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2012年1月21日 (土)

「現代語訳 般若心経」を読む その(9)「特別な咒文」 

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。

「三世の諸仏は般若波羅蜜多に依るが故に阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」

「般若波羅蜜多」に依って「無上で並ぶもののない最高の悟り」を得た。

・・と現代語訳されているんです。
が、著者はまだ「般若波羅蜜多」が何なのかってことを明確には書いてこなかった
んですね。
それで、ここでその内容を「パンパカパーン”!」と始めるんです。

ー 祭詞である「ヴェーダ」と供犠、つまり捧げもののために動物を殺す
  ことを禁じたのが世尊でした。
  ・・・もともと都会の方ですから、そうした迷信みたいなことがお嫌い
  だったのでしょう。

ー 世尊は三つの例外を設けた。
  特例として歯痛のとき、毒蛇に咬まれたとき、そして腹痛のときには
  「咒文(じゅもん)」を唱えてもいいと許されました。

ー 「気のせい」ばかりではなく、インドの人々は「咒文」を直接
  「いのち」に響く力と捉えていました。

ー 「響き」、言い換えれば波動というのは、その全てが私たちの「耳識」に
  なるわけではありません。・・・しかし、波動というのは、おそらく耳
  だけでなく、もっと幅広く「いのち」に直接訴える力をもっている
のでは
  ないでしょうか。
  ・・・香りも熱もまた光も、思えば波動の一種ですから、理知では
  計り知れない効果がいろいろあるはずです。

ー 仏教は、「なんまいだぶ」という念仏、また「なんみょうほれんげきょう」
  というお題目まで考えだしました。

ー 咒文の効果を最も早い時期に採用したのは密教でした。

ー SPECTなど最新の脳機能イメージング法でも、文字を見て詠んだ場合と
  暗記しているものを唱えた場合では、活性化する部分が大きく違う。
  ・・・暗記した音は・・脳の全体を活性化する

つまり、ここで、咒文(じゅもん)というものが言葉の限界を超えて、
「響き」として、直接「いのち」あるいは「宇宙」のようなものにつながる方法
として効果があるみたいだよ、と言っているんですね。

・・・そして、結論は、

「般若波羅蜜多」というのは、じつは特別な咒文なのです。

要するに、この呪文を唱えるといつのまにか「私」が消え、「いのち」の
本体になりきってしまうということですね。

・・と述べています。
おまけに、こんなことまで 言っています:

ー 痛かったら痛いまま、熱くとも熱いままに放っておけるようになるのです。
  この咒文を唱えながら火渡りをしたり滝に打たれたりできるのは、
  そういう効果とも関係しています。

・・・う~~ん、こんなことまで言っちゃっていいの??
鎮痛薬は使ったほうがいいよ、って言ってたじゃないの・・・

そして、いよいよ その咒文は、

「羯 諦 羯 諦 波 羅 羯 諦 波 羅 僧 羯 諦 菩 提 薩 婆 訶」
(ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサムガテー、ボーディ、スヴァーハー)

「これが般若波羅蜜多に到達するための最上の咒文。」
と書いてあります。

ちょっと待ってくださいよ。
上を読み返してみると・・・

「般若波羅蜜多」というのは、じつは特別な咒文なのです。
・・・って書いてありましたよね。

じゃあ、

「これが特別な咒文に到達するための最上の咒文。」って意味???

どういうこっちゃ?? 

「ここまで私が申し上げたことの全てが、般若波羅蜜多に到るための
 肝腎かなめのテキストなのです。」

この文の般若波羅蜜多の部分に「特別な咒文」を当てはめてしっくり来ますか?
なんだか、よく分からんのです。

そして、最後にこう書いてあるんです、
(第三幕目ですね。)

シャーリプトラさん、善男子善女人と呼ばれる心ある若者たちに対しては、
是非このように「般若波羅蜜多」を実践するようにと、話してあげてください。

するとそのとき、世尊は深い禅定から醒めて立ち上がり、突然おっしゃった。
「いやあ最高でしたよ。」
・・・・

つまり、観自在菩薩がこれまでずっと舎利子さんに話して聞かせていた
内容に関して、その横で瞑想していたお釈迦様が、「観音さんの説明は
素晴らしかった。」と褒めているわけですな。

ただし、この咒文のところまでは般若心経の「小本」にあるけれども、
その後の部分は「大本」の翻訳ってことになりますが・・・

これで、著者の「大本」の「現代語訳」は終わりました。

・・・・・

終わったんですけどね。

素直な感想を言いますと、なんだか「般若心経」を読んだという気が湧いて
こないんですよね。

著者の言うところの「全体性」=「いのち」というものを、現代の原子物理学
あるいは量子力学ですか、そういうもので説明している。
原因・結果という旧来の一神教的科学では、つまり、人間が持っている二元論的な
概念を基にした古い科学では真理は語れないのだ、ってことを書いてあった
ような・・・

まあ、それを般若心経に当てはめて、前者は般若波羅蜜多であって、
後者は「空」を知らない因果律の世界だよね、って言っている。

印象的には、前段の方が大きくて、後段が心に残らないって感じです。

もっとも、著者が一番意図しているのは、この理知的に理解するという
部分じゃなくて、この後に掲載されている「般若心経を音読してください。」
ってところでしょうから、ここで終わっちゃいけないんですけどね。

では、その読み方の部分、般若心経を唱える部分について、
面白いことが書いてあったら、 その(10)を書きますね。

 

 

 

 

         

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2012年1月20日 (金)

「現代語訳 般若心経」を読む その(8) 三十五億年の「いのち」

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。

観自在菩薩が舎利子(シャーリプトラ)さんに話をしています。

ー 四諦や十二因縁にしがみついていては、その先に行けません。
  若者たちのせっかくの利他の心が、「声聞」とか「縁覚」と呼ばれる
  自己完結的な状態のままでは活かされません。

ー 若者たちには、「菩薩」の道を歩んでほしい。
  そのためには、どうしてもこの「般若波羅蜜多」が不可欠なのです。

ー 菩薩の歩むべき道は、六つのパーラミター(六波羅蜜)と呼ばれる。
  ・・・そして、般若波羅蜜の六種の徳目がそれですが、最後の
  「般若波羅蜜(多)」こそ前五種のすべてを覆う究極の徳であり・・・

ー 世尊の説法によれば、瞑想(禅定)は戒律の裏づけがなければ充実しない、
  般若(智慧)はその瞑想(禅定)によって裏づけられる・・・
  
ー 偉大なる「般若波羅蜜多」に至るための最も重要な教えを話して
  いるわけですが、・・・「五蘊はみな空だ」という実感から始まって
  います。 なにしろ私はそれで、一切の苦厄から開放されたんですから・・

