« 2012年7月15日 - 2012年7月21日 | トップページ | 2012年7月29日 - 2012年8月4日 »

2012年7月28日 (土)

ともだち・・・・なかよし・・・ そして、

A010

うちの下宿の 子猫ちゃんと 子犬ちゃんたち・・・

ひなたぼっこも 仲良しです。

A001_2

もう、こんなに入り乱れて スキンシップも しっかり・・・なんですけど・・・

お母ちゃんが参加してしまうと・・・

A002_2

次の一瞬・・・

お母ちゃん猫に 抱きつかれて、爪でひっかかれて・・・・

まあ、大騒ぎ。

子供同士の付き合いに 大人が入ると ろくなことにはなりません・・・・な!

 

 

 

 



| | コメント (0) | トラックバック (0)

「亡霊のさまよう街 ― その5」 フィリピン バギオ

「亡霊のさまよう街 ― その5」

「塩もあるのか。」

高井は野豚の肉を口の中でもぐもぐさせながら言った。

「ああ、塩なしじゃ こんなにうまかあねえさ。」

「司令部の配給か。」

「配給?  ・・まあ、そんなところだ。」

パン、パン、パン。 

後ろに立っていた兵隊が私の左側に倒れ込み、めがねが吹っ飛んだ。

背後の森の中から撃ってきていた。 みんないっせいに反対側の林をめがけて走り出した。 

私は焚き木を蹴飛ばし、鍋をひっくり返して、小屋の陰をめざした。振り返ると、

高井が動けずに寝転んだまま銃を打ち出した。 畑を囲んで周りの藪に飛び込んだ

兵隊たちは、すぐに敵が潜む森をめがけて手当たり次第に撃ち返す。 森の中は

静まり返った。

高井は森の方をうかがいながら地面を這うように小屋の陰に逃げ込んだ。

私はゆっくり小屋の裏側に後退し、反対側の軒先から森をうかがった。 森の方は

静かなままだった。

「高井! 大丈夫か?」

返事がない。

「高井、どうした。」

しばらく なんの音も声も聞こえてこない。

「ニ・シ・ヤ・マ」

ひそめた声が私を呼んだ。

「小屋の中を見ろ。 声を出すんじゃないぞ。」

私は 竹で編んだ壁の隙間から中を覗いた。 薄暗い小屋の中の天井から紐が

垂れていた。 

そして、その紐の先は人の手に結ばれてくい込んでいる。 しかし、その手の持ち

主の身体はなかった。 その手の指先は白く細かった。

「まずいぞ、これは。」

高井がいつの間にか、すぐ横まで這い寄って来ていた。

「お前、すぐに逃げろ。 俺はここで時間を稼ぐ。」

「しかし、おまえはどうするんだ。」

「俺は この足じゃあ逃げ切れん。 それに、これは女だ。日本の看護婦だ。 

米を持っていたのが命取りだな。」

「日本の? 看護婦?」

「箱の上に制服が置いてある。 見てみろ。」

高井の言う通りだった。 看護婦の軍の制服と女の下着が無造作においてある

のが垣間見えた。 

地面には米らしい白いものが散らばっていた。

「奴らに気づかれないうちに、この林の中に逃げ込むんだ。」

高井は、小屋の背後の林を顎でさした。

「これが知れたら、軍法で銃殺だ。」

「弾は持っているのか。相手は三人だぞ。」

「俺は腕がいいんだ。なんとかする。早く行け。」

私は小屋から離れてゆっくり林の方へ向った。

「見たなー! 貴様らー!。」

向こう側の藪の中から男の声が飛んできた。そして弾丸がそれを追いかけた。

高井がその声の方に打ち出した。 私は一目散に藪の中に飛び込んだ。 しかし、

その瞬間、ビシッと右肩に激痛が走った。 

「あいつらを逃がすなー!」

銃声が激しくなった。 打ち返す音もまだ聞こえていた。

私は 後ろを振り返らず 藪から藪へ、林から森へと逃げ込んだ。

そして、銃声は聞こえなくなった。

辺りはすっかり暗くなっていた。 右肩の痛みはひどくなっていたが、誰も見てくれる

者はいない。 

マラリアの熱と寒気がほとんどなくなっているのだけが救いだった。

明日は少しでもインティカクの病院に近づかなくては。

毛布を取り出すのも難儀であった。 左肩を下にして休もうとしたが、焼けるような

痛みが眼を冴えさせる。

東の空が白み始める頃には、もう歩き出していた。 とにかく病院で銃弾だけでも

抜いてもらわなくては。 日が昇る方角に行けば、そしてアグノ川沿いに歩けば

インティカクに着ける筈だ。 右腕はもうその頃には感覚が麻痺して来ていた。 

杖代わりの銃を握りしめることも出来なくなっていた。

アグノ川らしい流れに辿りついたのは それから一昼夜歩いた頃だった。 何百人、

いやもしかしたら何千人という日本兵たちが川沿いを上流に向って歩いていた。

川沿いには もう歩くことを放棄した者たちが足の踏み場も無いほど横たわって

いた。 

そして、安心してしまったのだろう、息絶えた者たちが水辺にうっぷしている。

アグノ川は三途の川と化していた。

川沿いを上流に歩いていくと、熊本弁でしゃべっている者たちがいた。

「工兵連隊はどこにいるか知らないか。」

「お前も熊本か。」

私はその声を聞いた途端、座り込んでしまった。

「だれか、肩の弾を抜いてくれないか。」

「まってろ、今呼んで来る。」

「インティカクは まだ遠いのか。」

「川沿いを歩いたら二十キロらしい。 まっすく歩けば半分と言う話だ。」

「二十キロも?」

「病院に行っても何もないんじゃないか。 寝かされるだけだ。」

銃弾を抜いてもらったが、消毒液などはなかった。

「インティカクになにがあるか分からんが、一度軍医に見てもらうしかないな。」

私は、アグノ川を北上し、分岐点から東へとインチィカクを目指した。

人はますます増えたが、食糧はまったくない。 あったとしても、周り中が餓鬼と

化したこの川べりで一人食べるということなど出来るはずもなかった。 食糧が欲し

ければ山へ入るしかないのだった。

やっとの思いでインティカクの病院に着いたのは、それから三日後のことだった。

病院はアグノ川の川べりに並んだテントだった。 数百人の傷病兵はテントに納まり

きれず溢れていたし、毛布をしいただけでそこに寝かされていた。 軍医も看護婦も

いるにはいたが、機材や薬剤はほとんど何もなかった。 食糧もなかった。

軍医は私の左手首と右肩の傷を診たが、銃弾の跡の腐りかけた肉を削り取って

包帯を巻いただけだった。私はほとんど骨と皮だけになった兵隊の隣に寝かされた。

5月の空は真っ青だった。 四方は緑の山々に囲まれている。 この西にバギオが

あって、北の方角には標高2,923メートルのプログ山の威容がかすかに望める

はずであった。 

真夏の太陽がジリジリと照り付け、地面からは青草の臭いが血の臭いに混じって

立ちのぼっていた。

タオルを頭にかぶせ、うつ伏せに寝ている私に聞こえてくるのは、人々のざわめき

だけであった。 

蟻が顔に這い上がっているのは分かっているのだが、それを払い落とす力は残っ

てはいなかった。

「桜さんと志乃さん どうしちゃったのかしらねえ。」

「そうね。 こんなに病人が多くっちゃあ 看護婦がいくらいてもどうにもならないわ。 

牛沼軍医だって 最近はほとんど寝ていらっしゃらないのよ。」

「バギオを出たのはもう十日以上も前のはずなのに。 なにかあったのかしら。」

看護婦たちが 近くの病人を世話しながらしゃべっているのが聞こえてくる。

人々のざわめきが一瞬途切れ、遠くから爆音が聞こえてきた。 B29爆撃機だった。

周りから人々が逃げ出す音が聞こえていた。 しかし、私にはもうどうでもよかった。

そして、地鳴りがした。 ひとつ、ふたつ、みっつ・・・・。

近くで悲鳴があがった、呻き声も聞こえる、そして、何かが私の背中にも飛んできた。

重い爆音が去っていくと、しばらくして グラマン機の甲高い爆音が近寄ってきた。

機銃掃射の音が川べりのテントを襲っているようだった。

その爆音は、近づいたかと思うと、すっと遠ざかっていった。

何度目だったかは覚えていない。 私の背中に熱いものが浴びせられたように感

じた。

そして、私は気を失ってしまったのだった。

「あなた、あなた。」

誰かが呼んでいる。

何時間経ったのだろうか。 周りは静かだった。

「あなた。 私よ、わたし。 貴子よ。」

貴子? そんなはずは・・・。

私はゆっくりと寝返りを打った。 背中の傷は不思議に痛くはなかった。 

そして、重い瞼をゆっくりと開いた。

ぼんやりと制服姿が現れた。 それは看護婦の制服であった。

「た・か・こ?」

それは、紛れも無く妻の貴子であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「亡霊のさまよう街 ― その4」 フィリピン バギオの歴史

