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2012年2月18日 (土)

あの~~、フィリピン人を弁護していただけませんか?

時々 食事をしたり呑みに行ったりする KUBOグリルってお店があるんです。

KUBOっていうのは「久保」さんじゃなくて、フィリピン式の小さなニッパ屋根の小屋のことみたいなんです。

その小屋がたくさんお店の中に並んでいて、4人~10人くらいが中に入って食事をするってすんぽうです。

・・・で、その小屋の中に こんなのが貼ってあったんです。

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お店の中によくある お客様への注意書き ですね。

どこにでもあるような内容なんですけど、一番上にちょと気になる文が:

「敷地内でのギャンブル厳禁!!」

ここは、ローカルなフィリピン料理が主体のお店で、結構流行っていたみたいなんですけど、いつからかフィリピン人経営から韓国人経営に代わって、従来のフィリピン料理に加えて、韓国料理もたくさんメニューに加わったんです。

以前から韓国人留学生にも人気があったみたいで、そういうことになったんでしょうね。

で、ギャンブルを誰がやってんだ? ってことなんです。

フィリピン人なんですかね? 韓国人なんですかね?

どんなギャンブルをやるんでしょう・・・・

「飲食物を外から持ち込むな」、ってのは フィリピン人がよくやりそうなことなんで、 これはフィリピン人向けの注意かなって、思うんです。

「ライトを消すな」ってのも よく分からないんですけど、ムードメーカーな フィリピン人のラブラブ・カップルなら あるかもなあ~~、って思うんです。

「飲んでいない飲み物、ソージュ、ビールの返金は絶対致しません。」

これは、ソージュってのがわざわざ入れてあるんで、韓国人客かもしれないですね。

まあ、大盤振る舞いするフィリピン人もいるのかもしれないですけど・・・

・・・

そして、次のが問題なんです・・・・

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SWITCH ON TO TAKE ORDER.

そうか、注文をするお客様は、このスイッチを押してください、ってんだな?

・・・そう、思っていたんです。

でも、「あれっ?」 って気がついたんですね。

「TAKE  ORDER」って、「注文を取る」とか「注文を受ける」なんじゃないの?

ブログに書くんですから、そりゃあ辞書で確認しましたよ。

やっぱり間違いなく ウエイター・ウエイトレスが「注文を取る」という意味でした。

「SWITCH ON  TO ORDER」

注文をする際には これを押してください、って書くべきもんですよね。

それとも、

ウエイター・ウエイトレスが、このお客のいる小屋に来て、まずボタンを押して、 それから、お客の注文を聞くわけですかね・・・・・

そんなこた~~、ね~~なあ~~。

この英語の指示を 書かせたのは、フィリピン人なのか、韓国人経営者なのか・・・

どなたか、あなたの推理を いただけませんか?

・・・・

ところで、このお店で、ちょっとした「気の利かない」ことがあったんです。

食事をしたかったんで、メニューを見ながら、ウエイターに「これな~~に?」って尋ねたんです。

そのメニューの写真は「イカ・リング」みたいなフライのような写真だったんです。

「それは、スクイッド(イカ)です。」

ってウエイターが言ったんです。

「じゃあ、それ、お願い。 ところで、スープなんかは付いているの?」

「いいえ、付いていません。」

「それじゃあ、コーラをお願いします。」

そして、しばらくすると・・・

コーラが来ました。  飲み始めました。

そこへ、ウエイターが 別の飲み物を持ってきました・・・

「えっ、これ何? 頼んでいないけど・・・」

「ああ、これは、食事についているんです。」

(このやろう~~、先にそれを言えよ・・・・)

それから、しばらくして、 食事が来ました。

「イカ・リング」みたいなものが 皿に載っていました。

ところが、ところが・・・・ 

「オニオン・リング」がのっかっていて、そに下に肉のソテーがありました。

(なんじゃ、これは?  ウエイターは なんにも知らないじゃないか!)

