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2012年11月23日 (金)

我が故郷の 晴れ姿 ・・・・ Sasebo City, Nagasaki, Japan

NHKのニュース番組で こんな映像が流されていました。

003

One of the Top in the World.

006

from NHK news program.

009

昔はなんども経営破綻に陥った ハウス・テンボス。

http://www.huistenbosch.co.jp/event/hikari_2012/

012

やっぱり、経営のやり方、経営者というのが大切なんですね。

014

ふるさとは・・・

017

遠きにありて 思ふもの・・・

018

そして悲しく・・・・・

023

うたふもの ・・・・・

室生犀星の詩:

http://www.mm-labo.com/culture/WiseSaying/ha/furusatohatookiniariteomoumono.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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井上靖「天平の甍」を読む。- 15  鑑真 沖縄へ渡る、しかし・・・

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

いよいよ鑑真が日本へ渡る時がきました。

p155
河岸の暗闇の中を何人かの人々が近づいて来る気配がして、・・・・
二十四人の沙弥であった。・・こんどは鑑真らの一行がやって来た。
・・闇の中から「照」と和上の声が応じて来た。
普照はその声のほうに近寄って行って、師の手をとった。
・・・普照は感動のあまり一語も口から発することはできなかった。

p156
鑑真といっしょに日本へ向かうために大江を下るのはこれで三回めであった。
・・・最初のときからは十年、二回めのときからは六年の歳月がたっていた。

p157
普照は三年の歳月が和上の顔を老いたものにしているとばかり思いこんで
いたが、鑑真はむしろ若々しい顔になっていた。
両眼は明を失していたが、そこには少しも暗いじめじめしたものはなかった。
・・・六十六歳の鑑真の顔は静かな明るいものになっていた。

p158
黄四浦に着くと、一行はすぐ将来品の詰まっている箱を、第二船と第三船
に積み込む仕事に携わった。
将来する仏像は主なものだけでも阿弥陀如来像、彫白栴檀千手の像、
繍千手の像、救世観音像、薬師像、弥陀像、弥勒菩薩像等があった。

経巻類に至っては、その数は膨大なものであった。・・・・

(・・・でその経巻類の中に 玄奘法師の「西域記」の名前もあります。)

ここでいよいよ日本へ持って行く荷物を積み替えて、大海へ乗り出すわけです。

それで、船の割り当てなんですけどね、
第一船: 大使清河、 鑑真及び従僧14人 ==>第二船へこっそり移動
第二船: 大友古麿、 業行と普照 ==> 第三船へ鞍替え(経典なども)
第三船: 吉備真備、10人の同行者、
第四船: その他

そして、この発表の時に、あの玄朗からの便りが来たんです。

「約束しながら禅智寺へ連絡しなかったことを詫び、帰郷の情耐え難いものが
あるが、何分にも虫のいい望みと思うので、自分は自分らしく唐土に
果てる
つもりであるといった意味のことが簡単にしたためられてあった。」

そして、玄朗を説得しようと普照が揚州にもどっている間に
遣唐使船ではごたごたが起きていたんです。

p162
使節団の幹部の中から意見が出て、・・・役人が鑑真一行の渡日を知り、
船を捜索して鑑真らを船中にとらえるようなことがあれば、遣唐使船で
あるだけに問題はうるさくなる。
・・・この際和上並びに衆僧を下船せしめるにしかずということになった・・・

そして、ここでも又、鑑真たちを救ったのは大友古麿だったんですねえ。

p162
古麿はまったく独断でひそかに自分の船に鑑真ら二十四人を収容した。
・・・普照と業行は古麿の第二船に乗るはずであったが、第二船の人員が
多くなったので、第三船の吉備真備の船に鞍替えさせられていた。

そして、ここでまたまた業行がトラブルを起こしたんです。
要するに自分が人生をかけて写経したものと同じ船じゃないと
絶対にダメだって言ったわけです。
それで、無理を通して経典類を第二船から第三船に移し替えたってことです。

調整後の船の割り当ては上記に==>で示したような感じですかね。

p163
十五日夜半、折からの月明を利して、四船は時を同じくして発航した。
大使清河の第一船に乗っていた在唐三十六年の阿倍仲麻呂が、
「あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさの山に 
 いでし月かも」 と歌ったのはこの夜のことであった。
http://www.hyakunin.stardust31.com/1-25/7.html

p164
普照と業行の乗っていた副使真備の第三船が無事阿古奈波(沖縄)に
到着したのは、黄四浦を発してから六日めの二十日の夜半であった。
・・・四日めの朝から僚船とは離れてしまって、第三船はまったく
単独の航海であった。

第三船が阿古奈波に着いた翌日の暮れ方、まる一日おくれて、
大使清河の第一船と副使古麿の第二船が相前後して島の港にはいって来た。

この時点で、第四船の消息が分からなくなっていたんですねえ。

p164
十二月にはいると間もなく乗員の一部に乗る船の変更が行われた。
それは古麿の船に鑑真の一行が定員外に乗っていたので、危険をさける
ために、それを他の二船に分乗せしめることになったのである。
鑑真、思託ら七名は今までどおり第二船にとどまり、一行の他の者は
それぞれ、第一船と第三船に分けられた。

そして、この時に通訳ができる人間が3つの船に分かれることに
なったんですね。

第一船: 大使清河、鑑真一行の一部、普照==>第二船へ移動
第二船: 副使古麿、鑑真、思託ら七名、 業行==>>第一船へ移動
第三船: 吉備真備、鑑真一行の一部
第四船: 行方不明?

