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2012年11月10日 (土)

井上靖「天平の甍」を読んでいます。-1 日本は中国に学んだ

大乗仏教の初期の経典と言われる「金剛般若経」を一応読んだんで、
次は龍樹かなと思っているんですけど、「空」の理論を体系化した
「中論」などという超難解な話らしいので、ちょっと休憩。

知人から「天平の甍」をお借りしたので、ちょうど仏教が日本に
伝来していたころの話を読んでみようかと思っています。

井上靖さんの本を、若いころに何冊か読んだはずなんですが、
チンギスハーンの話を書いた「蒼き狼」ぐらいしか覚えていません。

では、ぼちぼち読み進みましょう。

鑑真さんを日本へ連れて来るのに、様々な理由で5回も失敗し、
やっと6回目、十年も掛かったというのです。

仏教の日本への最初の伝来は、538年又は552年で、百済から入った
とされているようです。

厩戸皇子(聖徳太子)が『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の三つの経
の解説書(『三経義疏』)を書いて、『十七条憲法』を作った
のが604年

753年の12月20日鑑真が鹿児島県にやっと到着して、
それまで日本で乱れていた僧に対する戒を授けることを始めた
ようです。

このような時代の流れを踏まえて、読んでいきます。

以下に参考となるサイトをご紹介します:

仏教伝来
http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/bukkyodenrai.htm

鑑真
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F

鑑真、6度目の正直/ニッポンは遠かった!
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic25.html

唐大和上東征傳(鑑真伝)」
井上 靖先生の小説『天平の甍』で知られる中国の高僧・鑑真和上の
業績は多くの方に知られています。
http://www1.vecceed.ne.jp/~cav/page003.html
(日本への渡航経路略図あり)

その後の鑑真は・・・
http://yomimonoweb.jp/sekiyuji/p22_4.html

遣唐使の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF

ところで、この小説ですけど、
小説というよりも歴史書みたいな風情ですね。

作家の、研究者あるいは学者のような調査能力の凄さに圧倒されます。
どこからどこまでが史実で、どこからが創作なのか。

昔々、日本と言う国は、その国の基礎を固める為に、
多くの人材を中国に送り、その当時の最先端のものを広く学んだ
んですね。

そして、それは本当の意味で「命がけ」のことだった。

今の日本は どんな国なのでしょうか。
世界の他の国々にとって 「命がけ」で学びに来る価値のある国
なのでしょうか。

そのことを思いながら、ゆっくり読んでいきたいと思います。

==その2はこちら==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月 8日 (木)

八面楚歌の「小浜派」in バギオ : フィリピンのアメリカ

アメリカ大統領選がオバマさんの再選で決着しました。
さすがに世界第一の超大国だけあって、日本でもかなりの盛り上がり
だったようですね。

私もバギオでテレビ中継を見ていました。
得票率はオバマ50% ロムニー48%という僅差だったそうです。

アメリカでのこのはっきりした二分化というのが凄いですね。
民主党と共和党の国というものに対する価値観のぶつかり合いが
明確に分かって面白い。
年収400万円以下には民主党支持者が多く、400万円以上には
共和党支持者が多いとか。
貧乏人の民主党、富豪の共和党という構図ですね。

我が下宿の大家さん家族は10人兄弟姉妹なんですけどね、
生存する9人の内5人がアメリカ在住なんです。
国籍もフィリピンとアメリカの二重国籍みたいで。

なんと、その中で 民主党支持は私の大家さん唯独りなんだそうです。
あとの8人は全員共和党支持で、アメリカ在住の兄弟から
如何にロムニーの方が優れているかについてEメールが送られて
きたんだそうです。

「共和党は戦争ばっかりするから嫌なのよ。」

我が大家さんは 兄弟の八面楚歌の中で 孤軍奮闘
小浜勝利を聞くと 腕を振り上げて ガッツポーズ。
アメリカの兄弟からは 憤慨した電話が 隣の家の長男に
掛かってきたそうな。

日本人がフィリピンと聞くと、めちゃくちゃ貧乏な遅れた国、
あるいは「いやらしい」「危険な」国というイメージばかりで、
国際感覚なんかについても日本の方が進んでいると
思いがちなんでしょうが、そんなことはありまっせん。

特に「いやらしい」については、もっぱら日本人のおっさんたちが作ったイメージですしね。 非難するなら日本国内問題とすべきかも。

皆さんご存知の通り、多くのフィリピン人が世界各地に
出稼ぎに行っているお国柄ですから、日本人が海外旅行なんかで
表面をさらりとなぜる程度の知識なのに対して、フィリピン人は
世界中の家庭の中の様子まで知っている
ってことになります。
そういう意味では、英語が普通に出来るということもあって、
フィリピン人は日本人より何倍も国際的な人たちだと言えるでしょう。

 

 

 

 

 

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2012年11月 7日 (水)

日本語教師症候群 - むずかし「過ぎる」

テレビを見ていて時々出演者がしゃべっている日本語に
ひっかかってしまうことがあるんです。

確か時事評論みたいな内容だったと思うんですけど、
「大きい施設を作り過ぎているんです。」
って言ったんです。

そのままこの文を文面通りに理解すれば、
「大きい施設のその数が多すぎる」ってことですよね。

でも、その時の話の内容は、そうじゃなくて、文脈からは
収容能力が大き過ぎる施設を作った」
という意味だったんです。

つまり、「数を作り過ぎた」んじゃなくて、「大き過ぎる」
施設をつくっているってこと。

で、後者の意味だったら普通はどう言うかなとひっかかったわけ。

じゃあ、どう言えばそのまますんなりと理解されるのか・・

大き過ぎる施設を作っているんです。」(A)

「作っている施設が大き過ぎるんです。」(B)

あなたならどっちを使いますか?

