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2012年11月17日 (土)

井上靖「天平の甍」を読む。-5 先輩留学僧と会う。それぞれの留学

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

四人の日本人留学僧の中で、普照はどう思っていたかというと。

p35
「日本へ帰りたいということだ。 日本がいちばんいいということだ。
日本でなければ、日本人は金輪際、ほんとうに生きるといった生き方では
生きることはできない。 
だれがなんと言ったって、これだけはほんとうだよ。」

「夏になると再び、最初渡唐の船中で彼を襲った懐郷病に取りつかれて、
すっかり元気をうしなって憂鬱になっていた。」

普照は実に弱気で、それでも日本国で選抜された留学僧なのか、と言いたいところ
ですが、「日本へ帰りたい・・・」というのは真実を言い当てているように
思います。  今みたいに電話も、インターネットも、テレビもない時代です
からねえ。

「ほんとうに生きる」という意味合いがとても深い言葉に聞こえます。
今私はフィリピンで生活しているわけですが、日本に帰りたいとは思っていなく
ても、「実感をもって生きている」かと問われると、実に怪しい。
海外に暮らすということは そういう思いがつきまとうものじゃないかと
思うんです。
いや、もしかしたら、それは出身地から東京に出た時から始まっている
感覚かもしれないんです。

p36
「遣唐使広成らの一行の帰国の時期が十一月と決定した。 ・・何年か前に
入唐してそれぞれ学業の研鑚を終え、こんどの船で故国へ帰るはずになっている
人々に会う機会が多くなった。」

ここで4人の留学僧は 先輩たちに会うわけです

玄昉: 龍門寺の義淵について唯識を学び、七上足の一人と称せられたほど
    すでに渡唐前から頭角を現し・・・
    足かけ十九年唐土にあった人物である。
    濮陽の智周について法相を学び、玄宗にその学才を愛され、
    位三品に准ぜられ、紫の袈裟を賜っていた。
    日本僧で紫の袈裟を賜ったのは彼ただ一人だという・・・

    玄昉が日本へ持ち帰る経論章疏は五千巻だそうだ・・・

    (戒融が言う)
    玄昉は行基とともに義淵の門だ。
    玄昉は入唐して・・・行基は日本で庶民の中にはいった。
    玄昉は法相を学んだ。 行基は病人に薬を与え、悩める者に祈祷を行った。
    玄昉は・・学才群を抜いて・・紫の袈裟をもらった。
    行基は乞食と病人と悩める者の先頭に立ち・・説法して歩いた

下道真備(しもつみち まきび):
    p39 二十四歳で入唐し、現在は四十一歳になっていた。
    長い唐土の生活が、彼を日本人よりむしろ唐人に近い印象にしている・・
    真備の将来品は、種々多様なものにわたっていた。
    
    真備といっしょに入唐して、現在は唐の官吏になっている
    阿倍仲麻呂の帰朝の噂も一時あったが・・立ち消えになっていた。

景雲: p41 今から三十年前単独で入唐し、三論と法相を学んでいたが、
    こんど遣唐船の帰国に便乗して日本へ帰るのだという・・・
    (つまり 私費留学生ってことになりますかね。)
    「わたしは三十年唐に遊んだが、たいしておもしろいことにも
    出会わなかった。 ・・・日本の田舎に住んでいたほうがましだった
    かもしれない。」
    老残の身を、唐土から日本へ運ぶだけが、現在の景雲の仕事らしかった。

業行: p42 法相の坊主。 
    二十何年か唐にいて、・・・寺を渡り歩いて経論を写している
    どこも見もしなければだれにも会っていない。
    ・・筆写本の数だけは膨大なものらしい・・・

    「いま日本でいちばん必要なのは、一字のまちがいもなく写された
    ものだ
と思うんです。 いまでもずいぶんいいかげんなものが将来
    されているでしょう」
    (つまり、中国から日本へ持っていかれた経典の写しには
     間違いが多いってことを言っているようです。)

この命がけの遣唐使の時代、留学僧といってもいろいろなタイプの留学の仕方、
考え方があったということでしょうか。
20年も30年も、通信手段のほとんどない時代に海外に住むということを
考えれば、当初の志なども、人生も、相当に変わってしまうものなんでしょう。

ところで、上記の玄昉の法相ですけど、こちらのサイトに

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97

「玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。」 とあります。

「存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、という研究が進められた。」 とありますから、大乗仏教ではなく小乗仏教のようですね。 日本にも小乗仏教がこのような形で入っていたというのが 私には新発見です。

しかし一方で、「面白いほどよくわかる。 仏教のすべて」という本によれば、法相宗は大乗仏教の一つで、「成唯識論」を中心として、万物唯識を説くものです、とも書いてあります。

どっちなんじゃ・・・

==その6へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月15日 (木)

「話し言葉には関係なく、意味を伝える漢字」 <その4>

NHKスペシャル「中国文明の謎」
第二集は「漢字誕生 王朝交代の秘密」からの発想なんですけど、
高島俊男著 文春新書「漢字と日本人」を読んでいます。

そろそろ、私の結論を書かないといけないんですけど・・・

言語の音声でコミュニケーションをするのか、
それとも言語の文字イメージでそうするのか、ってことですよね。

日本人は同音異義語を文脈で判断するってことでしたが、
本家本元の中国じゃどうなんだろうと思ってチェックしたところ、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E
本来の中国語の語は単音節であるため、必然的に多義語や同音異義語が多くなる。
このため、特に北方語において、「目」→「眼睛」、「耳」→「耳朶」、
「鼻」→「鼻子」などのように複音節化して意味を明確にしている