「亡霊のさまよう街 ― その4」

冷たいものが私の右首筋を流れて はっと目を覚ました。 私は 鬱蒼とした松林の

苔むした岩に寄りかかって、左手首をかばうように寝ていた。 上を見上げると松林

の枝の間に見えるはずの薄暗い灰色の空も、霧が入り込み隠されていた。 

雨の雫がバラバラと音をたて、すーっと目の中に入ってくる。 おそらく午後の

シャワーだろう。 バギオの四月は夏まっさかりである。 

夏山の午後の天候は日本と同じだった。 

左指がうずくような感じがした。 しかし、指などあるはずがなかった。 手拭いで

しばった左手首はキャンプ2での接近戦で吹き飛んでいる。 しかし、米兵が残して

いったビールで念入りに洗ったのがよかったのだろう、なんとか腐らずに持ちこたえ

て来た。 

そして、思い出したように寒気が襲ってきた。 熱は少し下がったように思えたが、

マラリアは熱があるのにぞくぞくする寒気があった。 兵隊には各自ドイツ製の

キニーネが渡され、毎晩一錠ずつ飲むことになっていた。 しかし、そんなものも 

いつ使い切ったのか覚えてもいない。 

朦朧とした私の目の前、松の根元に飯盒が打ち捨ててあるのが見えた。 何か食べ

なくては・・・。 

そうだ芋があったはずだ。 右手で自分の飯盒を探ってみる。 

「・・・あっ、あれが俺のか・・。 しまった!」 

5本あった芋は消えていた。 私は空になった飯盒を拾い上げた。

この山の中で なにが見つかるだろうか。

もうすぐに5月であるから、普通なら米の収穫の時期である。 しかし、日本兵が

さんざん田畑を荒らした後に なにを期待するというのか。 芋ですら手に入らない。

さつま芋に似たカモテでもあれば、せめて葉っぱでもあれば。 バナナの木がどこか

にないか。

まだ明るい内に食糧を探さなくてはならない。 アンブクラオに急いで行ったところで、

集結地に食糧などありはしないだろうし、道路沿いを歩いたところで、喰えるものは

全部取られてしまっているに違いなかった。 私は誰もが行くだろう道路より下では

なく、山の方に登っていくしかないと思った。 おそらく日没までに 3~4時間くらい

しかないだろう。 

私は、この先の道は下り坂であるのを思い出した。 このまま水平にアンブクラオ

方面に歩いていけば、道筋をだんだん山側に離れていくことになる。 そうしよう。 

私の身体では 坂を登る力は残ってはいない。 私は道なき道を歩き出した。 

最初は周りにいた何人かの兵隊たちも、次第に松林の中にひとり、またひとりと

消えていった。 

下の方では、時折 米軍の爆撃の音、機銃掃射の音が聞こえていた。

激しい雨は何時間降り続いていただろうか。 身体は雨と汗でもうぐっしょりで、

湯気が立ち上っている。 夕暮れがせまる頃、ちょっと松林が開けたところで

バナナの木を探し出すことが出来た。 

しかし、すでに実などはひとつも残っていない。 私は荒らされたバナナの木を倒し、

その芯をくり抜いた。 濡れたボロボロのシャツとズボンを乾かしながら、バナナの

芯をかじるしかなかった。 

私は、キャンプ3の洞窟で戦っていた頃から、既にトカゲ、蛇、茸なども食べていた

が、生で食べるようになったのは最近のことであった。 

バギオの方角に目をやると、黒く垂れ込めた雲の合間に赤い太陽が沈みかけていた。

真夏とはいえ1,600メートルの標高の夜は、濡れた地面から冷たさが身体の芯に

詰め寄ってくる。 

バナナの葉を敷き詰め、毛布にくるまってズボンが乾くのを呆然とながめている。

マラリアの熱と寒気は交互に襲ってきた。 歩かなければならないのだが、身体は

もう眠っていた。 

ウトウトっとしていると、パーンと言う音が松林の奥から聞こえてきた。 さほど

遠くはない銃声である。 

私は干してあったズボンとシャツを慌てて身に付け、斜面の窪みに身を隠した。

しばらくすると、「ヤメロー」と日本人の声。 そしてすぐに三発の銃声がして静かになった。 

何分経っただろうか、2~3人の歩く音が薄暗闇に、地面ずたいに聞こえてくる。 

イロカノ語だろう、低い声が何かを指示している。 ゲリラに違いなかった。

私は銃を握り締めて、息を潜めた。 月が何度か雲に見え隠れして静けさが

元に戻っていった。 

窪みに潜んだまま、夜明けを待つことにした。

山を下りつつ食糧を求める彷徨は果てしなく続くかのようだった。 日本兵の姿が

目に付くようになり、アンブクラオ道に出たのは一週間後のことだった。 爆撃と

機銃掃射で倒れた者、マラリアやアメーバ赤痢や負傷で動けなくなった者、骨と

皮になり果てた者たちが道に累々としていた。 体中に蛆虫が湧いている者、

すでに骸骨化している者もいた。 道路の向こう側には遠くにアグノ川の水面が

キラキラと光って見えていた。 

アンブクラオのはずである。

「インティカクまでは あと何キロぐらいかな。」

私は 路傍に座っている兵隊に尋ねた。

「おお、おまえ。 生きていたのか。」

それは、アンブクラオ道に入ったばかりのときに声を掛けてくれた高井熊二郎で

あった。

「ああ、しかし、どうしたんだ。 おまえこそ。」

「昨日やられた。 グラマンのやつに。」

その頃バギオ周辺に飛んできていた米軍機は グラマン機、ロッキード機、そして

B29の爆撃機であった。

高井は 左足のふくらはぎ辺りをきつくしばっていた。

「歩けるのか。」

「まあ、ここまでは、なんとかな。」

と言いながら、首を横に振った。

「あと十キロってとこかな。」

私は高井の横に腰を下ろした。

「玉はどうした。」

「2~3発入ったままだ。」

インティカクの病院まで 一緒に行くしかないな。 私はそう思っていた。

ゲリラにいつ襲われるかもしれない。 一人より二人の方が少しは安心だった。

私は手は使えないが、足はまだ大丈夫だ。 高井は両手が使えたが、足が駄目である。

キャンプ3でもそうだったのだが、足が動かないと置き去りにされるしかないのであった。

アグノ川に出れば食糧を炊くことぐらいは出来るかもしれない。 高井の両手は

助けになる。 私は高井と二人でアンブクラオ道からそれ、まずは松葉杖を作った。

インティカクまではうまくすれば二日間でいけるかもしれない。

しかし、アンブクラオに近づくほどに、撤退してきた日本人が増え、田畑はもとより、

山の中のバナナなども喰い尽されていた。 私の蓄えはバナナの芯と茸しかなかった。 

アグノ川に流れ込んでいるのだろう、鬱蒼とした森の中に小さな川が流れていた。 

私は高井にお湯を沸かすように頼み、川沿いに食糧を探しに出た。 草の根っこと

蛇が収穫だった。

高井のところに戻るといい匂いが湯気を上げていた。 なんと米を炊く匂いだった。

「おまえ、それ どうしたんだ。」

「ちっとガソリン臭いんだがな。 まあ、喰えんことはないだろう。」

「しかし、なぜ そんなものがあるんだ。」

「バギオの司令部さ。 司令部が撤退する時に食糧にまでガソリンぶっかけやがって。

これは その焼け残りってことだ。」

「おまえ、行ったのか。」

「ああ、連絡に行ったら、撤退した後だったんだ。ワインも失敬した。」

「もっとあるのか。」

「いや、これが最後だ。 だがな、陸軍病院に勤めている連中は、バギオで最後の

米の配給があったらしい。 喰いたければ そいつらに頼むことだな。」

フーフッフッ、ズズズーっとひと口すする。 五臓六腑に沁み込むとは この事だった。 

雑炊にも程遠いしろものだったが、温かい汁をすするのは何週間振りだろうか。 

蛇と草根の雑炊は塩があれば言うことが無かったのだが。

その時だった。

「おめ~ら、いいもの喰ってんじゃねえか。」

松林の草むらの背後から銃口をこちらに向けて日本兵が出てきた。 髭だらけ

の頬はこけ眼だけがギョロっとした三人だった。

銃口で胸を押された高井は後ろにひっくり返った。 私は飯盒の蓋を持ったまま川の

中に後ずさりした。

三人は銃口を我々に向けたまま、座り込んでガツガツと雑炊を喰ってしまった。

腹が収まったのだろう、一人がにやにやしながら言った。

「喰い逃げってのはやっちゃいけねえよな。 貴様らにも俺たちの喰いもんをわけて

やらあ。 付いて来い。」

付いて行ったところは森を抜けた、ニッパヤシの小屋が見える畑の隅だった。 

そこにはもう一人の日本兵がいて火の番をしていた。 その男は我々を見てギョッと

した様子だったが、そのまま何かを焼いていた。

「野豚の肉だ。 喰ってみろ。」

「豚? 本当に喰っていいのか。」

「ああ、いいから喰え。」

高井と私は眼を合わせた。 夢をみるような気持ちでその肉にかぶりついた。

「旨い。」と言う声も出せなかった。 肉は思ったより軟らかであった。

「あわてて喰うんじゃねえぞ。 胃が弱ってるからな。死ぬぞ。」

肉を食べるのは、キャンプ2で米兵が残した缶詰の残りを拾って以来のことだった。

しかし、高井と私は、私たちを取り囲んだ兵隊たちが薄笑いをしているのには気が

付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年7月27日 (金)

