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2012年12月15日 (土)

フィリピン ルソン島北部山岳地帯の昔話 LUMAWIG イフガオの神様?

3年ほど前にお世話になった方がつくった 山岳民族のミュージカルがあるというので、のぞいてみました。

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高校生(ハイスクール)やら大学生やらが大勢集まって来ていました。

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ベンゲット州国立大学(BSU)の大学生と山岳地帯にある民族舞踊を中心とする演劇集団が協演しているようです。

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会場はけっこう満杯に近い状態。

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UBとかNIITなどの大学の名前がありましたが、BSUの学生もいたようです。

チケットは大学の関係者みたいな顔をして大人料金で75ペソ。

一般の大人は200ペソくらいとられたとこぼしていました。

019

挨拶をしているのが、2009年のバギオ100年祭の折に バギオでの日系人の歴史を物語る「ケノン・ロード」のミュージカルの原作をつくってくださった Ventura Bitotさん。 ベンおじさんです。

数年前まで学校の先生をやっていた方で、退職後もいろいろなお祭りの企画を手がけられているおじさんです。

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LUMAWIGっていうのがなんのことだか、全く知らなかったんですが、山岳民族の皆さんとの付き合いが長い日本人の方の話では、どうもバギオから北方の山岳地帯での 昔話に関連しているらしい。

FOLK TALE あるいは FAIRY TALE の類で、日本の「鶴の恩返し」に似た話ではないかということでした。

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どうも イロカノ語だったようで、英語だったら少しは分かったかと思うんですが、お手上げでした。 会場には大きな笑い声が時々あがって、盛り上がっていたので、残念無念。

地元の人たちの笑いのツボが知りたい。。。

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しかし、100年祭のミュージカルの時もそうでしたが、音響と照明の状態はすこぶる悪く、セリフの音声がとぎれとぎれだったのは実に残念。

まあ、これがフィリピンの現実なんだとは思うんですが。

携帯マイクに乾電池が入っているんですけど、その乾電池の新品を買って使っていても、すぐに電池がなくなってしまうとか、途中で停電状態になるとか・・・ そんな感じでした。

それはともかく、ストーリーすら分らないんじゃ、気持ちが悪いので、インターネットで探してみました。

ありました、これです。 LUMAWIG。

http://www.sacred-texts.com/asia/pft/pft29.htm

http://en.wikipilipinas.org/index.php?title=Kabunian_(Lumawig)

これによれば、イフガオ族の神様のような存在を Lumawig とか Kabunian とか呼ばれているようです。

一方で、フィリピン語の中で一番広くつかわれているタガログ語の辞書によれば、lumawigの意味は 「じかんがかかる,時間がかかる,(okureru),おくれる,遅れる」 などとあります。

なんかイフガオでの意味とかなり異なっているような雰囲気ですね。

https://sites.google.com/site/wikangpilipino/l/lawig/lumawig

何故、こういうことになっているんでしょうか。 不思議。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その19 中村元著「龍樹」ー 「空の論理」 「去りつつあるものが去る」

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「4. 空の論理」を読んでいます。 

第二章の哲学的意義の解説です。

p123
「中論」は何故に「去りつつあるものが去る」というと二つの
去るはたらきが随伴すると主張するのであろうか。
常識上われわれの理解に苦しむところである

・・・はい、私も苦しんでおります。

「去りつつあるものが去る」という命題は「日本人は人である」と
いう命題と同様に何らの矛盾をふくまないではないか。
しかるにこれを不合理であるとしてナーガールジュナが極力
論駁するのは何故であろうか。

p124
法有の立場では作用をたんに作用としてみないで、作用を作用と
してあらわし出す「かた」「本質」が形而上学的領域において
実在している
と考える。

「去りつつあるもの」もわれわれによって考えられ、また志向
されている「あり方」であるから、たんに意識内容たるに
とどまらず、背後の実在界に根拠を有するものとみなされる。

p125
法有の立場は・・・
「去りつつあるもの」という「あり方」と 「去る」という「あり方」
とは全く別のものとされ、・・・二つの去るはたらきを含むことに
なる。

「あり方そのもの」(法のみ)であり、他のいかなる内容をも
拒否している二つの実体がいかにして結合しうるであろうか。
これがナーガールジュナの論点である。

・・・って言われても、分からないな。
ふたつの「あり方」の結合か・・・?

p125
一般に法有の立場に立てば、「去ること」をも実体視せねばならず、
そうだとすると種々に困難が起こるということをナーガールジュナは
強調したのである。

・・・あれれ、ここで「空の論理」の章が終わってしまいました。
どこに「空の論理」が書いてあったのかな、って感じですね。
要するに、この訳のわからない「論理」展開の部分が重要だって
ことを言いたかったのか?

・・・・

ところで、ここで今 私がどこにいるのかが分からなくなってきたので
目次をチェックしてみます。

「II.ナーガールジュナの思想 -「中論」を中心として」

という章の中身なんですけど、

1. 大乗仏教の思想
2. 空観はニヒリズムか
3. 論争の相手
4. 空の論理

ここまで読んできたわけですが、この後は、

5. 論争の意義
6. 縁起
7. 空の考察
8. 否定の論理の実践

ってなっているんです。

つまり、7.の空の考察を読まないと、「空」のことは分からない
ってことになりそうですね。

長い旅になりそうです。

==その20に続く==

 

 

 

 

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2012年12月14日 (金)

その18 中村元著「龍樹」ー 中論の「空の論理」とは何か。

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「4. 空の論理」です。 いよいよ佳境かな。

1.否定の論理の文章をいかに理解すべきであるか

・・・そうです、これが一番問題なんです。 知りたいんです。

p111
まずその書の立論の原意を知るためには どの註釈によるべきか
ということが問題となる。

・・・ってことで、出版されている註釈が六種類あるとして解説されています。
ただ、その中にはいろいろと註釈した人の傾向や取り扱い方、使用言語、
翻訳上の問題などがあるのでだれの註釈を選ぶのがいいのかの検討がされて
いるんです。

p112
ブッダパーリタ(仏護、470ころー540年ころ)・・は、・・・
中観派を復興した人であるが、・・・大体においてナーガールジュナの
原意を得ているであろうということは、すでに諸学者の認定する
ところである。
・・・信頼しうるのであるが、重要な思想を含む後半の部分は未出版・・・

p113
ブッダパーリタの弟子であるチャンドラキールティ(月称)の書いた
註釈である「プラサンナパダー」のサンスクリット文が残存し出版
されている。
・・「中論」研究におそらく最も重要であろうと思われる。

・・・ってことで、「ブラサンナパダー」を中心にして、その他の
5つの註釈を必要に応じて参考とするような読み方のようです。

p115
解釈の相違は実際に認められる。
その著しい例は同一の詩の文句に対し諸註釈により正反対の
解釈がなされ
ているところがある。
・・こういう場合にどの解釈が原意に合しているかを決定することは
容易ではない。

p116
「中論」における論敵排撃(破邪)の論理は、概念や判断内容の
実在性を主張する論理(法有の立場)を排斥しているのであり、
概念や判断の内容を説明しているのではないから、・・・
註釈者によって著しく異なった解釈がされるということはなかった
のである。

2.運動の否定の論理

「中論」の論法の基礎について書いてあります。

p118
第二章の論法をきわめて重要視していたらしい。
まずこの第二章の第一詩をみると、

「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも
去らない。 さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>
とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない

第二章は直接には行くこと{「去」を否定し、ひいては作用を
否定する。 また<時間のみち>{「世路」または「世」}を
問題としているから現象的存在である。<有為法>全体の問題
にもなってくる。

p119
その理由を諸註釈についてみるに、まず「已去」とはすでに去られた
ものであり、すなわち、「行く作用の止まったもの」であるから
作用を離れたものに作用のあるはずはない。
したがって、すでに去られたものが、さらに去られるということは
ありえない。

・・・かなり理屈っぽくなってきましたが、なんとかついていきます。

p119
ところが已去と未去とが去らないということは誰でも常識的に
理解しうるのであるが、しかし現在の<去りつつあるもの>が
去らないということはいえないはずではないか
、という疑問が
起こる。

p120
ナーガールジュナは答えるーー
・・「去りつつあるもの」というだけならば、それはさしつかえない。
しかしながら「<現在去りつつあるもの>が去る」とはいえないと
主張する。

・・もしも「去りつつあるものが去る」というならば
主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と、
あらたに述語として附加される「去」と二つの<去るはたらき>が
付随することとなる。

p121
すなわち<去るはたらき>と<去るはたらき>とは互いに相い依って
成立しているものであり、<去るはたらき>があるとすれば
必ず<去る主体>が予想される。 故に<去るはたらき>が
二つあるとすると<去る主体>も二つあらねばならぬことになる。
このように全くありうべからざる結論を付随して引き起こすから、
「去りつつあるものが去る」ということはいえないと主張
している。

この議論は真にプラサンガの論法の面目を最も明瞭に示して
おり、第二章の論理の中心は上述のところで尽きている。

・・・まあ、もっともらしく聞こえるんですが、論理的なんでしょうが、
正直ぴんとはきません。 (笑)

p122
上述の論法と似た議論は「中論」のうちの各所に散見する。
吉蔵はこれに「三時門破」または「三世門破」という名を与えている。

・・どれも「大品般若経」の中の不来不去を註釈するところに
説かれているから、「中論」のこの議論も「般若経」の不来不去を
証明するつもり
であったかもしれない。

・・・これが何度も出て来る論理だってんですが、
わたしとしてはそもそもこの論理が正しいのかどうかさえ
分かりません。 困ったなあ。

==その19に続く==

005

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その17 中村元著「龍樹」ー 「般若心経」でいじめられた説一切有部 ?