ということだそうで、文脈に頼らずその語彙で、その音で、ちゃんと
意味が特定できるように工夫してあるんですね。

ってことはですよ、音を聞いてそのまま理解できるってことですね。
つまり、日本人みたいに漢字のイメージを頭の中に浮かべて
比較する手間はいらないってことになりますか。

さて、話は飛んでしまいますが、右脳と左脳というのがありますね。

http://www.ne.jp/asahi/sound/therapy/html/healing_kaisetu_nou_no_tokusei.htm
このサイトによれば、
右脳=(音楽脳) 情緒・感情・図形・絵画・空間の認知
左脳=(言語脳) 言語・調査・分析・計算・知的作業・デジタル処理

しかしここでは、
日本人の右脳は『音楽脳』と呼ぶことが適切でない」としています。
外国人は音楽を右脳で聴くが、日本人は左脳を使っているということ
ですね。
そして、その左脳は、日本人であろうが外国人であろうが、
言語をつかさどる
ところだってことです。

そこまでは同じなんですけど、上記の音かイメージか、ってことに
なると、もしかして 日本人は漢字のイメージを処理するために
図形を処理する右脳も使っているんじゃないかって思ったわけです。

そこでインターネット検索でチェック。 ありました、ありました。

http://www.edu-cul.co.jp/column/column7.html
ひらがなやカタカナの読み取りでは,おもに左脳が働いています。ところが,
漢字の混じった文の読み取りになると,右脳も働きだして左脳と右脳がともに
働く状態(これを共働状態という)になります。こうなると,読書をする力も
高まると考えられます。
 実際,日本人の子どもは外国人の子どもと比べて読書力が高いといわれて
います。その原因は漢字にあるのではないかと考えている外国の研究者もいる
のです。

ひらがな・カタカナ = 左脳
漢字熟語・仮名交じり= 左脳
一字の漢字     = 右脳

これはどう理解したらいいのか?
ここでは、あくまでも「読み取り」なんで、音声による「聞き取り」では
ないのが難点なんですが・・・

「聞き取り」の場合にどっちが動くのか・・・ですね。

しかし、一般的には音声言語が「左脳」を使っていると考えていいでしょうから、
同音異義語が出てきた場合にその漢字を脳の中にイメージするってことで
言えば おそらく図形を司る「右脳」なんじゃないかと思うんです。

ここでさっきのサイトに戻ってみると、
http://www.ne.jp/asahi/sound/therapy/html/healing_kaisetu_nou_no_tokusei.htm
「母音一字にも言葉を当てはめられる」とは、あ=唖、い=意・胃・井・医、
う=鵜・羽・雨・兎、え=絵・江・餌・柄、お=尾・緒、などです。欧米語は
もとより、中国語・朝鮮語でも、母音一字にも言葉を当てはめられる例は、
ほんのわずかしかありません。

 なぜ「聞きなし」・「母音一字にも言葉を当てはめられる」というと、
日本人は、母音・社会音などを右脳で処理するのではなく、言語脳である
左脳で処理しているため、母音・社会音などを言葉として聞いているからです。
社会音とは、人の笑い声・鳴き声・いびき・ハミング・動物の鳴き声・小鳥の
鳴き声・波の音・せせらぎの音などの事です。

・・・要するに、ここでは一音を 日本人は左脳で聴いているってことですね。
そして、いわゆる雑音も音楽も左脳で聴いている。

このことが、上記の「一字の漢字=右脳」というのと矛盾するように
見えるんですが、これは「読み取り」の時だからと考えればいいんでしょうか。

「話し言葉」は基本的に音声であることを考えると「左脳」を使い、
「読み取り」の場合とは事情が異なると考え、特に日本語の同音異義語の判断には
「漢字のイメージ」を「右脳」で図形として区別していると理解すればいいんで
しょうかね。

もっとも、こういう日本人に特徴的な言語の理解の仕方が昔からあったかと
いうと、そうでもないらしいんです。

高島俊男著「漢字と日本人」にはこのように書いてあります。

本来、ことばとは人が口に発し耳で聞くものである。 すなわち、
言語の実体は音声である。 しかるに日本語においては、文字が言語の
実体
であり、耳がとらえた音声をいずれかの文字に結びつけないと
意味が確定しない。
・・・日本語は「顛倒した言語」であると言わねばならない。
・・・無論、ずっとそうであったのではない。 江戸時代の人たちが、
・・・などの文字を参照しなければ意味が確定しないものであった
はずがない。 顛倒した言語になったのは明治以降である。」

NHK番組に触発されて書いてきましたが、
結論らしきものは出せず仕舞いになってしまいました。

しかし、少なくとも、漢字という文字を借りてきて、大和言葉にあてはめて、
高度な概念を中国からも欧米からも取り入れて、その挙句に
左脳だけでは足りずに右脳まで活用することになってしまった
厄介な日本語であることだけは分かりました。

そして、そんな厄介な日本語を普通に使ってしまっている
日本人って どうよ。  ってことかな?
もしかしたら、新しい世界文化を生み出す源になるのかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月14日 (水)

「話し言葉には関係なく、意味を伝える漢字」 <その3>

NHKスペシャル「中国文明の謎」
第二集は「漢字誕生 王朝交代の秘密」からの発想なんですけど、
高島俊男著 文春新書「漢字と日本人」を読んでいます。

明治維新あたりからは、ご存じのとおり、脱亜入欧とこうことで、
中国よりも欧米に向いて、様々な概念が新しい漢字熟語が
つくられたわけですね。

そして、一方では、漢字をやめて、日本語をローマ字表記に
しようという動きも出た。

高島俊男さんは このようなことを言っています。

「いま日本人が、「権利」「義務」と言ったり書いたりする。
これは、形はたしかに日本語だが、その内容、その実質は
西洋語なのである。
 つまりこれらのことばは「形をかえた英語」
なのである。日本人の頭は、これらのことばを、西洋語の
意味でしか、考えることも使用することもできない。」

