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2012年7月14日 (土)

なんで こんなに違うの?  子犬か 小犬か?

前にもちょっと書いたんですけど・・・

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これ、同じ時に生まれた兄弟犬なんです。

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真ん中に挟まれた子犬。 小犬でしょ?

おっぱい取りの競争でも 完璧に他の4匹に 負けているんです。

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一番でかい兄弟の3分の1くらいしかないんです。

生きられないんじゃないかって 心配したんですけどね、

なんだか ヨタヨタしながらも 元気はいいみたいなんです。

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この茶色いのは 母親じゃないんですよ。

となりのお姉ちゃんが 遊んであげているんです。

一応 元気よく 遊んでもらっているんです。

・・・でも、これって 並はずれて小さいんですよねえ。

小犬の子犬なのかな・・・??

 

 

 

 

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2012年7月12日 (木)

「ブッダのことば」 (31)-2  医術も お釈迦さんはダメって言ってる・・・

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

(31)で「医術を行ったりしてはならぬ。」っていうのがあったんです。 これが、非常に気になったので お釈迦さんの時代、古代インドの医術ってのがどんなんだったのか調べてみたんです。

927 わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いと
    を行ってはならない。 鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったり
    してはならぬ。

古代インドの医術

釈迦は医術の知識を持っていた。
http://homepage2.nifty.com/tahara~d-c/igakushodennrai.html

お釈迦様の時代の医術ってどんなんだったの?
http://square.umin.ac.jp/dik/5gatu/india.txt

<以下は 上記のサイトからの引用です。>

② B.C.5~6cの「宗教改革の時代」の頃、これらの経験的知識は一つに体系化され
医学はアーユル・ヴェーダと呼ばれるようになる。体系化の原理に、ウパニシャッド、
サーンキア学派の二元論、ヴァイシューシカ学派の自然哲学、ニヤーヤ学派の論理学が見られる。しかしこれは「学問としてではなく医術として発達」し(参考文献2,3)、
「インドの宗教は精神的なものを重視(するので、)合理的診断を要する医学の発達は注目に値す」る(同4)。この古式療法の体系は古代文明が滅びた現在も相変らず生きている。

 Ayur Veda「生命の書」とは、また以下の書初めとする多くの医学書群のことを指す。
医聖の名を冠したスシュルタ・サンヒター、チャラカ・サンヒターは二大古典医学書
と呼ばれる。またヴァーグヴァーダによるアシュターンガ・サンヒター(医学八科目)
とアシュターンガフリダヤ・サンヒター(医学八科精髄集)がある。この三者の書を
インド医学の三代表書と呼ぶ。更に第四の書、マータヴァのニダーナがある。

これらはギリシアと異なり一個人の書き記したものではなく、何世代にもわたる多くの名医の知識の集大成、何度も訂正され書き加えられた結果の最終的なものである。サンスクリットの韻文と散文との混合体で書かれ暗唱される。つまり読めるのは知的層のみで、現在も有資格医師のことをVaidyaヴァイドゥヤ「ヴェーダを知る人」と呼ぶ。

 祭司医学・祭式至上主義を既に脱却して医療の職業は独立し(僧→職業医師)、
第三カーストに属していた。医学教育は徒弟制度で、教育標本を用い、理性的で、
高度な質、であった。内科と外科と、また理論と実地とのバランスも良い

ヒポクラテスの宣誓のような儀式もあった。

 B.C.6c頃、インドの医学は古代諸文化・民族中、技術も科学性も最高位であった。
ギリシア医学との共通点は多いが、多くの点で特に外科では遥かに進んでいる
中世ヨーロッパよりインド医学の方が遥かに科学的で優秀である。

やがてルネッサンスのギリシア趣味が流行すると、西洋医学は過去に停滞したままのインド医学を遥かに追い抜くことになる。とは言え、ガレノスやヒポクラテスの書を
教科書とする医学体系はもはやない。他方、中国やインドの伝統医学の体系は西洋医学の体系とは全く異なるので、それは現在も生きており、その古典医学書も実用的専門的医学書として用いられる。

インドの医学
http://www.shinkyu.com/touyou3.html

アーユルヴェーダ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80

これらを読んでみると、私の予想とはかなり違っていたんです。

もっと呪術的な医療行為だったんじゃないか。 だから、お釈迦さんは「やめとけ」といったんじゃないかと思ったわけです。

でも、そうじゃないんですね。 かなり医術としては進んでいて、体系などもしっかりしていたらしい。 おまけに、お釈迦さん自身も 相当に医術を学んでいたと書いてあるんです。 それだったら、貧しい病人をいくらでも助けるようなことができたはずじゃないですか。 それなのに、なぜお釈迦さんは「だめだ」って言ったんでしょうね。