・・・でも、まあ、いいんです。

「オニオン・リング」は好きだし、肉もやわらかくて美味しかったしね。

ちなみに、その従業員は、 「ウエイタレス」でした。

(わかりますか? ウエイタレス)

以上、今日の出来事 でした。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

   

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2012年2月17日 (金)

松原泰道著 「般若心経入門」5回目(終わり)- 何が人の心を掴んだのか

ここでは 松原泰道著の「般若心経入門」(祥伝社黄金文庫)を読んでいるの
ですが、先に読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)
と私なりの比較をしながら 勝手なことを書いています。

ーーー

こちらのサイトを見ましたら、松原氏のこの本は、200万部を超す
ベストセラーだとありました。
そして、2009年に101歳の長寿でなくなられたそうです。

http://my.dl-market.com/biz-voice/product_info.php/products_id/207/sort/8d/
松原泰道
明治40年東京生まれ。臨済宗妙心寺派教学部長を務める。
昭和47年出版の『般若心経入門』(祥伝社)は200万部を超すベストセラーとなり、
仏教書ブームを作った。平成元年仏教伝道文化賞受賞。その著書は百冊を超える。
平成21年歿。

そのベストセラーの本を読んでいるわけなんですけれど、
残念ながら私には その凄さがまだ分からないんです。

・・で、ちょっと、私の心にひっかかった部分だけを 書き出してみます。

ー 妄想は、真実でないものを真実であるかのごとく誤解することで、
  精神活動を浪費します。 執着は、何かにこころがとらわれて、
  説くに自分自身の利害に密着して、動きがとれなくなる状態です。
  この二つほど精神を沈滞させ腐敗させるものはありません。

・・・これは私の現実の生活の中で、よく悩まされることですねえ。
   心配する必要もないこと、実際に起こっていることじゃないのに、
   自分の頭の中だけで勝手に話を作っちゃうわけですね。
   皆さんにもありませんか?
   出きるだけ、余計なことは考えないようにしているんですけどねえ。

ー 存在するものは、そのものだけでけっして存在できるのではない
  他との多くのかかわりがあって、はじめてそのものが存在できるのです。
  かかわりが無かったら、いかなるものも存在しえないというのを
  「目に見える存在は空に異ならない(色不異空)」というのです。
  このかかわりあいの道理を「因縁の法(因果律とも)」といいます。
  ・・・「すべての存在が、お互いにかかわりあって存在する事実を空という」
  と押さえておきましょう。

・・・ちょっと分からない部分なんです。
   確か、因果律というのはお釈迦様が実際に言ったことだと思うんです。
   でも、空の理論っていうのは、大乗仏教の売り物のはずなんですよね。
   その二つが同じだと言っているんでしょうか?
      小乗であろうが大乗であろうが、元々お釈迦様が言ったことを言い換えて
   いるとすれば同じだと考えていいのでしょうが・・・

ー 舎利子見よ空即是色花ざかりーー舎利子を固有名詞にとどめておいては
  いけないと申しました。 舎利子とは、私たちなのです
  いや不特定多数の私たちという無責任な存在でなく、どこまでもお互いの
  自分のことです。 ・・・ここに、「空」がたんなる「ゼロ」でも
  「無」でもないどころか、すべての出発点であることが見事に示されて
  います。

・・・ここで「舎利子=私たち」とありますが、私たちとは世間一般の
   私たちのことなのか、あるいは、舎利子と同様に少なくとも小乗仏教での
   修行をしている修行者のことを言っているのか・・・
   どう転んでも、私と舎利子が同じレベルだとは到底思えないんです。

ー ”死にとうない”といって、ほほえみながら死んでゆけたら、それが生死
  の中にあって生死を超える不生不滅の生き方です。
  ・・・容易なことではありません。 ゆえに般若心経が「すべての存在
  するものには実体がない」という空観を身につけよ、と教えるのです。
  このことを学ぶのがほんとうの人生の知恵です。
  たとえ、深く理解できずとも、般若心経をいくたびも読誦してゆくと、
  その積み重ねに応じて心の安らぎが得られるものです。