ここで、普照と業行は 第三船から移動させられたんですね。
そして、ここでも業行はだだをこねて、第一船じゃなきゃ嫌だっていったらしい。

それで、普照が交渉して、これを交換するんですね。
上に書いた通りです。

勿論、業行は自分の経典類も一緒じゃなきゃいやだって言って無理を通します。

第一船は 大使の船だから 船も大きいし、一番安全だと業行は思ったわけです。
その点、普照は 鑑真と一緒の船の方が良かった。
まあ、二人ともに結局 自分が好きな方に乗れたわけです。

業行いわく、
「私が大使の船を希望したのは、自分の生命が惜しいためではない。
・・あれだけは日本へ持って行かなばならない。 律僧の二人や三人は
かけ替えはあるが、あの写経には替わるものはない。
 そうじゃないですか」

いやはや、もの凄い執念だと思いませんか。
自分の人生を掛けたものは、人間の命よりも貴重だということですね。

p167
私の写したあの経典は日本の土を踏むと、自分で歩きだしますよ
私を捨ててどんどんほうぼうへ歩いて行きますよ。 多勢の僧侶があれを読み、
あれを写し、あれを学ぶ。仏陀の心が、仏陀の教えが正しくひろまっていく。
・・・」

たしかに、一人の人間がやることよりも、その結果として残された
書籍、仏典が大きな仕事をしてくれるということはあるでしょうね。

==その16へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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井上靖「天平の甍」を読む。- 14  浄土を学んだ玄朗が・・・

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

あの玄朗が現れたんです。

p150
玄朗は唐衣を着て、まったくの唐人になりきっていた。
・・・(玄朗は)中年の平凡な顔立ちの、しかしおとなしそうな女と
十歳前後の二人の女児を連れてやって来た。玄朗の妻と子供であった。

p151
玄朗が尋ねて来た用件は、妻子を同伴して日本へ帰りたいが、
何か方便はないものかということであった。

玄朗いわく、
「自分は留学僧として唐土をふんだが、二十年間に何一つ身につけなかった
・・金も持っていない。しかし、どうしても故国へは帰りたい。・・・」

この玄朗ですが、p20で、博多から遣唐使船に乗ってきたときに
次のような記述がありました。

「玄朗のほうは二つ三つ若かった。玄朗は紀州の僧で、ここ一年
ほど大安寺に来ていたということだった・・・容貌も整っていて、
どことなく育ちの良さがその言動の中に感じられた。」

そして、船が木の葉のように大揺れに揺れたときには、
口もきけずにうずくまっていた・・・という様子だったんです。

p53 の時点では、
「栄叡、普照、玄朗、戒融の四人が大福先寺の定賓によって具足戒を
受けたことであり、・・戒融が出奔した。」

p61 の時には、
玄朗は荷恩寺にあって、律を中心に天台と浄土を学んでいた
・・まだ日本には伝わっていない浄土に眼をつけるところなどは、
玄朗らしいところであった。

なんとなんと、浄土教に眼を付けていて 私も期待していたんですよねえ。
この玄朗さんが、中国の善導さんと日本の法然さんをつないでくれるんじゃ
ないかってね。

しかし、親鸞さんよりも前に「妻帯」を実践しちゃったんですねえ。
玄朗さん、あなたは愚禿親鸞さんの先を行っちゃったのかな。

p151
玄朗の立場は厄介なものであった。 たとえ帰国を許されても、帰国後の
世間の批判の眼は相当きびしいものと見なければならなかった。

そりゃそうでしょうね。
育ちの良さそうな留学僧が、坊主をやめて、おまけに妻子をつれて
帰ってきたら・・・

もちろん、この小説にも書いてあるように
「しかし一個の人間としてみると、少しも難ずべき点はないようであった。」
だと思います。

p152
玄宗は鑑真の渡日には反対しなかったが、鑑真らとともに道士も
いっしょに連れて行くように
と言った。 道士を日本へ連れて行くという
ことは、使節たちにとって困る問題であった。 玄宗は老子を尊び、
道教を好んでいたが、仏教以外のものは日本では行われていなかった

へえ~~、老子は日本でも有名なのに、日本は受け入れていなかったんですね。
この点については、こちらの「日本における道教」のところをお読みください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99

そして、結局 鑑真の件はどうなったかっていうと、

p153
表向きの許可は下りないが、鑑真に渡航の意志があるならば、行装具足
した大船四隻の用意があるからそれを利用してもらいたいという意味であった。
すると鑑真は・・・・こんどこそ日本国の船で本願を果たしたいものだと答えた。

しかしですね、この時も、またまた・・・

揚州の街には鑑真が再び日本へ渡ろうとしているという噂がひろまった
そしてそのために、鑑真が渡航準備のためにはいった竜興寺に対する
役人の警戒は急にきびしくなった。

なんだか、日本側でも中国側でも 鑑真の渡日を 大歓迎するという
雰囲気ではなかったみたいですね。

p154
普照はこのとき初めて古麿から鑑真が依然として渡日の意志を持っており
近く機を見て竜興寺を脱け出して発航地黄四浦に行き、遣唐船に乗り込む
手はずになっているという話を聞いた。

そして、玄朗家族の方なんですけど、

154
禅智寺には玄朗からなんの連絡もなかった。 玄朗親子四人の帰国の
手続きはすでにすんでいて、あとはただ彼らが現れるのを待つばかりで
あったが、肝心の四人の乗船者が姿を見せなかった。

・・・何やってんだよ~~、玄朗ちゃん! って感じかな。

==その15へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月22日 (木)

井上靖「天平の甍」を読む。- 13  鑑真の失明 そして 南無阿弥陀仏

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

p125
普照は戒融に案内されて、異国の食物を食べるために異国の船が
群がっている港へ出た。 ・・婆羅門の船もいれば、崑崙(マレー)の
船も、ペルシャの船もいた。
・・・港には獅子国、大石国、骨唐国、白蛮、赤蛮など、今までに
その名を聞いただけで一度も眼にしたことのない、皮膚の色も眼の色も
まったく違った異国人たちの姿が見受けられた。