今でも、近代的な医学を拒否する宗教、宗派はありますし、どこまで最先端医療が医学的にも倫理的にも許されるのかという 難しい部分はありますけど・・・・

 

 

 

 

 

 

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2012年7月11日 (水)

「ブッダのことば」 (31)  占いとか医術も お釈迦さんはダメって言ってる・・・

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「十四、 迅速」の続き

923 苦痛を感じることがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。
    生存を貪り求めてはならない。 恐ろしいものに出会っても、慄えてはならない。

924 食物や飲料や硬い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない
    またそれらが得られないからとて心配してはならない。

・・・これは滅茶苦茶凄くないですか?
恐ろしいものっていうのは 獅子や虎だそうです。
病気になっても、生きていたいとか思わずに平然としていろってことですよね。
貯蔵してはいけない。 所有どころか貯蔵もいけない。
「坊主丸儲け」の日本の仏教なんて とんでもないって話です。

食べものや飲み物がなくっても、平然として、いつ死んでも嘆くなってことに
なりますよね。
生に執着するなってことですから、そういうことになるんでしょうけど。

925 こころを安定させよ。 うろついてはならない。 あとで後悔するようなことを
    やめよ。 怠けてはならぬ。 そうして修行者は閑静な座所・臥所に住まう
    べきである。

・・・うろついてはならない、ってあるんですけど。
食べものをもらう托鉢は うろつくではないんですね。
托鉢という目的があるから うろついている訳ではない・・?

閑静な場所にいなくちゃいけないわけだから、現代の乞食みたいに繁華街にいちゃ
いけないってことになりそうですね。

さて、まだまだあります:

926 多く眠ってはならぬ。 熱心に努め、目ざめているべきである。
    ものぐさと偽りと談笑と遊戯と淫欲の交わりと装飾とを捨てよ。

・・・寝ちゃいけない。座禅中のいねむりなんてもっての外。
ただ、「熱心に努め」っていうのが何をしたらいいのかが 分からないんです。
座禅ってことになるんでしょうかね。

927 わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと相の占いと星占いと
    を行ってはならない。 鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったり
    してはならぬ。

・・・みなさん、仏教は呪術や占いは やっちゃいけないんですよ!
これだけ見ても、今の日本の仏教とは かなり違いますよねえ。
空海さんの真言密教なんかも相当呪術的なものが入っているんじゃないですかね。

医術もダメなんですよ。 お医者さんもダメ!!
やっぱり 人間の自然治癒力でダメなものは 諦めろってことになるのかな?

929 修行者は、売買に従事してはならない。 決して誹謗してはならない。
    また村の人々と親しく交わってはならない。 利益を求めて人々に
    話しかけてはならない。

・・・売買とか誹謗してはいけないってのは分かりますけどね。
村の人たちと仲良くしてもいけないんですね。
日本の「山寺の和尚さん」みたいな 村人を助けるような交流もいけないってことに
なるんでしょうかねえ。

そんな修行者に 托鉢とはいえ、食べものをくれる村人なんているんでしょうか?
どんな社会環境なのか 不思議です。

932 諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱しめられ、その(不快な)
    ことばを多く聞いても、あらあらしいことばを以て答えてはならない。
    立派な人々は敵対的な返答をしないからである

 

・・・恥ずかしながら、わたしはポーカー・フェイスも出来ないし、
すぐに顔色に出るし、ムカッとしたり、カッとしたり、結構瞬間湯沸かし器なんでねえ。
まあ、出来るだけ その場で即答はしないように気を付けてはいるんですがね・・・・

まあ、性格だから難しいですよねえ。

それで、タイトルになっている「迅速」って結局なに?
解説には 「速やかなるもの」という意味であろう、と書いてはあるんですがねえ。

上に書き出した言葉のなかに 「速やかなるもの」という意味につながるものって
ありましたかね?