つまり、英語の Rightや Dutyという概念は西洋の
もの
であって、中国にも 権利とか義務とかいう言葉はあるん
だけれども、「権勢と利益」(財産)の意味であり、
「務民之義」は「人としての正しい道を実践する」という意味
であって、完全一致するもんじゃない、と高島さんは言っているわけ。

そして、今の日本人の頭の中はどうなっちゃったかと言えば、

「その語を耳にした刹那、瞬間的に、その正しい一語の文字が
脳中に出現して、
相手の発言をあやまりなくとらえるのである。」

「その最大のヒントになるのは、その語の出てくる文脈、
ないしは環境
なのである・・・・」

日本人にとって、ことばの実体は文字なのである。
音声は、それがおとすかげにすぎない。」

・・・ここは日本語教師として ヒジョ~~に大事なポイント
なんですよねえ。

よく「日本語会話を教えてください。 読み書きはいらないから。」
って話があるんです。
まあ、英語だったらそれでもいいんでしょうけど、
日本語はそうはいかないんです。

まあね、単なる挨拶程度、旅行日本語程度の話なら それもあり
ですけど、まともなコミュニケーションを目指す外国人だったら
「きちんと読み書きからやらなくちゃダメだよ。」
って話です。

さてさて、漢字を捨てちゃおうという話なんですけど、
「かな」派と「ローマ字」派があったらしい。

しかし、内部抗争ばかりで、漢字を倒すところまではいかなかった
そうな。

音標文字化すれば、以後の日本人は、それまでの日本人が
書き残してきたものをよめなくなる
が、明治のなかごろまでは、
そのことを考慮した者はほとんどなかった。 明治初めごろの
日本人は、それまでの日本のいっさいを、何の価値もないものと
思っていた。かえって日本へ来た西洋人のほうが、・・・
心配したくらいである。」

・・・もう、イケイケどんどん、って雰囲気だったんですね。

そして、これも有名な話ですけど、日本語をやめて英語に
しちゃえ、って言った人たちもいた。
それも時の文部大臣、森有礼ですよ。

「わが国の最も教育ある人々および最も深く思索する人々は、
音標文字 phonetic alphabet に対するあこがれを持ち、
ヨーロッパ語のどれかを将来の日本語として採用するのでなければ
世界の先進国と足並みをそろえて進んでゆくことは不可能だと
考えている。」と森大臣は書いたそうです。

これはトンデモナイと思うのが当然ですが、
そこには当時の教育という背景があったんですねえ。

「明治の前半ごろに教育を受けた人たちは、日本語の文章を
書く訓練を受けたことはなく、
もっぱら西洋人の教師から
西洋語の文章を書く訓練をきびしく受けたのであるから、
日本語の文章は書けないが、英語やフランス語なら自由に書ける
というのはごくふつうのことであった。
・・・明治前半ごろまでの日本語の文章というのは、それを書く
のに特別の訓練を要するものであった。 こんにちの日本人
が書くような、だらだらした口語体の文章というのはまだ
なかった。 文章は、話しことばとは別のものであった。」

・・・う~~~ん、これは知りませんでしたねえ。

私は今フィリピンに住んでいるわけなんですが、
以前からよく思ったんです。

「フィリピンは英語なしだったら、どうなってしまうんだろう。」

「共通語としてのフィリピン語が弱いから、フィリピン国内の
産業も伝統も根付いていかないんじゃないか。」

・・・まったくもって、ついこの前、百年ちょっと前の話ですよ。
たったの3~4世代前の話です。

その頃の日本と同じような状況だったってことじゃないですか。

フィリピンの場合は、スペインの植民地時代が 330年ほど
アメリカの植民地時代が 50年弱、日本の占領時代が3年半強
ですからね。
その度に言語が移り変わったわけでしょう。
今現在だって 公用語は英語とフィリピン語ですし、
裁判所なんて英語で、現地語との通訳付きですからね。

では、この続きは<その4>で・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「話し言葉には関係なく、意味を伝える漢字」 <その2>

NHKスペシャル「中国文明の謎」
第二集は「漢字誕生 王朝交代の秘密」からの発想なんです。

2008年に読んだある本のことを思い出したんです。

高島俊男著 文春新書「漢字と日本人」
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101797684

ここに短い感想文を書いたんです:
まるで 講演会を聴きにいったような 面白くて分かり易い、おまけに 
内容もギッシリの絶品です。  売れ行きが絶好調であるのも納得。  
外国人に日本語を教える人には 是非読んでいただきたい貴重な一冊です。
にほんの言葉の音をあらわすためだった漢字の輸入が、いつのまにか
意味をあらわす漢字へと変遷し、 その意味というのも中国ではなく
西欧での概念の輸入であったというのは・・・。不憫な日本語が 
いっそう可愛くなりました。 

・・それで、我が本棚を見たら、まだ置いてありました。

この本になかなか面白いことが書いてあるんです:

「ただし日本の漢字は別ですよ。これは、まるで氏素性のちがう
漢語というよその言語から文字を借りてきて日本語のなかで
つかっているのだから、たいへんに難しい。
「十一月の三日は祝日で、ちょうど日曜日です。」
こんなむずかしい文章を日本人は毎日のように相手にしている。
・・・これを日本人は一瞬にして判断し、よみわける。
・・・世界でもめずらしい天才人種に相違ない。」

