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2012年6月30日 (土)

ケッコー毛だらけ、猫灰だらけ・・・ 猫だって、犬だって考えているんだよ

これは、釜戸です。

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フィリピンの田舎では、結構使われているタイプじゃないかと思うんですけどね。

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フィリピン・バギオ市の大都会?にある我が下宿屋でも 現役です。

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夜になると・・・・こういう状態です。 「猫鍋」??

「汚いなあ~~」って思いますか?

でも、よくよく考えてみると、熱消毒された灰の上ですしね、温ったかいし。

おまけに、インターネットで検索してみると、

「猫灰だらけ」は、昔は、囲炉裏や焚き火の後の灰を、猫がつけてのみ取りかゆみを止めてました。」

という解説が書いてありました。

猫も馬鹿じゃあないんだなあ。

(まっ、確かに 馬でも鹿でもないっすけどね・・・・)

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これは 犬です。 子犬です。

5匹生まれたうちの4匹なんですけど、こいつらは結構丸々と太っているんです。

問題は、もう一匹でしてね。

この中の一番大きいやつの半分くらいの身体の大きさなんです。

生命力が無いっていうのか、要領が悪いって言うのか・・・

うまく育っていないみたいなんです。

ある夜のこと、この四匹は皆で身を寄せ合って寝ていたんです。

育ちの悪い一匹がいないんですね。

どうしたんだろう・・・・て思ったら。

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ちいさな一匹だけが お母ちゃんのおっぱいにしがみついていたんです。

この子犬はヨタヨタとしか歩けないですからね。

お母ちゃんがわざわざくわえて別の場所に運んできたとしか思えない。

犬だって馬でも鹿でもないんだなあ。 考えているんですねえ。

(たまたまかもしんないけど・・・)

しかし、しばらく眺めていると、やっぱりこの子は「とろい」みたいなんです。

ドタバタしている割に、しっかりおっぱいに吸い付いていないみたいなんです。

これが、他の4匹との生命力の違いなんですかね?

お母ちゃん、頼むよ・・・・・

・・・・いかんですね。

執着ですね。 愛執ですね。 煩悩ですね。

やっぱ、これじゃあ 悟れないな。

   

   

    

   

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「ブッダのことば」 (27) ええ~っ! 原始仏教は宗教を否定している?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「九、 マーガンディア」

マーガンディアとはバラモンであって、自分の娘を盛装させて同道し、
ブッダの妻として受納するように乞うたときに、ブッダがこのように語った
と解説にあるんです。

836 「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、
    が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・
    道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説く
    のですか?」

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。「わたくしはこのことを説く」、
    ということがわたくしにはない。
 諸々の事物に対する執著を
    執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、
    固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

839 マーガンディヤよ。「教義によって、学問によって、知識によって、
    戒律や道徳によって清らかになることができる」とは、わたくしは
    説かない。
 「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、
    戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる」とも
    説かない。 それらを捨て去って、固執することなく、こだわる
    ことなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。
    (これが内心の平安である。)

・・・あっちにも、こっちにもこだわってはいかんってことなんですけど、
こりゃあやっぱり難しいですよね。

842 「等しい」とか「すぐれている」とか、あるいは「劣っている」
    とか考える人、--かれはその思いによって論争するであろう。
    しかしそれらの三種に関して動揺しない人、--かれには「等しい」
    とか、「すぐれている」とか、(あるいは「劣っている」とか)
    いう思いは存在しない。

・・・つまり、余程自分に自信がある人でないと、普通なら動揺して
しまうってことなのかなあ。

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことの
    ない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく
    人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

・・・「未来に望みをかけることなく」ってのが、凄いですね。
生きていく為の未来への望みも、修行者には不要だってんですから・・・

846 ヴェーダの達人は・・・・かれは宗教的行為によっても導かれないし
    また伝統的な学問によっても導かれない。 かれは執著の巣窟に
    導き入れられることがない。

