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2012年9月15日 (土)

山折哲雄著「法然と親鸞」を読む(7) 親鸞も「ポアしろ!」と言った?  

中央公論新社の 山折哲雄著「法然と親鸞」を読んでいます。

親鸞さんは「弟子一人ももたずさふらふ」と言って、
弟子を持たなかったそうです。 なぜだったんでしょうか・・・

「第六章 親鸞の弟子捨て」

ー 親鸞は、その人生の重要な時期に弟子たちを捨て去っている。

ー ところが、・・・捨てられた弟子たちはその後もずっと
  慕いつづけていた。

ー 関東の弟子たちは毎年のように(京都の親鸞に)米や銭を送り、
  生活上の支援をつづけたのである。

・・・弟子の師匠に対する片思いのような関係に、著者はなぜだろう
と考えているわけなんです。

ー 親鸞という人間のはかりがたい気むずかしさを暗示しているの
  ではないか。 不気味な厭人癖のようなものだ。

・・・そして、親鸞が流刑地から関東へ行くことを決めたころの
世の中の状況は、

ー 東国では法然の念仏の教えがかなりの地域にわたって広められて
  いた。 法然自身も、源頼朝の妻・政子とのあいだに手紙
  やりとりをしている。

・・・いいっすねえ、NHK大河ドラマの「平清盛」のちょっと
後の時代になってくるわけですね。

ー 東国各地を転々として、・・・・ 常陸国笠間郡の稲田
  腰を落ち着ける。 ・・・約二十年間を、その地で過ごす。
  四十代から五十代にかけての時期だ。

ー 主著「教行信証」の原稿が、この稲田の田舎住まいのなかで
  書かれる。

ー JR水戸線の稲田駅で降り十五分ほども歩いたろうか。
  ・・・西念寺の茅葺きの山門があらわれた。
  親鸞ゆかりの寺坊である。

・・・おお、今度 見に行かなくっちゃいけませんね。
今年の5月には、高野山にある親鸞さんのお墓には行きましたからね。

ー 史料にのるものだけでも、親鸞に直接ついた弟子の数は
  六十人を超える。

ー 勢力が増大すれば、セクトが発生するのは避けられない。

ー 1234年、幕府は念仏禁止の挙に出てくる。
  ・・・ときに親鸞、六十二歳。

・・・そうか、俺の齢の時に、迫害がまた始まったってことか。
厳しいなあ。

ー 親鸞は、関東を捨て、弟子たちを捨てて京都に帰ることを
  選択する。

ー 信仰者の本来の生き方は、師とか弟子とかいう世界から
  解放されたものでなければならない。
  (・・・とこの著者は思ったわけです。)

・・・しかし、それにも謎がある、と著者は述べているんですねえ。
そして、ここで「歎異抄」の 親鸞と唯円の問答が引用されています。

親鸞 - 唯円よお前は私のいうことを信ずるか。
唯円 - はい、信じます。
・・・・
親鸞 - それでは、まず、人を千人殺してもらおう。
     そうすれば、お前は、往生することができる。

・・・危ない議論ですね。 なんだか、XX真理教みたいな問答
ですね。 「ポアしろ」ですからねえ。

危ない話になってきたところで、次回(8)へ続きます。

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2012年9月12日 (水)

山折哲雄著「法然と親鸞」を読む(6) 師と弟子は美談では済まない 

中央公論新社の 山折哲雄著「法然と親鸞」を読んでいます。

法然と親鸞との関係は、果たして一般的に思われているような関係
だったのか・・・・

「第五章 師以前の師」

ー 二人の師と弟子のあいだには、人間の違い、信心をめぐる見解の
  へだたりといったものが、明らかに存在していたようにみえる

  からである。

ー 二人の若い時代を重ね合わせ比較してみる・・・・

・・・ここで、著者は法然と親鸞の青春時代を比較しています:

法然:
ー 1133年、岡山県生まれ。
ー 父は警察官僚。権力抗争にまきこまれ、法然が9才の時殺された。
ー 15才の時 比叡山にのぼる。 源空と称す。
ー 皇円の弟子となる。皇円は貴族の出身で、優れた学僧だった。
ー 「知恵第一の法然房」と呼ばれる。 法然房源空。
ー 1150年、黒谷別所(草庵)で隠遁。 
  慈眼房叡空に師事。叡空は戒律を守る師であった。
  叡山アカデミーの硬直した議論にあきたりなくなったか・・・
ー 浄土宗に傾き、専修念仏の道へ向かう。
ー 43歳の時、山を降り、東山吉永に草庵を結ぶ。(知恩院の場所)

親鸞:
ー 1173年、京都に生まれる。
ー 父は下級貴族。
ー 9歳の時に出家、範宴少納言公と号していた。
  この時、法然はすでに山を降りていた。
ー その後、比叡山で下級の修行僧をつとめたといわれるが、
  くわしいことはおよそ20年間は不明
ー 1201年、29歳の時、京都の六角堂に百日籠る。
  救世大菩薩(観音)が夢の中に現れて、「女犯」をしても
  救済すると告げられる。
ー 法然の門に入る。

ここで著者は、自分自身の体験から、「師などはいらぬもの」という
確信を持っていたことを述べている。

ー 8月15日を迎えたとき、私は全身にしみとおるような解放感に
  ひたっていた。
ー ポツダム宣言の「軍国主義者の権力および勢力を永久に排除
  する」方針による教職追放。
ー 現場の教師たち自身が師の衣を脱ぎ捨て、それを宙に放り投げた。
ー 師という存在を抹殺する大合唱の仲間にまぎれ・・・

そして、「師以前の師」について、このように語る。
ー 師以前の師が、二人いる。 一人が服部之總(1901-56)、
  もう一人が市川白弦(1902-86)である。
ー 服部の「親鸞ノート」、「蓮如」、そして彼の専門である
  明治維新についての論文までのぞきみするようになった。
ー 服部は、マルクスの濃厚な影を感じさせてくれるような人間だった。

ー 市川さんは、その論文の中で、日中戦争のころから仏教思想の
  研究に志し、やがて戦時思想に妥協を強いられていった自分の
  「転向」体験について素直に語っていた。
ー 市川さんの頭を領していたのは、臨済とマルクスだった。
  「随処に主となる」といった臨済の禅的な自由と、「自己の主人
  となる」といったマルクスの人間的な自由とを、どのようにして
  主体化するか、という問題であった。

・・・そして、この二人と著者との関係については:
ー 心の隅には何となく気安さのようなものがただよっていた。
  なぜならその二人にたいして、私は弟子として近づいていったの
  ではないからだ。 ・・・弟子としての意識をもつ必要が
  なかった
からである。

・・・そして、師と弟子という関係について、一般的には:
ー 抜き差しならぬ競合と背反の関係が発生する。
ー 弟子は師を超えなければならぬ、・・・・教えることはやがて
  裏切られる・・・

というように著者は言っているわけです。
一般的には 師と弟子というものを美談として語ることが多いけれ
ども、本当のところは 本質的に師と弟子というのは その反対に
相克するものだってことですね。
そして、それが逆説的だけれども 一般的なものだと。

そりゃあそうでしょうね。
親子でも同じようなもんじゃあないでしょうか。
親というのは、子供が自分を乗り越えられないと感じたら、
不安になるんじゃないでしょうか。
特に自営業の商売なんてやっている人は・・・
「こいつ、大丈夫かな?」ってね。

親にあまりにも従順な子どもは、親を不安にさせるものだと
私は思うんです。
自分がいなくなった後、この子はちゃんと自立して生きていける
のだろうか、ってね。

さて、親鸞さんは 法然さんをどのように裏切っていくんでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年9月11日 (火)

山折哲雄著「法然と親鸞」を読む(5)親鸞自身はどう思っていたのか 

中央公論新社の 山折哲雄著「法然と親鸞」を読んでいます。

一般的には、親鸞の師は法然だけと思われているけれど、
本当のところ、親鸞自身は 法然のことをどう思っていたのかって
著者は考えているんですねえ。

「第四章 二つの証言」

ー 親鸞の前に、はたして唯一の師などと称する人間がいたのだろうか

ー すくなくとも二つの有力な証言があった。
  親鸞の弟子の唯円と、妻の恵信尼の証言である。

・・・そこで、著者が掲げるのが「歎異抄」のこの部分なんです:

「自分が浄土に生まれるか、地獄に堕ちる運命にあるか、そんなことは
知らぬ。 だから、法然上人にだまされて、念仏して地獄堕ちになっても、
一切後悔などしない。」

ー 唯円は、法然と親鸞のあいだのそのような関係を定めることで、
  同時に、親鸞と自分のあいだの師弟軸をも定めようとしている
  気配がただよう。

ー 「恵信尼文書」という史料は、・・・・・解読が試みられ、
  親鸞研究は飛躍的な発展をとげてきた。

ー 恵信尼がそこで、夫・親鸞にかんする二つの思い出を語っている
  のである。

・・・その二つというのは、
ー 親鸞29歳の時山を降りて六角堂に籠り、夢のお告げを受けた。
  そして、その後、法然の門に入った。
ー 恵信尼の夢。 
  勢至菩薩と観音菩薩が現れたが、前者は法然で、後者は親鸞だった。

・・・ってことで、この二人の証言が、親鸞と法然の強いつながりを
物語っているじゃないか、ってことになっているんですね。

でも、なんかちょっと違うんじゃないか、と著者は疑っているわけ。

ー 親鸞自身が書いたものを点検していくとき、明らかにそうとは
  考えられないような事実に突き当たるからだ。

ー 「七高僧」たちの教えを通して自己が自己になった、
  親鸞が本当の親鸞になったといっている。

ー 仏教の思想がインド、中国、日本を経て深化し、親鸞の「信」に
  おいて成熟した
という認識である。

ー その七高僧のエッセンスが七番目の先師・法然のなかに
  すべて包含されているのではないということに注意しなければ
  ならない。

ー かれは76歳になったとき、・・・「高僧和讃」を書き、
  そのなかで七高僧の遺徳について噛んで含めるような口吻で
  語っているからだ。 ・・・「教行信証」の七高僧讃嘆の内容を
  さらに拡充し、念を入れて再構成したものだった。

・・・要するに、法然さん一人じゃなくて、七人の高僧たちの
良いとこどりをしているよってことになりますね。

そして、著者は、親鸞がどのように親鸞になったのかを
検討しています。

親鸞は、綽空ー善信ー親鸞と改名したんですが、
龍樹ー天親ー曇鸞ー道綽ー善導ー源信ー源空(法然)という七高僧
の名前をつないでいるんです。

綽空 = 道綽 + 源空
善信 = 善導 + 源信
親鸞 = 天親 + 曇鸞 

ー 自己の名を生み出す母体として選ばれたのがインド人の天親と
  中国人の曇鸞だった。

ー 「日本人」」の名がまずはずされたのである
  親鸞の国際感覚といったものが、そういう形でそこに突出
  したということではないか。

  
ー 妻の恵信尼は夫のことを「善信の御坊」と書いて、「親鸞」とは
  呼んでいない。 妻の側からみた夫の姿と親鸞の自意識が
  かならずしも一致していなかったということを、それは
  意味するのかもしれない。

・・・お~~~、なんと、親鸞さんの夫婦関係にも立ち入る
大胆なコメントですねえ。

でも、確かに、「教行信証」なんかを読んでいると(って言っても
解説本ですけど)、法然さんに対しては「ここは違うよなあ」って
言っているような雰囲気なんですよねえ。

この「良いとこどり」という観点から言えば、
親鸞さんは何か確たるものがあって、それを自分なりに
納得するために 歴史上の高僧が書いたものに拠り所を求めた
ということなのでしょう。

ちなみに、この親鸞 = 天親 + 曇鸞 の二人は
特に何が重要だったかというと:

ー 天親 : 阿弥陀如来の救済力が光を放って、われわれの
       全身を包むことを明らかにした。

ー 曇鸞 : この世から浄土へ(往)、浄土からこの世へ(還)
       の二つの道があり、信心があれば その生死の
       往復運動の道筋が明らかになるといった。

つまり「阿弥陀様」と「信心」がキーになるんですかね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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