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「3. 論争の相手」です。

(4) 恒有の意義

p105
有部の根本思想
「三世実有法体恒有」

= 「三世において実有なる法体(法そのもの)が恒に有る」

三世の区別はいかにして成立するかという問題に関して、・・・
・・ヴァスミトラの「位の不同」によると解する説が正統説(正義)
であるとされている。 すなわち作用の異なるに従って三世の
区別が立てられる、という説である。

p106
いずれの説についても言えることであるが、ここではもろもろの
事象の生起および生滅を意識の流れにおいてとらえているのであって、
輪廻の問題からは切り離されている。
ここではもろもろの法が時間的様態において存すると考えられて
いるのである。

p107
自然的存在としてのものは現在一瞬間でなくなってしまうが、
われわれの意識において志向されているありかたはけっして
なくならない。

すなわち、「かた」としての純粋の法が先になくて後にあり、
先にあって後になくなるということはありえない。

p108
西洋哲学との相違

普通一般に有部は実在論を説いたといわれるが、・・・
西洋哲学でいう普通の実在論とは著しく意味を異にするものでは
なかろうか。

p109
諸学者によってプラトーンの哲学との類似が指摘されているほどで
あるから、たといこれをリアリズムとよぶにしても実在論と
訳すよりも実念論(唯名論に対する)と訳したほうがよいかも
しれない。
インド学者の中でも・・有部を「概念の実在論」とよんでいる

・・なるほど、なるほど、今まで読んで来たところでは、
そう呼べるように思いますね。

p109
ところが、・・・概念のみならず命題の自体有を認めているから、
むしろ現象学の先駆思想、たとえばボルツァーノの哲学と類似して
いる点がある。

結局、有部の思想に西洋哲学の「何々論」という語を持ち込むことは
不可能なのではなかろうか。・・それに反対した中観派も・・・
困難であると思われる。

・・・なんじゃ、なんじゃ、そうですか。そういう落ちですか。
困っちゃうな。

そして、著者はこの章をどう締めくくっているかっていうと、

p109
従来中国・日本の仏教では、有部は、小乗仏教の代表的な学派
として、仏教の中で最も低級な教えのように思われていた
しかし・・・それ自体として深い哲学的意義をもっているから、
・・もっとよく理解し、正当に評価する必要があるだろう。

・・・へえ~~~~、そうなんですか。
説一切有部の学派は、そんなに貶されていたんですねえ。
小乗と呼ばれること自体が、大乗側からの蔑称だと聞いていますけど、
「般若経」とか、日本で超有名になった「般若心経」で下にみられて、
中論なんかで大乗仏教の理論武装がされてからはますます
そういうことになってしまったってことでしょうか。

==その18に続く==

 

 

 

 

 

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2012年12月13日 (木)

その16 中村元著「龍樹」ー 説一切有部の弱点とは・・・経験論的実在論

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「3. 論争の相手」です。

実有と名有・和合有」のところです。

p101
第三に実有は「名有」と区別されねばならない。
名有とは亀の毛、兎の角などのような、それ自身に矛盾を内包し、
自然的存在の領域においてその対象を見出し得ない概念である。

・・・つまり、名前を勝手につけることはなんとでもできるけど、
そんなものはこの世に有り得ない名前ってことでしょうか。

第四に実有は、ブドガラすなわち連続した個人存在のような
和合有と区別される。 有部はブドガラの実有を認めなかった。
個体を構成する五つのあつまり(五蘊)の和合を仮に施設して
ブドガラとみなすにすぎぬという。

・・「ブドガラ」=「連続した個人存在のような和合」
=「個体を構成する五つの集まり(五蘊)の和合」ってことになりますか?

・・五蘊のひとつひとつは実有だけど、そのあつまりは違うってことかな?

p101に著者が要約したところを、さらに簡単にまとめると:

第一: 実有=自然的存在を可能ならしめる「かた」としての「法」
    のみにいわれうる。
    仮有=自然的存在
    名有=自然的存在の中に対象を見出しえない。
    和合有=実有なる五つのあつまり(五蘊)の仮の和合(プドガラ)

第二: 法は自然存在の「ありかた」
    他に依存せず、独立
    よって、相待有とは異なる。

(3) 「一切」の意義

説一切有部の「一切が有る」の意味はなんなのかってところです。

p102」
「一切」」とは五蘊十二処十八界であるといわれ、あるいは
たんに十二処であるともいわれる。

十二処 = 眼などの六つの器官(六根)
      それらの対象(六境)
      

十八界 = 六根 + 六境 + 六入
      十八の要素で構成される主観・客観のすべての世界

有為法 = つくられた現象的存在
無為法 = それ自体で存在する永久不変の存在

五蘊は有為法のみ。

p102
「一切」とは過去・現在・未来の三世である、とも説明されている。
・・仏教は時間という独立の実体を認めないから、「三世に属するもの」
であったろうと思われる。

・・・ほお~~~、時間を認めていないんですか。
どういう意味なんだろう・・・
この前NHKの番組で、光の速さだけが一定であって、
時間と空間は変化するって話だったようなことでしたけど・・・
相対性理論の話でした。

p103
法の変化は生起(生)、持続(往)、異(変化)、消滅(滅)の
四有為法によって起こされるから
、「三世に属するもの」とは結局
有為法の意味である。・・たいていは有為法と無為法と両方を含む
としている。

「一切」が無為法を含むか否かに関しては、・・・無為法を実有なる
法とみなすか否かによって定まるのではなかろうか。
有部のように無為法という実体を認めるならば「一切」の中に
含めざるをえないのであると思う。

「一切有」とは「一切の法が実有である」という意味である。
法ならざるもの、・・・は、「一切」の中に、含まれていない。

p104
「一切」を文字通り「すべて」という意味に解してはならないし・・・

p105
インド一般の集合説と共通な、「ありかた」が有る、と解する
立ち場に従うならば徹底的に実有なる法の範囲を拡大せねばならぬ
はずであるのに、仏教である以上それが許されない
何となれば、実有という概念の範囲を拡大すれば、ますます
経験論的実在論の立場に・・・接近するからである。
ここに有部の弱点があり、・・・

・・・「インド一般の集合説」ってのが分からないんですけど、
ここで言っているのは基本的に釈迦は
「p88
ゴータマ・ブッダが有・無の二つの極端説を否定したにもかかわらず、
有部が・・・・何故にとくに法の「有ること」を主張したのであろうか。」
ってところで書いてあるように、釈迦がしゃべったことから
大きく外れていくわけにもいかないってことを「仏教である以上それが
許されない」と述べているんでしょうかね?

小乗仏教はブッダの言葉に忠実だったのかっていうと、そうでもない部分もあったってことになりますか。

ともあれ、ここに有部の弱点があると書いてあります。

==その17に続く==

 

 

 

 

 

 

 

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その15 中村元著「龍樹」ー 「有る」とは言うけど、むしろ観念論的 ?

