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2012年9月 8日 (土)

日本語教師症候群  大噴火が「起きた」か「起こった」か・・・

「起きる」と「起こる」

ー 私が毎朝「起きる」のは だいたい7時ころです。

ー 富士山の大噴火が「起こる」のは 間違いないと言われています。

昨晩、「起きる」と「起こる」の違いを考えていて、眠れなくなったんです。
富士山の大噴火のことじゃなくて、日本語教師の症候群が発症したんですけどね。

「起きる」は、だれかが朝起きるような場合に使うのは問題ないんですけど、
その他の場合はどうなんだろうか、とふと思ったわけ。

ー 富士山の大噴火が「起きる」のは 間違いないと言われています。

この文章では、「起こる」と「起きる」のどちらが正しいのかって
いうのが疑問なんです。

あなただったら どっちを使いますか?

私のフィーリングとしては、
「起きる」というのは自ら主体的にする行動のような感じで、
「起こる」の方は 何かが自然に起こるような雰囲気かな、と思うんです。
だから、上記の文の場合だと、「大噴火が起こる」の方がしっくり
くるのかなと思ったんです。

でも、すっきりしないので、手っ取り早くインターネットで検索すると
こんなページがありました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1014431885

ここに、このような説明があります:
まず「起きる」という自動詞がありました
誰かにどうにかされてということなく、自然に何かが発生するという
ことです。
「起こる」は誰かが起こすという行為をした結果、起こるのであり、
誰も何もしないのに、自然に「起こる」ということは本来ないのです。
つまり「起こる」は「起こす」という行為を念頭に置いた表現と言える
でしょう。

説明はもっともらしくも読めるんですが、どうも感覚的に逆のような
気がするんです。

それで、しょうがなく類語大辞典で調べてみると:

「起きる」: それまでになかった、(困った)事態・現象などが
       現れる。「事故が~」「貿易摩擦が~」
       「小さな波が~」

「起こる」: (予測できないことが突然)起きる。
       「こんな劇的なことが~とは思ってもいなかった」
       「どうもやる気が起こらないんだ」「風が~」
       「~べくして起こった事件}

これだと、「予測できないことが突然」というところがポイントみたいですね。
でも、上の例文で語彙を入れ替えてみてもあまり違わないような気も
します。

「事故がおこる」「貿易摩擦がおこる」「小さな波がおこる」
「劇的なことが起きる」「やる気が起きないんだ」「風が起きる」
「起きるべくして起こった事件」

ただ、最後の二つ、「風が起きる」と「起きるべくして・・・」は
ちょっと座りが悪いような感触ですね。

「風が起こる」「起こるべくして・・・」の方がよさそうな感じ。

・・・で、さらに「日本語新辞典」でチェックしてみると:
「起こる・起きる・生じる」のみっつについての比較をしてあります。

1. この三語は新たな状態が現れる意をもつ点で共通する。
   「不測の事態がーー」にはどれも使えるが、「起きる」は
   口語的な新しい使い方。

2. 「炭火がーー」のように、火気が盛んになる意では、「生じる」
   は使えない。この例でも「起こる」が元来で、「起きる」は
   新しい言い方。

3. 「交通が発達して産業がーー」のような場合は、「起きる」
   「生じる」は不適当。 「起こる」は「興る」と書かれる。

この辞書では、「起きる」は口語的で新しいとあります。

上記のインターネットサイトでの
「まず「起きる」という自動詞がありました。」という解説とは
相容れない説明ということになりそうですね。

上記の類語大辞典では、「予測できないことが突然」というところに区別
するポイントがあると読めましたが、この日本語新辞典の1「不足の事態がー」
にはどれも使える、という解説とは相いれないように思います。
でも、3の解説は納得できそうな気もしますが、やっぱり漢字としては
「興る」でしょうね。

結論的にはどうなるかっていうと:
1. 区別は難しい。
2. 「起きる」の方が「口語的な新しい使い方」。
3. 予測できない突然の出来事、自然発生的なのは「起こる」の方が
   良さそう。

4. インターネットでのQ&Aは あまり信用するな。

以上、どうっすか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年9月 6日 (木)

山折哲雄著「法然と親鸞」を読む(4) 念仏の弾圧

中央公論新社の 山折哲雄著「法然と親鸞」を読んでいます。

念仏の集団はどのように弾圧されたのかを見ていきます。

「第二章・三章 七箇条起請文」

ー 山(比叡山)の上では、学生(正規の修学僧)や堂衆(雑役を
  つとめる下級僧)をまきこむ抗争がはげしさを増していた。
  ・・山の権威に楯突いていた

ー (1204年)十月、延暦寺の衆徒らが、法然に率いられる
  専修念仏の禁止を座主・真性に訴えでた。

ー きびしい非難の声は山からだけではなかった。
  ・・・南都と北嶺(比叡山)の連合勢力が王朝政権の中枢部と
  かたく手を結んでいた。

ー 七箇条起請文は、弟子たちの言動を細かく誡める条文から
  成り立っていた。

ー 諸宗の大寺院は、すでに同盟して・・・「専修念仏」は禁圧
  されるべき・・・天とともに許すべからざる仏敵である・・・

・・・「七箇条起請文」には、他の宗派を批判したり、争論をおこしたり、
念仏を強要したりしたりするな。 又、戒律をもたなくてよいからと
言ってなんでもしてよいということではない、自分勝手な意見を
言ってはならない、邪説で人をまどわすな、師の名を勝手につかうな、
などが書かれていて、法然のもとに集まった弟子たちの統制が
とれないくらい人気が
膨らんでいた様子が分かる内容になっている。