戒融が海路天竺へ渡ろうとしていることを知った。
行きは海路を取り、帰途は玄奘三蔵の「大唐西域記」の道を取って
唐土へ帰るつもりだと戒融は語った。

ふ~~ん、戒融って坊さんは、今ならさしずめバックパッカーでしょうかねえ。
インターネットで検索しても歴史的資料としては出て来ませんけど、
この戒融が紀行文みたいなものを残していたら面白かったでしょうね。
残念だなあ。 もったいない。

p129
普照は自分だけこの(鑑真の)一行から脱しようと思った。
そうすることによって、栄叡の死は意味を失い、自分のここ八年間の放浪生活
の労苦もまったく徒労に帰するわけであったが、この際自分の信ずる道を
取る以外しかたがなかった。 普照の瞼には鑑真にかわって、新しく業行が
浮かんできていた。 業行の持っているあの膨大な経典類の束は、これこそ
なんの躊躇も疑いもなく日本へ持ち運ばなければならぬものであった。

ここに到って、一人残された普照さんは、鑑真や他の唐の僧たちに
迷惑をかけてはいけないとおもっちゃったわけです。
それなら、あの経典だけでも日本に持ち帰ろうと・・・・

p129
これを決定的なものとしたのは、・・・鑑真の視力が急速に衰えて来た
ことであった。 鑑真は六十三歳になっていた。 
ほとんど別人のような風貌になっていた。 体力も衰え、・・・ことに老齢の
鑑真は甚だしかった。 

p130
普照は永年かん苦をともにした一行と袂を別って一人陸路ぼう山を目指した。
・・・このとき天宝九年の夏六月、普照は四十のなかばを過ぎ、・・・・

そして、その後鑑真になにが起こったかといいますと。

p132
鑑真は日一日眼光が薄れ、物象がしだいにぼんやりしてくる一方だったので、
・・・胡人の療治を受けた。 が、その効験もなくついに明を失するに
至ったのである。

p134
(鑑真の弟子)祥彦をもたれさせ、西方に向かって阿弥陀仏を念ぜしめた。 
言われたように、祥彦は素直に、「南無阿弥陀仏」 と一声唱えた。
「彦、彦」
と、鑑真は呼んだ。
そのときはもう端坐したまま祥彦は息絶えていた。

このように次から次に鑑真一行を不幸が襲ったわけですが、
この時代に 浄土教の「南無阿弥陀仏」が既にあったんですね。

そして、普照は十四年ぶりに洛陽に戻り、業行が宿としていた大福先寺に
やってきます。
業行は、経典が南海島の寺に置き去りにされたという普照の話を聞いて、
憤慨するんです。

p135
「あれは日本へ持っていくための経巻です。 なるほど仏像以外一物も
ない辺土の寺へ収めたとすれば意味はあるでしょうが、しかし、
あれは日本へ持って行くために、私が生涯をかけた仕事の何分の一かです」

こう言われた普照は、もっともだと納得して、
失われた経典を普照自身が写経して穴を埋めると約束するんです。
業行の生涯の仕事を無にしてはならないという普照の決意も素晴らしい。

p142
普照は阿倍仲麻呂をわずらわして、経典の借用方の便宜をとりはかって
もらおうと思った。 当時、仲麻呂は衛尉卿の官名を帯びていて、・・・
を掌握している高官であった。

業行に対する罪滅ぼしをするように、普照はいろいろな経典を借りて
写経に専念したんです。
そして、そうしている頃に、第十次の遣唐使派遣の船がやって来ます。

その大使は藤原清河で、副使が大友古麿。 それに前の遣唐使船で
日本に帰っていた吉備真備も乗っていたんです。

p145
春の終わりに難波津を発した四船五百余人が無事に寧波付近に上陸
したのは七月であった。 そして一行は秋の終わりに都長安にはいった。

p146
大友古麿だけは黙って普照の言うことに耳を傾けていたが、
たれへともなく、「それほどまでに日本へ渡りたいのなら、
その鑑真とやらをいっしょに連れて帰ってはいかがであろうか
と言った。

p148
普照は鑑真以外に五人の唐僧の名を挙げた。
・・・古麿は玄宗に奏上して堂々と正面から鑑真らを招ずる手段を
講ずるつもりらしかった。

今度は遣唐使船をつかって日本に渡るという話なので、
非合法な手段は取れないってことのようです。

普照は業行の経典を日本へ持って行く話を業行に伝えるんです。
そして、そんなある日、あの玄朗が現れます。

==その14へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

       

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井上靖「天平の甍」を読む。- 12  栄叡の志を継ぐものはだれか・・

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

p111
(栄叡と普照)現在二人にわかっていることは、今自分たちは広い唐土の
南端から、さらにまた南方にある島の
、しかもそこのいちばん南の端の
一河口に身を置いているということであった。

鑑真は・・・無表情に押し黙っていた。
その表情からはいかなる感情も、いかなる意志もまったくうかがい知ることは
できなかった。

p112
祥彦、思託以外の僧たちは明らかに栄叡と普照の二人に冷たい眼を
向けていた。 二人の日本僧のために、どうして自分たちはこのように
何回も死ぬ目に会わなければならぬのかといった気持ちを露骨に
顔に現していた。

p113
一行の宿舎は正式に大雲寺とさだめられ、鑑真初め三十余人の者は
その寺へはいった。 ・・・伽藍も境内もひどく貧しく見えた。
ことに仏殿は荒廃して、いつ倒壊するかわからぬような状態にあった。