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「3. 論争の相手」です。

「法」と「もの」のところです。

p92
法と本性、本質とは別なものではないから、本性や本質が「もの」
とされる以上、「法」も「もの」とされるに至った。

こういうわけで法は「もの」であるとする解釈が成立するに
至ったのであるが、この「もの」というのはけっして経験的な
事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」
しての「もの」であることに注意せねばならぬ。

p93
有部はけっして自然的存在としての「もの」の実在を主張したのでは
ない。 ・・・故に「法有」の「有」とは「経験界において有る」と
いう意味に解することはできないと思う。

・・・ここの文章で「できない」という断定ではなくて、「・・と思う」
と書いてあるところが微妙ですね。
まあ、いろいろな学者によっての解釈の違いもあるのでしょう。

p94
有部は概念のみならず判断内容すなわち命題がそれ自身存在する
ことを主張した
。 つくられたものども(諸行)は無常である。
しかしながら「諸行は無常である」という命題自身は変易しない
もしその命題自身が変易するならば、つくられたものどもは
無常である、とはいえなくなる。

・・・確かに、それはそうですね。
おっしゃる通りです。

p94
命題自体の問題は西洋では、近代現象学の先駆ボルツァーノに
よってとくに論ぜられたことであるが、すでに古代インドに
おいて有部の諸学匠がこれを唱えていたことは注目に値する。

(2) 実有の意義

p95
実有とは「俱舎論」からみて「それ自身の本質として有る」という
意味である。 ・・・すなわち「有」という類概念の中の一つの
種が実有である。 有部の論書をみると「有」を幾つにも分類している。

・・そして、そして、ここで、96ページと97ページに その
「有」の分類らしきものの表がありまして、これを見ただけで
ドン引きなんですけど・・・

一番上のレベルには、次のふたつが書いてあります。

無為法(生滅変化を超えた常住絶対なるもの)
有為法(原因・条件によって生滅する事物)

p99
まず第一に実有は、男、女、瓶、衣、車乗、軍、林、舎などの
仮有または施設有から区別される。 すなわち瓶とか車とか
いうような自然的存在は実有ではなくて仮有である。
これに反して、「随触を領納すること一般」「像を取ること一般」
という「ありかた」としての「受」「想」のごとき法のみが
実有である
とされている。

有部はたんなる実在論ではなく、むしろ観念論的傾向さえもそなえている・・

・・・こりゃあ参ったな。
説一切有部ってのは実在論かと思っていたら観念論?
じゃあ、「空」だとかいっている龍樹さんは もっと観念論になっちゃうのかな。

第二に実有は相待有と区別される。
相待有とは「長」と「短」、あるいは「これ」と「かれ」とのように
互いに相関関係において存する「有」をいう。

p100
この相待有の概念は中観派の主張と密接な関係があるから
のちに考察する・・・

有部によれば、
法はそれぞれ「それ自身の本質をたもつ」が故に法として成立する
のであり、・・・
本性は他に相待せず、他に依存せずに成就しているものであり、
・・・法は本性と異なるものではないから、したがって
「諸の法はそれぞれ別のものである」と説くのである。

・・・ほとんどギブアップ状態に入りつつあるんですが、
頑張って 次に行きます。

==その16に続く==

 

 

 

 

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その14 中村元著「龍樹」ー なぜ説一切有部はブッダの中道を破ったのか

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「3. 論争の相手」です。

p89
法とは自然的存在を可能ならしめているありかたであり、
詳しくいえば「・・・であるありかた」である。

個々の花、木などの自然的事物は法ではないが、その「ありかた」
としての、たとえば「感受されてあること」は法である、とされる。

p90
・・・すなわち法としての「受」はより高次の領域において有る
はずである。
存在はつねに時間的に存するが、法は、「それ自身の本質(自相)を
持つ」ものとしてより高次の領域において有るから、超時間的に
妥当する。 かくして法は有る、すなわち実在する、とされた

初期仏教における「・・・であるありかた」としての法が、
有部によって「・・・であるありかたが有る」と書き換えられたのである。

「である」から「がある」へ、と論理的に移っていったのが、
法有の立場の成立する理論的根拠である。

・・・ここで日本語の問題を p88でとりあげてあるんです。

元来「あり」という概念は二種に分化さるべき性質のものである。
一つは「である」「なり」であり、他は「がある」である。
・・西洋の言語でははっきり分化していないが、日本語では
明瞭に分かれている。
・・前者を扱うのは形式論理学であり、後者を扱うのは存在論
または有論である・・・

なんのこっちゃ・・という感じなんですけど、さらに
このように説明があります。

A)「これはAである」=「Aであること」及び「Aがある」の二つが同時に
           可能である。

B)「Aがある」= 「時間的空間的規定を受けているAがある」
       及び「それを超越している普遍的概念としてのAがある」
       後者の場合を哲学が扱うことになる。

つまり、論理が A)からB)に変わったってことでしょうか。

p90
法(ダルマ)は「たもつ」という語源から出た語であるが・・・

(有部は)
「それ自身の本質(自相)を持つから法である。」

(大乗仏教は)
「それ自身の本質をたもつことを欠いているから法ではない。」

p91
(有部は)
「それ自身の本質」を有部は「もの」とみなした・・・
「ものが実在する」というのも「それ自身の本質について」有るという
意味であり、自然的存在として実在するのではないのであろう。

・・・さてさて、このあたりから、なんだか訳が分からなくなって
きました。

p91
(有部は)何故に、法と異ならない本性(自性)という概念を
有部はもち出したのであろうか。
それに対する答えは与えられていないが、・・・

「・・・であるありかた」」としての法が一つの実在とみなされ、
「ありかた」が有るとされた場合に、それが本性といわれるのである。

結局、どういうことかと言うと・・・

チャンドラキールティによると、
本性 = 「・・・が(で)あること」  
     「であること」が実在とされたもの。
     「それみずからの「であること」」であると解する。

ここが理解できない・・・???

でも、まあ、私の理解としては、

有部は、「ありかた」が「有る」といい、
中論は、「ありかた」が「無い」と言っている、ってことにしておきます。

==その15に続く==

 

 

 

 

 

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2012年12月12日 (水)

衆議院選挙 どこに投票するか迷っているあなた! これで決めたら?

いよいよ週末ですね、衆議院選挙。

しかし、政党が乱立でわけわかんなくなっちゃいます。

そこで、迷っているあなた、悩んでいるあなたに、面白いサイトを紹介します。

選挙前に見ておきたいサイト7選

http://www.satonao.com/archives/2012/12/post_3489.html

様々な政策・論争の項目ごとに、あなたの賛成・反対をインプットしていくと、あなたの考え方に一番近い政党を 順番にリストアップしてくれるという ゲームです。

まあ、相性診断、恋人占いみたいなもんですね。

結構面白いですよ。

思いもしなかった結果が出たりして。

私の場合、

ひとつのサイトでやってみたら、一番に日本維新の会、どんじりに日本共産党。

別のサイトでやってみたら、一番にみんなの党、

そしてびっくりもびっくり、なんと二番に日本共産党が来ちゃいました。

・・・・・

と言いながら、私はもう12月5日にマニラの日本大使館で

全く別の政党に在外投票しちゃったんですけどね。

みなさん、投票には行きましょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その13 中村元著「龍樹」ー 仏教の「法」って「もの」のこと??

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「3. 論争の相手」です。

さて、いよいよ問題の論争相手、「説一切有部の立場」をよみます。

p82
伝統的保守的仏教(いわゆる小乗仏教)諸派のうちで、最大の
社会的勢力をもっていた「説一切有部」
は、「一切が有る」と
主張したといわれる。

漢訳大蔵経のうちに伝えられている小乗仏教の論書はたいてい
有部のものである。

有部の根本思想は昔から日本ではふつう「三世実有、法体恒有」
あるといわれている。
・・・「一切の実有なる法体が三世において恒有である」と
いいうる。

(1)有部における法の概念

p83
仏教思想は、つねに法に関する思索を中心として発展している。
これに対して大乗仏教、たとえば「中論」は「法有」に対して
「法空」を主張した・
・・

法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが原義であるといわれている。

p84
ドイツの・・・これを「もの」と訳している。
また日本でも伝統的に法とは「もの」「物柄」であると解釈
されている。

・・・ここで、なんで、原義が「きまり」・・であるのに、
「もの」というような訳があてられたのか不思議だってことに
なりますよね。

その経緯を著者は以下のように述べて、展開します。

p84
最初期の仏教すなわち仏教成立の当初においては、自然的存在の
領域を基礎づけ可能ならしめるところの法の領域を、

自然的存在の領域から区別して設定し、仏教はもっぱらこの法
の領域を問題とした。

・・・つまり、分かりやすく言うと、物という自然にあるものを
存在させている「きまりごと」を、実際にある物とは切り離して
「きまりごと」だけを議論したってことですかね?

