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2012年12月 1日 (土)

頭から落ちるか、足から落ちるか - あなたはどっち ??

3~4日前の深夜の話なんですがね、落ちたんですよ。
初体験でした。

日本じゃないので畳じゃないですもんね。
フィリピンなんでベッドなんですけど。

それも、日本で普通に頭に浮かぶベッドじゃなくて、
大工さんが作ったような素朴なベッドでして、下は引出になってます。

ベニア板が張ってあるだけで真っ平らな寝床です。
ふかふかのベッドでもないんで、身体が沈むこともないんです。
もちろん落下防止の板なんてついていません。

だから、寝返りを打てば落ちることは 想像できますよね。

でもね、過去7年半も同じようなベッドですけど、
今回みたいな落ち方は 初めてなんです

普通は、だいたい足の方がベッドから外れて すぐに気づいて
目が覚めるわけです。

寝返りの打ち方が問題なんでしょうけど、頭から落下したことは
ないんですね。

ところが、今回は 足も頭も同時に落ちた・・・みたいなんです。

ハッと目が覚めたと思ったら、腹這いになって 水平に
足から頭まで一緒に落ちたんです。

腹這いだったんで、腕が先に落ちたんで、怪我もせずに
ドスンと床に着いただけで・・・
ちょっとは痛かったんですけどね、肘が・・・

でも、「痛っ」と思いながら、すぐにベッドに這い上がって
ストンと眠ってしまったんです。

ベッドから落ちるときは どんな落ち方しますか? みなさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その7 中村元著「龍樹」ー般若経典の空観- 煩悩なんて気のせいだよ

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいきます。

「1. 大乗仏教の思想」から 「般若経典における空観」と「在家仏教運動」
などに入ります。

「般若経典における空観」

p60
ー 原始仏教において、世間は空であると説かれていたが
  (たとえば、「常に心に念じて、(何ものかを)アートマン(我)
  なりと執する見解を破り、世間を空であると観察せよ。
  そうすれば死を度るであろう」)

ー 般若経典では・・さらに発展せしめ、大乗仏教の基本的教説とした。

この経典としては、「大般若波羅蜜多経」、「般若心経」、「金剛般若経」、
「理趣経」などがあるとしています。

金剛般若経」についてはこちらで感想を書いています。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/11/post-87cd.html

p60
ー われわれは固定的な「法」という観念を懐いてはならない。
  一切諸法は空である。 何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて
  成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないもので
  あり、「無自性」であるから、本体をもたないものは空であるといわねば
  ならぬからである。

ー 諸法が空であるならば、本来、空であるはずの煩悩などを断滅する
  ということも、真実には存在しない
ことになる。

ってことはですよ、煩悩なんてのは気のせいなんだから、その煩悩を
消し去るってことなんかも不可能ってことですか?
少なくとも自分だけの妄想っていうのか、勝手な想像っていうか、幻想?

人間はその現実にはありもしない妄想で大いに悩んでいるんだってこと?

そして、それを実践することについては、

p61
ー 実践はかかる空観に基礎づけられたものでなければならない。

ー たとえば「金剛般若経」の第10節では、「まさに住するところ
  なくしてその心を生ずべし」と説いている。

ー かかる実践的認識を 智慧の完成(般若波羅蜜多)と称し
  与える(布施)・
  いましめをまもる(持戒)・
  たえしのぶ(忍辱)・
  つとめはげむ(精進)・
  静かに瞑想する(禅定)
  という五つの完成と併せて<六つの完成>(六度、六派羅蜜多)と称する

「六派羅蜜多」という言葉は初めて気づきました。
こちらのサイトで説明してあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C
「六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、ブッダを目指す菩薩が修めなくては
ならない、6つの実践徳目のこと。」

「在家仏教運動」

ー 空観からの論理必然的な結論として、輪廻とニルヴァーナとは
  それ自体としては何ら異ならぬものである、と教えられた。
  しからばわれわれの現実の日常生活がそのまま理想的境地として
  現し出されねばならぬ。

ここでニルヴァーナですけど、「涅槃」とも言われますが、中村元さんによれば、
心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地」としているようです。

p62
ー 理想の境界はわれわれの迷いの生存を離れては存在しえない。
  空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される

これを展開して、出家生活よりも在家生活の方が 大乗仏教の理想を実現
するのにふさわしいってことになったようです。

そして、それの代表的な経典が「維摩詰所説経」だとしています。
このお経の中では、在家である維摩さんが、出家であるお釈迦様の弟子たちを
やりこめちゃうって話だそうです。

ー その究極の境地はことばでは表示できない「不二の法門」であり、
  維摩はそれを沈黙によって表現したという。

「華厳経」における菩薩行の協調

というところには、以下のようなことが書かれています。

p62-62
ー 菩薩の修行には自利と利他との二方面があるが、菩薩にとっては
  衆生済度ということが自利であるから 自利即利他 である。

ー この経の十地品では、菩薩の修行が進むにしたがって 心の向上
  する過程を十地(十種の段階)に分けて説く。

この「華厳経」で言っていることって、菩薩としての修行が進めば
自利=利他ということが自然に出てくるって話なんでしょうかねえ。
http://homepage3.nifty.com/huayan/doctrine/jiewei.htm

次回は 「浄土教」の話が出て来ます。
法然さんの「浄土宗」、親鸞さんの「浄土真宗」への入口になるのか・・・

==その8に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その6 中村元著「龍樹」ー 大乗仏教の思想の流れ

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいきます。

まずは、「1. 大乗仏教の思想」から。

p56
ー 紀元100年前後の仏教界においては、伝統的保守的仏教が
  圧倒的に優勢な社会的勢力をもっていた・・・
  ・・新たな宗教運動が起こりつつあった。
  それがいわゆる大乗仏教である。

p57
ー 旧来の諸派は、・・・歴史的人物としてのゴータマの直接の
  教示に近い聖典を伝えて、伝統的な教理をほぼ忠実に保存している。
ー 大乗仏教徒は全然あらたに経典を創作した。
  ・・釈尊は・・・理想的存在として描かれている。