・・・「宗教的行為によっても」って、どういうこと??
ここはちょっと重要みたいです。 
解説をみると、こう書いてあります:

「祭祀や儀礼が宗教にとって本質的なものであるという見解に従うならば、
原始仏教は宗教を否定しているということになる。」

・・・こりゃあ、凄いことですね。
前から疑問に思っていることなんですけど、「仏教って宗教ってよべるの?」
ってのが私の素朴な疑問なんです。
「信仰」ってことが宗教だっていうのなら、修行をする仏教ってのは
自分で悟りを開こうとしているんだから、信仰、つまり宗教じゃないんじゃ
ないかってね。

そういう意味では、親鸞のような考え方になって初めて、日本の仏教は
宗教になったんじゃなかろうか・・なんて思うんです。

それに、執著してはいけないっていうのなら、宗教ほど特定の考え方に執著しているものはないんじゃないかって思いますもんね。

847 ・・・想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、
    世の中をうろつく。

・・・はい、毎日うろついております。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

   

   

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もうひとつの 若者パワー : コスプレ、アニメおたくの全国大会

山岳民族のハイスクール生のパワーに感動した私でありますが、

こちらのパワーもなかなか凄い !!

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フィリピン全土の8会場で順次開催されるコスプレ大会。

その皮切りとなったのがバギオ市でのコンテスト。

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こちらの若者たちは日本仕込みの最先端?

大企業のスポンサーがしっかりついて、音響設備などもバッチリ。

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日本のアニメ・ソングなどが次から次にかけられて、悪い気はしませんなあ。

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以前は、アニメが日本文化? コスプレが日本を救う?

「馬鹿なこと言ってんじゃないよ」

な~~んて思っていたんですがね。

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恐るべし! 漫画の力!

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ちなみに、明日7月1日からは「日比友好月間」。

その前夜祭のようなお祭りに ちょっと嬉しい。

 

 

  

 

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2012年6月29日 (金)

ぎゅうぎゅう詰めの歌声喫茶?   山岳民族の子供達のパワー

「日本の子供達だったら とても考えられないわね。」

日本から来た 世界先住民会議の参加者のご婦人がとなりに座っている日本人たちに話しかけている。

世界先住民会議には数カ国の人たちが参加し、その中には北海道の阿寒湖あたりから来たアイヌの人たちもいたのだが、その応援団みたいな関係者だった。

私は、チャーターされたジプニーの一番奥、助手席のすぐ後ろに座って、山岳民族のハイスクールの生徒達に周りを囲まれ、ぎゅうぎゅう詰めで身動きがとれない。

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この子達は、いわゆる山岳民族、地元ではイゴロットと呼ばれている人たちである。

バギオ市から北部の山岳地帯にある、ベンゲット州、マウンテン州、イフガオ州、カリンガ州などの人たちであって、山奥であれば、今でも電気などが十分には行き渡っていない村落などもある。

ハイスクールや大学に通うにも、大変な思いをしている子達も多いと聞く。

彼らと私は、たまたま、この世界先住民会議の会場を移動する時に乗り合わせた。

メイン会場となっているバギオ市の繁華街、セッション・ロードにあるギャラリー・カフェVOCASから、アシン・ロードにある BenCab美術館への移動だった。

あいにくの雨。 30分ほどの移動は、正直苦痛になるはずだった・・・。

ところが・・・である。

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普通なら、20名ほどで満員のジプニー。

そのジプニーに乗り込む、乗り込む・・・30人ほどの超満員状態。

生徒たちは自分の膝に友だちを一人、二人と座らせ、笑い声が車内に溢れた。

それも、次から次に乗り込んでくる日本人たちを見て、みずから進んで、奥につめ、床に座り込む子達もいる。

極々 自然に、誰から言われてということもなく。

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そして、ジプニーが走り始めてしばらくすると、誰かが始めるというわけでもなく、歌声が出てきた。 一人が歌っているというのではない。 皆がコーラスを始めたのだ。