その中で親鸞さんの位置づけはどうかと言うと:
(香月乗光氏の研究内容)

ー 七箇条起請文には190人の門弟が、三日間にわたって連署している。

ー 87番目に「綽空」(親鸞と改名する前の名)がある。
  (親鸞は、綽空ー善信ー親鸞と改名した)

ー 法然におけるもっとも正統的な伝記とされる知恩院蔵
  「法然上人行状絵図」・・・においては、その綽空の名が
  あらわれない。 あるいは消されてしまっている。
  この伝記では 署名した者は88人になっている。

ー その時点で、親鸞が正統的な門弟の順列のなかでその地位を
  失ったことを意味するだろう。

・・・親鸞さんは、かなり微妙な位置にいたようです。

親鸞さんが晩年に書いた「西方指南抄」には何がかかれているか:

「私は、わが師・法然上人のいわれることであれば、だまされて
 念仏を唱え、たとえ地獄に堕ちたとしても、すこしも後悔は
 いたしません。」

・・・正にこれが信仰ってもんでしょうかねえ。

ー 「西方指南抄」は、晩年になって京都に帰ってきた親鸞が
  関東の門弟たちに念仏の安心を示し、師・法然の真意を
  伝えるために書写したものではないか・・・

ー その「西方指南抄」の・・・なかに、さきの「七箇条起請文」
  が収められている。
  「沙門源空」(法然)の署名があらわれ、それにつづいて門弟たちの
  22人の名前が列記されている。

・・・これは、親鸞自身が当時をどのように思っていたかを
垣間見ることのできる書写ではないか、というわけです。

ー (親鸞には)、その22人で十分だったのであろう。
  信空以下、・・・・・主だった高弟たちの名を冒頭に出し、
  あとの百人に余る名前のほとんどを省略してしまっている・・・
  ここでは親鸞は、綽空ではなく善信とかいている。

ー そこに、法然を中心とする念仏運動と、そこから出立していった
  親鸞の人生の独自性の問題を解く重要な鍵がかくされている・・

そして、その中身なんですが、どんな事件があったのか:

ー 後鳥羽上皇が熊野参詣で留守中に不祥事。
  信徒たちを恍惚境にさそう「六時礼讃」をおこない、これを
  きっかけにして上皇の女房たちが出家した。
  (六時礼讃とは、リズミカルな仏教歌曲。 夜を徹してうたい
   エクスタシーにさそう。)

ー 徒然草や愚管抄でも その礼讃の凄さにふれている。

ー 厳しい詮議と弾圧。 二人に斬首刑。
ー 興福寺から専修念仏停止の訴え。
  上皇は、法然と親鸞を流刑にする。
ー 二人が斬罪となる。

・・・これが現代だったら どういう騒ぎになったことでしょうね。
いわゆる新興宗教の、上流の子女を誘惑する危険なカルト集団って
ことになって、オウム真理教みたいな騒ぎになるんでしょうか。
もっとも、法然の念仏集団が人殺しをしたということはないですけどね。

しかし、法然は、それでも慎重だったんです。

ー 伝統的な出家僧の生活態度から逸脱することをみずからに禁じて
  いた。  持戒の僧という矜持を手放すことがなかった。
  過激な仏道を回避することで、幅広い人々の支持と共感を
  えようとする配慮もはたらいていた。

ー 念仏は一度だけでよいとする「一念義」派と、ひたすら唱えると
  いう「多念義」派が分派し、対立した。

ー 法然は、不毛な論争に足をとられることを慎重に避けていた。
  破戒の僧も無戒の僧も、念仏によって最終的に救われると説いた
  法然にとっては、どうでもよかったから。
  それは、信仰の内容にかかわるものだ。

・・・そして、著者は、おそらく親鸞も一念義の一人として
みずから名乗りをあげていたことが想像される、と書いているんです。
破戒僧となった親鸞が晩年に振り返っているわけですから、
その信仰の内容から言えば、一念義であったろうという推測ですね。
親鸞は、22名のリストに名前のある幸西や行空とともに一念義を
説く急進派だった
、とあります。

ー 1207年、幸西は阿波へ、行空も流罪となった。
        遵西は、奈良の興福寺の告発により、死罪となった。
  1227年、幸西は再度壱岐島に流された。
  