p85
法とは一切の存在の軌範となって、存在をその特殊性において、
成立せしめるところの「かた」
であり、法そのものは超時間的に
妥当する。

その法の体系として、五種類の法の領域である個体を構成する
五つの集まり(五蘊)、認識および行動の成立する領域としての
六つの場(六入)などが考えられていた。

法の体系を可能ならしめる根拠はどうか、・・・これを基礎づける
ために縁起説が考えられていた・・・
十二支の系列のもの(十二因縁)が決定的に優勢な地位を占める
ようになった。

p86
縁起説によって法の統一関係が問題とされ出してからまもなく、
縁起説は法の統一の問題を離れて別の通俗的解釈に支配される
ようになったのである。
かくして有部の時代になると、縁起説は全く教学の中心的
位置を失い、ただ付加的なものにすぎなくなった。

・・・つまり、元々は縁起説で統一してあったものが、あまりに
通俗的になってしまったんで重要とはされなくなったんですね。
本来はアカデミックだったものが、手垢がついちゃって
権威が落ちちゃったってことか?

p86
有部は縁起によって法の体系を基礎づける立場を捨ててしまった。
その代わり法を「有り」とみなすことによって基礎づけた

すでに経蔵の中に、有と無とのふたつの極端説(二辺)を排斥した
経があり、有部の学者は明瞭にこのことを知っていたにもかかわらず、
何故に仏説にそむいてまで法の「有」を主張したのであろうか

・・・説一切有部は、分かっていたのに、極端説の「有」と
とったってことになりますね。
たしかに、お釈迦様は「ブッダのことば」の中で中道を言っていた
ように思いますが・・・

中道については、ここでちょっとだけ出ているんですけど。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

ただ、ここで言っているのは、難しい理論の話じゃなくて
修行のあり方について語っているみたいなんですけど。

p88
ゴータマ・ブッダが有・無の二つの極端説を否定したにもかかわらず、
有部が・・・・何故にとくに法の「有ること」を主張したのであろうか。

==その14に続く==

 

 

 

 

 

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その12 中村元著「龍樹」ー 定説ってのはないらしいけど、敵は実在論者なのだ

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「3. 論争の相手」です。

p76
「中論」は論争の書である
インドにおいてナーガールジュナの当時にすでに成立していた
諸思想体系を眼前においてこれを攻撃し批判している。

・・・そして、著者は、龍樹さんがどんな色々な思想体系を批判したのか
を解きほぐしていきます。

そしてその叩き台として、中国で空の思想を体系化し、三輪宗を
大成した中国の嘉祥大師吉蔵(549-623年)の分類
検討しています。

p77
「第一に外道をくじき。」
これは仏教外の、他の宗教のことを言っているそうです。

「第二に毘曇(小乗仏教の哲学者)を拆し」

「第三に「成実論」を排し」
「成実論」」は龍樹よりも後世の著作である。
しかし、成実論の淵源となる思想は龍樹以前に存在していたに違いない
から、おそらく経部の系統に思想だったろうとしています。

「第四に大執(大乗仏教におえる執著)を呵す(叱りつける)」
これは大乗仏教が成立した後に起こった問題なので、除外してもよい。

従って、著者は上記の中の第二がポイントだろうとしています。

p78
「中論」がどのような学派の説を攻撃しているかという点に
関しては、古来学者のあいだに種々の議論があり、定説という
ものは存在しない。

p80
縁起とか無我とかいうような思想は元来仏教が他派に対して
独自の立場を明らかにするために説いた
のであるから、
これを説明する「中論」は当然仏教外の諸派をも排斥している・・

「中論」は主として仏教内の諸派を相手にしているのであり、
仏教外の諸派はつけたしである・・・

p81
ある詩句は明らかに、とく子部・正量部のような、プドガラ論者
(個人存在の中心主体を承認する論者)を排斥しているし、
また経部を論破しているらしいところもある・・・

しかしながら「中論」の主要論敵は何といっても説一切有部
あろう。

・・・それは事物または概念の「自性」すなわち自体、本質が
実在すると主張する人々である。
「中論」はこれに対して無自性を主張した・・・

・・・仏教の様々な論を研究するということは非常な困難を
伴うもののようですね。

元々ブッダが書いたものなどひとつも無いわけで、
それを聞いた弟子が書いて、それも何百年も後になって
いろいろな解釈がでて、そこに言語の翻訳の問題なども重なり、
引用に引用、解釈に解釈が重ねられてきたのでしょう。

こういう難物を研究する人たちには頭が下がります。
・・・しかし、その上で、定説ってものがないってのは
素人的には 困っちゃうよねえ。

==その13へ続く==

 

 

 

 

    

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2012年12月11日 (火)

その11 中村元著「龍樹」ー なに? 大乗仏教は一神教ってこと?

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「2. 空観はニヒリズムか」の部分を読んでいます。

「中論」が書かれた当時の歴史的背景は・・・

p73
「中論」は終始、有部、経部、とく子部、正量部などの諸学派を
攻撃し、その教理を批判して、これらの諸派と厳然たる対立
示している。 この事実をみて近代の研究者は、たいてい、
大乗仏教は、従来の仏教とは全く異なったものであると解している。

・・ここでは、一応「中論」を大乗仏教の代表として扱って
いるようですが・・・

p73
戦前の西欧における随一の中観研究者であったスチェルバツキーは
・ブッダによって説かれた教えは徹底的な多元論であり、
これに対して「中論」などの大乗仏教は一元論であり、
・・「同一の宗教的開祖から系統を引いていると称する
新旧二派の間にかくもはなはだしい分裂を示したことは
宗教史上他に例をみない事例である」と述べている・・・

・・・多元論と一元論というのが出てきました。
どういう意味で使っているんでしょう。
もし多元論=多神教、一元論=一神教、ということを含むのであれば
今まで私がいろいろ読んだ中では違うような気がしています。
私が思っているのは、仏教が一神教になったのは
法然が阿弥陀様を専修念仏として決めてからじゃないかと思うんです。

一神教と多神教について、ちょっと気になったので、こちらを参照

p74
一般に大乗仏教は「仏教」ではあるかもしれないが、「ブッダの
教え」とは非常に異なったものである、と考えられている。

・・・前から、インターネットなどで、大乗仏教は仏教ではない
との説を見ることがありましたが、大多数の西洋の学者の意見だ
というのが、私にはちょっと驚きですねえ。
これも、お釈迦様から来た日本の仏教という環境に慣らされて
いる日本人的感覚なのでしょうか。

ここで、著者の中村元さんは、このように言います。

p74
もしも中観派の所説がブッダの教えと非常に異なるものであるならば、
それでは何故に自説をブッダの名において説きえたのであろうか
この理由を西洋近代の学者は全く説明していない。

p74
古来「中論」はもっぱら「般若経」の思想を蘭明するものであると
いわれている。

・・・ことに「般若灯論釈」の最初では、「中論」が「般若経」に
依拠すると書いている。 またアサンガは「中論」が般若思想の
入門書であるとみて、・・・

・・・ここまで読んできて、それじゃ、西洋の学者がいっている
大乗仏教は仏陀の教えとは異なるというのは、「般若経」を含めて
のことなのか、「中論」だけの話なのか、どっちなんでしょうね。

p75
では、「中論」はどのような意味において「般若経」に
基づいているのであろうか。
「中論」の中にあらわれる主要思想は「般若経」の中に
求めうるであろうか。

・・・ってことで、著者は、この「中論」と「般若経」との
関係を追及していこうじゃないか、と話を進めていくわけです。

では、また次回。

==その12へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その10 中村元著「龍樹」ー 中観派の空観は異端なのか、虚無主義なのか・・

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
に戻ってきました。

「2. 空観はニヒリズムか」に入ります。

このタイトルを見て、まず最初に思ったのが、今まで読んできた
「インドで考えたこと」です。
一番最後に、
「そして、そのいわゆる「無常観」、親鸞が嫌いだとしている
無常観、ではなくて、生身の人間が現実の娑婆で生きて行く
エネルギーとしての「色即是空」なるものが そこにあるような
気がしてきました。」
と書きました。

ですから、もう私にとっては結論が出ているようなものなのですが、
それは置いておいて 読みすすみます。

p67
「中論」の思想は、インド人の深い哲学的思索の所産の中でも
最も難解なものの一つとされている。
その思想の解釈に関して、近代の諸学者は混迷に陥り種々の批判を
下している。

p68
ベルギーの・・・・、ドイツの・・・、インドの・・・・らの
学者は虚無主義であるといい、ドイツの・・・、イギリスの・・・
などは否定主義であるといい、・・・
これらの解釈い対し、ロシアの・・・はむしろ相対主義であると
批判し、フランスの・・・がこれに賛意を表している。
・・記号論理学に大いに興味をもっていたポーランドの・・・は
「中間はは哲学史上最も徹底した唯名論者である」と批判した。
さらに中観派を幻影説ときめつける学者(たとえば峰崎正治博士)
もあり、全く諸説紛々として帰一するところを知らぬ状態である。
しかしながらインド学者一般の態度をみると、中観派を虚無主義
であるとみなす人が多いように思われる。