・・・ここでも、著者が「般若波羅蜜多」をどういう意味で使っているのかが
今ひとつピンとこないんです。

「般若波羅蜜多」が不可欠
「般若波羅蜜」の徳目
「般若波羅蜜多」に至る
「般若波羅蜜多」には程遠い
「般若波羅蜜多」を実践した

この本の27ページの解説では、「般若」とは、「智慧」と訳してしまうと
しっくりきませんので、「般若の完成のための実践」という意味で
そのまま「般若波羅蜜多」と申し上げておきましょう。

となっているので、略して「実践」だとすると、
実践が不可欠、 実践の徳目、 実践に至る、実践には程遠い、実践を実践した、 
・・なんですけど、よく分からないなあ。
しっくり納まらないんですよね。

そして、著者は、「色即是空 空即是色」について、

ー 私は、「空」というのは「いのち」のまま、「色」というのはそれに脳が
  手心を加えた現象なのだと申し上げてきたつもりです。
  いや、脳というより、「私」と云うほうが正確ですね。

ー 「色」から「受」、「想」、「行」、「識」と進むにつれて
  どんどん人工度が高まります。

ー それら全てが、結局は自性のない縁起の賜物として理解されなくてはなり
  ません。

ー 「空」という「いのち」の本質を見極めてしまうと、十八界すべてが
  自性のない相互依存の世界であるとわかるのです。

ー 般若とは、裸の「いのち」が本来もっている生命力への気づきでもあります。

ー DNAの観点に立てば、この地球に生命が発生して以来、三十五億年もの
  長きにわたって「いのち」は途切れることなく展開してきた、とも
  云えるでしょう。

そして、ここの結論としては、

「智慧を得る」という場合の主語は「私」という概念になる。
しかし、「般若」(智慧)=「いのち」そのものの力であるから、
ここでは「私」を超えた「いのち」の観点からみている。
よって、「智も無く、亦得ることも無い」ということになる
「いのち」はこれ以上得る必要がないほどに、すでに「足りて」いるから、

・・・・ってことで いいのかなあ~~。
な~~んせ、三十五億年の「いのち」の観点ですからねえ。
そうなれば、

般若波羅蜜多によって「私」がなくなり、「いのち」本体の感覚に戻れば
「私」の都合は関係なくなるんですから、突っかかりも引っかかりも妨げも
なくなるに決まっています。

・・・ってことになるみたいです。
どうも、宇宙と一体化するというような体感のことを言っているような・・・

ところで、一冊目の宮坂さんの本で、「顛倒夢想」をどのように解釈して
いたかを振り返ってみますか。

ー 「夢想」は漢訳の段階で補われたもので、これに対応するサンスクリット
  はない。「顛倒」を強調するために用いられたと思われる。
ー ないものをあると考えることが「顛倒夢想」です。
ー 往々にして、「誤った考え」とか「つまらない妄想」の意味で解されて
  いますが、本段は、何であれ妄想を離れよといった教訓を述べている
  のではない。

ー 4階で「ない」と観察されるダルマを3階で「ある」と錯誤しているのに対して、
  きっぱりと「ない」といっている。

同じ部分をこの著者である玄侑さん=観自在菩薩はどう解釈しているかと
いいますと、

ー この「私」を「いのち」そのものと錯覚したり、あるいは「私」の思いで
  「いのち」や「からだ」を支配しようというのが一番困った勘違い
  なんです。 難しい言葉で云うと「顛倒夢想」ですね。

たった四文字の部分ですら、著者によってこんなに違う解釈があるんですもんね。
その解釈の背景になる考えに、いかに大きな違いがあることか・・・・

次回、その(9)・・・いよいよ「般若波羅蜜多」の謎が・・・

               

          

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2012年1月19日 (木)

「現代語訳 般若心経」を読む その(7) 鎮痛薬は飲んだ方がいいよ

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。

「無無明 又無無明尽 及至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道
 無智亦無得 以無所得故」のところが まだ決着がついていないんです。

著者は「渾然となる時空」という見出しをつけていまして、
さらに難解な説明が続きます:

ー もう一度「十二因縁」を眺めてみてください。
  「縁起」をきちんと感じ取れるでしょうか。
  「無明」から始まって「老死」へと至る十二の項目など、「無い」と申し上げたいのです。

ー 「般若波羅蜜多」が実践されているときには、素粒子の在り方
  同じように、因果を条件づける時間そのものが存在しないということです。
  時間も空間も、じつは意識が概念へと移行する過程で生み出しているもの
  なのです。

ー 「空」なる実相を見極め、「般若」の眼で見るならば、「無明」も
  「行」も「識」も「名色」も、有るようで無い、・・・

・・・あああ、まさに 私の理解そのものが渾然、混沌になってしまいました。

まあ、「在る」とか「無い」とかじゃなくて、元々この世界ってのは、
宇宙ってのは、物質ってのは、「ダイナミックなうねりにすぎない」というのは
分かるんですけど・・・

そして、次に興味深いことが書いてありました、

ー 世尊を含めた今のインドの宗教者たちが、文字情報を一つも残して
  いないことの真意です。

ー 世尊が使ったのは古代マガダ語。
ー マガダ語もサンスクリット語も 今は統一的な文字はない。
ー 東南アジアの多くの言語の源と云われるブラーフミー文字が統一的に
  使われるようになるのは紀元前3世紀。

ー 教えの伝達については今なお「口承」という形式をとっているのは、
  ・・・やはり意志的にそうしつづけていると考えるべきでしょう。

ー 文字言語が音声言語を矮小化し、限定しすぎることを、世尊はこれまでの
  宗教家と同じように深く承知していたのでしょう。

ー 真理は常に誰かに向けられた聖者の言葉に宿るのであって、万人向けの
  一般的な真理というのはあり得ないということです。

(上記の中の「今」というのは舎利子の時代の「今」であるようです。)

この最後の言葉ってのは・・・すごい。
一般的な真理はない。ですってよ。

ってことはですね、科学に真理はないってことになりませんか?