「大き過ぎる」ってことを強調したいのであれば、たぶん(B)
なんでしょうね。

だから、おそらく、(A)と(B)が話している間に
ミックスしちゃって、
最初に「大きい施設」と発声してしまって
それが「過ぎて」いるんだと言いたくて、後半の「作り」の
後に「過ぎている」をくっつけちゃったんじゃないのかな、って
思うんです。

こんな例もありますよね:

「電車に遅れると思っていたんで、焦って、早く行き過ぎちゃった。」

「行き過ぎる」って可笑しくないですか?

「行き過ぎる」ってのは
「ある地点をオーバーして遠くまで行っちゃう」ってことですもんね。

だから、
「電車に遅れると思っていたんで、焦って、行くのが早過ぎちゃった。」

「早過ぎた」が正しいですもんね。

最近のNHKなんかは、番組の画像の下に日本語の字幕を入れて
いますけど、出演者が文法的に間違った言い方をしていたりすると、
結構訂正した形で字幕にしていますよね。

上のような場合なんかも訂正するんかな?

・・・てのが、私の疑問なんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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それで・・・金剛般若経の「空」の理論ってなに?

一応「金剛般若経」を読んだんですけど、
まとめ・感想」にも書いたとおりで、「空」ってのがなんなのか
さっぱり分からないままなんです。

それで、「空」の理論って、特に金剛般若経に書かれている
意味不明の問答ってのが もやもやと胸に残っているんです。

「<<智慧の完成>>は、智慧の完成ではない」と如来によって説かれて
いるからだ。
それだからこそ、<智慧の完成>と言われるのだ。」

これを記号で表すと、
「Aは Aではない。 だからこそAと言われる」
という この論理のことです。

このもやもやを なんとか晴らしたいって思っているんです。
間違った解釈でもいいから、自分なりに腑に落ちるところまで
もっていきたいわけ。

それで、いろいろ検索していたらこんなサイトが見つかって、
このサイトの中に「リンゴ」を使って例がかいてあるんです。
これは分かりにくいんですけどね。
http://onioshyou.blog122.fc2.com/?mode=m&no=78

さらに、こっちでは「猫」を使って説明があります。
こっちは論理的で分かりやすい。
http://www.geocities.co.jp/technopolis/3138/cat.html

この考え方を使って、<心のながれ>
「心の流れ」=「過去の経験に基づく意識、および無意識
の意識が、現在、未来に尾を曳いて、意識作用や行動を規定すると
考えて、そこに心の流れを見たのであろうか。」
とからめて、納得できるような説明ができないかな、と思うわけです。

私も猫好きなんで、「猫」でやりますね。

Aは Aではない。 だからこそAと呼ばれる。

猫は 猫ではない。 だからこそ猫と呼ばれる。

この私の猫ちゃんは 一般的な意味での「猫」ではない。
だからこそ本当の「猫」と呼ばれる。

この私のトラちゃんは 普通名詞の概念としての「猫」ではない。
だからこそ 本当の生身の猫ちゃんなんだ。

今飼っている私のトラちゃんは、
過去に学校で習った 動物の名称である「猫」でもないし、
過去に飼っていたハナジロちゃんでもない。
だからこそ このトラちゃんは 真実の本物の猫と呼べるんだ。

この肩にしがみついている人見知りのトラちゃんは、
あの人懐っこいハナジロちゃんではないし、記憶の中の猫でもない。
だからこそ 今五感で感じている本当の猫と呼べる。

この「智慧の完成」は いわゆる「智慧の完成」ではない。
だからこそ 真実の「智慧の完成」と呼ばれるのだ。

この「般若波羅蜜」は 「般若波羅蜜」ではない。
だからこそ 「般若波羅蜜」と呼ばれるのだ。

この目の前に広がる宇宙は 本に書いてある概念的な宇宙ではない。
だからこそ この目の前の宇宙は 本物の宇宙と呼べるのだ。

・・・

なんだか、こんな風に いろいろとバリエーションを変えながら
繰り返していると 分かった気になりませんか ?

・・・で、「空」って何 ?

この肩にしがみついている人見知りのトラちゃんは、
あの人懐っこいハナジロちゃんではないし、記憶の中の猫でもない。
だからこそ 今五感で感じている本当の猫と呼べる。

ここで、私は最後のところを「呼ばれる」」じゃなくて「呼べる」って書いちゃったんです。

これを「呼ばれる」って表現にするには、

この肩にしがみついている人見知りのトラちゃんは、
あの人懐っこいハナジロちゃんではないし、記憶の中の猫でもない。
だからこそ 皆から「今五感で感じているこれこそ本当の猫だ」と呼ばれる。

・・って してみたらどうですかね。

そうすると、最初の猫は自分が今五感で感じている猫。 

二つ目の猫は、自分の過去の記憶だったり、思い浮かべる「猫」という名称、イメージ、概念などだったり。

三つ目は、人それぞれが五感で感じている「猫」という具体的な猫について表現している内容。

ってことで どうっすか?