ー 旧来の仏教諸派は・・・政治的・経済的援助を受け、広大な荘園を
  所有し、その社会的基盤の上に存立していた。
 
ー 大乗仏教は、・・民衆の間からもり上がった宗教運動であり、
  荘園を所有していなかった。
  ・・その信仰の純粋にして清きことを誇りとした。

ー (大乗仏教は)富を布施することは非常に功徳の多いことであるが、
  しかし経典を読誦・書写し信受することのほうが、比較にならぬほど
  はるかに功徳が多いといって、経典の読誦を勧めている。

ー 正統的仏教諸派は・・・人里離れた地域にある巨大な僧院の内部に
  居住し、静かに瞑想し、座禅を修し、煩瑣な教理研究に従事していた。

要するに、従来の部派仏教(上座仏教)はお金持ち集団の修行の場、
大乗仏教は庶民の信仰の場という雰囲気でしょうか。

p58
ー 大乗仏教は・・・利他行を強調した。
  大乗仏教では慈悲の精神に立脚して、生きとし生けるもの(衆生)すべて
  を苦から救うことを希望する。

ー 自分が彼岸の世界に達する前に、まず他人を救わなければならぬ。
  かかる利他行を実践する人を菩薩と称する。

ただ、こういうことを凡人がやるのは大変なので、煩悩の多い庶民でも
出来る方法というのを考えだして、

ー 諸仏・諸菩薩に帰依し、その力によって救われ、その力にあずかって
  実践を行うことが説かれた。

従って、この為には純粋な信仰が必要だってことになって、
お釈迦様の位置づけが 超人的な崇拝すべきところまで上げられたってこと
のようです。

ー 大乗仏教においては、三世十方にわたって無数に多くの諸仏の出生
  および存在を明かすに至った。

つまり、いろんな仏様が続々と出てきたってことですね。
例えば、有名なところで、阿弥陀仏、薬師如来、弥勒菩薩、観世音菩薩、
文殊菩薩、普賢菩薩、などなど。

そして、それが仏像という形をとるようになっていった。

p59
ー 中央インドのマトゥラー市と西北インドのガンダーラ地方とが
  仏像政策の中心地であった。
  前者は・・インド国粋美術の伝統に従っているが、
  後者にはギリシア美術の影響がいちじるしい。

そして、大乗仏教を広めていく方法として、

ー 仏・菩薩を信仰し帰依するならば、多くの富や幸福が得られ、
  無病息災となると説いている。

ー 教化の重要な一手段として咒句(陀羅尼)を用いた
  非常な成功を収めた。 しかし同時に大乗仏教がのとに堕落する
  に至った遠因
をここにはらんでいるのである。

初期の大乗仏教は、信念と信仰とを華麗巨大な表現で盛り上げたような
宗教的文芸作品である、と書いているんです。

確かに 過去に読んで来た 「ブッダのことば」、「般若心経」、
「阿弥陀経」なんかの中で言えば、特に「阿弥陀経」」にはそれが
はっきり出ていたように思います。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/11/post-cafd.html

私の感覚としては、小乗仏教は修行法であって、大乗仏教になって
始めて宗教になったんじゃないかとさえ思えるのです。

では、次回は「般若経典における空観」を読んでみます。

==その7へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

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その5 「ナーガールジュナ(龍樹)の生涯」ー ターラナータによる伝記 

その5 「ナーガールジュナ(龍樹)の生涯」ー ターラナータによる伝記 

中村元著「龍樹」を読んでいます。

ターラナータもチベット人で、その「仏教史」に龍樹のことが書いてあるそうで。
1608年にこの本を書き、その後蒙古で幾多の寺院を創建したとなっています。
この本を主にシーフナーのドイツ訳と寺本婉雅訳に従って現代語訳をしたと
あります。

p45
ナーガールジュナ師が教えをまもり、とくに中観説をひろめた
かれは小乗修行者(声聞)たちにとっては大層有用(な人)であった。
とくに教えの要点を踏みはずし修行者たちのあいだで勢威のあった
多勢のビク(修行僧)たちや沙弥(出家見習僧)たちをかれが追放した
あとでは、とくにそうであった。
そういう人々がほぼ五千人いたという。そこであらゆる学派がかれを
主と仰いだ。

・・・上の文章がいささか理解できないんです。
小乗修行者にとって有用って、龍樹さんは大乗仏教の人じゃなかった?
要点をふみはずしたビクを龍樹さんが追放したって、どういうこと?
小乗の人たちを追放したのか、大乗の人を追放したのか・・・

p46
ナーガールジュナ師は、めでたきナーランダー(寺院)における
大乗の法師たちを多年にわたって財富によってもてなした
その富は、かれが黄金に変化させた物によって獲得したものである。

・・・龍樹さんはいわゆる錬金術師であったという話もあるようです。
今だったら詐欺師ですかね?

p48
尊師(ナーガールジュナ)は多くの陀羅尼と十万の詩句(頌)の
般若(経)をもたらした
が、幾多の仏弟子たちは、それらは
ナーガールジュナの著したものであると見なした。
このときよりものちには大乗経典は新たにできることはなかった。
実体の存在を想定する仏弟子たち(声聞)の争いを除くために、
かれは五部の論理学書などを著した。