科学は常に進歩というか、書き換えられるというのが宿命みたいなもんですよね。
天才によって語られたものであっても、それはいずれ次の天才によって
覆される。

それとも、その天才ただ一人は、聖者であって、その人にはいわゆる啓示の
ように体感された真理であっても、一旦それが言葉によって説明をされると
真理ではなくなる、ってことなんでしょうか。

ー それから三百年ほど経った紀元前一世紀ころ、その教えが初めて
  貝葉(ターラ樹の葉)にブラーフミー文字で書かれ、書物という形に
  なります。

ー 音が言葉に、言語が文字になるにつれて失われたものこそ、
  「般若波羅蜜多」に大いに関わってくるのです。

ー 言葉によって生まれる理解と誤解はどちらが多いでしょうか。

ー 言葉の発生がはたしてコミュニケーションのためだったのか、自らの
  概念整理のためだったのか
・・・老子や荘子だけでなく、世尊にとっても
  言葉が厄介きわまりない道具、罪作りな道具だと思われていたことは
  確かだと思えます。

この辺りになると、かなり世間的、世俗的なことにもなってきて
大変納得してしまうんです。
言葉なんで受け手次第でどうにでも理解、誤解可能ですからねえ。
困ったもんです。

著者はどうも以心伝心が一番いいよと言っているような雰囲気になって
来ちゃいました。

ー 十二因縁あるいは十二縁起などと呼ばれて珍重されてきた考え方を
  こうした前提抜きにあっさり否定するのも憚られたのです。

と著者は書いているんですが、その前提というところに、この概念論あるいは
言語論を置いて老子や荘子の中国の思想を説明しているんですね。

さらに、四諦の否定が続きます、

ー じつは私(ここでは観自在菩薩)、四諦についても否定しなくては
  いけないのです。

ー 苦痛というのは、「痛みx抵抗」なのではないでしょうか。
  むろん「抵抗」というのは「私」の深い思い込みが作り出します。
  痛みを自然のこととして受け容れないのは、「私」が「からだ」の
  実相を知らないからです。
  そんな「私」は「空」だと、何度も申し上げたはずです。
  「五蘊皆空」でしたね。

ー そのような「苦」を、あらかじめ有るものとしてわざわざ「四諦」
  を認識するのは、「般若の眼」で見れば無駄なことだと申し上げたい。

これを読んでいると、やっぱり分からなくなるんですよね。
著者は 四諦を肯定することと それを否定することを 別次元のことと
いう前提をおいて話しているのか、世間レベルでの話としているのか・・・

そういう私の疑問を察知してかどうか、著者は次のようにも書いています、

ー 誰もが「般若の眼」で事態を見ているわけではありませんから、
  痛みそのものなのか、「私」によって増幅された「苦痛」なのかは
  通常区別がつきません。

  激烈な苦痛が続く場合、とりあえずはその来歴に関係なく、
  痛みだけを取り除くことで苦痛の除去にもなることが多いことは
  忘れないで下さい。
  私はけっして鎮痛薬などを否定しているわけではないのです

なんだか、一気に随分 世間的 医療の話になっちまいましたね。
まあ、この本を読んで、薬も飲まなくなる読者が変なことになったら
責任問題ですもんね。

それに、「般若の眼」ってのがいまいち分からない。
あの般若のお面とは関係ないしなあ~~。
あのお面だったら その眼は節穴ですもんね。

さて、般若波羅蜜多はどうなっちゃうんでしょう。
それは又 その(8)で・・・

 

                   

                   

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他の為なら 汗を流さないとね・・・

最近 ハナジロの様子が少しおかしいんです。

ハナジロってのは おにゃんこの名前なんです。

鼻が白い。

バットマンとも呼ぶことがあるんです。

バットマンみたいな黒いマスクをかぶっているんですね。

そして、鼻のところから下が白い。

ちょっと前までは、私が食事をしていると、ドアの前で待ち構えて、

ドアが開くと、みゃ~みゃ~とうるさくて、

餌入れに魚なんかの骨をいれると すぐに食べていたんです。

それがここのところ、あまり気持ちが入っていないみたいなんです。

ドアの前にいなかったり、食べる気持ちがあまりなかったり。

だから、餌が残ってしまうんですね。

だから、例の犬のお母ちゃんに廻されるんです。

痩せこけたお母ちゃんは、最近少しずつ元気になってきましたよ。

相変わらず骨がごつごつ出てはいるんですけど、

食欲は出ているみたいなんです。

ミルクはあげちゃいけないし、

鶏の骨は一番危ないって言うし・・・

魚の骨も危ないらしいけど、まあ、他にあげられるものがないんだから、

しょうがない。

ハナジロの払い下げをあげているんです。

私は犬の担当じゃないですからね。

お母ちゃんは、突進するように食べていますよ。

・・・

でね。 ハナジロがちょっと心配になって よくよく見ると、

かなり薄汚れているんです。

って言うより、足が泥だらけなんです。

どうも、ドブを歩き回っているみたいなんです。

汚いんです。

顔に蜘蛛の巣が掛かっていたり・・・

触るのも汚いんです。

つまりね、ネズミを探し回ってドブの中で追い掛け回しているみたいなんです。

・・・・

般若心経でね、共時性とか、全体性とか、一体性とか解釈している本があるんですね。

偶然と言えば偶然なんでしょう。

でもね、ハナジロがね、犬のお母ちゃんにね、魚をあげたいって思って

いるんじゃないかな・・・・なんて、感じるわけですよ。

私の思い込みですけどね。

だから、そのためにね、お母ちゃんの為にね、汗を流しているんじゃないかって・・・

・・・・

犬にはほとんど野生がないんですよねえ。

フィリピンとは言え、狼のようにはなれないんです。

でも、猫には野生に戻れる自由があるんですね。

ネズミを狩ることが出来るんですね。 ライオンのようにね。

強くなければ生きていけない。

優しくなければ生きる資格がない。

ハナジロ ! お前は偉いよ !