ってことにすると、

この3つは、時間的にも空間的にも別物であって全く違うんだけど、「猫」という言葉でひとくくりになっている。 だから「猫」っていうものに実体はない・・・ ? それが「空」 ?

・・・

今日は こんなところで 許してもらおう・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月 6日 (火)

「金剛般若経」を読む - 10 まとめ・感想

本の表紙には、「般若心経 金剛般若経」とある岩波文庫の本を
読んでいます。中村元・紀野一義訳注です。

「金剛般若経」というのは略称であって、詳しくいうと漢訳で
「金剛般若波羅蜜経」または「能断金剛般若波羅蜜多経」というそうです。

で、ここでは、その1から9までを振り返って、私なりの
まとめをやってみます。

<3>では、実存・実体を否定する考えが出てきました。

誰でも<<自我という思い>>をおこしたり、<<生きている
ものという思い>>や、<<個体という思い>>や、
<<個人という思い>>などをおこしたりするものは、
もはや求道者とは言われないからだ。

(巻末の解説には、「生きているものという思いーー実体としての
生きものが実存するという考えを指す。この他、自我・個体・
個人などを実体視するのは求道者の態度としてふさわしくないと
言われている。」とあります。)

<6> 「人無我」よりも「法無我」に力点。

これらの求道者・すぐれた人々には、<<ものという思い>>も
おこらないし、同じく、<<ものでないものという思い>>も
おこらないからだ。
・・思うということも、思わないということもおこらないからだ。
・・法をとりあげてもいけないし、法でないものをとりあげても
いけないからだ。

(巻末の解説によれば、「ものという思いーー小乗仏教は「人無我」
(実体としての個人存在の否定)を説くのに対して、大乗仏教は
「法無我」(個人存在の構成要素の一つひとつについて実体性を
否定すること)
を説くと普通いわれているが、この一節では
明らかに「人無我」にたいして「法無我」を説き、前者を後者に
よって基礎づけている。 「法」という語は・・ここでは「実体
としてのもの」と解して差支えない。」となっています。

<7> 認識も説明も出来ない・・・密教的側面なのか?

如来が、この上ない正しい覚りであるとして現に覚っておられる法
というものはなにもありません。 また、如来が教え示されたという
法もありません。 ・・・認識することもできないし、口で説明
することもできないからです。
・・それは法でもなく、法でないものでもありません。
それはなぜかというと、聖者たちは、絶対そのものによって
顕されているからです。

(「法」=原語はdharma、特に「理法」を意味するときには「法」
と訳した、とあります。
「聖者=諸仏、「絶対そのものによって・・」の部分の解説では、
「聖者たちは、単なる現象的存在から高まって、無限定な、
絶対者そのものとして生きているからだ」とあります。)

<13・a>「金剛般波羅蜜」という経典が大事なのだということ。

スブーティよ、この法門は<<智慧の完成>>と名づけられる。
そのように記憶するがよい。 それはなぜかというと、
スブーティよ、「如来によって説かれた<<智慧の完成>>は、
智慧の完成ではない」と如来によって説かれているからだ。
それだからこそ、<智慧の完成>と言われるのだ。

(解説には「法門」=「経典」とあります。
漢文の読み下し文では、
「この経を名づけて金剛般若波羅蜜となす。」とあります。
つまり、「智慧の完成」=「金剛般若波羅蜜」という経典です。

<16・b> 前世の報い・布教への迫害

立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、
記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に
詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが
辱められたり、また甚だしく辱しめられたりすることがあるかも
知れない。
これはなぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、
罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていたけれども、
この現在の生存において、辱しめられることによって前の生涯の
不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るように
なるのだ。

( 若い人たちの宗教活動のことを言っているみたいですね。 
布教に対する迫害は前世の報いだ、なんてことを言っているわけですね。)

<17・c> 最高の真理・永遠の真理とは

<如来>というのは、これは、真如の異名なのだ。
・・如来というのは、これは、生ずることはないという存在の
本質の異名なのだ。 スブーティよ、如来というのは、これは、
存在の断絶の異名なのだ。 スブーティよ、如来というのは、これは、
究極的に不生であるということの異名なのだ。 それはなぜかと
いうと、スブーティよ、生ずることがないというのが最高の真理
だからだ。

( いよいよ存在論の核心部分が出てきました。
巻末の解説によりますと:
「真如」=「宇宙の万有に普遍的にゆきわたっている永遠の真理」
「生ずるということはないという存在の本質」
=「常住不変な存在の根本的真理という立場から見れば、
生起という現象はあり得ない。 それが存在の本質(法性)だという
のである。」
つまりは、永遠の真理というのは、絶対に変わらない存在が
あるとすれば、生ずるということもあり得ない、ってことですかね? )

<18・b> 複雑系で とらえられない

ガンジスの大河にあるかぎりの砂の数だけ、ガンジス河があり、
そしてそれらの中にある砂の数だけの世界があるとすれば、
その世界は多いであろうか。

これらの世界にあるかぎりの生きものたちの、種々さまざまな心
の流れをわたしは知っているのだ。 ・・・<心の流れ>
<心の流れ>というのは、流れではない」と如来は説かれて
いるからだ。 それだからこそ、<心の流れ>と言われるのだ。
・・・過去の心はとらえようがなく、未来の心はとらえようがなく、
現在の心はとらえようがないからなのだ。