鑑真たちは、土地の工人たちを指揮して、仏殿を作る工事を始めた

日本への将来品のすべてを、仏具も、仏像も、経典も自分たちが八か月を
過ごした大雲寺へ納めた。
・・・業行から預かってきた写経の箱二個もこの寺へ納めることにした。

あ~あ、日本へ行くはずがとんでもなく南の海南島に流れてしまい、
日本へ持っていくはずの物すべてをそこの小さなお寺に納めてしまうって
ことになったわけですが・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F
こちらのサイトによれば、748年に5回目の渡日のために出発したのが
748年で、揚州に戻るために海南島を出たのが751年ってなっている
んですよねえ。 一回漂流しただけで、3年ぐらいは流されたところで
うろうろすることになってしまったんですね。

p114
普照ばかりでなくたれの眼にも万安州までの四十余日の行程は栄叡には
無理に見えた。 けっきょく鑑真の勧めで、栄叡は海路を取って先回り
して乗船地崖州に向かうことになり、普照が彼に付き添っていくことに
なった。

・・・ここで、崖州っていうのは、まだ海南島の中なんです。
そこまでが四十日ですもんね。
しかし、この崖州の南蛮寺で、栄叡は寝込んでしまうんです。

p116
(鑑真一行が)この開元寺へはいってから三日目に、街に大火が起こり、
開元寺も類焼の厄に会い、一同は焼け出されの身の上となった。

大使張雲に乞われて、鑑真はここで寺の再興に当たった
・・仏殿、講堂、塔等の伽藍をつくらねばならず、その材木の入手が
一苦労であった。
・・・新しい伽藍が竣工すると、鑑真は登壇受戒し、律を講じ僧を度した。

多年にわたる流離の生活の中に少しも傷つかず、その行く先々で
寺を建て、戒を授け、人を度す和上が仏陀そのものに見えた。

・・これは、本当にそう思いますよね。
漂流の身であるのに、その先々で伽藍を建てるなんて。凄いことです。
この一行が修行僧の一団だからできることなのでしょうか。
もっとも、日本へ渡る目的は、様々あって、この一行が日本に
仏教はもとより唐の様々な文化や技術を持ち込むという集団であった
からできたことなんでしょうね。

p118
一行は振州に漂着依頼一年余の歳月を過ごした海南島を離れて
海に浮かんだ。

p119
鑑真の一行は久しぶりで大陸の土を踏んだ。
・・雷州から羅州、・・・桂林に到着した。
桂林からは湘江を舟で下って江南へ出る予定であった。
・・・ひとまず渡日を断念したうえで選んだ高弟であった。

そしてなぜかこの桂林で一年足らず滞在ということになっちゃったみたいです。

p121
蘆換は唐代の一流の名族、・・・玄宗の信任の厚い人物であった。
蘆換は・・鑑真一行を広州へと迎えしめた。

p122
一行が土地の役人に導かれて竜興寺の門をくぐったときはすでに
死は栄叡を取り巻いてしまっていた。
寺にはいった栄叡の亡骸を前に、鑑真はその枕頭にすわって
さながら生ける人間に対するように言った。

「・・・広州からの招きに応じたのは、叡の健康が回復したので、
江南へ帰る代わりに広州へ行って日本への船便を得ようと思ったため
である。しかし、いまやすべてはむなしいことになってしまった。」

開元二十一年(天平五年)に入唐してから十七年を経ている。
普照は一行の中でいまやただ一人の日本人であった。

普照自身にしてもこの八年間の流離の日々はまったく栄叡に引きずられて
来ていたと言ってよかった。

さてさて、こちらの年表でご確認ください。
http://coolrip.b.ribbon.to/tokyo.cool.ne.jp/jiangnanke/jianzhen/jianzhen_nianbiao.htm
鑑真さん一行が広州に向かったのは 751年になっています。
742年に鑑真さんが渡日を決意したとあります。

p124
(広州の)婆羅門の寺へ行ったとき、普照はこの寺に日本僧が半年ほど
前より止宿していることを聞いて、ひどく懐かしい気持ちがして、
・・・見出した人物は思いがけず戒融であった。

戒融も・・・前歯が二本抜けていたので、笑うと多少妖怪じみて見えた。

だんだん日本人に会うのがいやになる。 故国の土を再び踏むまいと
決心した者には、故国の匂いを持っているものはなべていやなものだ」

戒融は梵僧といっしょに暮しているためか、何から何まで梵僧臭く
なっていた。

・・・ひさびさにあった流浪の托鉢の日本僧戒融ですが、もう唐を飛び越えて
インドの坊さんに成りきっていたわけですね。

フィリピンに住んでいると、いろんな日本人の方がいらっしゃるんですが、戒融と同じように日本人に会うことが鬱陶しいと思う人もいるようです。 まあ、分らないでもないですけど・・・

==その13へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月21日 (水)

井上靖「天平の甍」を読む。- 11  漂流・・人食い人種の島に辿りつく

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

p97
栄叡と普照が・・・鑑真を尋ねるべく再び揚州へ上って来たのは
天宝七年春のことであった。 ・・地方都市に三年の歳月を送っていた
のである。 栄叡は四十代の半ばを過ぎ、普照もまたそれに近かった。

p98
「・・・こんどこそ仏の加護を得て、年来の目的を果たすことができる
と思う」
・・・このとき六十一歳であったが、鑑真は二人の日本僧の眼には
前よりもむしろ若々しく見えた。

p102
業行は自分が写した経巻の一部を詰めた二つの箱を、唐人に運ばせて
崇福寺へ持ち込んで来た。

p102
業行は・・・唐人の女を妻に持ち、子供も持っていた玄朗と会った。

p103
船はこの前のときよりも一回り小さく、天平五年入唐した際の遣唐使船に
比べると半分にも足りなかった。

越州に属する小島三塔山に着き、ここで順風をまつことにした。
とどまること一か月、・・またここに停住すること一か月、
・こうしている間に、いつか暦は十月に入っていた。

・・・再度のチャレンジが始まったのですが、船は小さいし、
気象もなかなか思うようにならず、時間だけが過ぎてゆく。
なんだか 又かというような雰囲気が続いているわけです。
今回も密航ですしねえ。

p104
夕方から強風が吹き始め、・・・船は波浪にもてあそばれ、さながら
山頂から谷底へ落ち、谷底から山頂へ上るに似て、いまや総勢七十余人を
乗せた船は一片の木片にしかすぎなかった。