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

                

   

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「現代語訳 般若心経」を読む その(6) 原子物理学と仏教

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。

著者はさらに続けて以下のように語っています。

ー 「原子物理学と人間の認識」というボーアの論文のなかには、
  「われわれは仏陀や老子がすでに直面した認識論的問題に向うべきである」
  と書かれています。
  「それには、存在の一大ドラマの中に、観客であり役者であるという
   われわれの状況をうまくはめ込むよう努めることだ」と云っています。

ー いわば、繋がりあった全体を、その一部である自分が感得するという
  状況そのものが、「般若波羅蜜多」の実践と云えるでしょう。

ー 慣れた先入観というのは、デモクリトス以来の、粒子信仰と云っても
  いいでしょう。 あるいはそこには、プラトンの唱えた「イデア」、
  その影響を受けつつ確立されたキリスト教という「実在」が影響して
  いるかもしれません。

ー 科学がキリスト教の跡継ぎだ、というのは、じつはそのような意味
  なのです。

ー 「かつ消え、かつ結びて」などという表現は、まさに量子たちの
  振る舞いそのもの。 粒子になったり波になったりというふうにも
  読めるではないですか。

わお~~、凄いですねえ。
原子物理学、量子論的認識、ニュートン物理学、果ては、キリスト教やら
「方丈記」などなど。

ところで、この著者は、観自在菩薩になりきって「般若心経」の内容を
現代語訳しているって設定で書いているんですけどね。

ふっと思ったんです。 「現代語訳」=「現代語」での訳ってことじゃ
なくて、「現代を語る」訳なんじゃないかって。

要するに、最先端の科学が解明しつつある現代を、なんでもお見通しの
観自在菩薩の伝授という形を借りて、大乗仏教的に、語ろうとしている。

そして、ここで、
「無無明 又無無明尽 及至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道
 無智亦無得 以無所得故」

のところなんですが、

観自在菩薩である著者はこんな言い方をしています、

ー 十二因縁や四諦について、・・・これからその両方を否定しなくては
  いけないんです。

ー こんな言い方は不遜かもしれませんが、世尊はどんどん成熟されたんですね。
  初転法輪の頃にははっきり自覚されていなかった「空」の真理に到達された
  んです。
  じつは私も、世尊に教わったこの方法で解脱を得ることができたのですから、
  これは間違いありません。

もうお分かりの通り、小乗で観えたものを、大乗では「それは無い」とする部分ですね。

そして、私、これは させたもつですけど、が今ひとつわからない著者の
記述があるんです。

ー ユングは初め、因果律と目的論で現象世界を捉えようとしました。
  しかしやがて、世尊と同じように、「同時」に注目したのです。
  そして「易経」や仏教など、東洋思想の影響を大きく受けながら
  「共時性(シンクロニシティ)」という概念を二十年以上もかけて
  提出するのです。 これはまったく世尊に重なる認識と云っていいのでは
  ないでしょうか。

ー しかし科学というのは因果律一辺倒の世界ですから、彼の論文が
  どのような扱いを受けたかは、ご想像にお任せします。

たぶん、ここは、科学的な思考である因果律などを小乗での十二因縁などと
同じレベルに置いて考え、そこから解脱したレベルとしての最先端科学の
量子力学を大乗の「空」の思想だとたとえているのかな・・と思うんですが、
当ってますかね?

アヒルにはアヒルの足を誘導する形成体がある。
ニワトリにアヒルの足の形成体を埋め込んでみた。
ニワトリに水かきのついたアヒルの足が生えてくると予想していた。
しかし、水かきのないニワトリの足が生えた。

つまり、それが存在する「全体」」との関係のなかで決定していた。
これは、「共時性」や「縁起」を感じさせる結果だ。

・・・これは、まだ、なんとなく理解できるんですけど、

「いのち」は常に超因果を含んだ現象なのだ。
陽子が過去に出没した、などという事例も検証された。
ニールス・ボーアは因果律に代わる捉え方として「相補性」を提案した。

・・・ギブアップです。

ここで言っている「共時性」ってのは、同時に起こるという性質のことを
言っているみたいですね。 反対の言葉として 時間を追って起こるという
意味で「因果律」、原因があって結果がその後に起こるという考え方、
みたいです。

う~~ん、こうなってくると、本当に「般若心経」を読んでいるんだっけ?
って感じになってきますねえ。
それも、観自在菩薩がこういう説明をしているって想定なんですけど・・・。

では、その(7)は どうなっちゃうんでしょう。

                                       

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2012年1月18日 (水)

「現代語訳 般若心経」を読む その(5) 量子力学は仏教を追っかけている

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。

いろいろと、一冊目の本と比べて、批判的にコメントを書いているんですけど、
この著者である玄侑さんと、一冊目の著者宮坂さんに、ある共通点があるような
気もするんです。

どこかと言いますと:

実際に体験した「般若波羅蜜多」、そして「空」の実感から申し上げるしか
ありませんよね。
最後には若者たちにもちゃんと体験していただけるように段取りますので、
ここは暫く辛抱して聞いてもらうしかありません。

・・・と言うところです。

この著者は、実践するしかない、と言う点を強調して、本の構成上も
「般若心経」を読むこと、唱えることを重視しているんです。

一冊目の宮坂さんは、「般若心経」という経典は「大乗仏教のスローガン」
あったのだ、小乗仏教から大乗仏教に変わる時代に、大乗仏教にとって
なにが一番大事なのか、と言う事を、観自在菩薩が舎利子に伝授するという
内容であって、何を伝授するかと言えば、それはマントラ(真言、祈りの言葉)
であり、そのマントラの名前が「般若波羅蜜多」である、と言う事でした。

両者に共通する点というのは、マントラが大事、その実践が大事という点です。

少なくとも、世間レベルの教訓や人生訓を云々するものではないということです。

・・・

さて、本題にもどって、読み進みましょう。

ここで、観自在菩薩になりきった著者の玄侑宗久さんは、以下のように
述べています:

ー 私の本名はアヴァローキテーシュヴァラ。 「観る」という意味の
  「アヴァローキタ」と、「自在」「自由」を意味する「イーシュヴァラ」が
  結びついた名前です。
  玄奘三蔵法師の訳した「観自在菩薩」というのがまさにそのままの訳です。

ー 鳩摩羅什は「観世音菩薩」と訳しました。
  この場合の原語はアヴァローキタスヴァラで、svaraが音声を意味するため
  「観音」になったんですね。

ー 「観音」というのは、私が解脱したことより、むしろ私の
  「いてもたってもいられない」解脱まえからの性格を、表現したのでしょうね。

ー 本気で解脱を目指すなら、この「いてもたってもいられない」利他的な
  志がどうしても必要だと、私たちの仏教は考えるのです。

ー あらゆる解脱者はそういう志を初めに持ち、さらに「般若波羅蜜多」を
  実践的に行じたわけです。
  そうして解脱して、すると六根や六境に自性がないことがわかると
  いうわけなのです。

はい、ここで、大乗仏教であること、「般若波羅蜜多」の実践による解脱って
いうのが出てきました。

そして、次に唯識についての記述が出てきます。

ー これまで私は、世俗的な感覚に合わせ、「私」とは五蘊、あるいは
  その中の「識」だと申し上げてきました。

ー この「識」をテーマの中心に据えて再構築された仏教が「唯識」と
  呼ばれる仏教です。

ー 意識のもっと奥に、無意識な自己愛をもった「マナ(末那)識」、
  さらには「アーラヤ(阿頼耶)識」というもっと深い無意識も想定。

ー 「アーラヤ識」が清らかであるのか汚れているのかというテーマ
  仏教史上も大きな議論を呼んだ問題でした。

唯識論については、こちらのサイトでチェックしてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

(唯識は、初期大乗経典の『般若経』の「一切皆空」と『華厳経』十地品の
「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『解深密経
(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』
として確立した。そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した
長い思索と論究があったと考えられる。)とあります。