・・・「死にとうない」とは言えそうに、今は、ないですけど。
   いざとなったら、そう言いたくなるのかもしれないですね。
   その時に微笑むことができたらいいな、ってことですか。
   でも、やっぱり、今は、「ついに来たか」って思うんじゃないかなと
   思います。

ー XX主義というように、主義にかじりつくのはもちろん、信仰にすら
  執われたら、ほんとうの人生は分からないのです。

・・・ ちょっと、これは訳が分かりませんなあ。
    仏教ってのは信仰じゃないんですか?
    般若心経ってのはお経じゃないんですか?
    信仰じゃない??
    信仰をすることによって、空の境地になれるんじゃないの??
    お坊さんが こんなこと言ってもいいのかな?

ー 見わたす限り、白一色の山里の景色です。 晩秋以上に何もない眺めです。
  しかし、冷たく降り積もった雪の間に、すでに草が芽ばえているではないか。
  と空じつくした底は、決してゼロではなく、あなたの求めている真理
  の「花」を感じとるのが、利休の「わび茶」のこころだったのです。

・・・もう、これはギブアップです。
   さっぱり分かりません。
   要するに、「空じる」という動詞の意味が分からんのです。
   それが又、いっきに「わび茶」だもん・・・

ー 空観のギリギリは「ないがままにある・あるがままにない」と有・無に
  停滞しないのです。 二律背反そのままに実体を見すえるのが空観ーー
  空の眼です。 このことをくり返して説いているのが般若心経です。

・・・ ???
    分かったようで分からない、ってのが一番たちが悪いですよね。

ー 般若心経は、この八正道も「なし」と空ずるのです
  それは八正道を実践することを誇りとしたり奢ってはならぬ、というのです。

・・・ 八正道ってのは、お釈迦様が言ったことなんですよね。
    お釈迦様が八正道の修行をしなさいって言ったんですけど・・・
    やるのはいいけど、やらなくちゃいけないんだけど、
    のぼせあがんじゃあないよ、っていうことですか?

ー 障害を除いたとき、自分の周囲に美しいものを眺めることができます。
  私たちに敵意を持っている人の中にも、善なるものを見ることができます。
  私たちが苦しんでいる現実の中にも、しあわせを写すことができます。
  それが般若の知恵です。

・・・敵だ味方だとか、善悪だとかいうのは、どちらの立ち位置にいるかで
   いくらでも変わることですから、これは分かります。
   その立ち位置を決めないと、なかなか周りは許してくれないのが現実
   ってこともありますね。
   それを乗り越えるってのは、娑婆ではほとんど不可能だと思います。
   国と国との戦争がいい例ですよね。

ー 「般若の知恵のおかげで、無上のほとけのこころ、ほとけのいのちは
  万人の胸に宿っていることをさとった」ということです。
  般若の知恵が体得されたら、それで万事は解決したというのではないのです。
  般若の知恵にもとどまってはいけない、というのです。

・・・ えっ!?
    般若の知恵が究極の知恵じゃないんですか?

ー 完成に止まってはならない、完成をさらに否定し(空じて)、
  永遠に現在進行形で宝石を磨きつづけよ、というのが、心経のこころです。

・・・ それは娑婆だけの話かと思ったら、あの世でもそうなんですかね?
    心が休まらないな。
    ほとんとサラリーマンの馬車馬とおなじような気になってしまうなあ。

ー しかし、すべての人間が、ことごとくさとりを得られるのが真理で
  ありますが、それはどこまでも真理の範囲であって、事実としては
  人間がことごとくさとりを得られる日は永久にありません

  いわば、無数の人間の悩みと、無限のほとけの誓願との永遠の対決です。

・・・ えええ~~~? そうなの?
    真理と事実は違うって?
    そんなあ~~~。
    仏様はすべての人間を救ってくれるんじゃなかったの?
    浄土真宗の考え方が じゃましてんのかな?
    自力本願と他力本願の違いですか?