「亡霊のさまよう街 ― その3」  フィリピン バギオ

「亡霊のさまよう街 ― その3」

寄りかかった洞窟の壁から 私の背中には米軍の砲弾の振動が伝わってくる。

私はナギリアン道の洞窟の中で、義春と啓三のことを想っていた。 

義春は小学三年だが 責任感の強い優しい子だ。 家で飼っていた子猫が

近所の野良犬に咬まれた。 

気づいた時には傷口にウジが湧いていた。 義春は泣きながらそのウジを

一匹一匹小さい指でつまみ出し、泣き腫らした目を服の袖で拭いていた。

消毒液を何度も何度も塗りつけた。 しかし、数日後に 

その子猫は死んでしまった。 それ以来、義春は動物を飼おうとは言わなくなった。

啓三は、まだ三歳である。 妻の貴子を困らせてばかりで、気が強い。

元々あまり出が良くなかった貴子の乳を欲しがっては、今でも乳首を噛み

切らんばかりに甘える。 

貴子は、「痛たたたたっ! なにも出ないわよ。困った赤ん坊だ。」と

笑いながら、片手に薄い粥のおわんを抱えていた。 結婚前に看護婦だった

貴子は、病人と子供の扱いには慣れていた。

洞窟がにわかにざわつき始めた。 私はふっと我に返った。

「転進だ! 転進だぞ!」

4月24日。 いつ撤退するのだろうと皆がじりじりしていたのだが、

やっと夜になってからの撤退命令である。

私はなんとか体を起こした。 我々の隊はこれからバギオの東地区で

抗戦しながら、アンブクラオまで後退するはずである。 

その日は、夜になっても米軍の攻撃が収まる気配はなかった。

洞窟をふらふらっと出ると、眩しいまでに米軍の照明弾が周りを照らし出し、

砲弾が恐ろしい唸り声をあげながら降り注いで来る。

周り中に私と同じようにマラリアに侵され、体中に傷を負った傷病兵が

ごろごろとしているが、体を起こせる者は数えるほどしかいない。

先を争って撤退する兵士たちは、既に死んでしまった者や起き上がれない

者たちに 蹴つまづきながらバギオ市街へと走り出した。

バギオ市街を通り抜け東地区へ到達するのは容易なことではない。

ナギリアン道を少しくだり、セント・ビンセント教会の前を登り、三叉路を

右にアバナオ通りをバギオ市役所を右に見ながら下り、市営市場の付近から

今度はバギオの目抜き通りであるセッション通りを登りつめ、レオナルド・

ウッド通りを下って又登りライト・パークまで歩かなくてはならない。

そのライト・パークの先を登ると、夏の大統領官邸と呼ばれるマンション・

ハウスがあり、さらに登って行くとマインズ・ビューの丘につながる。 

このマインズ・ビューには七百人もの日本兵が道の側溝に埋められている。 

一月二十三日の米軍の大空襲によってバギオの陸軍病院が壊滅状態となり 

傷病兵や病院関係者が死んでいるのだ。 そこの傷病兵は朝食を食べたあと 

山の中に退避し、昼食時にまた病室に戻ったところを米軍のグラマン、

ロッキード、そしてB29の猛攻の餌食となってしまったと聞いていた。

右方向には日本軍のバギオでの拠点となったキャンプ・ジョン・ヘイがある。 

マンション・ハウスから その周辺にかけて我々の工兵連隊はあちこちに

壕掘りをしていた。 おそらくその付近でバギオ最後の

抗戦をすることになるのだろう。

たかだかライト・パークまでは4キロほどしかないが、やっと起きた体には、

果てしない遠さである。 

それも、照明弾の下 砲弾が降り注いでいる。 道筋は、あちこちで火の手が

あがり、燃え上がった商店建物が崩れてくる。

「お願いします・・・、 連れて行ってください。 おねがいします・・・」

と消え入りそうに叫ぶ路傍の傷病兵たち。それに耳を塞いで、置き去りに

しながら、自分だけは生き延びなければならない・・・。

野戦病院からも火の手があがり、逃げられない八百人の重症患者が毒殺された

と噂が流れてくる。 

バギオ市内は大混乱状態となっていた。 東地区に行ったところで、

命令書どおりの抗戦が出来るとは思えない。 私は、火の粉の舞う

セッション・ロードの坂道を、マラリアの熱に襲われながら、

ころがる死体の間を這うように登った。 

登りきったところで、振り返ってバーンハム・パークを見下ろすと、

通ってきた市役所方面から左の南側山筋にもあちこちで炎が上がり、

照明弾が煌々とそれらを照らしている。

逃げようとする東方面にも既に火柱は上がっていて、とても任務どころでは

なくなっている。 

日本人は北のラ・トリニダッド方面か、北東の山伝いに山岳地帯へ逃げる

しかなかった。 

「ライト・パークから アンブクラオ道を逃げるしかないな・・・。」

私は既に連隊からはかなり遅れて歩いていた。 とにかく、自分の連隊が

集結するアンブクラオまでは・・・。

「こんな処で死ねるもんか・・」「貴子・・・、た・か・こ・・・・」

私は、朦朧としながら妻の名前を念仏のようにつぶやいている。 

そうでもしなければ歩けなかった。

ライト・パークに私がなんとか到着したのはもう真夜中を過ぎたころだったろう。