そして、観自在菩薩である著者はここで、
「今ようやく世俗的な前提を話し終え、解脱の境地から「空」を申し上げる
ときが来たのです。」
と述べています。

ー アーラヤ識は結局どんどん汚れていくという立場からは、
  それはしんじられないことでしょう。

ー 「般若波羅蜜多」によって「識」がどんどん清浄になっていったのかも
  しれません。 そこでは、あらゆるものが同等に存在し、しかも
  すべてが宇宙と一体になっていました。

ー 世尊が「ダルマ(法)」と呼んだのも、この状態で感得した世界の在り方
  であるはずです。

ー 「無明」の基本的な内容は「空性」に対する無知です。
  「般若波羅蜜多」を実践していないということなのです。

そして、ここでも、著者の博識ぶりが発揮されています、

ー 世界中のヒトの遺伝子が九十九・九九パーセントまで同じだということも、
  「識」の在り方に通じています。
  共に、私たちの知覚の近似性を証拠立てていると云えます。

ー 私たちの認識する現実は、このように外界そのものでもなく、また六根
  そのものでもありません。 いわば五根と外界が「識」を交えて
  再構成されるものだと云えるでしょう。

ー 仏教が「色・声・香・味・触・法」の全てを、原理的にはエネルギー
  捉えていることです。 つまり、「意」が捉える思い(法)も
  エネルギーなんですね。

ここで、さらにさらに、なんと量子論が出てくるんですよ・・・

ー 量子力学の創始者の一人であるニールス・ボーアは、原子、亜原子という
  モノは固有の特性は何ももっていない
、と言いました。

ー (量子力学の)観測の場では、想定される粒子の位置と運動を同時に
  観測することはできません。
  ・・・「不確定性原理」を提出したハイゼンベルクは・・・「量子力学
  では、軌道という考え方そのものが存在しない」と云い切っています。
  いわば、これによって物体は、物理的実在なのではなく、観測者と
  モノとの間の「出来事」ということになったのです。

なんとなんと、ここで著者は、
「これはまるで、これまで申し上げてきた仏教的認識への賛意と聞こえます。」

凄いですねえ。

ところがね、つい2~3日前にこんなニュースを見かけたんですよ・・・

科学技術の根幹にある量子力学の「不確定性原理」を示す数式を書き換える、
http://www.asahi.com/science/update/0116/TKY201201150398.html

不確定性原理に欠陥…量子物理学の原理崩す成果
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120116-OYT1T00076.htm

これが本当だったら、玄侑さん、まずいじゃないですか。

まあ、それはともかく、人間の思索の歴史ってのは、結局同じ対象を
どうみるかということですからね。 
その見方が違う、視点が違う、分析の方法が違う、表現が違う、経験の積み重ね
が違うってことですもんね。

仏教が量子力学と同じ。 あるいは、量子力学が仏教理論を追いかけている
面白いじゃないですか。

では、その(6)も よろしく。

   

            

            

         

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2012年1月17日 (火)

「現代語訳 般若心経」を読む その(4) 人間の勝手な判断?

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。

さて、玄侑宗久さんが書いたことを真面目に読みましょう。

「概念」というのは、ヒトだけがもつ立派なもののように思うかもしれませんが、
仏教ではこれを「戯論」と呼びます。
パーリ語では「パパンチャ」ですね。 そしてこれは、物事の実相を見るため
には是非とも排除すべきものと考えられています。
鼻で嗅ぎまわるネコのほうが、よほど概念から自由だということです。
プレマックの実験結果によれば、三歳以前の子供のように、とにかく
個物を見よ、ということなのかもしれません。

と著者は述べています。

私流に解釈すれば、子供のように純粋な眼で物事を見なさいということであり、
概念というものはかなり偏った、思い込みの、いい加減な、曇ったものだと
言う事なのでしょう。

例えば、「不垢不浄」について、
親しく好ましいものは「浄」なのであり、好ましくなくて他者と感じられる
存在が「垢」なのです。
幼時には「不浄」などなかったことを憶いだしてください。
・・・我々の大脳皮質があとになって作り上げたかなり捏造度の高い概念
なのです。

と解説がされています。

確かにおっしゃるとおりなんです。
思い込み ってやつですよね。
ひどい場合はトラウマと呼ぶのかもしれない。

・・・で、その思い込みに従って、一冊目の本、宮坂論をちょっと
振り返ってみますと:

観自在菩薩の観点(4階)においては、そうした永遠のものはない、
そもそも、いかなるものもないので、生じるとか滅すということもない。
一方、
世間レベル(2階)の観点では違います。
私たちの体(色蘊)は不生でも不滅でもありません。
私たちはこの世に生まれ、生きて、いつか必ずこの世から消滅します。
私たちの体は汚れることもありますし、洗えば浄らかになります。
体重が減ることもあれば、増えることもあるでしょう。

では、世間を越えた舎利子のレベル(3階)では、これら五蘊が、生じ、
滅し、垢がつき、浄らかともなり、増えたり減ったりすると言えるでしょうか。
舎利子が感銘を受けた縁起偈には確かに、諸法は生じ、滅す、と述べられて
いました。 それは、十二縁起という因果系列を前提とした諸法のことです。

・・と書いてあるんです。
全く正反対の解釈になっていますね。

別の意味で、正反対の書き方になっている部分があります。
それは、「不生不滅」の後の「不垢不浄 不増不減」の部分です。

一冊目の宮坂論では、
古来より「六つの否定(六不)」と呼ばれているものですが、
なぜ「生」「滅」「垢」「浄」「増」「減」という六つが否定の対象に
選ばれているか、その理由は定かではありません。