結論。
私には 分からないことが多すぎます。
読んでいても どういうことを言っているのか 分かりません。
おそらく、いろいろな歴史上の人物や著名な人の言葉などが
引用されて、それを使って般若心経のこころなるものを解説していますので
広い教養がないと、これを理解するのは無理ってことなんでしょうか。

なんで、この本が 200万部の ベストセラーになったのか・・・・・
おそらく、人生を真面目に考えている人たちが、その生き方を正す
拠り所を探すひとつとして読まれたのではないかと思います。

私は、また、出直すしか、読み直すしかないな。

ちなみに、こちらのサイトの紹介では、 「平易な入門書」とあります。

http://kindai.sk46.com/showa03/shingyo.html

もっと詳しく この本にコメントをしている方のサイト:

http://www.din.or.jp/~honda/book9-82.htm

てっとり早く 多くの人の感想を読んでみたければ、やっぱり アマゾン:

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4396313152

最後に、宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」との比較ということで言いますと。

般若心経という経典がどのようなものであるのかを、サンスクリットの原典に
遡って、歴史的に、書いてあることに忠実に、理解しようと思ったら、
宮坂氏の本が良いのではないかと思います。
ただ、人生訓や処世訓を求めたいのであれば、お門違いになるでしょう。

お付き合いいただき、有難う御座いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

     

    

フィリピン バギオ 宗教 仏教 般若心経 禅宗 浄土真宗 悟りとは 色即是空 空即是色 空の概念 空とはなにか

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2012年2月16日 (木)

読経を聞いてきました・・・ 

今日は、バギオの日本庭園で バギオ戦没者慰霊祭ってのがありまして。

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お坊さんの読経を聞いてきました。

・・・・長いです。(笑)

でも、このポータブル木魚って言うんですかね?

この音がキンキン響くんです。

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この写真の左側に建物がありますよね。

これは、フィリピン大学バギオ校の美術科の校舎なんですね。

それで、その校舎の窓から 学生たちが顔を出して、「何事か?」って感じで こっちを眺めているわけです。

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毎年 ここで この木魚が キンキンと響き渡るわけなんですけど、

毎回、大学がよく「うるさ~~い」とか言ってこないな・・・なんて、余計なことを考えているんです。

それに、このポータブル木魚が 小さいもんだから、叩かれる度に少しずつ動くんです。

だから、住職も 動いたものを 元の位置に戻すのに忙しいんですね。

・・・だから、寝ていらんないんです。(笑)

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この住職さんは、日蓮宗の方なんで、名前だけの浄土真宗の人間としては、今までいろいろ阿弥陀経だの教行信証なんかの解説本を読んできたものとしては ちょっぴり興味が湧きにくいってところはあるんですがね・・・

まあ、日本だったら親戚があの世に行かない限りは 聞くこともない読経ですから、

こういう場で、それもフィリピンで、一年に一度は読経を聞けるってのが いいんじゃないかな、って思うわけです。

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この英霊追悼碑がある日本庭園は、1973年に日本の団体が バギオのライオンズ・クラブの協力を得て造ったそうです。

そして、戦友会や遺族会の皆さんが毎年 お坊さんとともにやってきて 慰霊巡拝ってのをやっているそうです。

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マニラの近郊では、毎年8月15日に 日本大使館の主催で戦没者慰霊祭が実施されているんですけど、そこでは 坊さんの読経なんてのは無いんです。

要するに、無宗教の慰霊祭をやるわけですね。

お花を捧げるだけです。

・・・それはそれで、いいと思うんですけど。

日本情緒っていうんでしょうか。 読経を聞くと なんとなく眠くなって 子供のころのことを思い出したりして、落ち着きますね。

坊さんが「なんみょうほうれんげきょう~~」なんて言っているときに、

私は胸のうちで「なむあみだぶ~~~」なんてやってました。

今度、「般若心経」なんて やってくんないかなあ~~。

無理だな。

 

 

 

 

 

   

   

   

   

   

   

   