逃げ遅れた傷病兵や日本人住民が、破壊された教会を左にみながらパクダル

地区に入り、アンブクラオ道の入り口をぞろぞろと登っていく。

アンブクラオまでは直線距離でも16キロくらいある。 まして、

くねくねの山道、尾根をいくつも越えて行かなくてはならない。

倍以上歩かなくてはならないだろう。 さらにアグノ川を渡って、

数キロ先に行けば、インティカクに野戦病院が置かれていると聞いていた。 

「インティカクまで行けば、少しは残った薬で治療をしてもらえるんじゃないか? 

あちこちから部隊が集結してくるからな・・・」 

気休めだとは分かっているが、道端でぐったりしている私に、となりに

座って休んでいた鹿児島弁の兵隊が私の左手首を見ながら言った。 

高井熊二郎というその男は、ベンゲット道キャンプ4からの脱出組であった。

「夜が明けたら 米軍が押し寄せて来るぞ。 とにかく、山の中に早く

逃げ込むことだな。」

高井は、そう独り言のように言いながら山道の暗闇に消えていった。

「こんなところでは、死ねない・・・・」

私は その兵隊の後を追うように ふらふらと立ち上がった。

ここからが、死の山道になるとは、私にもまだ分かってはいなかった。

アンブクラオ道の入り口から二キロ程、二百メートルほどの高度差を登ると 

アンブクラオ道のピーク、およそ1、660メートルの標高に達するが、

それからアグノ川のあるアンブクラオまでは 下り坂で、

谷底までおよそ一千メートルを下っていくことになる。

「とにかく、朝までに行けるところまで行こう。 この道なら米軍の戦車

が入ってくることはない。夜が明けるまでは 眠ってはだめだ。」

私は自分に言い聞かせていた。

昼間は米軍の戦闘機が機銃掃射をしてくるのである。 どっちみち道筋を

歩いてはいられない。 

それに、私には洞窟の中で久々に配給された 親指ほどの小さな芋が五本

あるに過ぎなかった。 

昼間は山の中に潜り込んで 食糧も探さなくてはならない。

キャンプ3のブエド川あたりで米軍と向き合っていた3月末ころには、

熊本工兵23連隊の小隊には15名ほどがいただけで、交替で食糧調達を

やっていた。 

しかし、山岳地帯でもあるし、畑があったにしても近場の畑にはもう

小さい芋も残ってはいない。

一旦出かけると三~四日は掛かるほどの作業になっていた。 それでも、

一日二食に指ほどの芋が2~3本配給されるに過ぎなかった。 

調達係は、調達したものを全部小隊に持ってくるわけではない。 

一部を自分自身のために隠しおくのは皆がやっていることだった。 

目の前にブエド川があるから、蛙でも見つかればいいのだが、対岸には

米軍がいるのであるから、死にに行くようなものだった。

小隊が潜む洞穴では、米軍に見つかるのを恐れて、排便も洞穴内でやっていた。

しかし、ほとんど喰ってもいないのだから、毎日排便するということもなかった。 

食べるものはなんでも残さず胃腸に吸収されてしまうような状態だ。 

おまけに、小便ですら出すのがもったいないような気持ちになっていた。 

しかし、なにか喰わないことには体力がもたない。 我々は それまで

米と芋とその葉っぱをうすい雑炊にして食べていたが、今は米など一粒もない。 

何か別に喰えるものを探さなくてはならない。

夜明けにはアンブクラオ道のピークまではと思い坂道を登り始めたのだが、

そう簡単ではなかった。 

米軍の照明弾で時折明るくなるとは言え、深夜の山道だ。バギオ市内への

砲撃でいっせいに逃げ出した住民や兵士、傷病兵が この道にも押し寄せている。 

小さな子供連れもいる。 日本人もフィリピン人も日系人も。 

持ちきれない物を抱えた者もいる。 着の身着のままの者もいる。 

私は ぐにゃりと気持ちの悪いものを踏んだ。 

「うう・・・」と呻き声。

足元を見ると、歪んだ顔が照明弾に照らされてちらちらと光った。

「あっ・・・。」

私は 四十度くらいの熱に朦朧となりながら、乾ききったかすれた声でつぶやいた。

ここまで来るのがやっとだったろう。 痩せこけた兵士が道のあちこちに倒れて

いるのである。 

死体なのか、まだ生きているのか。 それが分からないまま、その身体を

避けながら、そして踏みつけながら、私は歩かなければならない。

もくもくと無言で坂を上る息づかい。 時折子供の泣く声。 そして足元の

呻き声。

私の脳裏には、義春と啓三、そして貴子の顔が替わるがわる現れていた。

「ここから先は 下りだぞ。」

誰かがそう言うのを聞いたのは 遠くに連なる山々が白み始めるころであった。

私は、道を左にそれて林の中に三十メートルばかり入った。木の根っこが

這っている岩に背中を預けて、どすっと座り込んだ。 私は意識を失う

ように眠り込んでしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「亡霊のさまよう街 ― その2」 バギオの歴史