解説には、「心の流れ」=「過去の経験に基づく意識、および無意識
の意識が、現在、未来に尾を曳いて、意識作用や行動を規定すると
考えて、そこに心の流れを見たのであろうか。」とあります。

<25> 大きな舟にのるということ

如来が救ったというような生きものはなにもないからである。
・・・スブーティよ、「自我に対する執着とは執着がないと
いうことだ
」と如来は説かれた。 しかし、かの愚かな一般の
人たちは、それに執着するのだ。 スブーティよ、
<愚かな一般の人たち>というのは、愚かな一般の人たちでは
ないにほかならぬ」と如来は説いた。それだからこそ、<愚かな
一般の人たち>と言われるのだ。

<26・a> 如来は姿形・声ではない、そして知られない法

その時に世尊は偈を説いて言いたもう、
  もし色を以てわれを見、
  音声を以てわれを求るときは、
  この人は邪道を行ずるもの、
  如来を見ること能わざるなり。

  目ざめた人々は、法によって見られるべきだ。
  もろもろの師たちは、法を身とするものだから。
  そして法の本質は、知られない。
  知ろうとしても、知られない

<29> 宇宙と原子 ものでないものでもない 
     愚かな者は執着する

師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、<<全一体という
執着>>があることになりましょう。 しかも、「如来の説かれた
全一体という執着は、実は執着ではない」と如来が説かれています。
それだからこそ、<<全一体という執着>>と言われるのです。

スブーティよ、<<全一体に対する執着>>は、言葉で表現できない
もの、口でいえないようなものだ。 それはものでもないし、
<<ものでないもの>>でもない。
それは愚かな一般の人々が執着するものなのだ。

<32・b> だから「無常」なのだ

  現象界というものは、
  星や、眼の翳、燈し火や、
  まぼろしや、露や、水泡や、
  夢や、電光や、雲のよう
  そのようなものと、見るがよい。

・・・・・・・・・

私がこの「金剛般若波羅蜜経」(略して金剛般若経)という初期の
大乗仏教の経典を読もうと思ったのは、原始仏教・初期仏教のお釈迦様
から私の家の宗旨である親鸞さんの浄土真宗までが どのように
繋がり、あるいは変遷してきたのかを知りたいと思ったからでした。

原始仏教、仏教の最初期にできたと言われる「スッタニパータ」(ブッダ
のことば」から 大乗仏教の中で一番古いとされる この「金剛般若経」
を比べてみると、私にとっては以下のような点が印象に残ります。

「ブッダのことば」は
主に修行者そのものが どのように出家者として修行をすべきかに
重点があって、内容もかなり具体的であり、当時のインドの生活や
風土などを含め、ある修行僧の実生活を垣間見るような面白さも
あった。

これに比べ「金剛般若経」は、
小乗から大乗への変化ということがある為か、教団としての布教という
雰囲気が強い。 又、抽象的、観念的な内容が多く、「空」の思想を説いた
ものとされているが、未だ「空」という言葉は使われておらず、
その思想がはっきりとは分からない。

こちらのサイトで上記両者の成立年代を見てみると:
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/buddha-mate.htm

ブッダによる説法が、紀元前428-383年。

2)1.の仏滅後に「スッタニパータ」が成立とされ、
成立史的に最古の聖典と見るのがほぼ定説となっている、とあるので、
アショーカ王時代(紀元前268-232年)辺りかそれよりも前か。

大乗経典の成立やその前の三蔵のサンスクリットから漢訳というのが
西暦紀元後となっているので、「金剛般若経」は紀元前後から西暦1世紀
ころあたりか。

ちなみに、「般若心経」は、2~3世紀ごろという説もあるが、
最古とされるサンスクリット本で法隆寺所蔵が8世紀後半であるらしい。

、「空」の理論は龍樹の「中論」などで完成したといわれているが、
龍樹の年代は 「史学的に厳密な生涯は不詳」だとしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

さらに、浄土真宗の関連でみると、
「大乗仏教中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称される。
また真言宗では、真言八祖の1人であり、浄土真宗の七高僧の第一祖とされ
「龍樹菩薩」、「龍樹大士」と尊称される。」
となっています。

・・・ってことになりますと、
私としては、この後は めちゃくちゃ難解と言われている
龍樹さん関連の本を読まなくちゃいけないって話なのかな・・・?

浅い理解のまんま、と言うより、ほとんど理解不能のまま、次に進んでいいのかな~。

==その1に戻る==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「金剛般若経」を読む - 9 「禅問答」? 「無常」?