いつか乗員の全部が観音経を唱えていた。

p106
「このままでは船は沈むぞ。 荷物は全部海へ投げ込んでしまえ。
早く投げこめ」

「なげうつことなかれ」
風雨の荒れ狂っている頭上の闇で、そんな声がした。

・・何か人の声らしいものを耳にしたと言った。

・・この夜、もう一度不思議なことが起こった。

「もうこわいことはないぞ。 みんな、見ろよ。甲を着け、杖を持った
神王が、舳先のところに立っている。 帆柱の根もとにも立っているぞ」

・・舟人の話では、日本と反対の方向へ流されているということであった

なんと、なんと、難破は免れたものの、南の方へ漂流しているってことに
なりました。
そして、なんだか気味の悪い海域へと入って行くんです。

p107
三日目に、船は蛇の群がっている海に入った。 その長いものは一丈(約
3メートル)余、小さいものでも五尺はあり、・・・

蛇の海を過ぎること三日、こんどは飛び魚の海域にはいった。
・・こんな日が三日続いて、その後の五日間は大きな鳥の群れが
海を渡るのを毎日のように見た。

・・・注釈にはこの鳥は「アホウドリ」であろうと言われていると書いてある。
ってことは、この航海、漂流の様子を書いた資料がなにかあったと
いうことなんでしょうか。

p108その後の二日ほどは、・・・船は潮に揺られながら漂流を続けた。
乗員はほとんど全部板子の上に横たわったままだった。

いちばん難渋したことは、水の無いことであった

p109
鑑真は起き上がり、舳先近いところに座を占め、海のほうに顔を向けて
すわった。 ・・・鑑真の顔は、・・・凛としたものに見えた。

栄叡の夢のためかどうかわからなかったが、その翌日・・・大粒の雨が
落ち出した。 

p110
その翌日船は島に近づいた。 ・・・乗員たちは岸壁をよじ登り、島へ上がって
水を探した。 見たことのない大きい葉の樹木が生い茂っている・・・

暦はいつか十一月になっていた。 ・・・冬の気配はまったくなかった。
島には見慣れぬ果実が実り、花も開き、筍も生えていた。冬というより夏の
姿であった。

十四日間、船はその島の岸近くにとどまっていて、・・・
幸い四人の唐人と会った。 彼らは口々に、この辺の住民は人間を捕えて
食うから、早く立ち退いたほうが安全だと教えてくれた。

・・・その夜、刀を持った土人が船へやって来た。
・・食物を与えると、土人は黙って去って行った。

p111
唐人から聞いた海南島を目指すことにした。

おおおお、ここに人食い人種が出てきました。
この人食い人種の島っていうのは どの国のことなんでしょうか。

かなり漂流して、南の島で、今から海南島に向かうっていうんだから、
台湾よりもかなり南ですよね。
ってことはフィリピンってことになるのかな??

003

フィリピンの北部山岳地帯には首狩りという慣習はありますけどね。

それに、「人食い人種」ってことでインターネット検索をしてみると、
歴史的には結構世界中にいたようですし。

こちらのサイトによりますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A3%9F%E3%81%84%E4%BA%BA%E7%A8%AE

「実際にポリネシア文明圏では食人文化が確認されている。 18世紀にはヨーロッパ
各国の宣教師が南洋諸島の島々へ送られたが、現地人に殺されて食べられると
言う被害が相次いでいたほどである。彼等の記録によれば「白人の人肉は煮ても
焼いても、ポリネシア人より不味い」そうである。」

とありますし、

こちらのサイトでは、
http://gigazine.net/news/20081215_japanese_tastes_the_best/

「日本食は低カロリーかつ栄養バランスがよく世界的に人気のある食べ物ですが、
ある部族によるとそれを作り出した日本人の肉も美味しいそうです。実際に食べ
比べてみた人の感想が明らかになりました。」

みなさん、お気をつけください。

==その12に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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井上靖「天平の甍」を読む。- 10   鑑真の怒り

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

二度目の失敗をした鑑真の渡日。 しかし・・・

p84
鑑真和上はまだ渡日の意志を捨ててはいない。・・・和上はそこで
再挙をはかると言っておられる

p88
(明州の)阿育王寺に帰ってからしばらくして一つの事件が起こった。
それは越州の僧たちが、鑑真が日本に渡ろうとしていることを知って、
これを阻止するために、主謀者栄叡の逮捕を州官に願い出た事件である。

栄叡は枷を着せられて京へ護送されて行ったが、一か月ほどで再び
阿育王寺へ帰って来た。

・・こういう事件があったために、早く日本に渡らないと何が起こるか
わからないってことで、三度目の計画が急ピッチで進むんです。
ところが・・・

p90
一行は天台山を発し、・・・何日間か峰伝いの旅を続け、・・・
先発隊のいる福州へたっすることができる。
しかし、・・禅林寺という寺に泊まった夜、鑑真たちは思いがけず、
採訪使の牒を持った役人たちに踏み込まれるという事件に見舞われた。

・・・こういう事がなぜ起こったかというと、
師鑑真の身の上を案じて、渡日ということには終始反対の態度を持っていた
名僧とされる霊祐が阻止しようとしたからだったんです。