彼らは、日頃から、山岳民族、自分達の民族の歌や踊りを学んでいるグループだ。 そうだと分かっていても、凄かった。

次から次に、出るわ出るわ。 テンポの速い賑やかな歌、ゆっくりしたバラードのようなものもある。 

「哀愁があるわよねえ。」

日本人のご婦人が言った。

私は、その歌声に圧倒されていた。

哀愁のある曲には、ぐっと涙さえ出そうになった。

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こんな気分になったのは何十年振りだろう。

そもそも、こんなにパワーのある雰囲気にいたことがあるだろうか・・・。

40年ほども前のことを思い出した。

高校を卒業して、東京に出て来たばかりの頃だったと思う。

まだ、その頃には 新宿に歌声喫茶なるものがあった。

次から次に、歌声喫茶ならではの曲を皆が声をそろえて歌っていた。

常連が多かったんだと思う。

初めてその空気の中に身をおいた私は、その雰囲気に呑まれるような気がした。

しかし、あの時は アコーデオンがあった。

声を掛けて、リードする人たちもいた。

今は、楽器など何も無い。 リーダーもいない。 

ハイスクールの子供達が アカペラで 声を合わせて、次から次にと歌っていく。

それぞれ、一人ひとりが、誰ともなしに、歌い始めると、皆が声を合わせていく。

「今の日本に絶対的に足りないのは、これ、だな。」

そう実感するのに 理屈は要らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

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2012年6月28日 (木)

フィリピン・バギオ市で アイヌの人たちに会いました : 世界先住民会議 Baguio

本当に バギオって面白いところです。

私は生まれて初めて アイヌの人たちに「ナマ」で会いました。

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ここはバギオ市の目抜き通りにある VOCASと呼ばれるカフェ&ギャラリー。

ここをメイン会場のひとつとして、「世界先住民会議」が7月1日まで開催されているんです。

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イベント系は主にVOCAS。 アカデミックなレクチャーなどは フィリピン大学バギオ校を使って実施されています。

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6月27日には、VOCASで、海外、フィリピン国内からの参加者によるパフォーマンスなどが披露され、

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その後、夕方近くには、会場を バギオ・アシン・ロードにある BenCab美術館に移して レセプションなどが行われました。

モンゴル、アメリカ・インディアン、タイ、日本のアイヌ、そしてフィリピン国内の先住民のグループの皆さん達が集まりました。

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さて、この中の民族衣装を着た方たち4名が 北海道のアイヌのグループの皆さんです。

フィリピンでアイヌの皆さんにナマで会う。

60歳を越えた私も 生まれて初めての 遭遇 です。(笑)

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この会場での盛り上がりは 凄かった。

ドラムの音に 参加の皆さんもウキウキ状態で、最後には会場一杯に 皆さんが踊りまくっていました。

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こちらは こちらで、地元イゴロット(山岳民族)の踊りが競演です。

「世界先住民会議」の会期は 7月1日まで。

日本からはアイヌ研究の大学教授など、北海道以外の愛知、京都、大阪などから数名の皆さんも参加されています。

詳しいスケジュールなどは、上記のVOCASでお尋ね下さい。

例によって(?)、スケジュールが事前に分からないので、アイヌの人たちのパフォーマンスを見損ねてしまったんです。

今度のショーはいつやるのかなあ・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  

フィリピン バギオ KAPWA Conference 2012 Baguio City 世界先住民会議

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2012年6月27日 (水)

バギオで 世界先住民会議 KAPWA Conference 開催中

今週一杯、フィリピン・バギオ市で「世界先住民会議」というものが開催されています。

今日は、バギオ博物館でオープニングがありましたので、ちょっと覗いてみました。

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海外、フィリピン国内の先住民族、あるいは少数民族と呼ばれる人たちのグループが集まっていました。