本の表紙には、「般若心経 金剛般若経」とある岩波文庫の本を
読んでいます。中村元・紀野一義訳注です。

やっと、最後までやってきました。

<28>
師よ、求道者は、積んだ功徳を自分のものにすべきではないのでしょうか。
スブーティよ、自分のものにすべきであるけれども、固執すべきではない。
そういう意味をこめて、<<自分のものにすべきではない>>
言われているのだ。

(この辺りまでは、まあ、そこそこ理解可能なんですけど・・・)

<29>
師よ、もしも、宇宙というものがあるとすれば、<<全一体という
執着>>があることになりましょう。 しかも、「如来の説かれた
全一体という執着は、実は執着ではない」と如来が説かれています。
それだからこそ、<<全一体という執着>>と言われるのです。

スブーティよ、<<全一体に対する執着>>は、言葉で表現できない
もの、口でいえないようなものだ。 
それはものでもないし、
<<ものでないもの>>でもない。
それは愚かな一般の人々が執着するものなのだ。

(こうなると、もうお手上げです。 これがいわゆる「禅問答」って
やつなんでしょうか?
http://www5a.biglobe.ne.jp/~pedantry/pedantry/zenmondo.htm
「実に多くの研究書が出ているのであるが、結局のところは、
実際に体験していない者にとっては、以心伝心という言葉でしか
言えないもののようだ。」 

解説には次のようにあります、
「すべてをひとつの全体と見なして、それが実体であると執着
すること。 
・・・諸の原子の集合体がないということと、全一体がないという
こととは、(諸の存在)が単一でないことを示している。
また、結びついた状態がそこにあるということは、別異性は
ないということを示している。

ちなみに、「別異」とは、「違っているところ。 差異。
違いを区別すること」などと辞書にあります。

ところで、この解説で言っていることって、いわゆる「複雑系」
ってものに似ているってことなんでしょうかね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E9%9B%91%E7%B3%BB
「相互に関連する複数の要因が合わさって全体としてなんらかの性質
(あるいはそういった性質から導かれる振る舞い)を見せる系」

まあ「言葉で表現できないもの」って書いてあるから、
どういう意味かって、ここで無理して説明することもないし、
そもそも 何を言いたいんだか訳が分かりません。
上記の「禅問答」のサイトにも そのようなことが書いてありますね。

それに、「愚かな一般の人々が執着するもの」って書いてあるから、
執着していない私は「愚か」じゃない? (笑)
と言うより、そもそも執着する対象すら理解できていないってこと
が悲しいなあ。 「愚か」以下ってことになるか? )

<32・b> 人間に見えるものはすべて無常
それでは、どのように説いて聞かせるのであろうか。
説いてきかせないようにすればよいのだ。 それだからこそ、
<<説いて聞かせる>>と言われるのだ。

  現象界というものは、
  星や、眼の翳、燈し火や、
  まぼろしや、露や、水泡や、
  夢や、電光や、雲のよう
  そのようなものと、見るがよい。

(これが金剛般若経の最後の言葉・詩句なのですが、解説には
「無常観をさとらせるためのもの」であるとしています。

勿論「無常」と言うことについては、学校なんかでもいろいろと
教えられて来たんですが、それは文学的な「無常観」というか、
なにやら漠然とした「移ろいゆくものへの感傷」とでもいうような
美的なものかなと思うんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B8%B8

ここまでこの本を読んでくると、仏教的無常というのは
それとはちょっと違うんじゃないかという感覚になってきました。

それは何かっていうと、文学的というよりも、科学的仮説あるいは
哲学的洞察なんじゃないか、と思うんです。

確かに原始仏教あるいは初期仏教の、小乗仏教(上座仏教)以前の
「ブッダのことば」から考えれば
、かなり宗教らしく、あるいは
宗教臭くなっているとは感じるんですけど、
それでもまだ、ここで言う無常というのは日本人が現在なんとなく
持っている無常観とはちょっと違うんじゃないかと感じます。

==「まとめ」に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「金剛般若経」を読む - 8  仏像? そりゃ邪道だ !

本の表紙には、「般若心経 金剛般若経」とある岩波文庫の本を
読んでいます。中村元・紀野一義訳注です。

<24>
ひとりの女あるいはひとりの男が、このはてしなく広い宇宙に
あるかぎりの、山々の王スメールの数だけの七つの宝を集めて
持っていて、それを如来・尊敬さるべき人、正しく目ざめた人々に
施すとしても、また他方で、立派な若者やあるいは立派な娘が、
この智慧の完成という法門から四行詩ひとつでもとり出して、
他の人々に説いたとすれば、スブーティよ、前の方の功徳の
積み方は、こちらの方の功徳の積み方に比べると、その百分の一
にも及ばないし、乃至、類似にも堪えることができない。

(要するに、いろんなお宝を偉いお坊さんにあげるよりも、
布教に精を出す若者の方が何倍も功徳になるってことですね。

ここで、思い出すのが「般若心経」なんですよね。
「四行詩のひとつでもとり出して」というところが、
ものすごい数の大般若経の経典群のエッセンスをとりだして書いてあると
いう「般若心経」ってのが その役を果たしているような気が
しませんか。

この部分の漢訳ですけど、
「若し、人、この般若波羅蜜経の、乃至四句の偈等を以って・・」
「若人以此般若波羅蜜経乃至四句偈等」
となっています。

そのあたりの話は、別の本ですけど、こちらに書いておりました。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/week1/index.html
なんと言うか、小乗仏教に対して大乗仏教を宣伝するための
要約版あるいはスローガンみたいなものだったってことでしょうか。)

<25>
如来が救ったというような生きものはなにもないからである。
・・・スブーティよ、「自我に対する執着とは執着がないと
いうことだ
」と如来は説かれた。 しかし、かの愚かな一般の
人たちは、それに執着するのだ。 スブーティよ、
愚かな一般の人たち>というのは、愚かな一般の人たちでは
ないにほかならぬ」と如来は説いた。それだからこそ、<愚かな
一般の人たち>と言われるのだ。