・・・まさに諸説紛々ですね。
学者でさえこの調子ですから、僧侶であろうが、一般人であろうが
どのように受け止めるかは本人次第ってことでしょうか。
そういうことであれば、逆い凡人としては都合がいいかな?

p69
仏教内においてさえも中観派は虚無論者だとみなされていた。
古代インドにおける伝統的保守的仏教(・・説一切有部)は
中観派を目して「都無論者」(一切が無であると主張する論者)
と評しているし、・・有力な学派であった経部も、・・・
「中の心を有する人」は・・・・「一切は無なりという執」に
陥っているから、・・・仏教内における二つの異端説のうちの
一つであるときめつけている。

p70
さらに中観派と同じ大乗仏教に属する他の一派であるヨーガ行派
からの非難も少なくない。
いずれの極端にもとらわれないで中道を説くところの中観派が、
・・・一つの極端説に固執する極端論であると・・

「非有を執している」と批評され、・・・「空見に著している」と
いわれている。

・・・確か、私の理解が間違っていたんでしょうね、龍樹と言う人、
そしてこの中論、空観は、大乗仏教の祖とでもいえるような
人だと思っていたんですけど、古代からそうでもないみたいですね。
大乗仏教の一派からも批判されているんですもんね。

p70
中観派は無を説いたとして、各学派から排斥されている・・・

p71
ところがこのような解釈はきわめて困難な問題に遭遇する。
「中論」はけっして「無」を説いているのではない。
その理由お一つとして「中論」の本文である詩句の中において
有と無との二つの極論(二辺)を排斥している、・・・

p71
ナーガールジュナは「有」を否定するとともに、「有」がない以上、
当然「有」と相関関係にある「無」もありえない、と主張する。

・・・事物の常恒性を主張する見解(常見)と事物の断滅を主張
する見解(断見)とを排斥せねばならぬ・・・

「中論」おいては排斥されているこの「断見」の方がむしろ
虚無論とよばれるべきものであり、現にそういう意訳をしている
学者もある・・・

p72
「中論」は無や断見を排斥しているから、「中論」はたんなる無を
説いているのではない
ことはほぼ推察しうる。

p72
では、何故に中観派は虚無論者ではないのであろうか。

・・・さて、やっとこの玄関先に、基本的な疑問の前に立ったような
雰囲気なんですが、次のページをみると・・・「理解するためには
当然その歴史的背景が問題となってくる」ってあるんです。

では、次回をお楽しみに。

==その11に続く==

==その1に戻る場合はこちらです==

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/11/post-60ca.html

005

 

 

 

 

 

 

 

原始仏教、小乗仏教、大乗仏教、無の論理、般若心経、無とはなにか、初期仏教、色即是空

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映画「Eleuteriaの夢」 島の娘Teryaの夢とフィリピンの現実

バギオにあるフィリピン政府直営の映画館、バギオ・シネマテックで
フィリピン映画を観ました。

ANG DAMGO NI  Eleuteria (エリューテリアという娘の夢)という映画です。

フィリピン・セブ島の東に浮かぶ小さな島、Olango島、の貧しい家族の物語。

Eleuteria

映画は、テリアという若い娘が長い髪で顔を覆い顔を伏せたまま長い時間進行します。
どんな顔なんだろ~って、ず~っとそればかりが気になるような映し方。

そして、それも海の近くの野原みたいな場所。
そこでその家族の家も出てこないまま、物語が続きます。
家族の食事も灌木の中。

父親は漁師という設定だが、漁師らしいシーンなどは一切出てこない。
仕事がないのか、怠け者なのか・・・

母親は、そういう亭主に文句や愚痴を言うばかり・・
借金だらけの家計。

そして、小さい妹デリアは、親の口げんかに気分も落ち込んで、姉テリアと
同じように、伏し目がちで食事もとれない。

映像はそこから、延々と船着き場までの道を歩いて行く家族とその周りに
寄ってくる人々を写していきます。

時は折しも村祭りの中。
異様な仮装、女装をした男が娘にせまる。娘のボーイフレンドだった。

着飾った女は結婚斡旋業
娘が見たこともないドイツ人との結婚を持ちかけ、ドイツへの航空券も
すでに手配し、ふんぎりのつかない娘を 船着き場まで長い道を歩きながら
説得する。
両親の為だ、妹の学校の為だ、云々。

もう一人の女は、娘の年上の従姉妹らしい。
一度海外に出たが、なにかのトラブルでフィリピンの小さな島に戻ってきた。
失敗した経験から、娘に様々なアドバイスをする。
ドイツに行くのだったら、甘い夢をみずに、覚悟を決めなさい。