つまり、日=「カ」「ジツ」「ニチ」「ビ」の四つの読みがあるのに、
それを簡単に読み分けている日本人って、もしかして天才か?
っていっているわけ。

漢字を、その意味によって直接日本語で読むことにした
たとえば「山」という字、これを音でサン(あるいはセン)と
よんでいたのであるが、この字のさすものは日本語の「やま」
に相当することあきらかであるから、この「山」という漢字を
直接「やま」とよむことにしたのである。
これは相当奇抜な所業であり、また一大飛躍であった。」

今の我々にとっては、「山」という漢字を「やま」と読むことは
あったりまえの前ぐらいなんですけど、この著者はこのように
その凄さを書いているんです。

なぜかっていうと:

「ここに mountain という英語がある。 それはマウンテンと
よんで山のことだと皆さん習っていらっしゃるだろうが、えいご
の mountain を直接「やま」とよむことにしよう
dog を「いぬ」と、 cat を「ねこ」とよむことにしよう、
となったら、これは相当奇抜で飛躍的でしょ?
そういう大胆な、見ようによってはずいぶん乱暴なことをやった。」

例えて言うとすれば、

There are many dogs and cats in the mountain.

でぇあ ら~ めにー どっぐす あんど きゃっつ いん 
ざ まうんてん

という英語の文があったとしたら、これを、

でぇあ ら~ めにー 犬 あんど 猫 いん ざ 山。

あるいは、逆にすれば、

the mountain には dogs や cats が たくさんいるんだよねえ。

・・・ってな感じ?
まあ、英語を見て、聞いて、いきなり 同時通訳をやるような
感じじゃないっすか?

そして、同音の漢字の使い方についても、著者はなるほどと
言うことを書いているんです。

「「とる」というのは日本語(和語)である。 その意味は一つ
である。 日本人が日本語で話をする際に「とる」と言う語は、
書く際にもすべて「とる」と書けばよいのである。 漢字で
かきわけるなどは不要であり、ナンセンスである
。」

なんのことかと言いますと、「とる」という漢字は
「取る」「執る」「取る」「捕る」「採る」「摂る」
いろいろたくさんあるけれども、元々和語なんだからひらがなで
書くのが本来的に正しい、ってことなんです。

いいねえ、文部科学省さん、頼むよ!!

そして、本居宣長が書いたある文章について、こんなことも、

日本語だけの文章というのは平安女流文学ぐらいしかないから
その方式でゆくほかないわけだが、あれは女が情緒を牛のよだれ
のごとくメリもハリもなくだらだらと書きつらねたものだから、
あの方式でガッチリした論理的な文章を書くのは無理なのである。
つまりは、千年にわたって一度も日本語の文章を構築しようと
しなかった日本の男たちの罪なのである。」

と言っています。
要するに、漢語漢字に頼り過ぎて、和語の発達が止まってしまった
ということなんです。

この問題は、和製漢語が出てくることによって解決されたようです。

そして、明治維新以降に 大きな変化が出て来たんです。

1. 漢字の大量使用
2. ローマ字使用の動き

「一つは、漢字の大量使用である。 ・・・耳できいても意味が
確定しない、字を見なければわからないことばが大量にうまれた。
もう一つは、・・・すべてかななりローマ字で書きあらわすことに
して、漢字を廃止しよう、とするうごきである。」

・・・では、続きは<その3>で、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月13日 (火)

「話し言葉には関係なく、意味を伝える漢字」 <その1>

NHKスペシャル「中国文明の謎」
第二集は「漢字誕生 王朝交代の秘密」だった。

http://www.nhk.or.jp/special/china-civilization/index.html

一言でいうならば「表意文字」が異なる「話し言葉」を連帯させた
と言うことじゃないでしょうか。

一応日本語教師歴10年になるので、興味深かったということも
あるんですが、ちょっとこのことを考えてみたいと思います。

「話し言葉には関係なく、意味を伝える漢字」

英語などの多くの言語を表記するには、いわゆる「表音文字」で
あるアルファベットなどを使っているわけですけど、
漢字は象形文字みたいに 文字の一つ一つが意味を持っている
「表意文字」なんですね。

NHKの番組では、中国の各地でそれぞれに言語があって、
話し言葉は全く異なる言語であったのに、漢字でその言葉を
表記することが出来た。 それは漢字が表意文字だったからだ

としているわけです。

私には中国のことは分からないので、日本の場合どうだったのかを
考えてみます。

日本語という言語については、こちらのサイトで概観しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E

日本語は漢字、ひらがな、カタカナの三種類の文字があって、
漢字には音読みと訓読みがある。
もちろんこれは常識ですけど。

興味があるのは、これがどのような歴史を辿ってきたのか、です。

まず元々 日本に文字が入ってくる前の日本語というのは
どういう言語だったのか、という疑問があるんですが、
上記のサイトの中に次のような説がありました。

「琉球列島(旧琉球王国領域)の言葉は、日本語の一方言(琉球方言)
とする場合と、日本語と系統を同じくする別言語(琉球語ないしは
琉球諸語)とし、日本語とまとめて日本語族とする意見があるが、
研究者や機関によって見解が分かれる。」

毎日新聞のサイトによれば:
http://mainichi.jp/opinion/news/20121102k0000m070154000c.html
定説は、「縄文人が住む日本列島に弥生人が渡来。遺伝子が混じりあったが、
北海道と沖縄ではその度合いが少ない」。最近、日本のチームが発表した
アイヌ民族と琉球の人が遺伝的に近い」という論文もこの説を支持して
いる。
・・・と書いてあります。