真ん中はアメリカ・インディアンの方だそうです。

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参加しているグループの皆さんが、それぞれの文化、伝統、芸能などを紹介していました。

ちなみに、一番前に座っている人たちは、日本のアイヌの関係者だそうです。

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バギオでのオーガナイザーは、この方。 キドラット・タヒミック監督です。

バギオは、マニラから250キロ。 山の中の都市ですが、かなり国際色豊かな町だと思います。 それに、学園都市でもあり、芸術の香りのする文化都市でもあると言えるでしょう。

その芸術分野のリーダーの一人が、このキドラット監督です。

それは、元々この町が アメリカの植民地時代にアメリカ人のための避暑地・保養地として開発されたという歴史的背景もあるのでしょうが、その後「夏の首都」として、実際に夏の間は マニラの政府機関がそっくりバギオに移って仕事をしていたという地位も、この町の性格を決めたのではないかと思います。

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バギオは、ルソン島の北部山岳地帯への入口に位置していますので、さらに北部の山岳少数民族・先住民族との接点にあるとも言えます。

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そもそも、このイベントは何なのかと言いますと、下の解説にありますように、

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先住民の伝統文化、芸術、技術工芸などを 次の世代に伝承していくことを目的としているようです。

フィリピンの法律に基づいて、NCCA(日本の文化庁のような機関?)が主催となり、     関係者によれば 4年に一度 このような会議が開かれているそうです。

 

 

 

                      

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2012年6月25日 (月)

「ブッダのことば」 (26) 独身者が 結婚したら「凡夫」?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「七、 ティッサ・メッテイヤ」

このタイトルは人名なのですが、どういう人なのかは書いてありません。
ただ、解説を見ると、ティッサはゴータマ・ブッダを友人程度に見なして
いる人であると書いてあります。

814 ティッサ・メッテイヤさんがいった、--「きみよ。 淫欲の
    交わりに耽る者の破滅を説いてください。 あなたの教えを聞いて、
    われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、
    車が道からはずれたようなものである。 世の人々はかれを「卑しい」
    と呼び、また「凡夫」と呼ぶ。

・・・まさに浄土真宗の親鸞さんが苦悩した部分になってきました。
「凡夫」って言葉が出てきましたね。
しかし、「かつては独りで暮らしていたのに、のちに・・・」ってところは
それまで独身だった者が結婚したら、ってことになりますよね。
ここは 修行者の話ではあるんでしょうけど、やっぱ娑婆の話とはちょっと
違いますね。

820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた
    人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。 これは諸々の聖者に
    とって最上のことがらである。 (しかし)これだけで「自分が
    最上の者だ」と考えてはならない
。ーー かれは安らぎに近づいて
    いるのだが。

・・・元々、私がこの本に興味を持ったのは、私の家の宗派である浄土真宗
というものがどんな仏教なのかを知るためでした。
浄土真宗から般若心経、そしてこのブッダの言葉まで遡って読んでいます。
元々のお釈迦様の教えというのが、親鸞とは全く別物であることは分かって
いたのですが、率直に言えば 想像以上の違いだと思います。

そもそも、自分の家の宗派でありながら、浄土真宗については全くしらなかった
というのが想像以上の違いの根源なんではありますが・・・

私の仏教に対するイメージは、やはり禅宗のイメージが強かったので、
座禅などの修行ということで言えば、お釈迦様の時代に似ているのかなと
いう程度のものでした。

お釈迦様の時代から、部派仏教、大乗仏教、そして中国を経て日本独特の
宗派が出来てきた道のりを、特に浄土宗の法然から親鸞への変遷を
見てみたいという気持ちにもなってきました。

「八、パスーラ」

パスーラも人名のようです。

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の
    教えは清らかでないと説く。 「自分が依拠しているもののみ善
    ある」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を(愚者である)
    と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。