・・これによると、龍樹さんは大乗仏教の総仕上げみたいなことを
やったように見えますね。

そして、晩年に南方におもむき・・・・

p49
「バラモンの子息よ。汝は、三ヴェーダにもとづくあらゆる学問を
根柢的に学習した。 汝がシャーキヤ(ここでは釈尊)の沙弥と
なったのは何故であるか」。
ナーガールジュナが、それに対して、ヴェーダは称讃さるべきでは
ないということ、(仏法の)諸法則の称讃さるべき意義
を、かれらに
説明したときに、かれらは非常に信仰心深いものとなり、
大乗を尊敬した。

p50
この師(ナーガールジュナ)は、・・あらゆるしかたで正法を守護
したので、かれは無比の大乗仏教擁護者であった。

・・この「あらゆる仕方」の中に、「僧団への給与」というのも入って
いるんです。 相当に裕福な龍樹さんだったみたいですね。

そして、以上の3つの龍樹の伝記を最後にまとめてあるんです。
どこまでがが史実でどこまでが空想なのか・・・

そして、ナーガールジュナと呼ばれる人が複数いたことも書いてあります。
大きく分けると、
1. 「中論」などの空思想や、その他の著書をかいた龍樹
2. 真言密教の学者といわれた龍樹
3. 錬金術の学者としての龍樹

だそうで、1の著者も複数説があるとか。

いずれにしても、財力もあり、実に行動的であって、且つ理論家だったようです。

・・・・

次回からは、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいきます。

==その6に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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NHK「ダーウィンが来た!」 オランウータンは修行者だ・・

NHKの「ダーウィンが来た!-生きもの新伝説」
295回 動物大集合! 魔法の泉
ボルネオ島の深い森の中のお話
http://www.nhk.or.jp/darwin/broadcasting/review.html

森の中にある泉。
しかし、これが特別な泉で、塩分を含んでいるんです。
草食動物には欠かせない塩分であるので動物たちが集まる。
そして、それを狙って肉食系の連中も集まっているらしい。

その魔法の泉を観察していると、オランウータンが
何頭も集まっているのが分かって。

ところが、一緒に集まったりはせず、周りを気遣いながら
一頭一頭 ちょっとびくびくしながら その塩水を飲んでいる。

つまり、オランウータンは 孤独を愛し、水場であっても
他の奴とは顔を合わせないように常に距離を保っているらしい。

「ただ独り歩め」
どこかで聞いたような文句・・・
はい、「ブッダの言葉」に何度も出てくる言葉です。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-038d.html

悟りを求める修行僧は、村人とも仲良くならず、人里を離れ
木の下で座禅をせよ、というような姿にそっくり。

確かに この世は なかなか難しい。
人と人の間に暮らすというのは、自分の思い通りにはならない。

それならば オランウータンのように、他の奴らとは
会わないように気を配って 独りで生きていくのが一番かも。

この森では、その塩分のある水場を中心に
それを取り囲むように
 十数頭のオランウータンの独自のねぐらが
森の上にあるようです。

独居老人が たまにスーパーマーケットに 買い物に出ていく
という風情でしょうか・・・

どうも、人間よりも オランウータンの方が 仏教の菩薩に
近いのかもしれないですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その4 「龍樹の生涯」ー プトンが伝える伝記 -龍宮伝説 ? 

中村元著「龍樹」を読んでいます。

二つ目の伝記はチベット資料にあるプトンの「仏教史」だそうです。
プトン: 中央チベット生まれ、 1290-1364、
この人が書いたものを、ロシアの仏教学者オーベルミラーが英訳したものを
日本語にした、とあります。

いや~~、仏教の関連本ってのは、いろんな言語がからんでいて
もう大変ですね。

p33
ブッダが亡くなってから四百年たったときに、南方のヴィダルバの国に
一人の裕福なバラモンが住んでいたが、子どもがいなかった。

そして、夢のお告げに従って百人のバラモンを祭宴に招待したら
子供ができたっていうんですねえ。
それが龍樹ってことですね。

その後も十日以上は生きられないとか、7か月しか生きられないとか、
7年しかだめだとか、そのたびに祭宴をやって生き延びたとされている
んですね。

そして、その7年が近づいたころに、旅に出される。

そこで、修行僧になれば寿命が延びるといわれて出家

p34
かれは出家し、師はアミターユス(阿弥陀仏)、死王の征服者の円壇で、
かれを僧の位につけ、{アミターユスの}陀羅尼(呪句)をとなえさせた。
・・・かくしてかれは死王から脱することができた。

「阿弥陀仏」さんは大乗仏教の如来のひとりってことになっているんですけど、
もうこの龍樹さんの時代には浄土思想があったんでしょうか?

こちらのサイトによれば、
「仏教学者の中村元は、浄土教・浄土経典は部派仏教がいちおう確立したのちに
出現したものとする。140年頃かそれ以前には、『無量寿経』・『阿弥陀経』
が漢訳されたとする。」
とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C#.E7.B5.8C.E5.85.B8.E6.88.90.E7.AB.8B.E6.99.82.E6.9C.9F.E3.81.A8.E7.B7.A8.E7.BA.82.E8.80.85

大乗仏教の阿弥陀仏とはいいながら、結構早い時期に既にあったんですね。

・・・正式に出家受戒して、シュリーマーンという修行僧として
知られるようになった。

その後、龍宮に行ったとかいう話もあるのですが、

龍宮伝説がどこから来たのかってのを検索してみると、
中国よりも前に、インドだったというサイトがありました。
http://www.systemicsarchive.com/ja/b/riddle.html
インドのナーガ神の宮殿も地下か海底にあって、当然、憂いを知らない楽園である。」

ここに「ナーガ神」とあるんですが、これは「ナーガールジュナ」の
「ナーガ」(龍)と同じですね。

さらに、このサイトでは、ヨーロッパにも似たものがあるとして、
「この話は、キリスト教が伝来する前から存在したケルト人たちの土着的な伝説なのである」としています。

龍樹さんって、もしかして浦島太郎なのかな??