他にもいろいろな日本語のルーツの説がありますが、
DNAの研究などからは縄文人はアイヌや琉球人に近いとの説も
あるので、おそらく元々の日本語というのは琉球やアイヌの言語
のようなものだったのでしょう。

もちろん、その後弥生人と呼ばれる人たちが入ってきてから
いろいろと変化があったのでしょう。

弥生時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
およそ紀元前3世紀中頃(この年代には異論もある)から、紀元後3世紀
中頃までにあたる時代の名称である。具体的には、稲作技術導入に
よって日本での水稲耕作が開始された時代である

中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。近年、DNAの研究が
進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、山東省付近から来た
と言われている。更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることが
できるという調査結果がある

以上のように弥生人も中国から来たようですね。
当然 中国語も混じったのでしょうね。

また、上記のサイトの日本語の歴史の部分には以下のように
書いてあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E
外来の音韻
漢語が日本で用いられるようになると、古来の日本に無かった合拗音
「クヮ・グヮ」「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の音が発音されるように
なった。
漢語は平安時代頃までは原語である中国語に近く発音され、日本語の
音韻体系とは別個のものと意識されていた。

・・・つまり、漢字を読む時に中国語の発音で読んでいたってことですね。
さらに次のような記述もあります。

漢語の勢力拡大
漢語(中国語の語彙)が日本語の中に入り始めたのはかなり古く、
文献以前の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる
「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、元々は漢語からの借用語

あった可能性がある。
当初、漢語は一部の識字層に用いられ、それ以外の大多数の日本人は
和語(大和言葉)を使うという状況であったと推測される。

・・・もちろん、弥生人と呼ばれる人たちが入ってきた段階から、
漢字が日本の歴史的文書などに表れる前から、大和言葉に中国語の
影響があったのは否定は出来ないことだと思います。

さて、いよいよ漢字、ひらがな、カタカナの話に入るんですが、
一般常識を復習してみます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E
仮名の誕生
元来、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには
中国渡来の漢字を用いた。

漢字で和歌などの大和言葉を記す際、「波都波流能(はつはるの)」
のように日本語の一音一音を漢字の音(または訓)を借りて写す
ことがあった。

・・・要するに、漢字の中国語の音を、大和言葉の話し言葉に
ひとつひとつ当てはめて書いたってことですね。

だから、ある特定の漢字を特定の大和言葉の音にあてはめると
いうことがあったわけでもなく、人によっては異なる漢字を
使ったようです。

漢字の音を借りただけで日本語を書いていた。
これは、ローマ字の音で 日本語を書くのと同じってことに
なりますね。

その「万葉仮名」を崩して「草仮名」となり、さらに「平仮名」
になって、日本語の音を自由に書けるようになったようです。
この平仮名はもっぱら女性たちによって使われたという話で、
一方 男ども、坊さんや学者たちが漢文を訓読する時に
助詞などを書き足して読んでいたのが、「片仮名」に発展した
ということでした。

・・・まあ、同じく音を表す文字なんだから、「平仮名」と
「片仮名」はどちらかひとつがあればよさそうなもんですけどね。

もっとも、今現在、外来語をカタカナ表記するのになれて
しまった日本人としては、カタカナがなくなって、外来語が
全部ひらがなで書いてあったら、読みにくくってしょうがないん
でしょうけど。

さて、短いつもりが かなり長くなってしまったので
<<その2>>で続けますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本語教師症候群 - 「トリ(鶏)」丸ごと? と 「肉」切り身 ?

二日前だったか、NHKのバラエティー番組をなにげなく
見ていた。
料理に関する話の中で ゲストの男性が肉の話をしていた。

「トリ(鶏)じゃなくて 肉を・・・」

おやっと思って聞いていると、やっぱり「トリ(鶏)」と「肉」と
言っている。

私の常識的な感覚では、「鳥」とくれば「豚」とか「牛」とかが
くるはずだ。

「鶏肉」「豚肉」「牛肉」ですよね。

肉の種類の別を言っているんであれば そうなるはず・・・

もし「肉」と言うんだったら 「魚」との比較なんじゃないか

しかし、ふと考えた。

「魚」だって「肉」をつけて「魚肉」って言うじゃないか

そう考えれば、比較する場合は
「魚肉」「鶏肉」「豚肉」「牛肉」だから
「魚」「鶏」「豚」「牛」と言うべきなのか ?

なぜ、 「魚」VS 「肉」 という常識でなくてはならんのだ?

「魚」は丸ごとで売られていることが多い動物で、
「鶏」「豚」「牛」は 切り身になっていることが多いからか??

丸ごとの「魚」の形を残しているから「魚」であって、
「鶏」「豚」「牛」はその外形を留めていない「切り身の肉」
なってしまっているから、「魚」VS「肉」という分け方に
なるんだろうか。

それとも、「海」VS「地上」の動物の区分から来ているのか。

とすれば、テレビの男性ゲストのあの区別の仕方はなんなのだ?

「鶏」と「肉」 ??

「鶏」 VS 「肉」(豚肉と牛肉?)

もしかして、あの男性の家では、「鶏」はいつも「丸ごと」で
喰っているのか?

「豚肉」と「牛肉」は「切り身」になっているが、
男性の食卓には「鶏」が 丸ごとテーブルに載っているんじゃないか。

あるいは、あの男性ゲストの常識では 「牛肉」しか「肉」と
呼んでいないのではないか。

「肉」と言えば「牛肉」というのが当たり前のお金持ちの家庭
なのではないか。
鶏肉も豚肉も喰ったことがない 上流家庭のお育ちなのではないか。

それなら「鶏」と「肉」というカテゴライズも分からないではない。

あなたのご家庭では どう呼んでいますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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井上靖「天平の甍」を読む。-4 もらえるだけ もらってしまえ!