船着き場で娘にとりつくボーイフレンド。
しかし、娘はその腕を払いのける。

娘は小さな船に乗って、小さな島を出て行く。
おそらくセブ島の空港からドイツへ向かって新しい世界へ自分の身を
投げ打つのだろう。

桟橋で姉を見送る幼い妹のデリア。
映像はその後ろ姿を映しつづけるのみ。
そして、そこに最後のテロップが流れる。
無言のままに・・・

「デリア。 早く大きくなって、お姉さんのようになるのよ。」

~~~~~~~~~

この映画は シネマ・ワンと呼ばれているフィリピンの自主制作映画であるようです。
バギオ・シネマテック映画館の職員に聞いたところ、
この作品はフィリピン国内の映画祭で受賞し、100万ペソの助成金を獲得して
制作されたとの話でした。

2010年の作品のようなのですが、この映画は、まさにフィリピンの現実
切りとったドキュメンタリーとでも言いたくなる内容でした。

全編を通して、撮影のためのセットのようなものは一切なし。
ストーリーを構成するための場面のカットも一切なし(に見えた)。
延々とビデオを回し続け、道を歩きながらの出演者の会話が倦まずに続いていく。
会話というより、口喧嘩、一方的な説得の言葉、一方的なアドバイスの言葉・・・
それが始めっから終わりまで 息をつく暇もなく続く。

(この映画って、100万ペソも製作費はかからないよねえ~、と映画館の職員と笑ったことでした。 頭のいい監督さんです。)

英語字幕を読んでいくのに必死の自分。

必死で、眠くなる暇もありませんでした。

最後の一言、テロップが、この作品をびしっと引き締めています。

シネマ・ワンでの受賞
http://www.starmometer.com/2011/05/18/ang-damgo-ni-eleuteria-tops-34th-urian-awards-2011/

この映画についての批評のサイト
Ang Damgo ni Eleuteria (Remton Siega Zuasola, 2010)
http://lilokpelikula.wordpress.com/2010/11/16/ang-damgo-ni-eleuteria-remton-siega-zuasola-2010/

 

 

 

 

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2012年12月10日 (月)

堀田善衛著 「インドで考えたこと」(16完)生きるエネルギーとしての色即是空 

岩波新書 堀田善衛著 「インドで考えたこと」を読んでいます。

002

さて、読書の完了となる最後の回です。

著者はエローラの洞窟寺で無気味な音、こだまを聞いたのですが・・・

p201
重い足をひきずって暗闇から外に出たとき、見透かす、荒涼たる
デッカン高原の美しさに、私は全身うたれたように思った。

p202
そして思い出した。・・・
「・・一面に於いて無差別、唯一、他面に於いては多様、無限、
なにもかもが同一で、しかも同時だ、・・・
有に非ず、無に非ず、内に非ず、外に非ず、・・・」

それまでは、貧しい荒涼とした風景だ、虚無的なまでに広いだけだ、
などとしか思わなかった風景を、今度は逆にきわめて美しい
ものに思って歩きながら、・・・

そして、著者は川端康成の「末期の眼」の思想を思い出すのです。

p202
一切の努力は空しい、闘争も抵抗も空しい、この世にある醜悪さも
美しさも、なにもかもが同じだ、・・・
・・私は あの思想は「人類の敵だ」というようなことを云い、
同席した亀井勝一郎、三島由紀夫の両氏も、しぶしぶながら、
・・・是として認めた・・・。
それから、・・「方丈記」の・・「そのとき、心更にこたふる事なし」
というものまで思い出した。

この「心更にこたふる事なし」を このサイトで発見。
一番下にある「早暁の念仏」、下から5行目に出てきます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/houjouki2.htm

現代語訳を見てみますと、
「その時、私の心は答えることができない。ただ、身近な舌を借りて、
何の願いもない念仏を二、三度唱えたのみで終えてしまった。」

と言うところですね。
鴨長明の「方丈記」」の結語の部分です。

そして、著者は、これじゃあいかん、と思っているようなんですね。

p203
これらの思想に、決定的に欠けているものは、一言で云って、責任、
人間の責任という体系である。
・・・私自身の内部に於いても、戦う方法よりも、むしろ私自身にも
内在するこの思想の方がふとりつつあるのを感じる。
・・それに対する・・・共鳴が、恐らくあの
「ゴーボア・・・ルルル・・ン」であった
のではなかろうか。

そして日本が求めていたものがどんなものだったかと言えば、
著者は、

p204
・・ひたすらに方法的な西欧に求めた、・・・どうにもぴたりと
身につかなくて、
・・借り物の域を出なかった、・・
身についたらしい部分は、政治的、軍事的な面、すなわち
帝国主義的なかたちでだけだったのではないか。

そして、今の現代にも ひしひしと通じるような恐ろしいことを
この著者は述べているのです。

p204
こういうわれわれの悲喜劇を、アジアの新興諸国が、徒らにくりかえす
可能性は、悲しいことに、なくはないと思われる。

そして、同時に著者は デリーで受けたインド思想についての
レッスンを思い出していいます。

p205
わたしは質問をした。
「しかし、それらはすべて死の思想ではないか?」
と。 これに対して、言下に、
しかり、しかるが故に生の思想である。」
という返答をえた。

・・・民族ぜんたいのエネルギーを結集せしめるに足る目標が
そこに存在するならば、たとえどんなに厭世的、消極的、
生よりも死を思索の中心とするものであっても、・・質的に、
勢いのよい、生きのよいものに転換出来るものなのだ、・・・

p210
インドの古代文明は、エジプトやギリシアのそれのように
まったく死んだものではない。 けれども、いずれそれは
比較の問題であろう。 死んだものを、未来に対する「希望」の、
その礎として生きかえさせるのが歴史というものなのだ。

「その歩みがのろかろうがなんだろうが、アジアは、生きたい、
生きたい、と叫んでいるのだ。 
西欧は、死にたくない、
死にたくない、と云っている。」

・・・・・

私はこの本を、インドの風土、特に仏教との関連に於いて、
龍樹の「中論」を読む前に、ちょっと知っておきたかった、
ということで、正直あまり期待もせずに読んでみました。
難解中の難解といわれている「中論」に入る前に ちょっと
息をついておきたかったからです。

でも、期待以上に、読んでよかったと思っています。

仏教というものが、インドという、日本人が思うアジアという
イメージとは相当離れているヨーロッパにつながる
広大な大陸に生まれた宗教であるということ。

よくいい加減な日本人の口癖として例示される「しょうがない」という
言葉が持つネガティブな意味内容にも、もしかしたら、ここで
著者が述べたような仏教的な意味合い、エネルギーの源泉としての
ポジティブな内容があるのかもしれない、と感じたからです。

そして、そのいわゆる「無常観」、親鸞が嫌いだとしている
無常観、ではなくて、生身の人間が現実の娑婆で生きて行く
エネルギーとしての「色即是空」
なるものが そこにあるような
気がしてきました。

==完==

その(1)に戻る場合は こちらへどうぞ:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-783b.html

 

 

 

 

 

 

 

 

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堀田善衛著 「インドで考えたこと」(15) 虚無の音が恐怖となって・・ 

岩波新書 堀田善衛著 「インドで考えたこと」を読んでいます。

いよいよ最後の章 「XIII. おれは生きたい」に入ります。

p193
インドの古代洞窟寺は、未開人が住居として掘った洞穴とはまったく
異なり、二千年以上むかしに、人間とこの世界について高度な認識、
思想をもちえた民族の手になった規模雄大なものである。

p194
アジャンタ洞窟は、・・・ぜんぶ仏教系のものである。紀元前二世紀
から紀元後七世紀までの九百年間にわたって、前後5回にわけて
掘られている。 七世紀にバラモン教が仏教徒の王侯を亡ぼした
ため、その後約一千年にわたって忘れられ、1817年、英国の
一将校によって発見されるまで、この世から、ほとんど消えていた
のである。

p194
エローラは、・・・紀元580年から850年までのあいだに
つくられ、大乗仏教、バラモン教、ジャイナ教の三宗教が仲良く、
共存している。 

p195
痛切に感じ考えたことは、・・・・
ギリシア彫刻にも建築にも決して劣りはしないと思われる、
ずれも千年以上の時間を超えて存在して来た、厳然たる存在、
人間の証拠にとりまかれ、その只中にあって感じた、「虚無」
いうよりほかに、云い様とてもないようなもの・・・

・・・そして、著者は、このエローラ洞窟の中で、恐ろしい経験を
することになったのです。

p197
エローラの、ある奥深い洞窟の広間。
・・その穴ぼこは、みな僧房、僧侶の居室、修道院になっているのである。
・・その石柱を、何気なく、ひょいと一両度掌で叩いて私は、ぎょッ、
とした。
・・・なんともかとも気味のわるい、しかも虚しさもきわまったような
こだまが、・・・ゴー・・ボァ・・・ルルル・・・ン、 ゴーボア・・・
ルル・・ン、と陰にこもって何度も反響し
洞内ぜんたいにひびきわたり
はじめたのだ。
私は恐くなって逃げ出しかけた。 しかし、どうにお足がうごいて
くれなかった。
両側の僧房にいた数十人の僧たちが読経をしたかと思うと
そのことばと声よりも先に重く濁ったこだまが空想されて身の毛も
よだつような思いをした。

p198
・・・バニックのひとときがすぎると、どういうものか、そういう
私自身、その気味の悪いこだまに、凝っと聴き入り、聞き惚れていた。
その虚しさもきわまったような音に、私自身の内部に相通い、相互に
反響しあうものがある
ことを、ありありと感じてしまったのである。

p198
虚無。 これをわれわれの生活に根差した、リアリティをもつ日本語で
云いなおすなら、無常、諸行無常の感ということになり、われわれの