(このパターンの言い方が 何度も出てくるんですが、
今一つどういう意味なのか分かりません。

解説には、「愚かな一般の人たちーー通常、「凡夫」と訳される。
直訳すれば「ひとりひとりの別々に生まれた者」であるが、
複数形で用いると、「愚者」「群衆」の意となる。
・・と書いてあります。

親鸞さんの言う「凡夫」ですね。 「愚禿親鸞」ですかね。

初期仏教の「ブッダのことば」には、「凡夫」だの「愚者」だの
いうような言葉は出てこなかったと思うんです。
大乗仏教では、多くの人たちを相手にするようになったから、
布教という面で 信者に対するなんらかの差別化みたいな
ものが必要だったってことでしょうかねえ。 )

<26・a>
師は、この折に、次のような詩を歌われた。
  かたちによって、わたしを見、
  声によって、わたしを求めるものは、
  まちがった努力にふけるもの、
  かの人たちは、わたしを見ないのだ。

(漢文読み下し文には)

その時に世尊は偈を説いて言いたもう、
  もし色を以てわれを見、
  音声を以てわれを求るときは、
  この人は邪道を行ずるもの、
  如来を見ること能わざるなり。

(そして、後代に付け足されたのだろうという部分)

目ざめた人々は、法によって見られるべきだ。
もろもろの師たちは、法を身とするものだから。
そして法の本質は、知られない。
知ろうとしても、知られない。

(「邪道」という言葉が出てきました。
もしかしたら、ここで言っていることが「偶像を崇拝するな」って
ことになるのでしょうか。

本来仏教には仏像なんてものはなかったそうですしね。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-2b73.html
ー 仏像、つまり偶像崇拝は、世界の中では異例なことだった。
ー 仏教でも、仏滅後500年間くらいは、仏像などはタブーだった

いわば、お釈迦様の顔だとか声だとかいうものを信じるんじゃなく、
その説いた内容をちゃんと理解しなさいってことですよね。

今や美術品と化した仏像を拝んでまわる日本人は、
まさに「邪道」ってことになるんでしょうかねえ。
もっとも、それ以前に、日本の仏教や神道っていうのは
宗教というより日本の文化そのものになっちゃってますけどね。 )

==その9へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月 5日 (月)

「金剛般若経」を読む - 7  それぞれの原宿・・・??

本の表紙には、「般若心経 金剛般若経」とある岩波文庫の本を
読んでいます。中村元・紀野一義訳注です。

<17・a>
求道者の道に進んだ者は次のような心をおこすべきだ。
すなわち、「わたしは生きとし生ける者を、汚れのない永遠の平安
という境地に導き入れなければならない
。 しかも、このように
生きとし生ける者を永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして
永遠の平安に導き入れられたものはないのだ。」と。

・・・それはなぜかというと、スブーティよ、<求道者の道に
向かった人>というようなものはなにも存在しないからだ。

(解説には「求道者の道に向かう」=「菩薩の乗り物で進んで行く者」
とあります。
小乗仏教(上座仏教)と違って、大きな舟に他の人たちも一緒に
乗せるという大乗仏教の考え方なんでしょうね。
しかし、それすらも存在しないのだと言っているんですね。

<17・c>
<如来>というのは、これは、真如の異名なのだ。
・・如来というのは、これは、生ずることはないという存在の
本質の異名なのだ。 スブーティよ、如来というのは、これは、
存在の断絶の異名なのだ。 スブーティよ、如来というのは、これは、
究極的に不生であるということの異名なのだ。 それはなぜかと
いうと、スブーティよ、生ずることがないというのが最高の真理
だからだ。

( いよいよ存在論の核心部分が出てきました。
巻末の解説によりますと:
「真如」=「宇宙の万有に普遍的にゆきわたっている永遠の真理」
「生ずるということはないという存在の本質」
=「常住不変な存在の根本的真理という立場から見れば、
生起という現象はあり得ない。
 それが存在の本質(法性)だという
のである。」
つまりは、永遠の真理というのは、絶対に変わらない存在が
あるとすれば、生ずるということもあり得ない、ってことですかね? )

<18・b>
ガンジスの大河にあるかぎりの砂の数だけ、ガンジス河があり、
そしてそれらの中にある砂の数だけの世界があるとすれば、
その世界は多いであろうか。

これらの世界にあるかぎりの生きものたちの、種々さまざまな心
の流れをわたしは知っているのだ。 ・・・<心の流れ>
<心の流れ>というのは、流れではない」と如来は説かれて
いるからだ。 それだからこそ、<心の流れ>と言われるのだ。
・・・過去の心はとらえようがなく、未来の心はとらえようがなく、
現在の心はとらえようがない
からなのだ。

( この考えは面白いですよね。
砂粒のひとつひとつに世界があるってことですよね。
そして、ここにそれぞれ心ってものがある。
人それぞれに 心があって、そこにそれぞれの世界、ガンジス河が
あるってことですね。

「それぞれの原宿」なんて歌が昔ありましたね。
人の数だけ原宿はある、ってことかな?