「亡霊のさまよう街 ― その2」

「これなんです。 バギオで死んだことしか 分からんのですよ。」

その細い紙切れには 西山義男がバギオで死んだ旨が二行書かれているに過ぎな

かった。

「どちらの部隊だったんでしょうか?」

「いや、それも分からんのです。 台湾の高雄からフィリピンに入ってレイテ島

に行ったかもしれないと言う事ぐらいで・・・。 熊本でいろいろ調べたんですが、

役所でもなにも分からないし、遺族会も無いようで、手掛かりは 最期はバギオ

というだけなんですよ。」

西山兄弟は二人共すっかり白髪である。 父親がバギオで戦死した当時、二人は

十歳と三歳であった。 

長男の義春には父親の想い出が残っていたが、三男の啓三には その面影すら

なかった。

「今まで 気がかりで、何度もフィリピンには来たいと思っておったんですが、

なかなか機会が作れんで・・・。 兄が身体が動くうちにと思って やっと来た

わけですよ。」

「それで、どこの師団で、バギオのどの辺りというのは・・・」

「いいや、それも・・・・。 それで、バギオとラ・トリニダッド辺りの戦没者

慰霊碑をお参りして回りたいんですが・・・。 ボントック道の21キロ地点

の慰霊碑の写真は あるんです。 

インターネットで探したんですが、どこかご存知ですか。 バレテ峠という

ところはどこにあるんでしょうか。 出来れば行ってみたいんですが。」

保にとっては、戦没者慰霊で知っていることと言えば、バギオのフィリピン大学

をちょっと下ったところにある「英霊追悼碑」がある庭園くらいである。

しかし、老兄弟は もうそこはお参りしてきたと言う。

事務所のフィリピン人に聞いてみると、バレテ峠はヌエバ・ビスカヤ州の

サンタフェ近郊にあるから、バギオから8時間くらい掛かるが、21キロ地点

なら分かると言う。 21Kという地名があるからだ。 

しかし、21Kという地区のどこなのかは分からない。

これは、事務所のフィリピン人に任せてエスコートしてもらうにはあまりにも

漠然としている。 

結局、バギオ日本人会の長老に慰霊碑の場所を聞き、保自身がエスコートする

ことにした。 

バギオに永住を決めた者としては、知っておく必要があった。

ある資料によれば、熊本で編制された師団は第23師団、通称「旭兵団」とある。

九州の門司港を出て、台湾の高雄経由でフィリピンに入っているという事である

なら、おそらくはこの師団なのであろう。 

資料によれば、この師団は昭和19年12月30日にかろうじて北サンフェル

ナンドに上陸したとあるから、バギオから車で一時間半ほど山を下ったビーチ

にあるラ・ウニオン州の州都サン・フェルナンド市である。 

マッカーサー総司令官率いる191,000名の兵力、艦艇36隻、輸送船

250隻、小舟艇500隻が押し寄せたリンガエン湾の 最前線に布陣する

こととなったのは、この旭兵団と 東北で編制された盟兵団であった。 

旭兵団の兵力は約3万人(生還5千人)、盟は1万3千人(生還1千名)とされる。

マニラからバギオへ向かう道は、今のガイド・ブックで見ると、マニラからの

高速道路を降りた辺りがアンへレスで、その後 ターラック、ウルダネタ、

ロサリオ、そして バギオへと向かうのだが、当時はマニラ街道と呼ばれていた

ようである。

ウルダネタの北から ベンゲット道の入り口であるロサリオの間には、

ウルダネタ・ビナロナン・ホソロビオ・シソン・ロサリオという町があるが、

マニラからバギオ行きの長距離バス ビクトリー・ライナーが休憩するのは

シソンである。

リンガエン湾を埋めつくし、今は海水浴客で賑わうサン・ファビアンの町に

上陸したアメリカ軍から見ると、旭兵団は ベンゲット道の右側を 

その師団司令部のあるシソンの町の奥に控える488高地を中心にして 

ビナロナン辺りまでに構え、 左側の標高2,330メートルのサント

トーマス山の一帯を盟兵団が陣取る構えになっていた。 

米軍の上陸地点を予測できなかった日本軍は迎え撃つ準備をする暇もなく 

挺身斬り込み隊で海辺の最前線を維持しながら 全長45キロのベンゲット道

の渓谷へ押し込まれていく。

米軍の上陸が昭和20年1月9日であり、旭兵団は2月25日に488高地から

ベンゲット道の渓谷にあるキャンプ3に撤退を開始している。

キャンプ3の日本兵「慰霊之碑」はベンゲット道(ケノン・ロード)のすぐ

道端にあって、鹿児島歩兵第七十一連隊会によって建てられた高さ3メートル

程の立派なものである。 日本から黒光りする石碑を運んだと聞いた。 

西山義春は 花を供えたその石碑の前にしゃがみ込み、日本から

持ってきた線香に火を点しながら背を丸めてうずくまった。 

弟の啓三は その兄の姿を後ろから見守るように立っている。 キャンプ3は

ベンゲット渓谷の激戦地であり、鹿児島や熊本の兵士が多く倒れていったのだ。

その石碑から20~30メートルのところに 頑丈な橋がかかった渓谷が流れ

ている。

老兄弟はその橋の上からブエド川の谷を覗き込み、そして対岸にそびえる

黒い岩肌を仰ぎ見る。

このキャンプ3の洞穴に身を潜め、ブエド川対岸の山の合間から米軍の兵士が、

そして戦車が現れるのを、マラリアに冒され、食糧もなく、傷ついた身体で

待ち構えていたかもしれない父親の姿を遠く想っていた。 

日本兵の中では「地獄の三丁目」と呼ばれたキャンプ3であった。

二人は、花と線香の後片付けを 石碑の管理人だという家の者に頼み、

チップを手渡し、ラ・トリニダッドへと向かう。

キャンプ3からケノン・ロードを登り、バギオの町を通り抜け、

ラ・トリニダッドの町へ入ると左右に開けた盆地の 正面のどんづまりが

州庁舎である。

そこから右へ曲がりくねった道路を登っていくと、バギオーボントックの