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

中国の土地を踏んだ4人の留学僧は その後どうなっていくのか。

p28
「洛陽にあって唐政府に委託された留学生や留学僧たちは、その
勉学の目的と希望とを斟酌されて、それぞれ適当なところへ
配されていた。 普照、栄叡、戒融、玄朗の四人は大福先寺
入れられた。・・・普照はここに・・・高僧定賓がいることを
知っていて、定賓について法を受けようと思っていた。」

p29
「日本の若い僧侶たちはこの寺にはいって間もなく、この寺が
訳場としては大きい歴史を持っていることを知った。
・・・義浄は・・・の翻経をここで行っていたし、・・・
善無畏が、ここに住して「大日経」を訳したのもほんの
十年ほど前のことであった。」

p30
「留学僧の生活は比較的自由であった。 普照らはまず
当分会話を覚えることに専心した。 戒融だけは、どこで
覚えたのか、唐語をしゃべることができた。」

やはり、留学の基礎は外国語なんですねえ。
当たり前じゃあるんですけど、経典を写したり、翻訳したり
することを期待される訳ですもんね。
日本にはない最先端の宗教、文化を日本に持って帰る任務ですから。
余程の秀才でなくちゃ出来るこっちゃないですね。

そして、この4人が見た中国は、

「普照と栄叡と玄朗の三人は、・・・眼に触れるすべての物が
驚愕と讃嘆の材料であった。三人の若い僧には日本という国も、
奈良の都もひどく小さく貧しく思われた。

p31
「(戒融は)おれは唐へ来て初めてみたのは餓えている人間だ。
おまえも見たろう。蘇州へ上がってから、毎日のように餓えた
難民ばかり見た。
いやというほど見せつけられた。」

「あれだけの難民がいたら、日本ならたいへんなことになる。
この国では雲が流れるように、黄河の水が流れるように、
難民が流れている。 まるで自然現象の一つのようじゃないか。
経典の語義の一つ一つに引っかかっている日本の坊主たちが、
おれにはばかに見えてきた。
きっと仏陀の教えというものは、もっと悠々とした大きいものだ
と思うな。・・・」

まるで対照的な見方なんですね。
何故難民がいたかというと、
「前年は、夏前の旱魃と秋の霖雨のために、作物は実らず、
・・・・何十年にもない飢饉だということだった。」

栄叡は・・
p34
「おれはこの国は いまがいちばん絶頂だなと思った。
これがいちばん強いこの国の印象だ。 ・・・学問も、
政治も、文化も、何もかもこれから下り坂になっていくのではないか。
いまのうちに、おれたちはもらえるだけのものをもらって
しまうんだな。・・・恐ろしく多勢の人間が生きているな。
・・・生きものの意志で、食って、寝て、生きているな。」

もう随分前の話なんですが、私が初めて中国にパックツアーで
行った時の印象。
その時は、西安やら敦煌あたりに行ったんです。
古いお寺や石窟などを見て、いわゆる西域と呼ばれる広大な
ユーラシア大陸の入口みたいな場所に立ったんです。

その時思いました。
そうか、シルクロードから、このずっと西から、そしてそのまた
ずっと南のインドから、仏教が何世紀もかけて中国にやってきて、
ここからず~~っと東の端っこの日本にまで伝わっていったのか。
日本って本当に野蛮人の住む、東の端、極東だったんだなあ
中華思想なんていいますよね。
中国が世界の中心だ・・・なんてことが外国人の私にでも
実感できるような場所でした。

さて、今の中国と今の日本はどうなんでしょう
「今のうちにもらえるだけのものをもらってしまおう」なのか、
「ひとつひとつにひっかかっている」のか、
「悠々としている」のか、
「生きものの意志で 生きている」のか。

私は出来ることなら泰然自若で、高い文化の、悠々とした日本
あって欲しいと思っているんです。

ところで、この小説、映画にもなったんですねえ。
http://movie.goo.ne.jp/movies/p19057/story.html

小説のストーリーと映画ではちょっと違うところもあるんでしょうが、
楽しみましょう。

==その5へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月11日 (日)

井上靖「天平の甍」を読む。-3 奈良ー博多ー蘇州 遣唐使船

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

さて、いよいよ遣唐使の出発です。
天平5年(733年)

p15
「四月二日早暁、広成らは憶良の歌にある難波津へ向けて、
奈良の都を立った。 一行の大部分はすでに出航地難波津に
集まっていて、・・・普照、栄叡らもこの一団の中にいた。」

p17
「船着き場には異変が起きていた。 切岸にはかなりの距離を
おいて四艘の大船がつながれ、見送り人や見物人がそのあたりに
ひしめき合っていた。・・・縄張りの中だけでも二千人ほどの
人間がいるであろうか。 女の多いのが目立っている。」

「四艘の船は、いずれも長さ十五丈(一丈=約3m)、幅一丈余の
大船で、百三、四十人の乗員ならそう窮屈ではなく収容できる
大きさだったが、・・・」

そしてその四艘なんですが、どのように分乗したかっていうと:

第一船: 大使広成
第二船: 副使中臣名代
第三船: 判官、普照、栄叡、戒融、玄朗
第四船: 判官

そして、どんなものを積み込んでいたかといいますと、
p18
「どの船もそれぞれ百五十人近い人間と、それらの食糧と、
滞在費に充てる物資と、衣料、医薬、雑貨の類と、それから
唐の朝廷へ献ずる莫大な貢物とを満載していた。」