タイトルの意味が分かりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年7月10日 (火)

「ブッダのことば」 (30) 我思う、故に我あり・・・って 仏教なの?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「十四、 迅速」

いきなり「迅速」って、これなに?
まっ、それは後で考えるとして、ここには非常に興味深い言葉があります。

916 師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる
    不当な思惟
>の根本をすべて制止せよ。 内に存するいかなる妄執をも
    よく導くために、常に心して学べ。

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。
    しかしそれによって慢心を起こしてはならない。

・・・<われは考えて、有る>ですけどね、ピンときますよね。
「我思う、故に我あり。」の言葉ですね。
はい、巻末の解説に以下のように書いてありました。

この原文の解釈はむずかしい。
一つの解釈は、「考えて制する」と、つづけて解釈することである。 しかし、
語順を考えると、・・・一つのまとまった句とみなすほうが順当であり、
・・・・。 そうだとすると、ここでは哲学的に重要な問題を提供する。
ノイマンの訳によると、・・・・「私は考えるものとして有る」あるいは
「わたしは、考えて(=考えるから)有る」という訳が成立する。
どちらにしても、「われ考う。 故に、われ有り」に対応する問題が意識されている
のである。
しかし文句が似ているとしても、近代西洋と古代の仏教とのあいだには、
確然たる相違があった。 近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす
第一歩であった。 しかし古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、
むしろ制し、滅ぼされるべきものであった

・・・つまり、(28)で書いた、以下の部分に立ち戻るってことですかね。

「釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教において
 アートマンの用語は一般的ではないと思われる。」
・・・要するに「我」は無い、「無我」にならないと悟れないよってこと
なんでしょうかね。

・・・という部分です。

919 修行者は心のうちが平安となれ。 外に静穏を求めてはならない
    内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。
    どうして捨てられるものがあろうか。

922 眼で視ることを貪ってはならない。 卑俗な話から耳を遠ざけよ
    味に耽溺してはならない。 世間における何ものをも、わがものである
    とみなして固執してはならない。

・・・見ざる、言わざる、聞かざる・・・そうすれば心は平安になる、ってことに
なりますか? ここでは「食べざる」みたいですけど。
まあ、これは確かにそうですよね。
余計なことは見なければいいし、聞かなければいい。
しかし、しかし、世の中では「問題意識をもて」ってのが正しい生き方みたいに
言われていますしねえ。 「無関心は罪だ」とかね・・・

この章は 長くはないんですけど、凄いことがこの後に書いてあるので、
次回(31)にゆずります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年7月 9日 (月)

初音ミク・ライブ って何?  立体映像の不思議

初音ミク って知っていますか?

まずは、こちらのyoutubeを見ていただきましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=PY-A0Bt1fUg&feature=fvwrel

2010年ぐらいからやっていたみたいですけど、知りませんでした。

NHKのBSでやっていたんです。

3img_6003

3Dで舞台の上に映し出されたアニメですね。
つまり映像なんですけどね。

それは凄いと思うんです。

でも、集まった観衆が 生身の歌手に対するのと同じように歓声をあげて
盛り上がっているのが 私にはとても不思議なことに思えるんです。

3img_6004
(手前の灯りは 観客が音楽にあわせて 振っているものです)

たぶん、その会場に入ったら、私も同じようにやるのかもしれないんですけど・・・

これって、何に対しての歓声なんでしょう?

生の演奏とか、生の歌手とか、生のエンターテイナーだったら歓声を上げるのは
分かるんです。

でも、これは映像ですよね。 立体的な映像。

漫画や、アニメや、3D映画の主人公に 歓声を上げたりってしませんよね。

だから、何が違うんだろうって思うんです。

3img_6006

このライブの場合は、演奏は生でやっているわけだから、それに対する
歓声だっていうんなら分かるんです。
あくまでも立体映像の女の子は その添え物っていうんならね。

でもこれって そういうものでもなさそうですよね。

生の歌手だったら、その歌手の人となりとか、生き方だとか、可愛さだとか、
格好良さだとか、その人間の属性が好きだから 応援するっていうか、歓声を
あげるわけですよね。 例えば、下のページの女の子とかね。

http://www.news-gate.jp/2012/0709/23/photo01.html

その人のパフォーマンスが普通の人のレベルを超えてすごいから歓声をあげるんですよね。

だから、これは何なんだろうって・・・・

自分が作った立体映像であれば、「やった~~」って感じで盛り上がるってのは
分かるんです。
でも、自分が作ったわけでもない、単なる観衆ですよね。

生身の人間である観衆の感情が 人工的に作られた3D映像の主人公に
向けて発散されているというのが なんだか私の理解を超えているんです。

人間が動物、生き物としての土台から 遊離していくような怖さを感じるんです。

生身の人間が 漫画をまねて、コスプレをやっているところは 理解の範囲なんで
すけどねえ。  たとえば、下のYoutubeの フィリピン・バギオのコスプレ・オタクのパフォーマンスとかね:

http://www.youtube.com/watch?v=Dst5TigdmsQ&feature=relmfu

最近、新しい素粒子の存在が確認されたみたいですね。
所詮 生き物っていっても物質でできているんだから、人工的に作った
物質的に科学的に作られた立体映像だって 同じじゃないか・・・・
なんて飛躍した議論も可能かもしれないけど、
そりゃあやっぱり 何か違うんじゃないかって思うんです。

おそらく、これって、日本人よりも フィリピン人の方が もっと盛り上がる
んじゃないかって気もするんです

何故かっていうと、映画を見るときですら、日本人は静かに周りに迷惑を掛けない
ように観ているんですけど、フィリピン人は 映画のストーリーに反応して
いろんな声をあげるんです。

どう思います?

