の観察法:「非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている。」

・・・ここで、巻末の解説をみますと、

物質的領域=色界(しきかい)
非物質的領域=無色界(むしきかい)

であるとあります。
だんだん「般若心経」の「色即是空」の臭いがしてきましたね。

そして、まだまだあるんです、

15)
第一の観察法:「神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・
        神々・人間を含む諸々の生存者が(これは真理である)と
        考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と
        如実に正しい智慧をもってよく観ずる。」

第二の観察法:「神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・
        人間を含む諸々の生存者が<これは虚妄である>と考えた
        ものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に
        正しい智慧をもってよく観ずる。」

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし
    <名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真理である」
    と考えている。

・・解説には、
非我なるもの」=名称と形態=仏教では、両者で個人存在を意味すると
               考えられた(漢訳では「名色」と訳す)。

・・・要するに、自分というものがあるという考えは間違っているという
ことになるんですかね?

16)
第一の観察法:「神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・
        神々・人間を含む諸々の生存者が(これは安楽である)と
        考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>と
        如実に正しい智慧をもってよく観ずる。」

第二の観察法:「神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・
        人間を含む諸々の生存者が<これは苦しみである>と考えた
        ものを、諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に
        正しい智慧をもってよく観ずる。」

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の
    聖者は見る。 (正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の
    世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」
    であると言う。 他の人々が「苦しみ」であると称するものを、
    諸々の聖者は「安楽」であると知る。 解し難き真理を見よ。
    無智なる人々はここに迷っている。

・・・う~~ん、本当に天邪鬼としかいいようのない話だと思いませんか?

全部で16なんですね。
ここで<大いなる章>第三おわる、とあります。

・・・嫌と言うほど、繰り返し繰り返しなんですが、少しずつ語句が違う
んですね。 原始仏教では文字にせずに口頭でのやり取り、伝承だから、
このような繰り返しになったのでしょうが。

ここに16項目が書いてあるんですけど、これがいわゆる四諦と十二縁起なの
かな、っと思うわけです。
・・でチェックしてみますと:

四諦:
 苦諦:苦という真理  1)
 集諦:苦の原因という真理 1)
 滅諦:苦の滅という真理 1)2) 
 道諦:苦の滅を実現する道という真理 1)2)?

十二縁起: 3)無明、行、5)識、15)名色、六処、6)触、7)受、
         8)愛、取、有、 1)生、老死

とあるので、これに上にかいた番号をあてはめてみたんですけど。
ぴったりにはなりませんね。

そもそも、「四諦」とか「十二縁起」とか言う言葉自体、いつ付けられた
名前なんですかね? お釈迦様の相当後代なんじゃないですかね。

でも、「般若心経」に出てくる
自分は五蘊(ごうん)である、と言えるか。
つまり、自分は「色、受、想、行、識」そのもの である、と言えるか。
って言うところに繋がりそうですね。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-172b.html

・・もっと読み進んでみないと、分からないみたいです。
お粗末様でした。

   

 

   

   

   

   

   

   

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