出航してからは、瀬戸内海を通り、博多湾が国内の最後
寄港地となっていたようです。

p19
「第六次以降の(遣唐使の)三回はいつも大津浦(博多湾)を
立つと西航して、壱岐海峡を過ぎ、肥前値嘉島に出て、そこから
信風を得て一気に支那海を横断、揚子江を中心とする揚州、
蘇州の間のどこかへ漂着するという方法がとられていた。」

003

(地図の中国側、揚州のちょっと下に蘇州があります。)

「漂着」ですもんねえ。
風任せってことですよね。
そりゃあ遭難だってします。

ちなみに、肥前値嘉島というのは長崎県・五島列島です。
http://www.gotokanko.jp/kentosi.htm

ところで、第三船に出た新たな名前の二人ですけど、
この留学僧はどんな人物かと言いますと:

p20
戒融は一人だけ発航当日に大津浦(博多)から乗り込んで
来た筑紫の僧侶で、普照と同年配であったが、大がらなからだの
どこかに傲慢なものをつけていた。
玄朗のほうは二つ三つ若かった。玄朗は紀州の僧で、ここ一年
ほど大安寺に来ていたということだった・・・容貌も整っていて、
どことなく育ちの良さがその言動の中に感じられた。」

p21
「普照には・・・(戒融が)留学僧に選ばれるほどの何もの
かを持っている人物とは思えなかった。いかにも筑紫あたりの僧侶
でも持ちそうなあかぬけのしないものをその風姿に付けているのが
感じられた。」

まあ、一応このような人物像にはなっているんですけど、
戒融と玄朗は、インターネットでこの二人の名前を検索してみても
この小説の中に出てくる名前以外には 歴史資料としての
ヒットはありませんでした。
インターネットだけでは史実かどうかは確認できません

さて、外海に出た四艘の遣唐使船ですけど、どうなったかと
いいますと:

p24
二十一日めの夜、海上には深い靄が立ち込め、そのため船は
航行が困難となり、碇を降ろして一時停止することになった。
その夜を最後として、以後第一船も第四船もその船影を認める
ことができなくなった。 このころから乗員には水三合、糒(ほしい)
一合が一日の食糧として配給されることになった。」

p25
四十何日目に初めて激しい暴風雨に見舞われた。
それまでも何回か小さい暴風雨には襲われていたが、そのときの
ような大きいのは初めてであった。・・・海水が滝のように
船内に落ちてきた。」

そして、留学僧たちが口走るのです:

戒融: 「死ぬのはごめんだということをな。犬死はいやだ
     ・・・人間はけっきょくは自分だけだ・・・」

栄叡: 「こうしたことを、いままで多勢の日本人が経験して来た
     ということを・・・そして何百、何千の人間が海の底に
     沈んで行ったのだ。
・・・一国の宗教でも学問でも、
     いつの時代でもこうして育ってきたのだ。
     たくさんの犠牲によってはぐくまれてきたのだ。
     幸いに死なないですんだらせいぜい勉強することだな」

p26
「普照には、身をかがめるようにして口もきけないでいる玄朗が、
いちばん素直な、真実の姿であるように思われた。」

p27
「普照自身の心は・・・もう何年も、毎日のように色欲との
陰惨な闘いがのべつに彼をとらえていた。 ただ、現在はそれが
死の恐怖にかわっているだけの話だった。」

もし私がこの船に乗っていたら、船酔いだけで死んでいるかも。

気持ちとしては、玄朗と普照の中間くらいでしょうかね。

この部分は創作でしょうが、いずれにせよ国費留学生として
選ばれた僧侶たちは行きも帰りもこのような悲愴な決意で
海を渡り、中国本土に骨をうずめることになるかもしれない
十年以上の留学をしたということですね。

「第三船が大陸に近い小さい島々で順風を待つためにいたずらに
日を重ねて、ようやくにして蘇州へ漂着したのは八月であった。
筑紫の大津浦(博多)を出てからじつに三か月間以上船は海上を
漂っていたわけであった。
他の三船も同じ八月に相前後して蘇州海岸に漂着した。」

しかし、この第九次の四艘は幸運だったんですねえ。
こちらのサイトでみると結構 難破しているようですよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF

詳しいサイトは こちらにもあります。(地図あり)
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0510.htm

==その4へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

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井上靖「天平の甍」を読む。-2 留学するって どういうこと?

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

第九次遣唐使の話が小説というより歴史書のように始まります。

005

大使 多治比広成(たじひのひろなり)文武朝の左大臣の第5子
副使 中臣名代(なかとみのなしろ)中臣鎌足の弟の孫

判官4名、録事4名

知乗船事、訳語、主神、医師、陰陽師、画師、新羅訳語、
奄美訳語、卜部 などの随員

都匠、船工、鍛工、水手長、音声長、音声生、雑使、玉生、
鋳生、細工生、船匠、などの規定の乗務員

水手、射手、などの下級船員

総員580余名、とあります。

これらの人員が4隻の船に分乗し、命がけの渡航をするわけです。

上の職業名の中で 興味を引くのは「訳語」ってやつです。
通訳ですよね。
もちろん中国の唐に行くわけなんで、その当時の中国語が必要
なんですが、その他に「新羅訳語」さらには「奄美訳語」って
あるのが面白いですね。
沖縄方面には、今でも島ごとに地域の言語がたくさんあるそうです。
フィリピンにも島ごとに多くの言語があって、事典によれば
「おそらく100以上。 主な言語だけでも10くらいはある。」
とされていますから、日本の国内も含めて、当時の言語事情は相当に
複雑だったのでしょう。

p8
「もともと時の政府が莫大な費用をかけ、多くの人命の危険をも
顧みず、遣唐使を派遣するということの目的は、主として
宗教的、文化的なもの
であって、政治的意図というものは、
もしあったとしても問題にするに足らない微少なものであった。
・・・この時期の日本が自らに課していた最も大きい問題は、
近代国家成立への急ぎであった。」