ー 一念義の門流が急進派セクトとして、天台、真言などの旧仏教
  (聖道門)と対立し、妥協をこばむ勢いを示していた。

・・・つまり、親鸞は、法然さんを困らせた過激なセクト
一員だったってことですね。

でも、それが法然の本意に近かったんでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年9月 5日 (水)

「ブッダの大地を築く、タイ仏教の開発僧」: 上座仏教だって・・・

「法然と親鸞」を読んでいる途中なんですけど、ちょっと浮気して、
サンガジャパンの「上座仏教と大乗仏教」という雑誌の中の
「すきじゃないです」を前回読んだんですが
「ちょっと待て!」というタイ仏教側からの話も同じ雑誌に掲載
されていましたので、反対の意見も抜き書きしてみます。

「ブッダの大地を築く、タイ仏教の開発僧」
社会の開発とブッダの教えをつなぐもの
著者: タイ・スカトー寺 副住職 プラユキ・ナラテボー氏

上座仏教って自分だけ悟りを開くことが出来れば、それでいいという
自力の仏教だよね・・・
なんてことを普通に考えるんですけど、「そうじゃないよ」という
事例を紹介してあります。

ー タイは国民の95パーセントが仏教を信仰。
ー 来世の安寧のために僧侶にお布施し功徳を積むといったような
  意識は今も根強い。

ー タイは急速な経済発展を遂げる一方で、貧富の格差拡大や
  自然崩壊が進んでいる。
ー 特に農村部ではその日の食事にも事欠き、土を食べて飢えを
  しのぐ子どもの姿なども報じられ・・・

ー 「プラ・ナックパッタナー(開発僧)」と称される僧侶たちが
  出現した。  ・・・プロジェクトを主導し、貧困の解消などに
  積極的に取り組んでいる。

ー 日本においては、上座部の僧侶は自己の救済を目指して
  ひたすら瞑想行に励んでいるだけだとのイメージも、いまだに
  強いようだ。 しかしそれは事実ではない。
ー 大乗的な菩薩の精神を持って、社会問題や人々が直面する
  苦しみの解決に積極的に関わっていこうとする僧侶も多数存在
  している。

・・・さあ、どうですか。
上座仏教は瞑想ばっかりやっているわけじゃなくて、托鉢でご飯を
もらって歩いているだけじゃなくて、大乗的な考えも持っているよ、
って言っているんですね。
こうなると、なにが上座でなにが大乗だか わかんなくなるんですけど。

ー 私が思うに「出家」とは、住み慣れた家を出て、一人孤独に
  瞑想行に耽り、悟りの悦に浸ることではない。

  一切衆生を父とし、母とし、兄弟として、彼らの安寧のため、
  そして社会のために、一生懸命に働くことだ。

・・・あららら、これって完全に大乗仏教なんじゃないのかな?
前回のネルケ無方さんと同じじゃないっすか??

ー タイに開発僧が出現した背景にはプッタタート師の思想の影響が
  あっただろう。
  プッタタート師は著書も200冊を超え、多くの人に厚く敬われて
  いる、タイを代表する長老僧だ。
ー 大乗仏教の禅僧の言葉なども引用して「生活即修行」だと説かれ、
  そういった日々の修行によって、僧侶だけでなく誰でもが
  自己中心的な思いから解放されて「涅槃」を実現できると説いた。

・・・おや、これはもう完全に大乗仏教じゃないですか。
どういうこと?

ー 「・・・仏教者は積極的に社会に関心を向けなければならない」
  と主張した。

・・・「ブッダのことば」の本で読んだ お釈迦さんのことばとは
えらく違いますね。
「村人などとはおしゃべりもせずに、独り歩め」って言ってたんですけど。

この開発僧の動きっていうのは、タイの仏教界の主流になっているん
でしょうかねえ。
その点がちょっと疑問が残りますね。

これら開発僧がやっているプロジェクトの資金なんですけど、

ー 「仏教儀礼の参集者からの寄進を資本にする」というものだが、
  タイには多くの伝統的な儀礼があり、それぞれの儀礼において人々は
  「タンプン(積徳)」として寺への寄進を行っている。・・・」

ー サナーン師は言う。
  ・・・タイではずっと寺は村の中心だった。 仏教の行事を
  営む以外にも、お寺は村人たちの集会所として用いられていたし、
  また何か問題が起こったら村人はお寺に相談に来た。・・・
  子どもたちの読み書きを習う学校でもあり、本が読める図書館
  でもあった。 ・・・美術館としても親しまれていた。 
  誰でもが泊まれるゲストハウスといった施設の機能も果たしていた。
  そして、寺の主である僧侶は、村のリーダーとして、村人の
  物心両面にわたる良き指導者でもあったんだ。

・・・う~~ん、これを聞いていると、まるで昔の日本みたいな
話じゃないですか。 寺子屋みたいな話もあるし。
こういうのが 元々のタイの仏教の一般的な姿なんだとしたら、
上座仏教に対する日本でのイメージは まったく見当違いってことに
なりませんか?