・・とその根拠が明確に分からないということを述べています。
サンスクリットのエキスパートでも、歴史的な経典の流れを調べても
分からないということでしょう。

一方、この本の玄侑論では、
61ページから79ページまでに渡って延々と次のような具体的説明、
科学的例を持ち出して解説しています。

ー これらは全て、脳と感覚機能の連合による、勝手な判断なのです。
ー 人間にとっての「死」のポイントなど、今でもはっきりしないでは
  ないですか。
ー 発達心理学者のプレマックの「概念」論の展開
ー いったい何が汚くて何がきれいなのか、どなたか科学的に説明できる
  でしょうか。
ー 二元論というのは、大脳皮質の得意技ですよね。
  ほかに美醜とか善悪、尊卑などももろん概念。 実相とは関係ない
  大脳皮質のでっちあげです。
ー 関わり合い、変化しつづける全体性として現象をみれば、またしても
  アインシュタインが云った言葉「宇宙の総エネルギー量は常に一定」
  という原理に戻ることになります。
ー インドにはすでにウパニシャドの時代から「分割できない元素」と
  いう考え方があり、それを「極微」と云いましたよね。
  それが七つ集まると「微塵」です。

ー インドの人々はとっくの昔にそれを諦め、「空」という様態を発見した
  と云えるでしょう。 物質を粒子の総合体として見るのではなく、
  あくまでもエネルギーに満たされた全体の中のある種の凝集として
  捉えたということです。

ー 量子力学では物質のミクロの様態を、「粒子であり、また波である」
  とします。 測定の仕方でどちらの結果も得られるというわけですが、
  端的に、それが「色」と「空」なのだと考えても、基本的には
  間違いではないと思います。

ー どこ以上を「浄」とし、どこ以下を「垢」とするのか。 
  「増」と「減」は傾きで明らかかもしれませんが、連続している以上
  その分岐点は明確にできないはずです。

わお~~~。 こりゃあ、別の意味で凄いと思いませんか?

玄侑宗久さんは、芥川賞作家だそうですから、そりゃあ博学多識なのでしょうが、
いろんな科学的知識が満載です。
それも、「私」=「観音様」という設定で現代語訳をしているんですからね。
まあ、なんて言ったらいいんでしょう・・・・

冗談が好きな方なんでしょうね。

では、又、 その(5)で よろしく。

 

                     

                     

               

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2012年1月16日 (月)

「現代語訳 般若心経」を読む その(3) 「此の世」か「ここ」か

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。

ここで、「受・想・行・識も亦復た是くの如し」について具体例が出ています。

道でつまづいて転んだ

ー 「受」= 地面とぶつかった衝撃、不安定感など
  「想」= 過去の経験などを含めて「つまづいて転んだ」と知覚
  「行」= 起き上がろうと意志する
  「識」= 道を歩くときはゆっくり歩かなくては、と認識

そして、ここで、起こった現象を感受した時点で「私」が関わっています。
「私」とは無数の「識」の集合体。 これがすでに特定の方向性をもっている。
つまり、「私」本位、自己中心的な方向である。
いわばそういった脳のクセがあって、身勝手な「身識」ができる。
よって、「ありのまま」の実体などは無い、と書いてあるんです。

・・・なんだか、いろいろと突っ込みたくなるようなことを著者は書いているん
ですねえ。

何を突っ込みたくなるかと言うとですね、
「特定の方向性」を持っているとか、「私」本位とか、自己中心的とか、
「脳のクセ」という言葉なんです。

その(2)で書いてあったアイデンティティ、パーソナリティーは認められない、
ってことが引っかかるんです。

特定の方向性とか、脳のクセとか、そういうのはアイデンティティー、
パーソナリティーってことにはならないのか? ってね。

そして、さらに著者いわく、
「純粋な主観も客観も、仏教では認めません。」

これは、著者の意見なのか、仏教の経典に書いてあるのか、ってことが
分からないんです。
今は「般若心経」を読んでいるんで、その範囲には少なくともそんなことは
書いてないんですよね。
だから、般若心経以外の経典に書いてあるんだったら、その紹介くらい
してもらいたいよなあ~~、なんて思うわけです。

さて、
「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」のところです。

「こういった空性の原理は、此の世に存在する全てのものについて云える
 ことです。 諸法すなわちあらゆる現象は、本当は生まれもしなければ
 滅することもない。 汚れるということもありませんし、浄らかになる
 こともありません。また増えたとか減ったというのも、錯覚というしか
 ありません。」
という現代語訳になっています。

ちょっと振り返って、一冊目の本のこの部分を見てみると:

一冊目の宮坂氏の和訳は:

ここにおいて、存在するものはすべて空性を特徴としていて
 生じたというものでなく、滅したというものでなく、汚れたものでなく、
 汚れを離れたものでもなく、足りなくなることなく、満たされることもない。」

となっていました。

「此の世」が「ここにおいて」になっています。
又、「存在する全てのもの」は、「存在するものはすべて」で、一見同じなん
ですが、後者は「五蘊などの諸法(ダルマ)」という意味で書いているようです。

これを話しているのは、観自在菩薩で、聞き手は舎利子です。
観音様は4階(大乗)にいて、舎利子は3階(小乗)にいて、庶民は2階の
世間レベルでした。
だから、「ここにおいて」=「4階の観音様のフロア」ってことでした。

小乗レベルでは、お釈迦様が唱えたように、諸法(ダルマ)は因によって生じ、
また滅すものであり、縁起によって移り変わっていくということでした。
だから、「不生不滅」ではないってことです。
お釈迦様が言ったように、それはちゃんとあるわけです。
「空」という考え方は小乗仏教ではないですからね。

そして、この諸法(ダルマ=五蘊など)が永遠に存在するとした小乗の
アビダルマ論師に対して、4階のレベルから「それは空だ」としたんですね。
だから、4階(大乗)の立場からは「不生不滅」になるということでした。

・・・で、こうやって読んでみると、やっぱり、この本では小乗の考え方と
大乗の考え方がごちゃまぜになって解説されていると読めてくるんですね。

かなり、宮坂さんに「毒」されていますかね??