p37
{要するに}教えのためにこの師の成し遂げた業績は、次のごとくである。
ーーかれは僧団の侍者となり、多数の塔院や寺院を造って、金剛座(ブッダ
ガヤーで釈尊がさとりを開いた場所)に金剛石の網のような囲いをつくり、
シュリー・ダーニカタカのストゥーパには立派な建造物を建てた。

学問の領域におけるかれの活動は次のごとくである。
ーー内明(形而上学)におけるかれの主要著作はーー
両極端を避けて、中観の哲学体系を主要論題としているものであり、
それらは、・・・・

ここで多くの著作がリストアップされているんですけど、
例えば「夢の如意珠の物語」は 「論理的方法によって
(真理を)証明し、大乗の人々の心を浄め、・・・」とか、
さらに「ヨーガ百篇」などの医学書をも、かれは著した、
・・・との説明があります。

ヨーガというのは仏教と同じころに発生したのかと思いきや、
とんでもなく前からあったようですね。
こちらのサイトには、
「明確な起源は定かではないが、紀元前2500年-1800年のインダス文明に、
その遠い起源をもつ可能性が指摘されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC

ヨーガはバラモン教、仏教、ジャイナ教の修行法でもあった。」
などという記載もあります。

要するに、そのころは、特にお釈迦様が仏教を始めたころは
仏教自体も宗教というより修行法という感じだったんじゃないのかな、
と私は思うんですけど。
実際にお釈迦さんも「宗教をすてろ」なんてことを「ブッダのことば
の中で言っているんですよねえ。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/06/post-603c.html

そして、「ナーガールジュナ」という名前について
次のような記述があります。

p40
(あたかも実際の龍が自分の住処についてその限界を知らないように、)
常住という極端説と断滅という極端説という二つの極端な見解の二つ
の極端説に住することがない。

「アルジュナ」というのは、「力を獲得した人」という意味である。

・・・
正覚者(ブッダ)の智慧の海から生まれ、
正法の蔵の深遠なるゆえんをみずから覚ったとおりに慈悲心をもって説いた。
・・・

p42
「大雲経」の中には・・・
「わたし(釈尊)の滅後、四百年にしてリッチャヴィ人なるこの人は
ナーガという名のビク(修行僧)となり、わたしの教えを宣説するであろう。」

・・・つまりは、様々な伝説に彩られた人でもあるようです。

==その5に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月30日 (金)

その3 「ナーガールジュナ(龍樹)の生涯」ー 「龍樹菩薩伝」 

中村元著「龍樹」を読んでいます。

さて、龍樹さんの出現です。

ナーガ   = 「龍」という意味
アルジュナ = 昔の英雄の名の音写「樹」 

150年ー250年ごろと推定

インドには彫刻も絵もないが、日本には想像でつくられたものがある。

龍樹の伝記の主なものは、
1. 「龍樹菩薩伝」 原典はなく鳩摩羅什の漢訳のみ
2. プトンの「仏教史」の一部
3. ターラナータの「仏教史」の一部

この本にはこれら3つの現代語訳を掲載しているんです。

そこでまずは1の「龍樹菩薩伝」です。

p19
求道者(菩薩)であるナーガールジュナは、南インドのバラモン
カーストの出身であった。

p20
弱冠にして名を馳せ、諸国に独り歩み、天文、地理、未来の予言、
およびもろもろの道術ーーすべて体得しないものはなかった。

・・そして、ここで何でも出来てしまう龍樹は親友と一緒に4人で
隠身の術で姿を消して、王宮に潜り込み宮中の美人をみな犯してしまう
という快楽の限りをつくしたという話が出て来るんです。

しかし、この悪行がばれて、親友3人は殺されてしまうんです。
そこで龍樹は「欲は苦しみの本であり、もろもろの禍の根である。」
ということを悟ったそうです。

p24
(龍樹は)「世界のうちに説かれている教えのうちには、道が甚だ
多い。 仏の経典は絶妙で、すぐれてはいるけれども、理をもって
これを推しはかってみると、いまだ{理}を尽くしていないものがある。」

・・ここで、どうも理屈が十分じゃないってことを言っているみたい
なんですね。でも、これは龍樹の慢心だとも書いてあるんです。

そこで、

p24
大龍である菩薩は、ナーガールジュナがこのように{思い上がって
いるのを}見て、惜しんで憐れみ、・・・<もろもろの方等(大乗経典)、
深奥なる経典、無量の妙法>を授けた。

そうしたことで、

p25
やがて諸経の一箱を得て、深く無生の二忍に入って完全に達成した。

・・・ここで解説を見ると、
「無生の二忍」について以下のようにあります。

無生法忍(あらゆるものの不生、すなわち空なる真理をさとって、
しかと知り、心を案ずること)、つまり空をさとることに言及しているのである。
それに二種あるというのは、人空(個人存在が空であること)と
法空(個人存在を構成している諸要素が空であること)をいうのであろう。

この「諸要素」ですけど、これはおそらく五蘊のことを言っているんでしょうね。
般若心経にでてくる言葉でした。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/01/post-d8e5.html

又、この「無生法忍」については、こちらのサイトに若干の解説があります。

http://ww6.enjoy.ne.jp/~myouannji/houwa341.html
「「無生法忍」とは、中村元先生の『仏教語大辞典』に、
無生法理認証の意。空であり、実相であるという真理を認め、安住すること。
一切のものが不生不滅であると認めること。ものはすべて不生であるという確信。
忍は忍可、認知の意で、確かにそうだと認めること。真実の理をさとった心の
安らぎ。不生不滅の理に徹底したさとり。無生忍ともいう。」

又、こちらのサイトにもあります。
http://www.komyodan.jp/04-sinran/7kousoufile/ryuujyufile/nangyoutoigyou.htm
「無生法忍とは何かというと、無生法とは、無生は無生無滅、すなわち生まれる
こともなければ死ぬこともない、そういう真実実相の世界をいっている。
その如なる世界を無生法という。忍はわかる、認識ということです。無生法と
いう世界が本当にわかる、それを無生法忍という。」