ー そこで化学肥料を使ったりするわけだが、それによって
  どんどん土壌の不毛化が進む結果となった。 
  ・・・今までの土地は換金作物栽培のやせた畑に変わってしまった
  ため、結局農民たちは自給もできず、・・・・借金をしなければ
  ならないという状態に陥ってしまった・・・

ー 日本政府や大企業の「援助」や「開発」といった「国際貢献」が
  タイの農民たちにとっては、必ずしも「貢献」や「助け」と
  なってはおらず、むしろ「搾取」や「いじめ」にさえもなっている・・・

ー ・・・モノは増えてきた。だが一方で、生存を支える糧である
  米や野菜といったものが不足するようになった。 
  かつての自給自足で自立的な村は、徐々に消えてきている

ー お寺離れも進み、仏教が教える大事な徳目の価値も、徐々に
  疎んじられるようになって・・・・

・・・つまり、お釈迦さんの時代には、それぞれの村が自立していて、
黙ってやってくる修行僧の托鉢にも応えることが出来たのに、
近代化によって村が荒廃してしまって ご飯ももらえなくなって
きちゃったってことなんですかねえ。
それで、坊さんたちも、喰うに食えない状態になってきたもんで
自らが村人のために頑張らなくちゃいけなくなった??

前回のネルケ無方さんが言っている「南方仏教系の修行は全人類が明日
からしようと思ってもできない。 いつも別の誰かがご飯を作らなければ
いけないからです。」
っていうことが、タイでは現実になっちゃったってことでしょうか。

ー 寺離れが進み、仏法を聞く機会が少なくなると同時に僧侶への
  食事の布施などの習慣おおろそかになって、逆に借金はかさみ
  始めた。

ー タイでは出家して僧侶になったその日から、・・・すべて
  在家信徒である村人の支えによってまかなわれることになる。
  したがって、そんな村人の苦境に対して目をつぶってはいられ
  ない・・・

・・・やっぱり、ブッダの教えといえども、世界経済のひずみには
勝てないってことですかね。
それを乗り越えようとすれば、上座仏教から大乗仏教の考え方に
必然的に進化していくしかないと・・・

ー たしかに従来のタイ仏教では、僧侶はあくまでも奉られる
  立場で、在家とは一線を引き、親しく交わらないことが良し
  とされた。
 しかし、そうも言っていられない状況になってきた
  わけだ。 そこで、戒律を逸脱しない範囲で、・・・積極的に
  村人たちの問題に関わっていく僧侶が現れてきたというわけだ。

ー 私は、大乗経典の「法華経」の中に「方便品」と題した章が
  あったのを思い出した。
  ・・・万億の方便を用いて衆生を救おうとする仏の智慧と
  慈悲の実践行が描かれてあった・・・

ー 「比丘たちよ。 すべての人々に役立ち、人々を幸せにする
  ため、世の人々を支援するため、皆の者よ、大いに遊行せよ」
  ブッダは、こう弟子たちに促した
  そこには大乗、上座部といった区別はもちろんない。

ー ブッダは、・・・一切衆生を思いやる本当の慈悲心
  生じてくると説かれた。

・・・そうか、慈悲の心という一点において、上座仏教といえども
戒律に拘り過ぎることなく方便をも使って 衆生と一緒に
頑張れるんだってことのようです。

正直な感想としては、上座部仏教の「強がり」「負け惜しみ」みたいに
も聞こえるんですけど、大乗的な考えを取り入れて他も助けよう
という良い方向なんだから 文句を言う筋合いではないですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年9月 4日 (火)

山折哲雄著「法然と親鸞」を読む(3) 法然の臨終にはいなかった親鸞

中央公論新社の 山折哲雄著「法然と親鸞」を読んでいます。

さて、道元さんも同時代の曹洞宗の坊さんだと言うことが
分かったところで、法然と親鸞の関係を読んでいきましょう。

第一章 法然臨終

ー のこされた記録を読むかぎり、親鸞は師が横たわる死の床に
  馳せ参じてはいなかったようだ。

ー 1207年になって弾圧の嵐にまきこまれ、法然は土佐に配流
  (実際は讃岐)、親鸞は越後の国府に流される。

ー この念仏の弾圧という名の承元元年(建永二年)の法難においては、
  鴨川の河原で首を斬られた弟子たちもいた・・・・

ー (親鸞は)師の信頼厚い弟子たちのあいだではそれほど上位に
  おかれていたとは思われない。

そして、法然さんの臨終の模様が知恩院蔵の「法然上人行状絵図」
説明されています。

ー 当時、比叡山の修行僧の多くは、命終わるとき、精進からしだいに
  断食の状態へとわが身をまかせていった。

ー ところがいよいよというときになって、意識がもどり、人々の声
  がきき分けられるようになった。  ・・・高声の念仏が唱え
  られ、昼、夜絶えることがなくなった。