    --みずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛される
    ようにと望んで。

・・・つまり、宗教論争の醜さを言っているんでしょうか?
実際、日本の仏教の歴史を読んでも、いろいろとあったみたいですね。

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起こると、これらの人々には
    得意と失意とがある。 ひとはこれを見て論争をやめるべきである。
    称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

・・・さすがにお釈迦さん。 いいこと言うねえ。

852 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と
    言う人がいるならば、汝はかれらに言え、--「論争が起こっても、
    汝と対論する者はここにいない」と。

・・・それにしても、何故宗教っていろんな宗派に分かれてしまうんでしょうねえ。
まあ、人が10人集まっただけでも、十人十色で、考え方はいろいろですから、
そもそも同じ考えにしようって方が無理なんでしょうけど。
政治ならば現実の世界の政策の話だからいくつかの選択肢から選ぶこと
ぐらいしか実際問題としてないと思うんですけど、この世とあの世の話に
なるとそれこそ自分の考えが真理だってことになるんでしょうからねえ。

いくら聖人から真理を教えられたとしても、実感できなければ聞いた者に
とっては真理でもなんでもないでしょうし・・・

次回、(27)は こちらです

 

 

  

  

  

  

 

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2012年6月24日 (日)

「ブッダのことば」 (25)   無関心でいろっていうわけ~~?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

この本、ボランティアでドタバタしていまして、宙ぶらりんになっていました。
久々に再開です。

「五、 最上についての八つの詩句」

798 ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」
    と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真理に達した人々>
    は語る。それ故に修行者は、見たことと・学んだこと・思索したこと、
    または戒律や道徳にこだわってはならない。

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見を
    かまえてはならない。 自分を他人と「等しい」と示すことなく
    他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか
    考えてはならない。

・・・学んだことについても、それにこだわってはいけない。
自分で思索したことにも駄目。 じゃあ、どうやったら自分なりの考え方
を持てるんでしょうね。 そういうことに執着すること自体が駄目ってこと
なんでしょうか?
自分なりの考え方を持ちたいって思いますよね。

って、戒律や道徳・・・も??

確かに、他の人と すぐに比べたがるのが人間でしょうかね。
ちょっと何かの議論をしたりすると、「勝った」とか「負けた」とか
思ってしまうのは、良くないですね。

800 かれは、すでに得た(見解)<先入観>を捨て去って執著すること
    なく、学識に関しても得に依拠することをしない。
    人々は(種々異なった見解)に分かれているが、かれは実に
    党派に盲従せず、いかなる見解もそのまま信ずることがない。

・・・う~~ん、じゃあ、何を基軸にして自分の信念なりを持てばいいのか・・
そのまま信ずることがない、ってのはいいにしても、じゃあどうすれば
良いのか・・・
「党派に盲従せず」ってところは、政治家に読んでもらいたいところです
けどねえ。

「六、 老い」

806 人が「これはわがものである」と考える物、--それは(その人の)
    死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、
    わがものという観念に屈してはならない。

・・・生きている間だけですよね。 お金を使えるのは・・・(笑)

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ること
    ができない。 それと同じく、愛した人でも死んで この世を去った
    ならば、もはや再び見ることができない。

・・・ん~~ん、これは日本人のメンタリティーとは相当違うような気がします。
死んでしまった人でも、夢の中で会える、って思っちゃいますよね。
結構 お釈迦さんって、こういうところが冷たいんだよなあ。
まあ、そういうのが煩悩ってことなんでしょうけど。
煩悩があった方が 楽しくないですか? この人生。

810 遠ざかり退いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。
    迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしい
    ことであるといわれる。

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく
    憎むこともない。悲しみもものおしみもかれを汚すことがない。
    たとえば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。

・・・これって単なる「無関心」みたいにも聞こえますね。
現代人の「無関心」は 時代の騒音・雑音から 自分の身を守るような自己防衛
機能でもあるんでしょうか

 

 

 

 

 

 

   

   

   

   

   

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