それだけ、鑑真さんを大切に思っていた弟子がいたということですね。

これで三度目も失敗。。。

そして、この禅林寺で、鑑真の噂を聞いた 戒融が訪れるんです。
托鉢をして歩くんだといって姿を消した あの留学僧です。
そして、又、
日本に生まれたというただそれだけの理由で日本へ帰らなければならぬのか
と吐き捨てて姿を消してしまうんですねえ。

p93
揚州に連れ戻されてからの鑑真は、気難しく、無口になっていた。
たれともあまり会いたがらず、とくに自分への好意的な妨害者ともいうべき
霊祐には、絶対に面接を許さなかった。

p95
栄叡と普照が、いよいよ揚州の地を離れることを決意し、鑑真のもとに申し出た
のは、竜興寺で三か月を過ごしてからである。

・・・もう、二人とも鑑真を連れての渡日を諦めていたんですね。
ところが、鑑真さんは、
「それもよかろう。 そしていつでも再びここへやってくるがいい。
法のためである以上、私の渡日の決心は変わらないだろう
と言ってくれたんですねえ。

そして、この事件のほとぼりが冷めるまでは、しばらく待つしかないってことに
なったわけです。 しかし、それがいつになるのかは見当もつかない。

==その11へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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夢って、音も出るのかと思ったら・・・・「夢」第二弾

珍しく 昨夜見た夢のストーリーを覚えている。
覚えていることってほとんどないんですけど。

幽霊らしきものを見る夢。

夢の中で「これは夢だ」との意識があった・・・ような。

・・・

ある部屋に私は居たんです。
どこの家だか分かりゃしないんですけどね、
間取りから言えば、もしかしたら私が育った実家だったかも・・・

そして、その部屋を出て隣の部屋をちらりと覗いたところ、
その部屋に白い幽霊が・・・

そして、その白い幽霊が壁を通り抜けて 今まで私が居た部屋の方に
入って行ったんです。

それで、その部屋に戻ったら、白い幽霊はいなくて、
その代わりに男が一人座っているんですねえ。

微かに記憶にあるような顔のフィリピン人なんですけど、
誰だったかは思いだせない・・・

でも、何故だか、「こいつは幽霊だ」って 妙な自信が
あったんです。

だから、「この野郎~~! 幽霊め~~」って
腕を振り上げて 殴りかかったんです・・・

この温厚と自認する私がですよ。
ケンカなんかしたことのない私が、
腕を振り上げて 殴りかかったんです。

・・で、大きな音が出たわけ。

って、思ったら、ベッドの横の壁を殴っていました。
音が出るわけだ・・・・

夢判断ってありますよね。
「幽霊」の夢ってなんだろうかと思ってこちらを読んでみました。

http://oizumi.main.jp/jiten1/jituzaisinaihito1.html#yuurei

おっと、やばいっすね。
誰かが私を恨んでいるみたいです・・・・
もしくは、今から 何か悪事をはたらこうとしているそうな。

しかし、別のサイトの夢判断は ちょっと違うんです。

http://yume-uranai.jp/keyword.php?q=1&keyword=%97H%97%EC

幽霊が歩いている夢は、金銭面でピンチが訪れそうです。しかし、恐がらなかったり追い払う夢なら、辛いことがあっても負けないパワーがあるしるしです。

・・・幽霊が歩いていたし、殴って追い払おうとした夢だったんで、こっちかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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井上靖「天平の甍」を読む。- 9  密航・・そして座礁。 鑑真は・・

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

だれも「私が日本に行く」とは言わない、鑑真の弟子たち。

p72
たれも答える者はなかった。 すると鑑真は三度口を開いた。
法のためである。 たとえびょうまんたる滄海が隔てようと
生命を惜しむべきではあるまい。 
おまえたちが行かないなら私が行くことにしよう。」
一座は水を打ったようにしんとなって・・・・

・・三十余人の僧の頭はことごとく深くたれていた。
・・鑑真は一人ひとりの名を口から出した。・・鑑真と、十七名の
高弟が日本へ渡ることが須臾のあいだに決まったのである。

さすがに鑑真さんですね。
「法のため」に自らが命を投げ出すのみならず、弟子をも決めた。

これは史実なのかどうか、井上靖の創作部分なのかはわかりませんが、
何度も失敗し、失明をしながらも日本へついに渡ったという事実から
判断すれば、このような状況、決意があったことを即座に小説だと言い切る
のは憚られるくらいです。

p73
四人の日本僧と三人の唐僧と一人の高麗僧は、それぞれ郊外の寺へ
分宿することにした。 官憲の眼を免れるためであった。
もともと四人の日本僧の帰国のための渡航さえ非合法的なもので
あったが、まして唐土から鑑真ら十八名、道抗ら四名、総勢二十名を
越える一団が日本へ渡るということは表向きには許されるべきことでは
なかった。

なんと、なんと、この鑑真さんの渡航は密出国の企てだったんですね。

p75
(鑑真は)二十一歳のとき、長安の実際寺において登壇、具足戒を受けた。
実際寺は朱雀街の西、太平坊の西南隅にある寺で、三論の学者吉蔵も
ここに住し、ここに寂し、浄土門の高徳善導もここで法を説いた

ほうほうほう、出ました「浄土の善導」さん。
鑑真さんが修行をした同じ寺で、法然さんの師とも言うべき善導さんが
法を説いていたんですね。

さてさて、この密航のたくらみなんですが・・・

p76
四人の日本僧のいる寺は役人の検索を受けた。問題の如海が、自分一人が
渡航から除外されると思って、道抗を海賊の首領とし、日本僧をその
一味として採訪使の庁へ訴えたためであった。

p78
栄叡らは四月に獄に投ぜられ、放免されたのは秋八月であった。
便船のあるまでは従前どおり官の支給を受けて生活し、便船のあり次第
揚州の採訪使庁の指図で帰国させられることになった。

そして、いろいろと脱落者などがあってから・・・・

p81
準備まったく成って、人と物とをこぼれるように満載した軍船が、ひそかに
揚州を発したのは十二月下旬、月明の夜であった。

p82
帆を挙げて大江を下った。 浪溝浦(江蘇州太倉)まで来ると、
・・悪風が吹き始め、波浪は高くなった。 ・・・舳先のほうが破れて
海水が浸入してきた。・・・
・・・最後に船は岩礁の上に座礁するに至った。 ・・・船体は幾つかに
割れた。
・・飢餓と渇に苦しみながら、百八十五人の乗員は狭い荒磯の上にすわって
三日を過ごした。