高速道路に入る前に日本兵の慰霊碑がいくつかあるはずであった。 

道の脇に、以前は日本人向けのごぼうを生産していた日系人の農業協同組合

があって、その前がちょっとした空き地になっている。 そしてその横に

急な坂道があって、それを下ったところにいくつか墓石があるとの話であった。

運転手のスナイダーが 沿道の店の者に聞いてみるが、日系人の協同組合

を知っている者がいない。 

やっと得た情報は、協同組合は今はなく、たしか保育所になっているはずだ

との話だ。  

ごぼうは日本人には栄養価の高い野菜として知られているが、戦時中 

フィリピン人の捕虜に食事としてごぼうを出したところ、「こんな根っこを

食わせやがって」と反感をかったという話が残っている。 しかし、

その保育所も見つからない。

プロパン・ガスの店に座っていた暇そうなおばさんが、日系人ならバリクタン

という人がブラック・ハウスと呼ばれる家に住んでいると話す。 

車を後戻りさせ 小さな三叉路でその名前を唱えると、

「バリクタンは私だよ。」という初老の男が現れた。

「バリクタンの前の名前は 加藤だったんだよ。 爺さんが日系だったもので、

ここに日本人の墓をつくって守っているわけですよ。 うちの姪っ子が日本に

住んだことがありましてね、日本語もしゃべるんで、ちょっと呼んできましょう。」

その姪っ子は 日本語と英語を交えながら、ここに日本人の墓が出来た由来を

話した。

バギオの日系人の中では シスター海野の名前を知らない者はいないであろう。

シスター海野は シスター上田とともに 戦後の迫害に怯えて北ルソンの山の

中に隠れ住み、満足な教育も受けられなかった日系人を 地道に歩いて捜し続け、

日本からの支援を集めて、日系人が助け合う北ルソン日比友好協会

(北部ルソン比日基金)を創設した人である。

そのシスター海野がバギオを中心とする山々を訪ね歩き、日本兵や日本人

戦没者の遺骨を集め、ここに納めることにしたのである。

その石碑には、「独立混成五十八旅団」「比島遺骨収集団」「虎歩兵第七十六

連隊・平和之碑」などが刻まれている。 58旅団は盟兵団であり、

虎とは朝鮮半島北部の羅南で編制された第19師団のことである。

昭和20年4月24日バギオ陥落。 バギオの南、ベンゲット道はキャンプ3

を死守していた日本軍だったが、バギオの西、ラ・ウニオン州のビーチである

バウアンの町から登ってくるナギリアン道は米軍の攻撃に耐えられなかった。 

米軍はベンゲット道から侵攻して来ると思い込んでいた日本軍は

裏をかかれた格好になった。 米軍は3月3日の時点で戦略の変更を決定していた。 

ここから日本人住民と日本兵の険しい山岳地帯への逃走が始まることとなる。

元々 山下泰文将軍が方面軍司令部を置いたのは、ケノン・ロードをバギオへ

登りつめた所にあるバギオ総合病院(BGH)であった。

そこにおよそ一千名の傷病兵を収容していたが、1月23日の米軍のジュウタン

爆撃によって、患者の多くが爆死。 その後の野戦病院でなんの治療もなく

寝かされ、バギオをかろうじて脱出できた傷病兵はおよそ一千名。 

バギオから北西方向へ向かうと ラ・トリニダッドまでおよそ5キロ、

さらにくねくねと北東へ進むと21キロ地点・山下道三叉路につながる。 

山下道とは、ボントック道の21キロ地点とヌエバ・ビスカヤ州アリタオを結び、

カガヤン渓谷の穀倉地帯を食糧の補給地として意図されたものだった。 

この21キロ地点・山下道との三叉路まで バギオから5日間もかかっている

のである。 しかも、到着できた患者は三百名弱。  周辺は屍が重なる地獄

と化していた。 

兵士たちはバギオを「地獄の四丁目」と呼んでいたから、すでにそこを通り

過ぎたことになる。 

「地獄の五丁目」と呼ばれたのはアンブクラオである。 アンブクラオは

バギオから東方向にあって、さらに北東のボコドの密林地帯へ迷い込む前には 

「三途の川」と呼ばれたアグノ河が横たわっていた。

ボコドの北方には、カバヤン さらに ブギヤスへと アンブクラオ湖の東側

を通る道があり、湖の西側を通るボントック道と ブギヤスの北で交差している。

その道の東側には北ルソン最高峰のプログ山、2,928メートルがその山麓

を広げている。 日本軍の最後の砦となったのはこのブログ山麓であった。

西山義男は 昭和19年10月8日深夜、サンフェルナンド港に到着した江尻丸

の中にいた。 義男が所属した熊本工兵23連隊は、昭和20年3月24日、

師団命令によりキャンプ3を死守していた鹿児島歩兵71連隊の指揮下に入った。

ブエド川を挟んだ対岸には米軍が迫り、孤立していた。 

すでに食糧の補給は途絶え自給自足であったし、医薬品などもなく補給もなかった。

野戦病院の傷病兵は頻繁な移動を強いられ、路傍に動けなくなるものが飢餓地獄

を呈するようになっていた。 

4月16日、歩兵71連隊と 義男のこの工兵連隊に対し、米軍が押し寄せて

いるナギリアン道にあるイリサンへの急行命令が出る。 義男はキャンプ4から

バギオ市街を通り抜けイリサンへ向かった。 

イリサンを挟んで、北を盟兵団、南を旭兵団と虎兵団が守る形ではあったが、

すでにちりじりになった兵士たちが、山岳地帯へ退くところをバギオの日本軍

の検問所で捕捉され、最前線に送り返される状態となっていた。

方面軍司令部はすでにバギオを離れ、ナギリアン道には米軍の戦車が日本人

墓地のある公営墓地に迫り、フィリピン人ゲリラが市街で動いていた。 

ここでも孤立する恐れがあった。 義男の工兵連隊は戦車隊の進軍を押し

とどめる為に、片側が断崖になっているナギリアン道の破壊を行ったのだが、

日本兵がそれまで見たこともなかった米軍のブルドーザーが なんなく補修