ー 弟子たち「五、六人」が交互に、その法然が唱える高声の念仏に
  和するように唱えている。

この臨終に際しての念仏は、源信の「往生要集」の中の「別時念仏」
いう章に「臨終行儀」として書いてあるそうです。
法然よりも200年ほど前の源信さんの本。

ー 源信の浄土信仰には、いまみたようにどちらかというと
  イメージ往生といってもいいようなところがあった。
  ・・・「源氏物語」が書かれた王朝時代の雰囲気が、そこには
  なにほどか反映していたといえるのではないだろうか。

ー 法然の場合は、同じ浄土信仰でも念仏を唱える実践ひとつに
  しぼりこむ傾向がつよい。 イメージ往生にたいする念仏往生
  である。

ー 善導とは、・・・中国浄土教の祖の一人で、法然がもっとも
  尊重した先師である。 自分は、ただ善導和尚だけを師として
  崇め、ひたすらその教えにしたがって生きていく、信心の道を
  歩いていく、といっている。

この言葉は、親鸞さんが法然さんを敬って言った言葉に似ていますね。
結局、信心というのは、信仰というのは、素晴らしい恩師によって
もたらされるんでしょうかねえ。

ー 法然という人は、・・・・理知の人とみなされてきた。
  ・・・その論述は理路整然としていて、体系立っている。
  驚くべきことに無用の逸脱、言語の飾りなどは、微塵もみられない。

ー その反面、体験を重視する実践の人でもあった。 ・・・念仏を
  通してえられる三昧発得(神秘体験)のなかに、念仏者の
  生けるあかしを求める人だった。

ここに法然さんの人柄がよくあらわされているみたいです。
親鸞さんは 「教行信証」なんかをみても、何を言いたいんだか
訳が分からんというのがもっぱらの評判で、遠慮してか「超難解」とか
言われているみたいです。

そして、その親鸞さんはというと:

ー 親鸞は師の臨終の場に駆けつけることのできない弟子だった。
  ほとんど弟子の資格を奪われたにひそしい流人として、仲間たち
  のもとにもどることのできない破門同然の弟子だった。

ー 法然の「往生」の真実を後世に語り伝えるにあたって、
  臨終の場に居合わせた弟子たちがわずか「五、六人」
  すぎなかったというのもいささか気にかかる。

さて、こういう法然さんの晩年だったのですが、
次回(4)は 念仏弾圧というのがどんなものだったのかを読んでいきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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お釈迦様のやり方に近ければいいのか・・・好きじゃないですー2 

「法然と親鸞」を読んでいる途中なんですけど、ちょっと浮気して、
サンガジャパンの「上座仏教と大乗仏教」という雑誌の中の
ネルケ無方老師インタビュー「南方仏教は好きじゃないです。」
つまみ食いしています。

ー いま出家する人の中には、お釈迦様はすばらしいといって、
  実際にはただ生活苦や家庭のトラブルからの逃避として出家を
  選ぶという人も少なくはないと思う。

ー 実際にタイに行ってみたら、比丘たちはみんな真面目に修行
  しているかと思えば、そうではないよね。 昼寝していたり、
  木の下でジュースでも飲んだりして、本当に命をかけて
  解脱を求めているという姿はなかなか・・・

ー 曹洞宗の考えでは、多少お戒律を破っても、とにかく
  一生懸命やる。 ・・・とにかく気を抜くなと。 そして目つき、
  歩き方がきびきびとしているとか、そういう点が大事とされる。

ー タイでは戒律さえ破らなければいい。 どんなにダラダラ歩いて
  いたって、目つきがどうであろうが、全く言われない。
  とにかくオナニーしているかしていないかが問題(笑)。

・・・・ 南方仏教は「戒律」、大乗の曹洞宗は「やる気」、みたい
ですね。 だから、世間からの逃避じゃあやっていけないような
雰囲気みたいです。

ー とにかく、「人より自分」という根強い思いを捨てる、それが
  出家の動機にもあると思う。
  ・・・菩薩は本来、一切衆生をわが子のように愛さなければ
  ならない。 ・・・・ 
  私は自分の子どもが「かわいい」という思いから出発して、
  その思いをどんどん深めて、横にも広げていくことが大事だと
  思う。 経典には、菩薩が衆生に接するというのは、お母さんが
  唯一のわが子に接するような気持ち
だと書いてある。

ー (道元)禅師いわく「みんなは無常を本当は分かっていない」。
  なぜかというと、本当に無常を観じていたら、名利の心はなくなる
  はずなのだ。 名利とはエゴ、プライド、名声とか利益を求める
  生き方。 ところが、坊さんほどプライドが強い、・・・・

ー 逆に言えば、在家でも自分の身と心に対する執着が無く、家庭の
  ためでもいいし世のためでもいいから、その身と心を施せば、
  むしろそのほうが私は尊敬できると思う。
  ・・・自分ひとりの解脱のために世と家を捨てることには
  感心できません。