あ~~あ、これが二度目の失敗ですね。
座礁してから5日間は荒磯の上で助けを待ち
揚州を出てから40日目に救助船に助けられたってんですから・・・

このころの仏教っていうのは、もちろん宗教なんですけど、
お寺で総合的な学問をしているような、今で言えば大学みたいな感じ
だったようなんですよね。

例えばキリスト教の宣教師みたいな立場なら布教の為にという
使命感が当然要求されたんでしょうけど、こういう学問を修めようという
学徒みたいな人たちにとっては 命を犠牲にしてまでというのは
どんな感じだったんでしょうか。

==その10へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月20日 (火)

井上靖「天平の甍」を読む。- 8 百に一度も 辿りつけない日本

 

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

さて、ここから何故鑑真さんが日本へ行くことになったのかの
激変がはじまります。

p61
栄叡、普照らが突如帰国を思い立ったのは、長安に五年余の歳月を
送った天平十四年、・・の夏であった。
・・最近日本から帰ったという新羅僧によって道せん(玉+睿)のその後の
消息が伝えられたことである。

p62
道せん(玉+睿)は天平八年に名代の船で日本にはいっていたが、
授戒の師として招かれたにもかかわらず、衆僧が足らないために、戒法を
行うことができず、
ただ大安寺で律蔵、行事鈔を講じているのみだと
いうことであった。

栄叡はいまだに日本に戒律が施行されていないということを、まったく
自分の責任として感じて・・・・

・・・そして、その頃 業行が普照を訪ねるんですが、

p63
業行は、自分の写経の仕事も近くいちおう片がつくので、なんとかして
それを持って日本へ帰りたい・・・
・・義浄訳の経典類は全部写してしまい、現在金剛智三蔵の訳した
秘密経典
の写経に専念・・・

p64
業行が三十余年かかって、一字一句おろそかにせず写し取った
おびただしい経巻の束は・・・うず高く積み上げられてあった。

「人に頼めるといいんですが、しかし、いざというときにはこの経本の
身代わりになって
、自分のからだを海に投ずる人でなければ困ります。」

・・・業行は、自分の命を捨ててでも、三十年かかって写した経典を
日本に持って帰ると言うわけです。
当時の写本というものの貴重さをこの一言がすべて語っているのでしょう。

そこで、栄叡は、この経巻と、しかるべき伝戒の師を日本へ送り込む
ことこそ 自分がやるべき任務だと決心するわけです。

p66

周辺の四人の僧に渡日の話をもちかけて、それを承諾させた。
・・この中で道抗が渡日を承諾したことは・・・好都合であった。

道抗の師は揚州の高僧鑑真だったので・・・多数の弟子の中から
適当な伝戒の師僧を推挙してもらうことの便宜が・・・

・・・つまり、最初は鑑真さん本人じゃなくて、その弟子を
派遣してもらおうという考えだったようですね。

で、なんで鑑真さん本人が行くことになったのか・・・・

p69
揚州の・・・大明寺は・・相対する大伽藍と、九層の塔とを持つ
大きい寺であった。
一行は鑑真と会った。 鑑真の背後には三十数名の僧が控えていた。
このとき鑑真は五十五歳であった・・・

・・・そして、栄叡の推薦の要請に応えて鑑真さんが

p70
「この一座の者の中で たれか日本国に渡って戒法を伝える者はないか
って言うわけなんですけど・・・

だ~~れも「行く」とは言わないわけです。

「日本へ行くにはびょうまんたる蒼海を渡らねばならず、百に一度も
たどりつかぬ
と聞いております。・・・」

・・まあ、そんな噂を聞いていれば 誰だって行こうとは言いませんよね。

==その9へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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夢っていうのは 映像だけじゃないんですか?

変な夢だったんです。
高所恐怖症の夢だったんです。

最初に現実にそれを感じたのは 東京都庁の展望台だったんです。
気分が悪くなっちゃったんです。

で、それ以来、たぶん高所恐怖症になったんだと思うんです。

身体がズズズ~~ンっていうのか、ゾクゾクっていうのか、
特に左の腿がムズムズするんです。

それが、夢の中で そういう状態になったんです。
夢って映像だけじゃないんですか?

いわゆる五感ですね。
視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚。

この中で 夢っていうのは視覚だけじゃないかと思っていたんです。

音がある夢って経験ないし
味とか臭いとか 想像すらできないですよね。
太ももがムズムズするっていうのが 触覚と言えるのかどうか
分かりませんけど、そのムズムズ、ズズズ~~ンってのが
夢の中に出てきたんです。

こういうのは生まれて初めての経験なんですけど・・・

インターネットで検索したら、結構 いろいろと夢の中で
五感に感じている人たちがいるみたいですけどね。

わたしゃ~~映像だけで勘弁して欲しいな

最悪でも、物心ついたころに酷いめにあった 虫歯の痛みだけは
夢の中に出てくるのは 勘弁してよね~~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月19日 (月)

井上靖「天平の甍」を読む。- 7  浄土教 善導と法然を結んだものは・・・

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

p56
業行が所持している経巻類はおびただしい数量に上っていたが、その
ほとんどすべてが、・・・高僧義浄の訳出した経典類の転写であった。

義浄については、このような事典の説明があります。
http://www.weblio.jp/content/%E7%BE%A9%E6%B5%84
ぎじょう ぎじやう 【義浄】
(635-713) 中国、唐代の僧。671年法顕・玄奘(げんじよう)のあとを慕って
インドに渡り、四百余の仏書を洛陽に持ち帰った。

p56
業行は、この春から取り掛かっているものは義浄のものではなく、
主として・・・他界した善無畏が訳出した秘密部(密教)の経軌であると、
例のぼそぼそとした口調で語った。