して進入して来た。 

日本人墓地から谷を隔ててナギリアン道の戦車隊に狙いを定めていた歩兵

連隊もなすすべがなかった。 

日本軍の編制は完全に崩れ、対戦車の肉弾特攻隊すらも浮き足立っていた。

4月23日、師団司令部から歩兵71連隊に対して、バギオ東側地区を占領し、

第一線部隊の後退を援護の後、アンブクラオに集結の命令が下る。 

これはバギオ放棄の命令であった。 義男の工兵連隊も、

ついに「地獄の五丁目」アンブクラオへの逃避行が始まった。 

バギオの東側地区には、現在、展望台のあるマインズ・ビュー・パーク、

夏の大統領官邸と呼ばれるマンション・ハウス、その前にある乗馬で

観光名所のライト・パーク、そして米軍の保養地キャンプ・ジョンヘイなどがある。

そのライト・パークの前にあるロータリーからパクダル地区へ入る道が 

アンブクラオ道である。 

工兵23連隊は キャンプ3の洞穴にいた去る4月11日夜、キャンプ3に

迫っていた米軍に対しての攻撃命令を受け、義男は切込挺身隊の一人として

キャンプ2に回って米軍の背後を遮断する作戦に参加した。 

周り中に米兵がいる接近戦、手榴弾の投げ合いで義男の左手首が吹き飛んでいた。 

イリサンにはなんとか付いてきたものの、 義男は二日前からマラリアに

冒されていた。 おまけに、食べるものなど疾うの昔になかった。 

バギオの師団司令部跡に放棄された倉庫には、ワインや食糧など

があるとの噂も流れたが、義男が口にすることはなかった。 現地徴発の

米や芋にしても、義男の手元にはもうなかった。 小銃には弾丸が12発。 

薬などは野戦病院を転々としても手に入るわけもなかったし、病院に入ったら

最後、死ぬのを待つばかりだと言う事も分かっていた。 

西山義春と啓三は、バギオ・ベンゲット高速道路を21キロ地点へと向かっていた。

運転手のスナイダーは「21Kならすぐに分かりますよ、大丈夫です。」と請合った。

フィリピン人の「大丈夫です」程あやしいものはない。 保は助手席に座って

そう思っていた。

バギオーボントック道の料金所を通って、20分ばかり走った右側に、店が数件

あって小さな横道がある。その向い角にサリサリストアがあるとの情報だった。

スナイダーはそれを目標に必死に目をこらしてどんどん進む。

「道路の標識は21Kを過ぎちゃってるよ。 いいの?」

「ええ、大丈夫です。 21Kってのは地区の名前なんで、道路の実際の

キロ数は23キロでも24キロでも地区名は21Kなんですよ。」

スナイダーの答えはもっともらしかった。

しかし、行けども行けども店らしいものが並んでいるところがない。

「もう29キロだけどな・・・本当にいいの?」

山が切り取られ両側が壁になっている所までくると、さすがにスナイダーも

不安になってきた。 

もう30キロを超え、その先にはただ道路だけがありそうな雰囲気である。

「すみません、ちょっとあの店で聞いてきます。」

小さな作業小屋なのかドライブインなのか分からないような店にスナイダーは

入っていった。

「ちょっと戻らないといけないみたいです・・・」

この辺りは、おそらく標高1,600メートルくらいなのだろう。 

道は尾根道であるから、左右に視界が開けている。 遠くに広がる山々を

眺めながら、保は立ち小便をしていた。

「はい、了解。 じゃあ、戻りましょう。」

「これが、21Kの慰霊碑の写真なんですが・・・。役に立ちますかね。」

義春と啓三は 車の中で心配そうに書類を取り出した。

インターネットなどから得た記事や写真を丁寧に貼り付けてある。

慰霊碑の写真は 十字架の上に花などが飾られているものだった。

尾根をひとつ越えて戻ると、展望のいいところにポツンとサリサリストアが

あって、お婆さんが店先でいねむりをしている。 

「あのお婆さんに聞いてきます。」

スナイダーは写真を持って車を飛び出した。

「もっと戻ったところに、この十字架があるそうです。」

「あそこに左に入っている道がありますね。 あそこみたいです。」

「よかった、よかった。 それじゃあ・・・」

さて、そこに着いて、左に入った道を歩いてみるが、「入ったら10メートル

くらいの右側にある」はずの慰霊碑がない。

「もう一度聞いてきます。」

「・・・・・」

さらに戻ること数キロメートル。 道がカーブしているところにサリサリ

ストアがあった。

「この店の裏にありました。 ありました。 こっちです。」

スナイダーの嬉しそうな顔。

店にいた数人の男たちが 何だなんだと顔をだす。

西山兄弟は、やっと その21キロ地点に立った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

注記:  このシリーズ中、戦争関係の資料については、

      鹿児島の「歩兵第71連隊史」や 高木俊朗著「ルソン戦記」

      (文春文庫)、

      その他 いくつかのインターネットで得た資料を参考にしております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年7月26日 (木)

「亡霊のさまよう街 ― その1」 フィリピン・バギオの歴史

2007年3月から9月までに書いてメーリング・リストで配信した短編です。 7回に分けてお届けします。

故あって、フィリピン・バギオの歴史学習の材料として ここにアップすることにしました。

尚、この短編は バギオ市制100年祭の折に、日比国際平和演劇祭で上演されたものの原作です。

また、この作品は一部体験した内容、元日本兵の方から聞き取った内容、戦記物の書籍などから情報を得たものなどをもとにして創作したフィクション小説です。

(著作権は放棄しておりませんので、ご留意ください。)