でも、宮坂論の方が すっきりすることは確かだと思うんです。

では、その(4)に続きます。

 

 

 

   

                           

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「現代語訳 般若心経」を読む その(2) 「色即是空」

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。

さて、この著者は「空」をどのように解釈しているかといいますと:

ー 「空」の原語は「シューニャー」というのですが、本来は「何もない状態」
  を意味するほかに、数字の「ゼロ」も意味します。

ー ここでは、「自性」という固定的実体がない、全ては関係性のなかで
  変化しつづけている
、ということを「シューニャター」(空性)と
  表現した。

ー 世尊はそれこそが宇宙(梵)の実相であると徹見された。

ー ここで重要なのは、あくまでも「全体」は「個」の集合ではない
  ということです。

そして、著者は、科学的なものの見方を例にあげながら、「世界は千差万別」
だということ、実相は「空」だということを説明しています。

例えば、犬に見えている世界とハチや鳩に見えている世界。
人間に見えている姿だけが物体の実相だとは言えない
犬は赤外線を感じる。 ハチや鳩は紫外線を感じる。
人間の場合は、花瓶の用途や常識的知識、具体的な思い出なども視覚情報に
影響をあたえる、などとしています。

さらに、ゲーテの「植物の変態について」」という論文で、「原植物」が
無数の形態に発展する能力をもち、知覚を超越した能力をもっていたと
推測した、などを紹介しています。

そして、それが、ダーウィンに受け継がれ、進化論に進み、「種の起源」の
三年後に「ランの受精」という本を出したのだそうです。

・・・で、著者が言いたかったのは、

ー もしかすると、植物には眼・耳・鼻・舌・身・意という六根に分かれる
  以前の、総合的で根源的な感覚があるという考え方もできるのでは
  ないでしょうか。
  それは大袈裟に云えば、「空」を「空」のまま感じる能力かもしれません。

というところなのかも。

ー 「色」も、いずれも「空」という実相に依存している。
  「無常」であり、「縁起」のなかで変化しつづける「空」だからこそ、
  それぞれの感覚と関係しあい、それぞれ別な「色」を作る。

ー 世尊は、感覚を信じるなと何度も何度もおっしゃっていますが、
  それは実相の「空」という在り方を実感してほしいからです。

ここで、著者は宇宙と人間の関係を解説しています:
(解説本じゃなくて 観自在菩薩の話というスタイルの現代語訳だとは
 言っているんですけどね・・・)

ー この宇宙と人間とを、それぞれ変化せしめる主体として、
  インド人は「梵(ブラフマン)」と「我(アートマン)」を考えた。
ー そこに実体があるかどうかについては、宗教宗派や、学派によって
  考え方が異なる。
ー この本の中では、観音である私が話す経典では、実体ではないという
  立場をとる。
  (これが、大乗仏教の立場ということになるんでしょうね。)

ー よって、自己のことを私(観音)は、「我」と云わず「五蘊」という
  「蘊」とは「集まり」のこと。
  たまたま縁起によって集まった体と精神機能の集合体が「私」である。

ー 私という五蘊の変化は、宇宙全体にも何らかの影響を与えているはず。
  むろん逆も真です。

そして、ここでちょっと引っかかった言葉があるんです。

「我も空である」ということは、当然のことですが「我」には固定的実体が
ないということです。 今で云うアイデンティティーとかパーソナリティなど、
仏教は認めないのです。

だから固定的な自己というのは、仏教的にはどう考えてもナンセンスという
ことなのです。

・・・??  「認めない」? 「ナンセンス」? 本当なんですかね?

まあ、れっきとしたお坊さんですからね、嘘はないでしょうけど。
そういう風に解釈するんですかね。

う~~ん、納得いかねえな。

そして、そのすぐ後に、

我々は、固定的実体などないと悟ることで謙虚にもなれるわけですし、
何よりもそのことが、悟るべき第一のことなのです。

とあるんですけどね・・・・・

確かに、お前のアイデンティティーとは何だ? と聞かれたらそりゃあ
返事に困りますけどね。
しかし、人としては なんらかの拠り所ってもんは必要ですよね。

アイデンティティーを感じることがないと、存在自体が不安じゃないですか?

まあ、そこが、悟るべきことなんでしょうけどねえ。 宗教としては・・・

・・・・

ここまで、読んできて、一冊目の本と比べていかがですか?
一冊目は 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)でしたけど、
むちゃくちゃ違いますよね。

宮坂さん言うところの「世間レベル」の話みたいな感じなんですけど。

さて、どうなっていくんでしょうか。

その(3)に続きます。

 

 

 

 

 

           

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情けは犬の為ならず・・・・ 参った・・・

「情けは人の為ならず」 ってことわざを御存知ですよね。

間違った使い方をする人が多いそうです。

「情けを掛けることはその人の為にならないから やめなさい。」

ってのは間違いですね。

こちらのサイトで 御確認下さい。

http://kotowaza-allguide.com/na/nasakewahitono.html

でも、さらにこんなことも注意書きにあるんですね。

「近年、この意味での解釈を正しいと思い使う人が増えているが、それは時代によることわざの意味の変化と捉え、使用されている場面に応じて意味を推測する必要があると見られている。」

こういうのがあるから、日本語教師の悩みは増えるんですねえ。

・・・・・

さて、私の場合「情けは犬の為ならず」という事態になってしまったんです。

本当に参りました、ワンちゃん御免なさい。

1ヶ月くらい前の話なんですけどね、隣の家の黒い大きな犬が死んだんです。

それで、その時に、下宿のお婆ちゃんが 「犬に鶏の骨なんかあげるから、そういうことになるんだよ。 あげちゃ駄目なんだから・・・・」

って話していたのが気になっていたんです。

それで、昨晩、やっとインターネットで検索してみたんですね。

「犬に食べさせてはいけないもの」

これが そのサイトです。

http://yuzu-toypoo.com/11/20/000241.html

鶏や魚の骨

圧力鍋などでくたくたになるまでやわらかくすれば良いのですが、
そのままだと、食道や内臓に刺さり傷つけます。
特に鶏の骨は、噛むと斜めに裂けるため、とても危険です。

・・・・

ああああああ~~~。 

なんとなんと、「特に鶏の骨・・・・とても危険」

痩せこけたお母ちゃんをみかねてやったこととはいえ、

なんと危険なことをやっていたのか!!

ごめんなさい・・・・

無知とは恐ろしい。

おまけに、その下に書いてあることを見つけて 愕然 !

牛乳

牛乳の乳糖(ラクトース)が消化できないと下痢の原因になります。
特に子犬には、気をつけてください。

・・・・

げげげ・・・!!

「特に子犬には 気をつけて」

オ~~マイ ゴ~~~ッド !!!