この他に、龍樹さんの凄さを物語る話がいくつか出てくるんですが、
それは読んでいただくとして、最後には 以下のようなことが書いてあります。

p30
ナーガールジュナがこの世を去ってから今に至るまで百年を経ている。
南インドの諸国はかれのために廟を建て、敬いつかえていることは、仏に
たいするがごとくである。

ただし、こちらのサイトでは、「史学的に厳密な生涯は不詳であるが」
とありますし、インドでの原典はなく漢訳だけがあるということなので
時代の特定はむずかしいようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9

==その4へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月29日 (木)

中村元著「龍樹」-その2 「ナーガールジュナ(龍樹)の生涯」 「空」=「ゼロ」

中村元著 「龍樹」 を読んでいます。

この本は流石に中身が濃くて、一筋縄では行きそうにもなく、
正直始めっから諦めているような感じなんですが、ゆっくりゆっくり
噛みしめながら読んでいきたいと思います。

006

「まえがき」からして、学ぶことが多くて、先が思いやられます。
その「まえがき」から・・・

p5
仏教の伝統的用語では「空」の思想を「空観」とよぶ。
空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが
固定的な実体を有しない
、と観ずる思想である。

結局これが結論みたいなものなんでしょうが、その歴史について
以下のようにあります。

ー すでに原始仏教において説かれていた。
ー 大乗仏教初期の「般若経」で発展、基本的教説となった。
ー 龍樹がこれを哲学的・理論的に基礎づけた。
ー 日本において「八宗の祖師」と呼ばれる。

一応、「原始仏教」においても「空」はあったってことですね。
それが「大乗仏教」で発展した。

そして、龍樹の著書については、
ー 代表的著作は「中論」
ー インドの哲学的思索の中でも最も難解なものの一つである。
ー 「中論」の現代語訳を読んだだけでは、到底理解することはできない

凄いですね。「理解することはできない」と断定されています。
だから、いろいろと解説を読まないとだめだよってことなんです。

それでは、本文の「I。 ナーガールジュナ(龍樹)の生涯」に入ります。

p16
大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという
理論によって、空の観念を基礎づけた。

(空の)語源は「膨れあがった」「うつろな」という意味である。
膨れあがったものは中がうつろ(空)である

数学においてゼロと呼んでいる小さな楕円形の記号は、サンスクリット語
ではシューニャ(空)と呼ばれる。
それが漢訳仏典では「空」と訳されているのである。

・・・お~~、なんと、「空」って「ゼロ」のことだったんですね。
「ゼロ」がインドで発明されたってことは知っていましたが、
それが「空」だったとは・・・

p16
中観派の哲学者たちは・・・- 何ものも真に実在するものではない
あらゆる事物は、見せかけだけの現象にすぎない。 その真相について
いえば空虚である。 その本質を「欠いて」いるのである。

p17
無も実在ではない。 あらゆる事物は他のあらゆる事物に条件づけられて
起こるのである。
二つのものの対立を離れたものである。・・・空とは、あらゆる事物の
依存関係にほかならない。

・・・中観派っていうのはナーガールジュナ(龍樹)を祖とする
哲学者たちのグループだという事なんですね。
「宗教家」ではなく「哲学者」と書いてあります。

p17
般若経典は膨大なものであるが、その中では、ただ、空ということが
高らかに強調され、くり返されている。 しかし、それを理詰めに論議
するようなことはなかった。

・・・原始仏教にもその種はあってお釈迦さんがそれらしきことは
言っていた。 そして、大乗仏教の初期に発展したんだけど、
「空だ、空だ」って大声で叫んではいたんだけど、
それがどういう理論なのかはみんなはっきりさせてはいなかったんですね。

そこに龍樹さんが出現した。

==その3へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月26日 (月)

NHKスペシャル 大海原の決闘 クジラ対シャチ 見ました?

NHKスペシャル 大海原の決闘 クジラ対シャチ 見ました?
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/1021/

凄くいい番組でしたね。
特に、自分の種族、グループでもないクジラの子をシャチから救うってのが。
クジラの世界にも慈悲っていう文化思想があるんかい?って感じでした。

クジラ 対 シャチ - どっちが好きですか?

普通には 「クジラが好き」でしょうか。私も同じく・・なんですけど。

優しいお母さクジラと子どもクジラを襲う シャチのグループ

子どもをおんぶして必死に守るお母さん。 感動です。

海のギャング、シャチ、ってんだから悪役イメージですよね。

天邪鬼な見方をしてみましょう。

オキアミを食べる、小さな命を 食べまくる鯨
自分よりも大きな体をもつ相手に戦いを挑み 
命がけで子供を育てるシャチ
・・・・って表現してみたらどうでしょうね。

「シャチ(鯱、学名: Orcinus orca)は、クジラ目ハクジラ亜目
マイルカ科シャチ属の唯一の種である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%81
シャチが食べるものは、テレビではクジラの子供を襲うってことでしたが、

「肉食性。海洋の食物連鎖の頂点に位置し、武器を使う人間を例外にすると
自然界での天敵は存在しない。知能も高く多くの生物を捕食することから、
非常に獰猛で貪欲な捕食者として知られている。」
と書いてあります。

「クジラ(鯨)は哺乳類のクジラ目、あるいは鯨偶蹄目の鯨凹歯類に属する
水生動物の総称である。その形態からハクジラとヒゲクジラに大別され、
ハクジラの中でも比較的小型(成体の体長が4m前後以下)の種類をイルカと
呼ぶことが多い」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9

以上を読むと、クジラ目ハクジラ亜目ってところまでは同じみたいです。

クジラが食すという「オキアミ」っていうのは、
「オキアミ(沖醤蝦)は、軟甲綱 真軟甲亜綱 ホンエビ上目 オキアミ目に属する
甲殻類の総称。」
と解説されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%9F
要するにこれも肉食ってことになるんですかね。
相手は小さな小さな命だけど・・・・

でも、なぜ シャチのことを知りもしないのに クジラの方が
好きってなっちゃうんでしょう。

たくさんの草食動物を獲物にしている豹とかライオンなんかは
おそらく草食動物たちよりも 草原の王として好かれているのに・・・

猫みたいだから好かれるんですかねえ。

人間って本当に勝手な動物ですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本語教師症候群 - どっちがもっと好きなのか・・・??