解説には、「心の流れ」=「過去の経験に基づく意識、および無意識
の意識が、現在、未来に尾を曳いて、意識作用や行動を規定すると
考えて、そこに心の流れを見たのであろうか。」とあります。

確かに、人それぞれに連続した意識があって、それが自我という
もの、自分というものを作っているような思い込みがあるんですけど、
よく考えてみると、つかみどころ、とらえようがないですよね。 )

==その8へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「金剛般若経」を読む - 6  布教迫害は前世の因縁 ? 

本の表紙には、「般若心経 金剛般若経」とある岩波文庫の本を
読んでいます。中村元・紀野一義訳注です。

<14・e>
如来における忍耐の完成は、実は完成ではないのだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、かつて或る悪王が私の
体や手足から肉を切りとったその時にさえも、わたしには、
自己という思いも、生きものという思いも、個体という思いも、
個人という思いもなかったし、さらにまた、思うということも、
思わないということもなかった
からである。

スブーティよ、わたしはありありと思い出す。
過去の世に、五百の生涯の間わたしが<<忍耐を説く者>>という
名の仙人であったことを。 その際にもわたしには、自己という思い
はなかったし、個人という思いもなかったからだ。

( 解説にも「五百の生涯」ということの意味については、何も
書いてないので、そのまま読むしかないんですが、
これってかなりぶっ飛んでいませんか?
お釈迦様は過去に五百回も生まれ変わって人間をやったってこと
なんですかね??
その中で仙人だったことがあるって話??
初期仏教の時の本には そんな空想的な話はなかったと
思うんですけど、大乗仏教になるとえらく非科学的なところに
入って行くんでしょうか。 )

<14・f>
求道者は、生きとし生けるもののために、このような施しを
与えなければならない。
 それはなぜかというと、スブーティよ、
この生きものという思いは、思いでないということに他ならない
からだ。 

・・如来が生きとし生けるものと説かれたこれらのものどもは、
実は生きものではない。 ・・如来は真実を語る者であり、真理を
語る者であり、ありのままに語る者であり、あやまりなく語る者
であるからだ。

( 「施し」って言葉なんですが、「ブッダのことば」の時には
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/05/post-ea20.html
修行僧などに対する施し、托鉢に応えるというようなことは
あったんですけど、「生きとし生けるもの」への施しというのは
出てこなかったように思うんです。

それに、あくまでも初期仏教では「自力」との雰囲気が強かった
みたいなんです。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-742f.html
「ここでは、徹底した<自力>の立場が表明されている。 
仏は、人々を救うことができないのである。」ってあったんですね。

この辺りが、もしかして、自分だけが悟る小乗仏教と、
他も救おうという大乗仏教の違いになっていくのでしょうか。 )

<15・b>
この法門を、信解の劣った人々は聞くことができないからだ。
自己に対する執着の見解ある人、生きているものに対する執着の
見解ある人、個体に対する執着の見解ある人、個人に対する執着の
見解ある人々は聞くことができないからだ

求道者の誓いを立てない人々は、この法門を聞いたり、あるいは
取り上げたり、あるいは記憶したり、あるいは誦えたり、あるいは
理解したりすることはできない。 そのようなことわりはあり得ない
のだ。

( 法門というのは経典のことでした。 これを読むと、
大乗仏教としての教団としての、つまり初期仏教は「修行」という
雰囲気だったものが「宗教」団体という雰囲気に変わってきている
ように感じます。)

<16・b>
立派な若者たちや立派な娘たちが、このような経典をとり上げ、
記憶し、誦え、理解し、十分に思いめぐらし、また他の人々に
詳しく説いて聞かせたとしても、しかもそういう人たちが
辱められたり、また甚だしく辱しめられたりすることがあるかも
知れない。
これはなぜかというと、こういう人たちは前の生涯において、
罪の報いに導かれるような幾多の汚れた行為をしていた
けれども、
この現在の生存において、辱しめられることによって前の生涯の
不浄な行いの償いをしたことになり、目ざめた人の覚りを得るように
なるのだ。

( おおお~~、こりゃあ正に 若い人たちの宗教活動のことを
言っているみたいですね。 布教に対する迫害は、前世の報いだ、
なんてことを言っているわけですね。
結構やばい活動じゃないですか? )

==その7へ続く==

 

 

 

 

 

 

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2012年11月 4日 (日)

「金剛般若経」を読む - 5  原子も実存しないのだ   

本の表紙には、「般若心経 金剛般若経」とある岩波文庫の本を
読んでいます。中村元・紀野一義訳注です。

<10・a>
スブーティよ、どう思うか。 如来が、尊敬さるべき人・正しく
目ざめた人であるディーパンカラ(然燈)如来のみもとで得られた
ものが、なにかあるだろうか。

師よ、そういうことはありません。・・・得られたものは
なにもありません。

(この「然燈如来」について、解説を読みますと、
「然燈仏ーー過去世の仏で、釈尊が未来に必ず仏となるべきことを
予言した。 釈尊以前にあらわれたと伝説的に伝える二十四人の
のひとりともされている。」とあります。

おお、実に宗教的。 キリスト教にも、イスラム教にもでてくる
預言者ですねえ。 仏教にも預言者がいたんですね。

それに、仏教と言えばお釈迦様ひとりだけ、っていうイメージが
あったんですけど、ここには「過去仏」ということも出てくるし、
いずれは「未来仏」も出てくるんでしょうか。

「ブッダのことば」には このようにありました。
468 全き人<如来>は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸仏)
    と等しくして、平等ならざる者どもから遥かに遠ざかっている。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/05/post-ea20.html )