さて、ここで、道元禅師の「正法眼蔵」の中の「自未得度先度他」という
言葉の話が書かれています。

この意味は、
「私はまだ解脱していない、あの岸には行っていないけれども、
まず先に人を渡そう」
だそうです。

道元の時代には、三種類の菩薩があったそうです。
1. 自分が先に涅槃に渡って、他人を涅槃に渡す。
2. 一緒の船で 涅槃に渡る。
3. 自分よりも先に 他人を涅槃に渡す。

この3番目のことだそうです。
極端に言えば、
「自分は地獄に落ちてもいいから、「先度他」、人にはまず解脱して
 先に涅槃を得てほしいと。」
いうこと。

これは、どう考えても変な話ですよね。
自分が受験で落っこちた難関校の試験勉強を後輩に教えるようなもの・・?
そこをどう考えるかっていうと、

ー 本当に死んでもいいと思ったときには、座禅のほうから生きる力
  が湧いてくる。 死ぬ覚悟で座ってこそ、座禅に生かされている
  実感を得る、そういうからくりです。
  「私はどうでもいいから、とにかく人を助けよう」・・・

ー 自分は救われなくてもいい、と言った瞬間に、自分は救われている。

・・・これも、執着を離れた瞬間に自分が求めていたものに
到達できるということなんでしょうね。

最後に、私にズキッと来た言葉です:

解脱したいと言っている本人が「世を捨て、家は捨てる」と言って
いながら、飯を出されたら食べるし、食べた後には昼寝する。
そういう赤ちゃんのような真似を私は決して魅力的とは思えない。

・・・・フィリピンは楽ですよう~~~。
少しお金があれば、「世を捨て」て「飯が食え」ます、「昼寝」も
できます。
どうっすか? (笑)

=======

上記の「小乗仏教(南方仏教)は宜しくない」という意見に対して、 タイ仏教はそうじゃないよという、日本人のタイ仏教に対するイメージを変えるような話については こちらでどうぞ。

 

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お釈迦様のやり方に近ければいいのか・・・好きじゃないですー1 

「法然と親鸞」を読んでいる途中なんですけど、ちょっと浮気して、
サンガジャパンの「上座仏教と大乗仏教」という雑誌の中の
ネルケ無方老師インタビュー「南方仏教は好きじゃないです。」
つまみ食いしています。

003

先に「ブッダのことば」を読んだんですけど、当然のことのように
上座仏教(小乗仏教、南方仏教、南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)
の違い、特に今現在のあり方がどう違うのかが知りたいなあと
気がかりだったんです。

それで、今年の5月に一時帰国したときに何冊か買ってきた本を
「どんな本があったっけ」とチェックしたら、この雑誌があったんです。

目次を見たら いろいろタイトルがある中で、
「南方仏教は好きじゃないです。」が一番インパクトがあって
面白そうなんで、読んでみました。

ところで、このネルケ無方というお坊さんは、こちらの安泰寺
ご住職で、ドイツ人なんだそうです。
たしか、テレビなんかで見たような気もします。
http://antaiji.dogen-zen.de/jap/index.shtml
http://news.livedoor.com/article/detail/4529578/

このサイトに次の文があります:
「留学時代に京都の寺で座禅を組む接心に参加、そこで、修行者が
住み込みで毎日、座禅をし、自給自足の生活を送る安泰寺のことを知る
と半年で大学を辞め、安泰寺へ入門。」

「自給自足」、この言葉ですよ。
「ブッダのことば」を読んでいて一番不信に思ったのが、修行者は
何もしないで「托鉢」で乞食をやるっていうのが、どうも納得いかな
かったんです。
世間と縁を切るといいながら、村人からご飯をもらうってのが・・・

前置きは、これくらいで、例によって引用します:

ー 大乗仏教、北伝の仏教より南方仏教が釈尊が実際に説いた教え
  とその実践に近いのは間違いないと思う。

ー 釈尊のように子どもがいても嫁がいても、とにかく悟りが一番、
  涅槃が一番。 だから家族を切り捨ててでも、涅槃を追い求める
  べきだという考えは、私は賛成できない。

ー 大乗仏教では初期の段階で、在家の維摩居士が出家者よりも
  すぐれた仏教者として描かれている維摩経ができるくらいだから、
  在家という立場を非常に大事にしている

ー (南方仏教の僧は言う)「私は生きものを殺さない。 したくない
  からではなく、できないからだ。 南方仏教の出家者の戒律では
  そうなっているんだ」と。
  しかしそういう考えを、私はある意味、無責任だと思います。

ー 要するに、田んぼを耕すこと、畑を耕すことを悪いことだと
  いうのだったら、「食うな」と。 それが私の立場。

・・・・実に、私には意外に聞こえるんですが、お釈迦さんは
農作業も否定していたんですね。
理由が知りたい!