NHKの「あさいち」で レポーターと思われる人が
言っていました・・・

「お父さんよりも イワナが大好き という お母さんです」

この意味って二つありますよね。
これは 誰が 何を 誰よりも 好きなのか ?

番組の中での話の筋、つまり文脈から判断するとなんとなくは
分かるんですけど・・・
たぶん「イワナにぞっこん惚れている」お母さんなんでしょう。

「お父さんよりもイワナが」大すきと言う お母さん

Aー お母さんが好きなのは お父さんよりもイワナの方である。
(好きな対象として お父さんと イワナを比べている。)

英語にしてみると、
she is the mother who says that she loves iwana much more than her husband.
でしょうか。

お父さんよりも 「イワナが大好き」と言う お母さん

Bー お父さんよりも お母さんの方がもっと イワナが好きである。
(イワナが好きだという その程度を お父さんとお母さんの間で比べている。)

she is the mother who says that she loves iwana much more than her husband does.

英語だったら「does」っていう動詞を一番最後に書けば区別できるってこと
になりますか?

この違いを日本語で出そうとすると、

前者Aは:

「私はお父さんよりもイワナの方がもっと好きだ」というお母さん。

後者Bは:
「私の方がお父さんよりももっとイワナが好きだ」というお母さん。

・・・って書けば分かりますか?

イワナの方が」と「私の方が」で区別できるってことですかね。
比較するものの後に「の方が」を足せばいい?
これは外国人に日本語を教える場合に使われる文型のひとつですね。

では、そのポイントだけを変えて文にしてみましょう。

Aー 「お父さんよりもイワナ(の方)が大好きだ」というお母さん
B- 「お父さんよりも(私の方が)イワナが大好きだ」というお母さん

こうやって比べてみると 結局 (私)という言葉、「・・・」内の文の
主語あるいは主体が抜けているってことが そもそもの混乱の原因って
ことになるみたいですね。

あなたなら どうやって区別しますか?

 

 

 

 

 

 

 

      

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中村元著 「龍樹」を読んでいます - その1  日本仏教の祖 ?

「天平の甍」にこんなことが書いてありました。
大乗仏教の理論の大きな柱であったもののひとつ「瑜伽唯識論」。

p13
「栄叡は美濃の人、氏族詳かならず、興福寺に住す。
機そう神叡にして論望当たりがたし、瑜伽唯識(ゆがゆいしき)を業となす。」

(瑜伽唯識: 
瑜伽論=<心をととのえ主観と客観を一体にするとするもの>、 
唯識論=<万法は心の所現なりとするもの>)

瑜伽論はヨーガ行者と関連があるようです。

こちらのサイトでは、このように書いてあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
瑜伽行派は、インド大乗仏教史上、空を説く中観派とともに二大思潮を形成したが、
6-7世紀頃から中観派との間によく論争が行われるようになり、
一方、教学上の統合の動きもあった。後代にはインド一般には
「唯識派」と呼ばれた。

さて、ここにありますように、大乗仏教の二大思潮のひとつで
あったわけですが、では一方の「中観派」はどうなんでしょう。

こちらで「中観派」の解説をよみますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A6%B3%E6%B4%BE
龍樹(りゅうじゅ、(sanskrit) naagaarjuna、150年 - 250年頃)の
『中論』の著作によって創始された。」

さて、この龍樹さんなんですけど、
「空」の理論体系を作った人ってことでも興味がありますし、
小乗仏教から大乗仏教、そしてこれが中国から日本へ渡って法然さんの
浄土宗や親鸞さんの浄土真宗にもつながって、浄土真宗では
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9

日本では、八宗の祖師と称される。また真言宗では、真言八祖の
1人であり、浄土真宗の七高僧の第一祖とされ」 
ているそうですので、この龍樹さんのことを調べてみたいと思うんです。

・・・それで、今から読み始めるのは この本です。

講談社学術文庫 「龍樹」 中村元著 

005

459ページまであって結構分厚いので かなり時間がかかりそうです。
勿論中身も超難解らしいので・・・意味不明が続出しそうですけど。

目次をみると「中論」そのものの他にもいろいろと面白そうなことが
書いてあるので、楽しめそうです。

I. ナーガールジュナ(龍樹)の生涯
II. ナーガールジュナの思想
 1.大乗仏教の思想
 2.空観はニヒリズムか
 3.論争の相手
 4.空の論理
 5.論争の意義
 6.縁起
 7.空の考察
 8.否定の論理の実践
III. ナーガールジュナの著作

IV. ナーガールジュナ以後

長くなりそうなので、いくつかに大きく分割して 読み進めようと
思っています。

==その2に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年11月25日 (日)

フィリピン人の こんな感覚ってのが ・・・・ 嬉しいよねえ バギオだけ?

マニラにだったらあるかもしれないけど、

E084

こういう富士山の絵。

日本の銭湯じゃないっすよ。

E081

フィリピンじゃあ有名な ジプニーです。

庶民の通勤・通学の味方です。

E002

富士山だけならともかく・・・・これって ありかいな?