「聖徳太子によって律令国家としての第一歩を踏み出してから
まだ九十年、仏教が伝来してから百八十年、・・・やっと外枠が
できただけの状態で、・・・」

私がこの本を読もうと思った理由は、この「仏教伝来その後」の部分に
興味があってのことなので、読み方がちょっと偏ってしまうかと
思いますが、お許しを。

p9
「大安寺の僧普照(ふしょう)、興福寺の僧栄叡(ようえい)とに、
思いがけず留学僧として渡唐する話が持ち出されたのは、(733年の)
二月の初めであった。」

「栄叡はからだが大がらで、いつも堅い感じのごつごつしたからだ
を少し折り曲げて猫背にしており、顔には不精髭をはやしている
ことが多く、一見すると四十歳近くに見えたが、まだ三十歳を過ぎた
ばかりであった。
普照のほうは栄叡よりずっと小がらで、貧弱なからだを持ち、
年齢も二つほど若かった。」

p13
「栄叡は美濃の人、氏族詳かならず、興福寺に住す。
機そう神叡にして論望当たりがたし、瑜伽唯識(ゆがゆいしき)
業となす。」

(瑜伽唯識: 瑜伽論=<心をととのえ主観と客観を一体にすると
するもの>、 唯識論=<万法は心の所現なりとするもの>)

「普照については、興福寺の僧であり、一に大安寺の僧だった
とも言われていたというはなはだたよりない一事だけが、
われわれに残されている。」

p14
「すなわち普照の母は白猪氏で、名は与呂志女、・・正六位上
から従五位下を賜っている。白猪氏の祖は百済の王辰爾の甥であり、
その一族には外国関係のことに携わった者が多いことが知られている。」

な~るほど、朝鮮半島にルーツを持つ外交関連の家柄なんですかね。

さて、ここに出てくる二人の留学僧がいわば主役になるわけですが、
この他にも何人かの留学僧が出てきます。
それはおいおい。

この二人に、どんな指令が下ったのかと言いますと、
p10
「日本ではまだ戒律(仏弟子の非道徳な行為を防止する法律)が
そなわっていない。 適当な伝戒の師(戒を伝え授ける師僧)を
請じて、日本に戒律を施行したい
と思っている。」

この任務を遂行するためには、
「普照が入唐の話を承諾する気になったのは、十数年という
長期にわたる唐土の生活が許されるということであった。」

つまり十数年かけて立派なお坊さんを日本に連れてこいってわけです。
いやまあ、なんとも気の長い話じゃありませんか。
今時なら電話一本? メール一本?

それで、この頃の日本の僧たちの状況がどうだったかと言いますと。

p12
課役を免れるために百姓は争って出家し、流亡していた。
・・・問題は百姓ばかりではなかった。 僧尼の行儀の堕落
はなはだしく、為政者の悩みの種になっていた。 ・・・仏教に
帰入した者の守るべき規範は何一つ定まっていず、・・・」

p13
「まず唐よりすぐれた戒師を迎えて、正式の授戒制度を布くことである。
・・・仏徒が信奉する釈迦の至上命令をもってこれに臨むほかは
なかった。」

まあ、以上のようなことが 留学する僧侶たちに期待された
成果であって、その当時の日本の状況だったわけです。

留学というのは、ここでは公費留学ですから、
まさに日本という国の将来を担う仕事であったわけですね。

==その3に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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計画完全停電を 低電圧でしのぐってことも ありかな?

今日はいきなりの停電
8pmから 現在も停電中・・・
ソファでこっくりこっくり。

只今9:25pm。 
半分停電中ってことがあるんだなあ。

復旧したかと思ったら、電圧が足りず 一部のものしか点灯しない。

蛍光灯はダメだが、白熱球は ぼんやりと点灯した。

旧式は強し。  
何故かテレビもついた・・・

パソコンは充電中の表示がでている。

インターネットは・・・やっぱダメ。

10:30pm。
またまた、完全停電
すべてが消えて、ついているのはバッテリーで作動する
パソコンと電燈、ラジオ。 それに蝋燭のみ。

しかし、考えてみると、
電圧を落としての急場しのぎってことが可能なんですね。

日本なんかも、電力不足が懸念される昨今、
この低電圧でのインフラ整備ってのをやったらどうなんでしょうね。
元々 日本は電気の使い過ぎですけどね。

フル電圧での電力供給はできないけど、
低電圧で市民生活の最低ライフ・ラインを確保するってのはどうですか

ちなみに、今回の低電圧供給の間に助かったのは、
私の下宿、家庭であれば、トイレの白熱電球と 情報を得るのに必要な
テレビが復活したことでしたけど。

今後も原発問題やら自然災害などが特に懸念される日本ですからね。
低い電圧でも作動する電化製品ってのはいかがですか。

通常の電圧モードから 低い電圧モードへの切り替えができる製品とかね。

低い電圧でも 通信手段、特にインターネットや スマホなんかが
使えれば助かりますよね。

半分停電でも 暇つぶしはできるし、不安・不満は解消できるしね。
命に係わる医療機器なんかが低電圧モードで使えるようにできれば
計画停電で右往左往しなくても良くなるんじゃないっすかね。

あとは、専門家にお願いします。

 
ただ今11pm。
パソコンのバッテリー残量は・・・86%、4時間13分です。

23:05pm。
おお、やっと完全復活です。

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリピン バギオ 計画停電 突然の停電 一部停電 低電圧 対策 対応 急場しのぎ

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