フィリピン バギオ 戦没者 慰霊祭 慰霊団 日蓮宗 本長寺 住職 お経  

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松原泰道著 「般若心経入門」 4回目 - 人間性の教えか、真義の追求か

ここでは 松原泰道著の「般若心経入門」(祥伝社黄金文庫)を読んでいるの
ですが、先に読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)
と私なりの比較をしながら 勝手なことを書いています。

ーーー

松原氏のこの本が、一番力を入れているところは、「空」についてのようです。
その部分を拾い集めてみましょう:

ー 「空」、広辞苑には<よりどころのないこと>とあります。
ー つかみどころのない心だから、よりどころがないのです。
  ・・・実体がないため、何も得られなかった。 ・・・あるようで、
  ないようであるのが「心」の本質かもしれません。

ー 空しさを嘆くことから踏み込んで、空しさに徹するより方法は
  ないようです。 このことを般若心経は「色即是空」とわずか四字で
  ずばりと言いきるのです。

ー この形あるものを否定するところの、いわば「空しさ」いっぱいの情感が、
  空の持つ第一の意味
です。 この空しさを感ずるところに、人間の進歩も
  あるのです。

ー いったん否定した<色>をさらに空ずるという、二つの否定を経て
  人生を眺めようじゃないか。 そうしたら、別次の風光があるに違いない
  と教えてくれるのが「空」の持つ第二の意味です。

ー いまこそ空しさを知り、空しさに徹し、空しさに生きる「般若の知恵」を
  身に付ける絶好機です。

ー 般若心経は、「現実の空しさ、うつろさを徹底して実感せよ(色即是空)、
  すると、現実に生きる価値と意義が十二分に自覚できる(空即是色)」
  と教えます。

う~~ん、般若心経を「心」の意味にとらえると、「空」の概念が
このように理解されるんですね。

この「色即是空・・・」の部分を、一方の宮坂氏がどう解説したかといいますと、

ー 観自在菩薩が四階のフロアにおいて階下の舎利子に向って語っている
  言葉なのです。
  五蘊の「色」は三階(小乗仏教)のフロアで観察された言葉です。
  「空性」は四階(大乗仏教)のフロアで観察された言葉なのです。
  いずれも舎利子より下の世間のレベルとは無関係のところで示されている
  言葉です。

要するに、宮坂氏は、「色」を観察できるのは小乗仏教の出家修行者であり、
「空」を観察できるのはその上のレベルの大乗仏教の観音菩薩のレベルであって、
どちらにしても一般の人間の世間の話ではない、と言っているわけなんです。

それだからこそ、般若波羅蜜多という名前のついたマントラ(真言、祈りの言葉)
を唱えて修行することが必要だってことみたいです。

(この宮坂氏の「色即是空・・」の解釈については、こちら「般若心経」の本
 (12)「ダルマ」」とは? でチェックしてみて下さい。)
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-3ce7.html

ついでと言っちゃあ悪いんですけど、ここで、観音様や舎利子(シャーリプトラ)
のことをどのように描いているかを読んでみましょう。

赤コーナー、この松原泰道氏の本では:

ー 観自在菩薩は観音さまのことですが、偶像ではありません。
  「自在(由)を観ずる大いなる人間性」の象徴です。
  真の自由を得て人間らしい生き方を願う私たちの象徴そのものなのです。
  真実の自由・自在をあらわす観音さまは、現代人が要請する、深くて
  豊かなこころを持つ「人間像」にほかなりません。

ー 自由にして深い慈愛に富んだこころの眼のはたらきが、「人間の身に
  埋もれたままで存在している」と釈尊はさとられたのです。
  このはたらきを誰の目にもわかるように象徴的に示されたのが観音さまです。

ー 当時の舎利子は、修行もまだ浅いし、前の懐疑派哲学的なものの考え方
  の影も残っているので、知恵よりも論理的な知識のほうが旺盛です。
  こうした条件下の舎利子が、般若の知恵の象徴である観自在菩薩から
  「空」を語りかけられるというのが「般若心経」です。