無常感がいのちに対する優情にみちたものであることは、私にも
いくらかわかっている。

けれどもそれは恐らく歴史を否定し、・・・そのときどきの人間を
とりまいて無意味な黒光りを発する、単一の、単色の背景と化して
しまうようなものである。
・・・歴史とは、虚無との人間の戦いである、と私は理解している。

・・・・う~~ん、文学者、詩人であるこの著者の言っていることは
なかなか骨が折れます。

なんとなく分かったようなつもりで言うと、
日本人だったら無常と呼びそうな圧倒的な虚無があるんだけれども、
人間の営み、文学あるいは思想ってものが人間の歴史と呼べるものを
継続するものを生み出しているってことでしょうか。

しかし、しかし、ここで、対立していると著者がいっているものは、
もしかしたら、その文学、人間の歴史というものが、実はその
綿々たる虚無の中から底知れぬように生れ出ているってこと
なんですかね?

だから、洞窟の中のこだまという恐ろしい虚無が、
なぜか聞き惚れてしまう音という、ある種の懐かしさのようなものに
思えてしまって、文学者として「しまった・・」と思ったのでしょうか・・・

そして、著者はこう続けます。

p199
「地中海は人間の規矩だ」とする西欧人たちが、・・・「・・奇怪にして
異様なるものに近づくのだ」という、・・その実体は、恐らく、
地中海的、西欧的な意味での歴史を形成しない、してくれない、
そのためのひっかかりをどうにも与えてくれない経験にぶっつかるから
なのだ。

p200
西欧の眼から見て「下等ながら決して死滅しない生物のように、・・・」
アジアの現実。
かれらの意味における歴史、「理にかなった形式に
宿る精神」をすらも音もなく呑み込んでしまうような虚無のこだまに
ぶつかったとしたら、どうすればよいか。

p201
あのこだまは、いったいなんだったのか。  ・・・「音」ともいえず、
さりとて沈黙ともいえず、何か聴覚以上、あるいは以下のような、
霊的、あるいは動物的な・・・
・・これを理にかなえて表現しようにも法のない、経験。

・・・ほとんど、密教の世界に入っていきそうな話になってきました。
さて、著者はこの本を、このインドでの体験をどのように
締めくくってくれるんでしょうか・・・

==その(16)完 に続きます==

 

 

 

 

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2012年12月 9日 (日)

堀田善衛著 「インドで考えたこと」(14)人生の目的は解脱にある、と言えるか  

岩波新書 堀田善衛著 「インドで考えたこと」を読んでいます。

「XII. 洞窟の思想

p180
インドには実になにもかもが、しかも同時に存在する。
人種もアーリア系、モンゴル系、ドラヴィダ系、アフリカ系かとも
思われる人々、・・・・やっとのことでついせんだって鉄器時代に
入ったような農民たち、純然たる西欧風の生活、・・・宗教となれば、
これこそ一切の宗教があるように思われる
・・ポルトガル僧たちがもってきた天主教・・・原始キリスト教を
もって来たユダヤ人の子孫・・・
・・ヒンドゥ教、仏教、ジャイナ教、シーク教、イスラム、・・・

p186
「仏陀は内在的である。 超越神とも非超越神とも、仏陀は別のもの
であるらしい。リアリズム文学の「方便」としての超越神を、
私は感じることが出来ない・・」

p186
「(インド人)の云う事を聞いていると、・・・有に非ず、無に非ず
とか、内に非ず、外に非ず、とか、・・・・こいつらは思考というものを、
どういうものとしてとっているのか?」

p187
「ヒンドゥ教の話を聞く。 ヒンドゥ教の神は、現在し、かつ
現に存在せず、かつて存在せず、かつ、かつて存在した、という。
バカも休み休みいえ・・・。」

「生と死、断絶と持続、絶対と相対、衆生と仏陀、これがみな本質的
には同一のものだと云う。 対立は、存在しない、という。
宇宙の本質的同一性、同時性を認識することを、パーリ語でパーラ、
すなわち般若、すなわち最高の叡智だという。勝手にしろ・・・」

p188
しかし、勝手にしろ、ということはやさしいが、・・・・
ーー云われるものに、何かしら私にもわかる、あるいは通じる
ものがある
ことを、ほかならぬ私がっ感じるからである。

・・・さてさて、いよいよ著者の底辺の部分があぶりだされて
きているようです。
今までに仏教関連で読んで来た本の中に、何度も出てきたフレーズ。
拒否しようとしても否定できない自分の血のようなものでしょうか。
知らなかったけれども、すでに自分の中に昔からあったようなもの。

p191
ガンダーラ彫刻や、・・・中央アジア美術館をも見物して行くうちに、
次第に私は奈良にある様々な仏像、仏画などを思い出して行った。
・・・学生の頃、・・・なんだ、こりゃみんな外国物じゃないか、と
思ったのだが、いくらか、人類が全世界にはりめぐらしている
文化文明の秩序が頭に入って来るのを覚えた。

p191
中部インドへ行って再び私ははげしい衝撃をうけて混乱した。
・・・極言すればひっかきまわすより他に能のない西欧文明が
逆立ちしても考えつかぬような永遠の思想が、
これらの洞窟の
なかにかくされている、と感じたからである。

p192
インドのある文学者と話していたとき、・・・人生の目的如何
いうような・・・。彼は言下に、目的は解脱にある、といって
私をおどろかせた。

彼の考えと私の考えとは、根本的に対立する。
・・・が一方では、それができたら、・・・という、ひそかな
考え、期待を、否定することができない。

なぜ、日本人は、年齢がそれなりになってくると、
お寺参りをするのか。 なぜ仏像を見てまわるんでしょうかねえ。
特別に信仰をしているわけでもないのに。
なぜ分からないのに「般若心経」を眺めるのか、読むのか、写すのか・・

アジア人としての血が 分ったような気持ちにさせるんでしょうか。

==その(15)へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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堀田善衛著 「インドで考えたこと」  (13) 沖縄を支持したインド 

岩波新書 堀田善衛著 「インドで考えたこと」を読んでいます。

「XI. 連射連撃大エンゼツ会」の章です。

著者がニュー・デリーからボンベイまで汽車で30時間かかる旅の
道中、インド人の若い医学生につかまって、たっぷり20時間も
大演説を聞かされたはなし・・・

p171
この若い医学生のエネルギーと情熱に、すっかり見惚れていた。
これだけ情熱があり、しかもよく弁説のたつ外交官を日本はもって
いるだろうか、
これだけ洪水のように主張しうる方針があるだろうか
などとも考えた。
そしてネルーの外交政策の浸透度の深さに感心した。

p173
しかし、いったい何故インドのインテリ諸氏はかくも雄弁、あるいは
超雄弁なのだろうか。

そして、ある日本人女性がインド人に「あなた方は少し喋りすぎる
と云ったところ、

p173
外国人に向かって話す機会と能力をもつのは、インド三億六千万人
の人民のうち、実にほんのわずかしかいない、だから、われわれが
少しばかり喋りすぎるからといって悪く思わないでくれ・・・

との返答があったとか。。。

著者はこのようなインドと日本の、西欧との関わり方の違いを
次のように考えるんです。

p174
日本は:

西欧を意識するということが、これに追随し、なんとか追い付きたい
という、こういう一辺倒

インドは:

近代史とは、西欧、主として英国による植民地支配を意識し、
これに抵抗し、とにもかくにもインドから出て行ってもらうという
ところから始まっているらしい。
それ以前の、数千年の歴史は、歴史というよりも、それはむしろ
民族的な背景というようなものであって、到底近代的な意味での
歴史というようなものになるものではない・・・

しかし、ここで、著者は「お喋りなインド人」に対して恥かしい思いを
抱くにいたるのです。 それは・・・

p177
私はインドで、ときどきオキナワはどうなっているか、と聞かれた。
・・アメリカの対日平和条約案と沖縄とインド政府との関係を。

アメリカの条約案では、沖縄は日本から引き離され、国連の信託統治嶺
に移されることになっていた。
これに対して・・・アメリカ案から沖縄条項の削除を申し入れた
これに応じてくれたのがインド政府であったのである。

p178
インド政府は、日本本土と共通の歴史的背景をもつ島々で、侵略によって
日本が奪取したものではない地域には日本の全主権が恢復されるべきである、
と主張し、・・・・インドは会議を拒否した。

要するに、日本を支持したインドのことをインドのインテリは知って
いたのに、日本のインテリである著者は忘れていたってことで、
それを大いに羞しかったと言っているわけです。

ちなみに、私もこういう話は一切知りませんでした。
日本人として恩義を感じなければならないアジア諸国のことを
日本の歴史教育は教えていない、ってことですね。
私は一応高校の時に日本史と世界史をとったんですけど・・・
インテリでなくても、こういうことは知っておくべきじゃないかと
思うんですけど、歴史教育の中で教えるという意味で。

「アジアの皆さん、ごめんなさい」ばかりじゃなく、
「アジアの皆さん、ありがとう」って言えるだけの知識が欲しいじゃ
ないですか。
少なくとも、助けたことは忘れても、助けられたことを
忘れるってのは仁義にもとるってもんじゃないですか。

p179
民族にとってそのときどきに痛切な問題が論じられるとき、そこに、
溢れるようにして古来のインドの歴史の全体的なイメージがたちあらわれて
来るのを私が感じたからである。

沖縄問題を論じるとき、われわれは果たして、日本の歴史の全イメージを
そこに注ぎ込み、そこから逆に日本の全イメージをひき出すだろうか。

==その(14)に続く==

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「るろうに剣心」 フィリピン・バギオ市のSMシネマで上映 ・・初の日本映画か?

結論から言いますね。

非常に面白かったですよ。

先週、日本の漫画の実写版映画 「るろうに剣心」 が フィリピンのバギオ市にある SMシネマで 1週間ほど営業上映されたんです。