ー 南方仏教系の修行は全人類が明日からしようと思ってもできない
  いつも別の誰かがご飯を作らなければいけないからです。

・・・そこで、南方仏教の現代の坊さんたちの話が出てくるんですけど、

ー 三人はバングラデシュの国籍で、タイやスリランカの叢林で比丘と
  して勉強して、修行してきた。そして日本の大乗仏教が知りたい
  と言ってきた。

ー 結局・・・・三日間しかいなかった。
  寒いし、・・大阪とか京都とか観光したいとか言って、帰っちゃった。
  ・・・この三日の間も、作務はしないし、座禅も「寒すぎる」と
  言ってしない。 ・・・仕事をするとお袈裟が汚れるからダメだと
  言う。 ・・・ 部屋で寝転がって携帯電話を一生懸命いじっている。

  
・・・ネルケさんは、ここで「甘えている」と言っているですね。
戒律さえ名目上破っていなければ、遊んでいても良いというような
雰囲気、実態があるってことのようです。

まるで、フィリピンのどこかで、三食、洗濯、掃除付きの下宿で
何もせずに 読書三昧をやっている 誰かさんのようですね。(笑)

ー 名前が残っている人はみんな、少なくとも大乗仏教においては
  新しいものを開拓した人。 伝統をそのまま守っている人たちは
  伝統にとって いてもいなくてもいい人たちだ。
  伝統を変えることこそ、伝統を守ることだ

・・・本当にその通りだと思いますね。
時代や環境の変化に応じて、変化をしていかないと生き残れない。
伝統を継承することもできないってことでしょう。

ー 私は一応、出家受戒をして、曹洞宗の宗務庁にも僧籍が
  登録されているが、在家といわれても全く問題はない。
  親鸞聖人のいうように、どちらでもない

ー 道元禅師の教えを見ても、出家と在家の立場に関してあいまいと
  いうか、矛盾している部分がかなりある。
  ・・・誰でも座禅しようと思えばできるし、実践さえすれば、
  それはもう仏の実践だと。 在家と出家になんの違いもない。
  男でも女でも構わない。

ー 道元禅師は大乗仏教の伝統の基づく戒律を全部採用したのではなく、
  十六個の菩薩戒(十六条戒)のみを採用します。
  ・・・生死即涅槃であるから、俗世にまみれてこそ涅槃も見えて
  くる、ということ。

ー 生死の苦しみの世界(サムサーラ)と解脱の世界(ニルヴァーナ)
  を分けるからこそ、苦しい思いをし、物足りない思いをする。
  この二つの世界を分けないで、生死の受け止め方によって、
  苦しいサムサーラとしてしか見えてこなかったこの世界が、
  実は涅槃だったという気づきがあるのではないかと思う。

・・・道元さんは1200年~1253年だったんですね。
親鸞さんは1173年~1262年ってことで、同時代を生きて
いたわけです。

やっぱり、出家か在家かっていう迷いは宗派を問わずにあったの
でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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山折哲雄著 「法然と親鸞」を読む (2)

中央公論新社の 山折哲雄著「法然と親鸞」を読んでいます。

p26 
ー 法然は、・・・その生涯を終えるまで「持戒」の出家僧という
  立場を崩すことがなかったからだ。 それにたいして弟子の
  親鸞は妻をめとって子を儲け、「破戒」の人生をまっすぐに
  歩きはじめる。

p27
ー (法然は)、破戒、無戒の必然性をそのままみとめる持戒の僧
  だった。 それが法然における念仏の道だった。
  念仏の道を選びとる者に、破戒も持戒もなかったからだ

・・・確かにそうですよね。「念仏しかない」と言った途端に、
その他のあらゆる修行はいらないってことですもんね。
ただひたすらに念仏を信じるってことだから。
「選択本願念仏集」で法然さんはそれを宣言してるわけですもんね。

他の本で読んだところによれば、法然さんは理路整然と書いていて、
親鸞さんは それに比べて支離滅裂、訳分かんないって感じらしいんです。
法然さんの本も読んでみないといけないっすねえ。

p30
ー われ、僧にあらず、俗にあらず (非僧非俗)。

p31
ー 「二河白道」というのは、中国唐代の善導(613-681)
  極楽往生を勧めるために考えだした比喩物語である。
  善導は、浄土教の代表的な経典である「観無量寿経」の思想を
  めぐって、独自の、詳細な注釈を書いた人物だ。
  それを「観無量寿経疏」という。

・・・法然さんと親鸞さんは、この本に大きな影響を受けたらしいんです。
どんなところが二人の心を掴んだんでしょうか。
ちなみに、浄土真宗には七高僧という大事なお坊さんたちがいるらしくて、
その中の5番目に善導さんがいるんですね。

龍樹ー天親ー曇鸞ー道綽ー善導ー源信ー源空(法然)
これを、国と思想の流れで並べてみると:
インド(大乗仏教中観派)ーインド(唯識思想)ー中国(浄土教)-
ー中国(浄土教・小豆念仏)-中国(浄土教・称名念仏)-
ー日本(天台宗・往生要集)-日本(浄土宗・選択本願念仏集)