もっと凄い初音ミクを動画を見つけました。

札幌2011年のライブです:

http://www.youtube.com/watch?v=lZfnsvIqsfg

これは、やっぱ凄いですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ブッダのことば」 (29) 論争の結果は(称讃と非難との)  二つだけである 

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「十二、並ぶ応答ーー小編」

883 或る人々が「真理である、真実である。」と言うところのその(見解)をば、
    他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。 このようにかれらは異なった
    執見をいだいて論争をする。 何故に諸々の<道の人>は同一の事を語ら

    ないのであろうか?

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。 その(真理)を知った人は、
    争うことがない。
 かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。
    それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである。

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中

    で論争をなすに至る。 一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で
    確執を起こすことがない。

・・・ここの辺りは、分かるようで分かりにくい考え方ですよね。
唯一の真理を知った人は、それぞれに異なったことを言いながらも、論争をすること

がないってことを言っているんでしょうかね?

真理はひとつだから、言い方は違っても 同じことを別の言い方で言っているんだ

から相手を論敵にするまでもない、ってことかな?

ここでも、結局、自分の論に執着しなさんな、ってことを言っているみたいなんですけど・・

「十三、並ぶ応答ーー長篇」

896 論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたしは説く。
    この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、
    論争をしてはならない。

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なきこの
    (宗教的)行為をも捨てて「清浄である」とか「不浄である」とかいって
    ねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。
    --安らぎを固執することもなく。

・・・なんか、凄いこと言ってるんじゃないですかね、ここは。
「戒律や誓いをも捨て」ていいんですかね・・・・宗教ならば、ですよ?

902 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、
    思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れて
    いないので、移り変わる種々なる生存のうちにある。

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない
    また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。
    それ故に、諸々の論争を超越している。 他の教えを最も勝れたものだと
    見なすこともないからである。

・・・常に移り変わっていくものに執着してどうすんだ? ってことを
言っているんでしょうかね?

912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、
    党派にくみすることがない。 かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、
    泰然として、執することがない。
    - 他の人々はそれに執着しているのだが。-

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の
    事物に対して敵対することがない。
 かれは負担をはなれて解放されている。
    かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。
    - 師はこのように言われた。

・・・政治的な事柄についても超然としていなくちゃいけないのかなあ・・・
政治はそれこそ世俗の事ですもんね。

「はからいをなすことなく」っていうのは解説によれば「分別しない」ってこと
らしいです。「敵対しない」ってことは、そのまま受け入れるということに
なるんでしょうか。

たしかに、人の意見をそのまま素直に受け入れて聞くというのは、なかなか難しい
ですよね。 すぐに自分との違いをその中に探してしまいませんか?
聞き上手にならなくちゃいけませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年7月 8日 (日)

東日本大震災の被災地を見学、学習訪問 - フィリピンの大学生たち

JENESYSプログラム参加大学生のレポート

http://janl.exblog.jp/15675175/

7月7日、バギオのシネマテックで「日本映画祭」があった。
そこで上映されたのは「この灯が見えますか」というタイトルの
「津波の後の初めての祭り」についてのドキュメンタリーだった。

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その映画上映の後、今年の5月に日本政府が実施したJENESYSプログラムに
参加して東北の被災地を見学、視察、交流したフィリピン人大学生たちの報告・発表があった。

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発表したのは、バギオ周辺の5大学7名の大学生たち。

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マグニチュード9.0の大地震
強大な津波
福島第一原発のメルトダウン

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死者 15,861名
92%が水死
負傷者 6,107名
建物全壊 45,700軒
建物損害 144,300軒

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態度:
規律性、イニシアティブ、回復力、献身的、几帳面さ、国民性

適正:
知性、創造力、革新性、科学的能力、スキル能力

そして、その壊滅的な大災害の中での、世界が驚いた日本人の国民性についての分析。

日本人としては、いささか「褒めすぎ」だなとくすぐったい感じではありましたが、フィリピンの若い人たちが そのように日本のこと、日本人のことを思ってくれていることに 感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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