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2012年7月 5日 (木)

「ブッダのことば」 (28) 非難されても ほっとけ!

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「十、 死ぬよりも前に」

この章は、ブッダがムリガシラスという遍歴者に語った話だとされています。

849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、
    現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、
    かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、
    信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

・・・「信ずることなく」というのがかなり問題のようです。
巻末の解説には、これをどう解釈するかでいろいろあると書いてあります。

「みずから体験したことがらを信じ、いかなる人をも信じない。」
「軽々しく信じない。」
「自信をもって厚かましくならない」
「自分の確かめたことだけを信ずるのである。 いかなる権威者をも
 信ぜず、神々さえも信じない。」

・・・あなたなら、どの解釈がぴったりきますか?
私なら、最初の解釈ですね。
他の人のフィルターを通したことは、自分にとっての真実ではないですしね。
でも、周りの人たちの考えに右往左往する自分でもあります・・・。

854 利益を欲して学ぶのではない。 利益がなかったとしても、怒る
    ことがない。 妄執のために他人に逆らうことがなく、美味に耽溺
    することもない。

・・・ここでいう利益っていうのは金銭的なことを言っているんでしょうか。
それとも精神的な満足も利益に入っているのかな?

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して
    (貪りなどの過(があるというであろうが、かれはその(非難)を
    特に気にかけることはない。 それ故に、かれは論議されても、
    動揺することがない。

・・・周りの人たちからいろいろ非難されても超然としていろってことですか?

「十一、争闘」

863 争闘と争論と悲しみと憂いとものおしみと慢心と傲慢と悪口とは
    愛し好むものにもとづいて起こる。 争闘と争論とはものおしみに
    伴い、争論が生じたときに、悪口が起こる。

・・・なるほど、言い争いや悪口ってのは、自分が好むものを守ろうとする
ことが動機になるってことかな?

865 世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて
    起こる。 また人が来世に関していだく希望とその成就とは、それに
    もとづいて起こる。

・・・「来世に関していだく希望・・」ってのが気になるんですけど、
解説にも何も書いてありませんね。
この頃から既に浄土思想みたいなものがあったのかな?

866 さて世の中で欲望は何にもとづいて起こるのですか?
    また(形而上学的な)断定は何から起こるのですか?
    
867 世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起こる。
    諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、
    世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

・・・この「断定」ですが、解説には、こうあります。
「愛執にもとづく断定と誤った見解、すなわちアートマンがあると思う見解
 にもとづく断定と、二種あるという。」

アートマンというのは、「真我」と訳されていまして、
「意識の最も深い内側にある個の根源を意味する」としています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3

又、上のサイトでは、
釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教において
 アートマンの用語は一般的ではないと思われる。」
と書いてあります。

・・・要するに「我」は無い、「無我」にならないと悟れないよってこと
なんでしょうかね。

870 快と不快とは、感官による接触にもとづいて起こる。 感官による
    接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。
    生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているもの
    (感官による接触)を、われは汝に告げる。

872 名称と形態とに依って感官による接触が起こる。 諸々の所有欲
    は欲求を縁として起こる。 欲求がないときには、<わがもの>と
    いう我執も存在しない。 形態が消滅したときには<感官による接触>
    ははたらかない。

・・・「名称と形態」というのは、ウパニシャドに説かれている二つの概念
であって、現象界の事物の二つの側面を示す、とあります。

・・・この辺りは、「般若心経」にも書かれている内容を思い出させますね。

しかし、それにしても、畳み掛けるような根源的な質問に、まるで科学者の
ように答えているお釈迦さんは、やっぱり凄いですねえ。
科学者ってのは可笑しいかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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