ってことになりますね。

ところで、上記の「二河白道」ていうのは、以下のような比喩だそうです。

p32
「二河」とは水の河と火の河。
その間に、娑婆世界から極楽世界に向かう一本の「白い道」がある。
死んだ人はその白い道を浄土に向かって歩いていく。

この思想が日本の一般の人気を得ていったそうです。

・・・・さて、ここまでは、この本のイントロ部分でありまして、
次回(3)から、第一章の「法然臨終」に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年9月 2日 (日)

山折哲雄著 「法然と親鸞」を読む (1)

中央公論新社の 山折哲雄著「法然と親鸞」を読んでいます。

いろいろ仏教の本を読んで来たんですが、なんとなく、漠然と
仏教の「信仰」ってのは親鸞から始まったんじゃないか、なんてことを
感じているんです。

「信仰」の定義は何だ、って聞かれても、漠然ですから
はっきりとは言えないんですけどね。
法然までは未だ自力に頼る部分が残っているんじゃないか、
その点 親鸞から本当の意味の信仰、つまり他力の徹底みたいな
形になったんじゃないか、って思うんです。

それで、この本を読んでみようかな、と思ったわけ。

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まず時代背景なんですけど:

法然さん = 1133年~1212年
親鸞さん = 1173年~1262年
ちょうど40歳違うんですね。

平清盛 = 1118年~1181年
源頼朝 = 1147年~1199年

平安時代が 794年から1185/92年頃、鎌倉時代が1333年
までってことですから、まさに戦乱に明け暮れていた時代ってことですね。

この本によれば:

ー 法然がこの世を去った年に、鴨長明の「方丈記」が書かれていた。
ー (鴨長明の)視線は、京都の街路のいたるところに放置されている
  死者の首の上をさまよい、その数が全部で「四万二千三百余り」
  もあったという嘆きの声に行きつく。
ー 今のわれわれは、「平家物語」や「方丈記」の時代を生きているの
  ではないか、という想念までが脳裏をかすめる。

そして、仏教的には:

ー 当時、「末法灯明記」という書物がひそかに読まれていた。
  いつしかそれが、出家たちのあいだや在家の者たちのあいだで
  話題になり、流行しはじめていた。
ー 「真の仏説」とは背馳する考えを、釈迦の名をかりてひそかに
  世に流すために書かれた作品、といった穏微な評価が隠されて
  いるようだ。
ー 仏教は、正法、像法、末法という三つの段階を経て、しだいに
  衰退の道をたどるという歴史観がある。

つまり、法然や親鸞は、この末法の時代、戒律を守る僧はいなくなり、
いわゆる「破戒」や「無戒」の坊さんだけになっている時代にあると
いうことです。

さて、お立合い。
ここで、少なくとも法然さんは「持戒」、すなわち戒律を守っている
んだけど、念仏をやればいいんだよって言った本人ですから、
弟子たちに対しては割と「破戒」を大目にみていたらしいんです。

その一人が親鸞さんってわけですね。
親鸞は「破戒」しまくっちゃったわけです。それも確信犯。

その辺りに、私は「信仰」の意味が出てきたんじゃないかって気が
しているんです。
極端に言えば、キリスト教みたいな信仰ですね。
(キリスト教を知っているわけじゃないんだけど・・・・
 まあ、神様を信じます、みたいなね。)

じゃあ、その(2)で、ぼちぼち読んでいきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

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もしかして うちの下宿って 世界遺産・・・かな?  

今日、バギオ博物館で 何かの写真展のオープニングがあるってんで お付き合いで見に行ったんですけどね。

K030

1900年代以降に 高原避暑地であるバギオ市に建築された建物の写真展だったんです。

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1903年に マニラと高地バギオをつなぐ道であるベンゲット道路(現ケノン・ロード)の建設の為に 日本人移民がやってきたんです。

そして、その道路が完成した後に、日本人の多くはマニラやダバオなどへと流れていったんですが、一部は その後のアメリカによる避暑地・保養地の建設に関わって定住したんですね。  大工や石工、庭師、農業などいろいろです。

J042

だから、戦前のバギオの建物には、そういう日本人パイオニア達が関わって仕事をしていたんじゃないか、って思うと ちょっとワクワクするわけです。

J046

これは1960年代って書いてあるんですけど、なんと、元大統領のマルコスが買った別荘だと書いてあるんですねえ。 アウトルック・ドライブという通りです。

へえ~~、などと思いながら写真を見ていたら・・・

J049

こんな写真も飾ってあったんです。 1950年代。

・・・でも、この家、どっかで見たことがあるような・・・・?

この赤い車も・・・・

って、よくよく見ると 「Mandapat」って書いてあるじゃないですか。

私が下宿している家じゃないの。

大家のお婆ちゃんが話してくれたんですけどね。

亡くなったお爺ちゃんは 戦後の元バギオ市警察署長だったそうで、ここにこの家を建てた頃は、周りには何にもなかったんだそうです。

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しかし、まあ、こんな博物館で展示されるってんだから、もしかして将来は世界遺産かな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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