===========================

「亡霊のさまよう街」

「姉さん、あの女の子 名前はなんて言うの?」

「あの子って・・?」

もう十年以上前のことだが、ジョナタンは姉が経営するミリタリー・カット・オフ

通りのカフェに立ち寄っていた。

建設業が仕事のジョナタンは、カフェに程近いビルに事務所を構えていたが、

今までその女を見かけたことがない。

「あの子だよ。 赤いミニ・スカートはいてる子。 雇ったんじゃないの?」

ジョナタンは、奥の机で伝票を書いているジュードに、カウンター越しに言う。

「えっ、赤いミニ?」

ジュードは最近掛けはじめた銀縁のメガネをはずしながら、やっと顔を上げる。

カフェには 二人の使用人がいるが、開けたばかりのカフェには まだジュード

しかいないはずだった。 いつもなら夜やるはずの伝票整理を、昨日の夜は

バギオ・カントリー・クラブでの結婚パーティで積み残していたのだ。

「あの子だよ、奥のテーブルをセットしている子・・・」

ジョナタンが振り返ってみると、さっきの女の姿は もうそこにはなかった。

「どの子よ・・・」

カウンターを出てきたジュードはカフェを見渡してから、ジョナタンの顔を見る。

「はは~ん、また見たのね。」

柳川友恵がバギオに子供連れでやってきたのは雨季に入った頃であった。

日本で化粧品と健康食品のセールスをやっていた友恵は、もうすぐ小学生になる

という一人息子に英語の勉強をさせたいと、韓国人の英語留学で人気のあるバギオ

にやってきたのだ。 

友恵は在日韓国人であったが、それは親の時代のことで、本人は日本人としての

意識しか持ち合わせていないし、日本語しか出来なかった。 亭主はソフト会社

経営の日本人であるが、もう四年半ほど前に離婚し、養育費をもらって生活していた。

カランテス家のジュードは、韓国人の下宿人には懲りていた。

下宿人への約束事を女主人は二つ決めていたが、英語の勉強に来ていた若い

韓国人の男がその二つの約束事を二つとも守れなかったからである。

家の中でタバコを吸わないこと。 友達などを部屋の中に入れないこと。

「まったく、あのコリアンは部屋の中でタバコを吸って、それをダンボールに

押し付けて消したりするのよ。 家が火事にでもなったらどうしてくれるの。 

おまけに、女の子まで部屋に入れちゃうし・・・。」

しかし、その時、部屋は六つもあるのに、下宿人は保ひとりきりであった。 

ミニ・マートの売り上げもパッとしないし、背に腹は代えられなかった。 

ジュードは実質的に日本人と変わらないという友恵を受け入れることにした。

「佐世さん、昨日の夜、夜中なんですけど、誰か家の中を歩いてませんでした?」

友恵が下宿人になってから三ヶ月ほど経ったころの事だった。

午後になると必ず雨雲と霧に覆われ、夜にはいってからも雨音はやまない日が続い

ている。

ビッグ・ハウスと呼ばれる母屋には下宿人用の部屋が二つあったが、保が住んで

いたのは四つ部屋のある別棟である。 その別棟で、保の部屋と柳川親子の部屋

はリビングを真ん中にして、はす向かいにあった。

保がその夜ベッドにもぐり込んだのは、夜中の一時を回っていた。 

友恵親子が寝るのはいつも九時前と決まっている。 

おそらく、それは二時か三時ころのことだったろうか。 保はベッドには

もぐり込んだものの、ボトッ、ボトッ、ボトッと不規則にしたたる雨音に

うつらうつらしていた。

保は だれかが部屋のドアを叩いているような気がした。 寝返りを打って、

ドアの下を見たが、リビングに灯りがついている様子はない。

「気のせい・・・か。」

保は 寝返りを打ったまま、右腕をベッドから垂らして、眠気の中にいた。

五分たったのか、あるいは一時間だったのか、分からない。 又 だれかが

ドアを叩いている。

ベッドから垂らした腕を目一杯伸ばして、手をドアのノブに掛け、ガチッと

ノブを回す。 

ゆっくりドアをあけるのは かえって怖い。 スパッと開くのが一番だ。

映画だってそうだ。 だんだん盛り上げるから怖い。 何も考えずに、

スパッと結論を急いだほうが、仮にそこに何かがいたとしても、時間は短くて

済むってもんだ。

だが、もしそこに何かがいたとしたら、逃げる時間をあげた方がいいかもしれない・・・、

などという思いもふっと浮かんだりする。 急に顔を出したら相手だって

びっくりするにちがいない。

リビングには 玄関ドアの横の明かり取りからもれてくる外灯のかすかな明かりが、

丸テーブルの上で黒光りしているだけであった。

「やっぱり・・・気のせい・・・か。」

保は「なにか」を見る能力なんて はじめっから持ち合わせちゃいないのだった。

友恵は「やっぱり・・」という顔をした。 この「やっぱり」は 保の

「やっぱり」とは違っていた。

この別棟の一番奥には女主人の弟ジョナタンの部屋もあって、仕事で遅くなった

時などに時々寝泊りしている。 しかし、その夜には「今夜泊まりますから、

外側の網戸の鍵は外しておいて。」という連絡はなかったから、誰も外からは

入れない・・はず。

「確かに大きい音がしたんですよ。 気配があったもの・・・。 でも、

玄関から誰か入って来たはずなのに、その後足音がしなかったから・・・。 

感じたんですよ。 多分・・・日本人だった。

 怖くてドアなんか開けられないですよ・・・。」

「そう言えば、この辺りは戦争中に結構日本兵も死んでいるしね・・・。 

ケノン道路は最後の激戦地だったらしいから。」

「なんか、関係あるかしら。 三日くらい前に ここに入れてあったお米を

捨てたんですけど。」

リビングの正面にテレビを載せたテーブルがあって、二十センチばかりの

キリスト像とマリア像が置いてある。 そこに小さな器があって生米が一握り

入れてあるのだ。 日本で言えば仏壇のお供え物である。 

そのお供え物の生米に虫がわいていたので、米ごと捨てたというのだった。

カレンテス家のジョナタンは、トレジャー・ハンティングを趣味にしていた。 

いわゆる「山下財宝」の宝探しである。 戦時中、バギオに司令部が置かれた

日本軍の大将が山下奉文であり、バギオを放棄した際に、あちこちに金塊など

を隠したと、今でも真面目に信じられているのである。 時折、日本語

で刻印のある金貨や銀貨を持ってきては、なにが書いてあるのか調べてくれと言う。 

山下財宝の隠し場所のヒントが書かれていないかと思っているのである。 

「ジョナタンさん、最近トレジャー・ハンティングやってますか?」

保は別棟の彼の部屋に書類を取りに来たジョナタンに声を掛けた。

「ああ、やってるよ。 ついこの前の土曜日に行って来たところだよ。 

どうして?」

「友恵さんが、日本人らしい亡霊を感じたって言うんですがね・・・。」

「う~ん、日本人かどうかは分からないけど、この辺りに爺さんはいるよ。」

「爺さんって、どんな?」

保は それがトレジャー・ハンティングの時にジョナタンが掘り返した場所から

「連れてきた」亡霊なのかどうかを知りたいと思った。

「いや、その爺さんは昔からいるよ、この辺りに。 若い女と一緒に出てきたり

もするんだけどね・・。」

「若い女も出るんですか。 なにかジョナタンさんと関係があるんですか?」

「いや、私も分からないんだけど。 子供の頃からよく霊を見ることはあったんだよ。

 もしかしたら、私が昔知っていた女かもしれないけど・・・。」

「よく出てくるんですか?」

「ああ、この前なんかは香水の匂いだけだったけどね。 車の中に香水の匂い

がするから、運転手に誰が乗ったんだって聞いたけど、香水の匂いなんかしない

って言うんだよ。 私にしか分からない匂いだった。 

・・・でも、若い女の方は 会いたいと思えば出てきてくれるんだよね。 

私の彼女みたいなもんかな・・ははは。」

「その二人の亡霊は なにか悪さはしませんか?」

「大丈夫、大丈夫、 この辺りにいるのは守護霊みたいな感じだから、

心配しなくていいよ。 心配だったら 姉に話しておくから。」

「友恵さんが 怖がっているんで、よろしくお願いします。」

ジュードが十字架と生米を抱えて別棟に現れたのは 翌日の朝だった。

お祈りをしながら別棟のリビングと各部屋に生米を撒き、器に新しい生米を

入れ、十字架とキリスト像・マリア像を前にして もう一度祈りを奉げる。

「これで多分大丈夫よ。 また出たら教えてちょうだい。 でも、ここの霊は

なにも悪いことはしないから平気よ。」

「ジュードさんにも 見えるんですか?」

「私は見えないわ。 内じゃあジョナタンだけなのよ。 弟は昔から見えるの。」

それ以来、友恵が下宿で日本人らしき亡霊を感じることはなくなった。

しかし、友恵は これだけでは終わらなかったのである。

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年7月15日 - 2012年7月21日 | トップページ | 2012年7月29日 - 2012年8月4日 »