ごめんなさい、子犬ちゃん・・・・

もう、ションボリです。

犬に詳しい皆様へ:

人間様の食事の残りしかあげられない状況で、

ワンちゃんたちに何をあげたらいいんでしょう・・・・

教えてくださいませませ・・・

でもね。 犬にはドッグフードしか食べさせちゃいけないみたいなサイトが多いですね。

もともと、古来、ワンちゃんたちは 何を食べて生き延びてきたというのか。

ドッグフード時代以前の事情に詳しい方のアドバイスをよろしくお願いいたします。

フィリピンじゃあ、番犬を甘やかしてはいけないんです。

それを踏まえて・・・・

難しそうだなあ。

    

    

  

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2012年1月15日 (日)

この身を犠牲にして、腹が出る

骨と皮になり、どうなることかと心配したお母ちゃんが、

なんとかカルシウムが欲しいんだってことが分かって、

魚や鶏の骨や、たまにミルクなら食べてくれるようになったんです。

私は本来 ネコ担当なんです。

だから、一所懸命魚を食べて、猫ちゃんに上げているんです。

ところが、お母ちゃんにも魚の骨が必要だということがわかっちゃったわけ。

で、今までなら、魚一匹でよかったんですけど、二匹くらい食べないと

ネコちゃんとお母ちゃんの分が賄えないわけですよ。

やせ細ったお母ちゃんが、つぶらな瞳で見つめるんですよ。

だから、二匹食べるわけ。

二匹食べると ご飯もどうしても多くなっちゃうわけ。

よって、腹が出てきたみたいなんです。

この数日の話ですよ。

・・・・ 下宿人、二杯目からはそっと出し・・・・

    

             

          

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「現代語訳 般若心経」を読む その(1) 「大本」を訳す

玄侑宗久著 「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)を読んでいます。

さて、「般若心経」の本の2冊目をよみます。 
一冊目の本とは うって変わって、現代の科学的知識を織り交ぜながら
観自在菩薩(観音菩薩)が 現代語で語りかけるスタイルをとっています。

あくまでも解説本と言うよりも「現代語訳」という著者のスタンスです。

では、まず、この本の構成から見てみましょう。

「人はどうしたら苦しみから自由になれるのだろうか。・・・・
 般若心経には、合理的知性を超えた、もうひとつの知が凝縮されている。
 大いなる全体性のなかに溶け込んだいのちのよろこびを取り戻すための・・」

と言う事が表紙の裏に書かれています。

そして、目次を見てみますと:

1. 「般若心経」(大本)の訳
2. 「般若心経」(小本)の訳
3. 「般若心経」(小本)の書き下し & 読み方

となっていて、一冊目で解説があったように、大本と小本の関係から、
宮坂氏の言う 3幕仕立ての全体を大本で示し、現代語訳で示した後に、
一般的に使われている小本としての般若心経、つまり、第二幕目を読んでいく
ようにしてあります。

全体として意図されているのは、最初の言葉にもあるように、
「もうひとつの知」「全体性の中に溶け込んだ命のよろこび」を
実践に結びつけることをめざしているようです。

「はじめに」のところに、以下のような点をあらかじめ書いてあります:

ー このお経の難しさの本質は、人間の理知を超える体験をしようという
  ところにある。

ー もともと言葉を用いた理知的な解釈は、生のリアリティーを感じる
  ためには誠に不向きである。・・・
  霊魂がある種の「全体性」であれば、むろん理知によって到達できる
  はずもない。

ー 「全体性」とは、体験的に観ずるものであって分析するものではない
  のである。
  (この点については、私自身、かなり賛成です。
   そもそも宗教的な実感というのはそういうものだと思います。)

ー 「般若」はあくまでも実践的叡智であることを忘れてはいけないだろう。

ー ここでは状況設定などがわかりやすいように まずは「大本」の訳を
  示し、その後に「小本」の変化した流布本の訳と・・・

では、ページをめくりながら、読んでいきましょう。

大本の訳なので、最初に状況設定の部分がありまして、以下のような点が
出ています:

ー お釈迦様が、王舎城の郊外にある霊鷲山にいる。
ー そこに、大勢の求道者・修行者たちもいる。
ー お釈迦様は悟りの深い禅定に入っている。
ー 舎利子が質問をする。
  「もしも立派な若者が、般若派羅蜜多(智慧の完成)を実践したいと
  いうなら、どのように学べばいいと、答えてあげればいいでしょう。」
ー 禅定に入っているお釈迦様に代わって、観自在菩薩がこれに答える

これが、第一幕のシーンになるわけですね。(一冊目の本による説明)

そして、第二幕が 観自在菩薩が舎利子に答えた内容ということになります。

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」
がここから始まります。

そして、この著者玄侑宗久さんがどんな風に現代語訳をしてるかっていうと:

シャーリプトラさん、じつは私、その般若波羅蜜多のための実践を
しているときに、五蘊は皆「空」なんだって、わかっちゃったんですよ。

・・・と「現代語」に訳しているんですねえ。
かなり柔らかいですね。 フィリピンのスパゲティみたいです。(笑)

実際、この本は、あちこちに、冗談が入っているんですよ。
それがいいかどうかは、読者の好みの問題でしょうね。
「余計な冗談を入れやがって」と思うひともいるんじゃないでしょうか。

ひとつひとつの言葉の意味については、一冊目の本でだいたいお分かりだと
思いますので、それははしょって、この本の特徴的な部分を拾っていきたいと
思います。

ー 「色・受・想・行・識」という五つのはたらきの集合(五蘊)が
  我々人間なのですが、それが全部「空」である、と私は実感しちゃった
  わけなんです。
  (ここの「私」というのは、話し手である観自在菩薩です。)

普通は「これが私だ」と錯覚しやすいけれども、実は私というのは「五蘊」
なんだと言うわけですね。

そして、
ー 「五蘊」がみな実体ではなく、関係性のなかで仮に現れた現象だと
  思っておいてください。

ー 「五蘊はみな空だ」ということがわかったお陰で、私は一切の苦悩とか
  災厄を感じなくなってしまったんです。

ところで、ここで豆知識が書いてあるんですね。
観自在菩薩(観世音、観音様)は男か女か?
「観音ばばあ」なんて呼ぶ連中がいるんだけど、本当は男なんだそうです。
阿弥陀様が転輪聖王だったときに作った千人の子供の長男だと「法華経」に
書いてあるんだそうです。 
仏画をみると、ちゃんと髭もあるようです。

さて、本題に戻りますと:

ー 色や形が見えるのも、まずは光とモノとの「出逢い」による
  お互いの変化のお陰なのです。

ー 世尊(釈迦)は、物質とは「変化するもの」「やがて壊れるもの」と
  理解されていたのです。

ー あらゆる現象は、単独で自立した主体(自性)をもたず、
  無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、
  しかも、秩序から無秩序に向う(壊れる)方向に変化しつつある。

ー 上記のことを、「諸法無我」「諸行無常」などと言う。

ー 無限の関係性のなかの絶えざる変化、という実相の在りかたを、
  お釈迦様は「縁起」と呼びました。

今日は、ここまで。

どうも一冊目の印象が強烈だったためか、この本を読んでいる間にも
前の本が干渉してくるという感じですね。
いけませんね。

では、その(2)をよろしく。

                                 

    

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