過去仏・未来仏のことは、
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-8f46.html

いよいよ、益々 宗教色が出てきますねえ。 )

<10・c>
求道者・すぐれた人々は、とらわれない心をおこさなければ
ならない。 何ものかにとらわれた心をおこしてはならない。
形にとらわれた心をおこしてはならない。 声や、香りや、味や、
触れられるものや、心の対象、にとらわれた心をおこしては
ならない。

<13・a>
スブーティよ、この法門は<<智慧の完成>>と名づけられる。
そのように記憶するがよい。 それはなぜかというと、
スブーティよ、「如来によって説かれた<<智慧の完成>>は、
智慧の完成ではない」と如来によって説かれているからだ。
それだからこそ、<智慧の完成>と言われるのだ。

(解説には「法門」=「経典」とあります。
漢文の読み下し文では、
「この経を名づけて金剛般若波羅蜜となす。」とあります。
つまり、「智慧の完成」=「金剛般波羅蜜」という経典です。

只、以前読んだ本には、「智慧という完成」と訳すのが正しい
という本もありました。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-57a1.html
般若波羅蜜多=智慧という完成。智慧の完成ではない。
       完成された状態であって、完成を目標とするものではない。

この辺りに来ると、一番人気の「般若心経」の内容が髣髴として
来ますね。 当たり前と言えば当たり前ですけど。 )

<13・c>
スブーティよ、どう思うか。このはてしなく広い宇宙
大地の塵は多いであろうか。

それは多いですとも。 ・・・
「如来によって説かれた、大地の塵は、大地の塵ではない」と
如来によって説かれているからです。・・・
「如来によって説かれたこの世界は、世界ではない」と
如来によって説かれているからです。
それだからこそ<世界>と言われるのです。

(解説では、「塵」について次のように書いてあります。
チベット訳は原子の意味に解している
クマーラジーヴァ始め多くの役者は「微塵」と漢訳している。
チベット訳というのがいつの時代の話か分かりませんが、
宇宙だの原子だのという言葉が出てくること自体、凄いことだと
思いませんか。
もっとも、漢訳では 「宇宙」=「三千大千世界」だし、
「原子」=「大地の塵」=「微塵」ですけどね。
おまけに、それらは実存しない、ってんですから。

最近の科学の世界で ダークマターってのが考えられていますが、
まだまだ実証されていない理論の段階だってことを考えれば、
お釈迦さんのこの仮説と同じ段階だってことになりませんか。 
要は、最先端の物理学が理解できない者にとっては
同じこと、ですよね。 信じるか、信じないかは・・・ )

==その6へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「金剛般若経」を読む - 4  あの世の話がでてきたぞ 

本の表紙には、「般若心経 金剛般若経」とある岩波文庫の本を
読んでいます。中村元・紀野一義訳注です。

<9・a>
世尊がいわれたーースブーティよ、どう思うか。
<<永遠の平安への流れに乗った者>>が・・・・

スブーティーは答えたーー「師よ、そういうことはありません。
永遠の平安への流れに乗った者が、<私は、永遠の平安への
流れに乗った者という成果に達しているのだ>というような
考えをおこすはずはありません。

・・・彼はなにものも得ているわけではないからです
・・かれは、かたちを得たのでもなく、声や、香りや、味や、
触れられるものや、心の対象、を得たわけでもありません。

・・というような考えをおこしたとすると、かれには、
かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに
対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着が
あるということになりましょう。

(ところで、今気づいたんですけど、この金剛般若経ってのは
以前読んだ初期仏教の「ブッダのことば」とは違って、
お釈迦様がその弟子に質問して、弟子がそれに答えるってかたちに
なっているんですね。
「ブッダのことば」の場合は、弟子がお釈迦様に質問して、
お釈迦様が答えるというかたちでした。

大乗仏教の場合は、弟子がブッダの考えを唱えてそれを
確認していくというプロセスになったということなんですかね。

この本の中には、お釈迦様のことをいろいろな言い方で表して
います。 「如来」「尊敬さるべき人」「正しく目ざめた人」
「師」「世尊」などです。
特に、神格化されている場合にのみ「世尊」とする、とあります。)

<9・b>
スプーティは答えたーー師よ、そういうことはありません。
もう一度だけ生まれ変わって覚る者が、<わたしは、もう一度だけ
生まれかわって覚る者という成果に達しているのだ>という
ような考えをおこすはずがありません。
それはなぜかというと、・・・なにもそういうものがあるわけでは
ないからです。

(「もう一度だけ生まれ変わって覚る者」ということばがあるんですが、
これは「斯陀含(しだごん)」と漢訳されていることばで「一来」と
意訳されると解説にあります。

小乗仏教の聖者の第二位のランキングらしいです。
「インドでは、覚った聖者は再び生をうけることがないと言われるが
斯陀含は、天か人かの世界にもう一度だけ生まれかわって覚り、
それ以後はもう死後に天か人かの世界に生をうけることがないのである。」
とされているそうです。

初期仏教の「ブッダのことば」には、こういうあの世の話や死後の
話などはなかったと思います。
こんなところも、大乗仏教の宗教らしいところがあるような気が
します。 それに、このような考え方が「浄土思想」の考えかたに
つながっていくのでしょうか。 )

==その5につづく==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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