まあ、なにを書いてもいいってことなんでしょうねえ。

TOKYO JAPAN が走っているんです。

まあ、ここまでなら ふつうって言えないこともないんですけどね・・・

E083

ボンネットの横に書いてある文字・・・読めますか?

IBARAKI KEN = 茨城県 ・・・なんですけど。

青い文字で IBARAKI、 黄色で KEN

・・・よっぽどの思い入れなんでしょうねえ~。

オーナーがどんな人なのか、気になるところなんですが・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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井上靖「天平の甍」を読む。- 17 鑑真は来日して幸せだったのだろうか

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

p180
仲麻呂が生きて再び長安の都にはいったころ、奈良では大仏殿の西に
戒壇院が落成しようとしていた。
・・鑑真の住居である唐禅院も戒壇院の北方に池を隔てて建てられた。

p181
落成すると間もなく、一つの問題が起こった。
それは鑑真が三師七証の授戒をもって、仏道入門の正義となさんとすることに
対する反対であった。 ・・・・自誓授戒でいっこうにさしつかえないことを
主張して、唐僧による新渡の戒を排そうとした。

この対決の場に鑑真側としてはたれを送ってもよかった。
・・・しかし、たれにしても日本語が不自由であるというひけ目があった。
普照はその役を自ら買って出た。

賢よう(王+景)らは「占察経」を引いて論陣を張ったが、普照は「瑜伽論」決択分
五十三巻に基づいて、相手を詰問した。賢よう(王+景)らは・・・答えること
ができなかったのである。
・・・八十余人の僧侶たちは、旧戒を捨てて、戒壇院において戒を受けた。
・・このことがあってから普照の声明は大いに上がった。

おおお、留学僧普照の大勝利に終わったわけですね。
元々留学にいったくらいだから英才だったのでしょうが。面目躍如ですね。

「占察経」については、こちらに解説がありますが、偽経だとの説もあるようです。
地蔵菩薩に関係するみたいですね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8D%A0%E5%AF%9F%E7%B5%8C

普照が基づいて論はこちらに解説があります:
http://www.weblio.jp/content/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E5%B8%AB%E5%9C%B0%E8%AB%96
「瑜伽行者(ヨーガの実践者)の修行や悟りの境地などを説き、唯識中道の道理
宣揚する。瑜伽論。」

占いと唯識だと、やっぱり唯識論の方がロジックで勝てそうな感じが
しますよね。中身は知りませんけど。

p182
鑑真は西京の新田部親王の旧地を賜り、そこに精舎を営み、建初律寺と
号した。 ・・一時中止となったが、孝謙天皇は先帝の遺志をつぎ、
・・・三年八月にして成り、天皇より「唐招提寺」の勅額を賜って
山門に懸けた。

・・・天皇は詔して、出家たる者はまず唐招提寺にはいって律学を学び、
のち自宗を選ぶべしと宣したので、寺には四方から学徒が集まり
講律受戒はすこぶる盛んになった。

p185
鑑真が寂したのは、唐招提寺ができてから四年目の天平宝字七年の春
であった。 ・・・鑑真は結跏趺坐して、西に面して寂した。
年七十六。

これだけを見ると鑑真は当初の渡日の目的を完全に達したかのように
読めるのですが、どうもそうでもなかったという話もあるんです。

こちらのサイトをご覧ください。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic25.html
このページの下のほうから4段落目の中段あたりに、

758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われた。・・・・
759年(71歳)、そんな鑑真の境遇を知った心ある人が、彼に土地を寄進して
くれた。鑑真は私寺となる『唐招提寺』を開き戒壇を造る。・・・」

とあります。

鑑真が渡日しようとした時も 国として大歓迎で迎えるという様子もなかったし
密航みたいなことで何度も失敗して やっとたどり着いた日本
なのですが、日本の国としては、あまり大切に扱わなかったようですね。

しかし、それを志のある人がサポートしたってことです。

ただし、この758年は「解任」なのか「辞任」なのか
サイトによって説明が微妙に違っていますけど。
実際のところはどうだったんでしょうか。

栄叡と普照が命を懸けて渡日を成し遂げた鑑真による授戒。
鑑真さんは最後には帰化したとのことですが、それは幸せなことだったのでしょうか。

鑑真さんの年表はこちら:
http://coolrip.b.ribbon.to/tokyo.cool.ne.jp/jiangnanke/jianzhen/jianzhen_nianbiao.htm

鑑真さんと唐招提寺のことは こちらに詳しくあります:
http://www.geocities.jp/candymary2492/nara4.html

そして、「天平の甍」の末尾に、あのバックパッカー留学僧 戒融のことが
ちょっと書いてあります。

p185
戒融は・・・その志を曲げて、いつか日本へ帰っていたのかもしれない
・・帰国の裏付けとみなしてよさそうなもう一つの史料がある。
・・戒融という僧侶が優婆塞一人伴って唐から送渤海使船に乗って
渤海を経て帰国したが、途中、暴風雨に会い、船師が優婆塞を海に
投じた
ということが古い記録に載っていることである。

(優婆塞「うばそく」は仏教の在家信者の男子、とあるんですが、
まさか人間を海に投じたなんてことはないでしょうに・・・・)

==これで「天平の甍」を読み終わりました==

2015年9月に NHKの歴史秘話ヒストリアが「鑑真」をとりあげました:

http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/256.html

そして、この「何故 鑑真は日本へ渡ったのか」についての議論がこちら:

http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen21.htm

結局、いろいろな説があり真相は闇の中のようですが・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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井上靖「天平の甍」を読む。- 16  鑑真は奈良の都へ。仲麻呂は・・・

旺文社文庫 井上靖著「天平の甍」を読んでいます。

さて、沖縄から北へ 鹿児島に向かって出航します。

p168
その翌朝南風起こって、三船はただちに、半月停泊した阿古奈波島
発した。 が、発航して間もなく、先頭を進んでいた清河の第一船は
座礁して動かなくなってしまった。