善無畏については、こちらのサイト。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E7%84%A1%E7%95%8F
インド生まれの元国王で、ダルマグプタに師事し顕教・密教両方を修め、
716年に唐・長安に入って、大日経などを漢訳したと書いてあります。

p60
開元二十四年(天平8年)に玄宗の駕に随って長安にはいった栄叡、普照、
玄朗の三人の日本の留学僧たちは、そのままとどまって長安に学んだ。
長安は大唐国の都として釈教の中心であり、内外の碩学高徳が雲集していた。

普照は崇福寺で、最初の目的どおりもっぱら律部の勉学に明け暮れた。
崇福寺は義学、翻教のほうでは大きい歴史を追っている寺で・・・

p61
栄叡のほうは大安国寺にあって、師定賓の学説の流れの中にだけに身を
置いていた。

玄朗は荷恩寺にあって、律を中心に天台と浄土を学んでいた。
・・まだ日本には伝わっていない浄土に眼をつけるところなどは、
玄朗らしいところであった。

・・・おおお、ついに浄土教が出てきましたね。
天平8年というのは西暦736年とありますね。
http://www.sunfield.ne.jp/~inokuras/seireki1.htm

浄土宗の法然さんは 1175年に浄土宗を開いたとなっていますので、
遡ること439年なんですねえ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6

こちらのサイトで浄土教を見ますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99

インドで浄土教が成立したのが紀元100年ごろ
それが中国に伝えられたのが二世紀後半。
5世紀になってやっと中国で廬山の慧遠(334年 - 416年)が浄土教の
主流となったとあります。
そして中国に善導が現れたのが613-681年となっています。
この善導さんの教えを日本で受け継いでいったのが法然さんということに
なりますか。

ってことは、この留学僧の玄朗さんは、善導さんと法然さんを
取り持ったということになったのかな?

==その8へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月18日 (日)

井上靖「天平の甍」を読む。-6  ベトナムの土人に殺された留学僧 ?

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

さて、十月に蘇州から帰路についた第九次遣唐使船ですが、全部で4艘なんです。
第一船: 大使広成、玄昉、真備など
第二船: 副使中臣名代、普照・栄叡の乞いを入れて渡日する道せん
     中国人僧、バラモン僧、ペルシャ人,等々。
第三船: 在唐何年かを無為に過ごした僧景雲が乗船

そして、翌年の1月15日に4人の留学僧に届いた情報はというと、

p48
「四船は、海に浮かぶと間もなく暴風雨に見舞われ、そのうちの一艘が
越州(浙江省)に漂着し、再び日本へ向けて出帆したという・・・」

「その船に乗っていた者たちの話では、他の三船はおそらく難破を免れて
いないだろうということだったそうだ」

史実はどうだったのかと検索してみますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF

「帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年
(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず
となっています。
結局 第三、第四船が難破していたんですかね。
僧景雲はどうなったんでしょう・・・。

しかし、この小説には下のようにあるんですね。

p52
「副使中臣名代の第二船が南海に漂着、全員生命だけはまっとうしたという
噂がはいったが、・・何人かが再び洛陽の街に姿を現した。
・・・道せんは他の多くの者といっしょに出航地蘇州に待機していると
いうことで・・・」
「その年の閏十一月、・・名代らは再び帰国の途につくために洛陽を出発した」

「第三船の消息が広州都督によって報ぜられて来た。 広成らは遠く林邑国
に流され、その大部分は土人に殺され、生存者はわずか広成ら四人
であるという
ことであった。」

この「林邑国」というのは、今のベトナム中部沿海地方のことだそうです。
僧景雲は 「土人に殺された」のでしょうか。

p53
「栄叡、普照、玄朗、戒融の四人が大福先寺の定賓によって具足戒を
受けたことであり、・・戒融が出奔したことである。」

「戒融は・・・大福先寺を脱け出して托鉢の旅に出るつもりだと語った。
・・・この国には何かがある。 ・・歩いてみなければわからないことだ」」

そして、この戒融の言葉を聞いた普照の考えは、

p54
「何かがあるとすれば、それはまだ自分などの知らない仏典の中に
あるだろうと思った。 新しい経典は続々印度からこの国へ持ち込まれ
つつあった。 経典の林のほうが、普照には唐土よりむしろ広大に果てしなく
思えた。」

托鉢をして自分の身体で何かをつかみ取るのか、それとも
インドからもたらされる経典の中から何かを得るのか。

しかし、この時代の日本にとっては、後者であることが重要だったんでしょうね。
中国から何かを持って日本に帰ることが期待されていたわけでしょうから。

現代であれば、なんらかの書籍を勉強しようと思えば、どこからでも
日本に居ながらにして手に入りますから、わざわざ海外に出る必要もなく、
戒融のように海外を歩き回ること自体に意味があると思うのですが。

もっとも、専門的な話になると、やっぱりその現地にしかない
書籍というのもありますけどね。

今私はフィリピンのバギオに居て、ルソン島北部山岳地帯で 第二次大戦中に
どんなことがあったのか、バギオ周辺の現地の人たちから話を聞きたいという
気持ちがあるんですが、その歴史を書いた本というのは地元にはないよう
なんです。

フィリピンの多くの歴史書というのは、アメリカ人が英語で残している
ものがほとんどだって言うんですね。

おそらく、アメリカの植民地になる前は330年間ほどスペインの植民地
でしたから、スペイン語で書かれた本を読まないと、フィリピンの昔の
ことは分からないのでしょう。

実際、この地元で抗日ゲリラとして戦った「第66歩兵連隊」という英語の本
フィリピン人がアメリカで本にしていたので、日本のamazon.comで買いました。

日本というのは、日本人自らが歴史を書くことが出来るというだけでも
幸せな国民だと言えるかもしれません。

 

==その7へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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