004

ずいぶん前から この映画がSMバギオのシネマで上映されるらしいという噂は フェイスブックで流れていたんです。

005

そして、その上映が始まってからやっと、「今週の金曜日までやってるよ」 という情報が バギオのコスプレ趣味の FBフレンドから入りました。

007

これは見なければならない!

なぜか。

画期的だと思うんです。

日本の映画が、日本語でそのまま、英語字幕で、普通の映画館で上映される、って話は、少なくとも過去10年くらいは聞いたことがありません。

日本の国際交流基金や大使館が文化活動として日本映画祭を毎年世界各地でやってはいますが、このような通常の商業ベースで 日本映画が日本語で上映されるってのは・・・凄いって思うんです。

009

これは映画館の切符売り場に貼りだされていた「あらすじ」です。

詳しいあらすじはこちらのサイトでご確認ください。

http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD20651/story.html

http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id341516/

これは観なくてはならない・・・・

マニラでの衆議院選挙の在外投票からバギオに戻った翌日、バギオ市の関連行事の会議に行ったんですが その会議室でいきなりキャンセルされ、これ幸いとその合間の時間に、その会議に参加予定だった日本人の方と一緒に観に行ったんです。

まあ、実は、私が無理に会議に出てくれと頼んだ人だったもんで、いきなりのキャンセルでご迷惑をお掛けしたってことなんですけどね。

日本人の爺さんが二人、若いフィリピン人しか入っていない映画館で、それも2階の最前列真ん中に陣取って 漫画を元にした日本映画を観ているってのは、奇妙に見えるでしょうねえ。

さて、感想文ですけど。

最初の場面が「鳥羽・伏見の戦い」なんです。

そこで、幕府側の新撰組らしき男と、新政府側の「人斬り以蔵」みたいな男が、砲弾があちこちで炸裂する中、斬って斬って斬りまくるっていう映像です。

この「人斬り以蔵」みたいな男が主人公の「るろうに剣心」なんです。

歴史上の人斬り以蔵、土佐藩の岡田以蔵は打ち首・獄門で死んでいるんですけど、この漫画実写映画の中の主人公は幕末を生き残って、明治新政府の世で生きているわけ。

しかし、新しい世の中をつくるという正義の為とはいえ、「殺し過ぎた」ということが「るろうに剣心」こと「人斬(き)り抜刀斎」の心に変化をもたらしたんですね。

「人斬(き)り抜刀斎」と呼ばれる緋村剣心(佐藤健)は、新しい時代に「不殺」の誓いをたてているんです。

刀は持っているんですけど、その刃が逆についている。 つまり敵側に刃がなくて、自分の側を向いているんです。 だから、刀で押し合うと、自分の方を向いた白刃で自分が斬られてしまうことになるわけです。

しかし、その変な刀を使って、斬って斬って切りまくるわけです。 でも、相手は打たれるけれども、死にはしない。

・・・

新鮮な感覚でした。

漫画を元にしているということもあるんでしょうね。 時代劇でありながら漫画的なセリフでした。 主人公はことさらに古い侍のような言い方をするんですけど、それが伝統的な時代劇の台詞とは違うんですね。

主人公以外は現代語、とくにヒロインなどは今どきのおねえちゃん風のしゃべりくちなんです。 でも、違和感はあまり感じませんでした。

全体としてどんな感覚だったかっていうと、昔々の「マカロニ・ウエスタン」を観たときのような爽快感がありました。

「七人の侍」をぱくった「荒野の用心棒」なんかが代表作ですね。 あのシリーズはスピード感もあってすかっとしました。 あれも、めちゃくちゃ人を殺しましたけどね。

この「るろうに剣心」もばったばったと人を斬るんですけど、「不殺」ですから いわゆる「峰打ち」ですよね。

映画全体、特に殺陣のスピード感は、今までに見たことのないような凄さです。 コンピューター・グラフィックスのような人工的な機械的な断絶したスピードではなくて、連続した流れが素晴らしい。

もちろん漫画ですからね、かなり漫画的じゃあるんですけど、いい感じです。

面白くて、爽快で、そして 「人を殺さず、人を斬る」 「悪を倒す」っていうのが じわ~~っと考えさせてくれる秀作です。

原作の漫画と映画を比較したコメントを書いたサイトがありました。

http://blog.goo.ne.jp/masuji622/e/6b1b6646355c6dd295361a048b6efd68

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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堀田善衛著 「インドで考えたこと」 (12)ネルーという人物の無気味さ 

岩波新書 堀田善衛著 「インドで考えたこと」を読んでいます。

「X. 修身斉家治国平天下」の章です。

p156
近代日本が、アジアから訣別することによってその近代性を獲得
したのであることを、私もみとめる。しかし、それだけでそれは
済むことなのだろうか?  未来は?
文化文明の「外発性」「内発性」、自発性の問題は民族の生命
かかわる。

p157
アジアを米英の支配から解放しようとしたかと思うと、
戦後にはちゃっかりアメリカ体制に従属する。
インドやビルマの人にはこれが理解し切れない

そもそもはじめから政治というもの自体が、本質的に、
つねにこういう二重性をもつものなのだろうか、と疑いたく
なるほどに、近代日本の歩み方には、この二重性がつきまとっている

より根本的には近代日本人の心性そのものが、こんな工合に
表裏反対のものをもち、従って根本的な問題はつねにこの二重性
の谷間につきおとされて、ウヤムヤになってしまう。

・・・時代と流行のようなものが変われば、それで済んだような
気になる。

・・・う~ん、日本人の二重性、表裏、つまり本音と建て前という
ことになるのでしょうか。
アジアの為だといいながら、お前たちの為だと言いながら、
本音では自分の利益しか考えていない・・・??

そして、著者は言います、

原爆は禁止せよ、しかしおれは持ちたいーー人々はいうだろう、
勝手にしろ、お前はとても信用ならん、と。

・・・今の日本で言うならば、原発問題をどうするのか・・・そこですかね。
核兵器の開発を手持ちのカードとして持っておきたいから、
如何に大きな地震や津波がこようとも、日本列島に日本民族が住めなく
なったとしても、手放すわけにはいかないってこと?

p159
ジャワハルラル・ネルーという人
・・冷たい人、という印象は、しかし、次第に私のなかへ沈んでいって、
底なしに複雑きわまりない人、その人間のなかに反射鏡を十も二十も
もっている人、という風にかわって行った。
貴族的という印象は、無気味な、存在がそこにいる、というものに
かわって行った。 ・・・おだやかさ、物静かさが、そのままで
無気味なものを感じさせる。

・・おそらく、著者はネルーという人物の無気味さをインドという国の
イメージに、底知れぬ永遠、存在感というものに重ね合わせているんじゃ
ないかという感じがします。

p162
(インドには)並大抵の人ならば、もううんざりしてしまうような、
一切合財おっぽり出してバニヤン樹の樹陰で昼寝をするか、それとも
断食をして、高遠なる形而上学についての瞑想にふけるか、そんな
ことにでもしてしまいたくなるような難題が、山積みしているのである。

p163
(アンドレ)マルロオが、ギリシアもエジプトも亡びた、がしかし、
ヒンドゥイズムだけが生き残り、しかもそれが仏教を吸収しつくし、
あの強烈なイスラムにも負けず、キリスト教思想をも吸収して
生きているのは何故か、と質問した。 これに対して、自分(ネルー)
インドの「寛容さ」を説明した、という話である。

・・・ヒンドゥイズム、つまり諸々の様々な神々がいる宗教ですね。
仏教などはその中のひとつだ、ぐらいに言われているみたいですが、
それだけ包容力、なんでも飲み込んでしまう器があるってことでしょうか。
それだったら、日本の八百万の神だってそういうポテンシャルは持っている
わけですよね。 根本は自然崇拝みたいですから。

ヒンドゥイズムについては、こちらのサイトを参照。

http://kurekiken.web.fc2.com/data/1997/970718.html

しかし、著者は「寛容さ」(トレランス)の意味は そんなに甘いもんじゃ
ない
って言っているんです。
なぜかっていうと・・・
日本人がイメージする「寛容さ」と、インド人のトレランスは違うってこと
みたいなんです。

p164
私はインドの人々の、あまりに強烈な自己主張の美徳には、ことごとく
閉口し、辟易した。 音に聞く西アジアからアラビアにかけての商人の
かけひきの巧みさを眼に見せられる思いをし、なるほどこれでは
百戦錬磨、流石の、海千山千の華僑もインドから西にかけては
ふるわぬわけだわい、とひそかに感嘆していたのである。

・・・しかし、ネルー氏のいうように、・・「寛容さ」は、あきらかに
あるのである。そしてその寛容さは、断乎として自己の主体を失わぬ
寛容さ
である。 強烈な自己主張に裏打ちされている。

p165
これと話し合うには、断然対立して自己の主張を堅持し、どこまでも
貫き通そうとする覚悟が必要である。

さて、この章のタイトルである「修身斉家治国平天下」なんですけど、
この著者の説明によれば、以下のような意味だそうです。

「天下をおさめるには、まず自分の身を修し、次に家庭をととのえ、
次に国をおさめ、その次に天下を平らかにする、という順序、
段取りを経なければならない」

それは、「大学」に述べられている言葉だそうです。

p167
われわれには、こういう規定、段取りの取り方のようなものが
意外に深く、下手をすると本家の中国よりももっと深く滲み込んで
いるように思う。 

私は、たとえば悪い条約や協定は、できるだけ早い機会に改廃する
ことの方が国際信義を高める所以であると思うのだが・・・

==その(13)に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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