・・・第一船から合図があって、第二船、第三船はかまわず出航する
ことにした。
・・第一船では乗員ことごとくが船から降りて浅瀬にたち、そのうちの
何十人かが離礁作業に従事しているのが見えた。

なんとなんと、大使が乗った一番大きな船がいきなりの座礁です。

p169
普照の乗っている第二船は・・・
終日暴風雨に見舞われ、一同は生きた気持ちもなかった。 午後浪の上に
山頂を見た。薩摩の国の南部の山であろうという舟人の言葉で、乗員全員
がわずかながら生色を取り戻した。

そして、普照は夢とも現実とも分からないものを見るのです。

p170
船は何回も波濤の山に上り波濤の谷に落ち込んだ。
普照の耳には何回も業行の叫び声が聞こえ、普照お眼には何回もおびただしい
経巻が次々に透き通った潮の中へころがり落ちて行くのが見えた。

p170
この日の午後、第二船は薩摩国阿多郡秋妻屋浦(薩摩半島西南部の漁村)
へ着いた。

p171
上陸すると、副使古麿を初め遣唐使の一行は時を移さずただちに大宰府に
向かって出発した。

やりました、やりました、鑑真さん、普照さん、ついにやりました。
九州に到着です。

p171
二十年ぶりで故国の土を踏んだ普照の眼には、故国の自然が小さく見えた。
山も、川も、森も、平原も、そして平原に散らばる人家の聚落も、何も
かおがひどく小さかった。

たしかに、これは分かるような気がします。
中国大陸にせよ、アメリカ大陸にせよ、アホみたいに広いですもんねえ。
日本はまさに盆栽の国かな?

p171
普照は鑑真の一行とともに二月一日に難波に到着した。
・・・一行は三日河内の国にはいった。
・・翌四日、一行は・・・大和の平原を降って平群の駅に至った。
・・一行はただちに奈良の都を目指した

p172
東大寺にはおびただしい出迎えの人が群がっていた。 
武人もいれば、公卿も、僧侶もいた。

・・大仏は一作四年四月に開眼供養を行ったばかりで、まだ全面には
鍍金がかけられていず、半造りの感じであった。
普照はこんどの清河たちの遣唐使の使命の一つが、この大仏に塗る金を
得ることであると聞いたことがあった・・・・

そして日本国内の事情も二十年前とはすっかり変わってしまって
いたんです。

p175
宗教界そのものの事情もこの二十年の間にすっかり変わっていた。
普照が渡唐する当時は、課役を免れる目的で百姓の出家が多く、これが
大きい社会問題となっていたし、行基を指導者とする一派が民衆の
間に根強い力を持ち始めて、そこから来る混乱が全国的に広がっており、
・・・いかなる法律も無力であった。
・・・しかし、民衆の支持を得た行基は・・・ついに大僧正に任じられる
に至ったが、・・・数年前にはこうじていた。
・・・強権をふるう人物は相次いで物故し、・・・前回の遣唐船で
日本へ来た異国の僧たちがその学才を認められて替わって登用されるに
至ったのであった。

p176
伝戒の師を求めるということには、二つの意味があったが、
・・・政治的と言うべき意味は完全に解消し、今や授戒伝律はまったく
宗教的の問題だけになっていた。

さて、普照と鑑真一行は 無事に奈良の都についたのですが、
他の船はどうなったかっていうと、

p176
第二船に少し遅れて、副使真備の第三船は同じく薩摩の国に漂着したが、
大使清河の第一船と、判官布勢人主の第四船の消息はまったくわから
なかった。

p177
三月十七日に、・・・大宰府が使いを阿古奈波島に派して調べたところ、
清河らは帆を挙げて奄美を指して去ったが、その後のことは不明であると
いうそれだけの知らせであった。

p178
この日本での最初の天子の授戒が行われてから十日ほどして、・・・
第四船が薩摩国石がき浦に到着したという報がはいった。

あきらめていた第四船が日本に到着。
大使や業行の第一船も まだまだ希望があるということになったわけです。

p179
五月、鑑真は唐土から持ってきた如来の肉舎利三千粒を初めとして、・・
将来品を宮中に献じた。

p180
大使清河の第一船の消息は長いこと日本には伝わらなかったが、
その遭難の噂が唐の長安に伝わったのは天平勝宝六年(天宝十三年)の
夏のことである。
・・・しかし、清河、仲麻呂はその翌天勝宝七年六月に、十余人の
生存者とともに都長安にはいって来た。
・・船は遠く安南のかん州沿岸に漂着し、大部分の乗員が土人に襲われたり
病没したりしたが、・・・かろうじて身をもってのがれて来ることが
できたのであった。
生存者の中に業行の姿はなかった。

・・・しかし、こういう情報が日本に伝わるのに、それから4年も
掛かったって言うんですから・・・・

う~~ん。 分からん。
第一船は沖縄までは到着していたのに、そこから流され流されて安南国
そして中国に逆戻りってのが 不可思議ですよね。
安南国ってベトナムのことみたいです。

ベトナムのかん州というのがどの辺りが分かりませんが、
沖縄から台湾を通り越して、フィリピンのず~~と西、
鑑真が流された海南島よりもずっと西の海ですからねえ。
むちゃくちゃ風任せの航行だったんですね。

こちらのサイトで、ベトナムと「日本との関係」を見ていただくと
当時の安南は唐が支配していたとあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 
それに、風任せというより、海流で流されたようですね。

阿倍仲麻呂さんの人生・・・波乱万丈ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%80%8D%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82
なんと「ベトナムに赴き総督を務めた」とあります。
結局日本への帰国はならず中国で亡くなったんですね。

さて、肝心の鑑真さんは、その後どうなったんでしょうか。

==その17へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

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