ー それは観世音菩薩の発言という形での、現在の私たちへの釈尊の
  呼びかけでもあります。

次に、青コーナー、宮坂宥洪氏によりますと:

(下記は、以前に私が書いたブログの一部からです。)
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-87b5.html

アビダルマ研究者(論師)たちが、ダルマを永遠に存在するものと言い
出したので、より上位のレベルをつくる必要が出てきた。
そして、釈迦の真意を追求した結果、大乗仏教に到ったということのようです。

一番の問題点は、ダルマを実在のものだとしてしまったところにあった
と言います。

大乗レベルの観自在菩薩が、小乗レベルの舎利子に伝授するというのが
「般若心経」の中心場面として設定されたのだ、としているのです。

だから、「空を特徴としている諸法」というのは、「4階のフロアで観察した
諸法」
ということである。
従って、3階の小乗レベルでは「空を特徴としている」レベルではないので、
「不生にして不滅、・・・」と言うことにはならない、3階のレベルでは
「諸法は因によって生じ、また滅す」ということでしかない、としています。

・・・・

つまり、宮坂氏がいうアビダルマ論師というのが舎利子がいる小乗仏教の
レベルということになりますね。

そして、観音様については、宮坂氏は:

ー 「観自在」とは、文字通りには「観ること自在」という意味です。
  この方が得た境地というのは、ある高みにおける見晴らしの良い眺望
  ともいうべきものでした。

ー 何を観察するかというと、仏陀の示した法、すなわち仏法を観察する
  のです。 これを観法といいます。

ー インド哲学という場合、この「哲学」の原意は「観ること」です。
  ・・・いわゆるインド哲学というのは、すべて瞑想実践の中から
  生み出された体系なのです。

ー すなわち、観自在菩薩が諸法をどのように観察したかということが、
  まさに「般若心経」の中心場面となっているのです。

松原氏の言う「自在(由)を観ずる大いなる人間性」の象徴とは
かなり違った解釈になっていますね。

「自由を観る」のか「自在に観る」のか・・・・

松原氏は、般若心経の元々の真義はともかく、僧侶として人間性を見つめる
ことを庶民に説くという立場で書き、
一方 宮坂氏は、歴史的に今まで間違った解釈をしてきた学者や高僧を
含む仏教界の指導者に 般若心経を見直すことを訴えているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

    

   

   

   

   

フィリピン バギオ 宗教 仏教 般若心経 現代語訳 真義 歴史的誤解 誤訳 経典

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2012年2月15日 (水)

松原泰道著 「般若心経入門」 3回目ー タイトルの意味がこんなに違う

ここでは 松原泰道著の「般若心経入門」(祥伝社黄金文庫)を読んでいるの
ですが、先に読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)
と私なりの比較をしながら 勝手なことを書いています。

ーーー

そもそも、この経典「般若心経」あるいは「摩訶般若波羅蜜多心経」というのは
このタイトル、経典の名称そのものが どういう意味なのか様々な議論がある
みたいなんです。

まず、赤コーナー、この松原泰道氏の本ではどう解釈しているかっていいますと:

ー 「誰もが、いつ、どこでも持つ超越的実在の深い理性のこころ」の経典。

  摩訶=超越的実在=すべての存在の原典である空のかたち
  般若=プラジュニャー=パンニャー=知恵=深い意味での理性=般若は仏母
  波羅蜜多=パーラミター=完成
  心=この「心」は感情ではなく、感情の下の深い層の、私のいう「こころ」
    であることも確実です。 人間本心の「こころ」。
    「何ものにもとらわれないこころ」こそ「空」、という観点にたったもの。

ー 本来「ほとけ」とは、世間でいうような死人とか仏像ではなく、
  「真実の人間性」のことなのです。 ゆえに、自分の中にわけ入って
  真実の人間性を開発するのが「般若心経」のこころといえます。

次に、青コーナー、宮坂宥洪氏によりますと:

ー 「般若波羅蜜多という名称のマントラ」の経典
  原典では、「般若波羅蜜多心」
       (プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ)だけがタイトル。
  摩訶や経は後付けの言葉。
  般若=プラジュニャー=智慧=仏の知恵
  波羅蜜多=パーラミター=完成(到彼岸)
  般若波羅蜜多=智慧という完成。智慧の完成ではない。
         完成された状態であって、完成を目標とするものではない。
  心=フリダヤ=マントラ=真言(祈りの言葉)

松原氏の臨済宗では、「般若心経とは自分の心の本来の姿を現した経典」という
ことでしたから、この解釈は自然と言えるのでしょう。

宮坂氏は、心=マントラとした理由について、以下のようなコメントをしています。
  現代の般若心経の解説書の中では最も評価の高い中村元・紀野一義訳注
  「般若心経・金剛般若経」では、・・・「心」の後に括弧で「真言」と
  言い換えているのは、まったく正しい理解にもとづいています。

又、次のようにも書いています。
  玄奘以前に羅什が、この経典を「摩訶般若波羅蜜大明経」と、
  誤解の生まれようもない題名で訳出していたのを、玄奘が「摩訶般若波羅蜜多
  心経」という題名にしたため、古来、この「心」の意味をめぐって
  さまざまな解釈が生まれ、・・・

つまり、羅什の訳を皆が見ていたらこんな騒動にはならなかった、というわけです。

サンスクリットをどう漢語に訳したかによって、それを中国から受け取った
日本は 大きな誤解のまま 今に到っているということになります。

しかし、その一方では、その誤解のお陰で、般若心経は中国でも日本でも大ブームに
なった、と言えるのかもしれません。

 

 

 

 

    

   

   

   

   

   

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2012年2月14日 (火)

どういう意味なんだよ! 日本語って、本当に・・・

「ああ、やっぱりフィリピンに居るんだった・・・」って書いたんですがね、
なんか、ちょっと変かなあ~、って感じたんです。

何故かっていうとですね:

「やっぱりフィリピンに居るんだった。」には二つのケース・意味が考えられると
思うんです、気づいたんです。

1. 今、実際フィリピンにいることを忘れていた。そのことを意識した。
2. 今はフィリピンにはいないんだけど、今も住んでいたら良かった。

この二つなんです。

二つ前のブログで書いたことは この1の意味だったんです。

同じように、「本をゆっくり読もう。」って書いたんです。
これも 考えてみると二つのケースが考えられるんですねえ。

1. 今日は休日だから、じっくり一日中読書三昧しよう。
2. 今週は忙しいから、毎日少しずつ日数をかけて だらだらと読もう。

集中的に読むということなのか、長い期間を掛けて読んでいくことなのか。

ああああ、な~~んで、日本語ってこんなに あいまいで、いい加減な
言い方があるんでしょうねえ。

私のこういう理解、使い方、どこか間違っていますかね?

文章全体を読めば、そりゃあ文脈でわかるだろうし、
会話をしている時だったら、それも文脈やらやりとりの流れやら、相手の顔見て
わかるとは思いますけどね。

最近、頻繁に政治家や公務員の言葉尻をとらえたマスコミ報道が多いじゃないですか。

マスコミの場合は、かなり意図的なことも多いんでしょうけど、
こんな身近な言い方にすら 正反対の意味があるってのは 怖いですね。

他の言語だったら どうなんでしょうかねえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリピン バギオ 日本語教育 あいまいな日本語 反対語 意味 文脈 日本語教師

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松原泰道著 「般若心経入門」 VS 宮坂宥洪 2回目

ここでは 松原泰道著の「般若心経入門」(祥伝社黄金文庫)を読んでいるの
ですが、先に読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)
と私なりの比較をしながら 勝手なことを書いています。

ーーー

まず、この著者・松原氏のスタンスは、「まえがき」にこのようにあります。

「般若心経は短編の経典ですが、昔から、中国ではもちろんわが国でも
多くの人が、今もなおこの経に惹かれます。 それは、この経の内容が
人間の生き方を、歴史の流れを越えて語ってくれるからです。
近代思想では考えられない深い人生観と世界観が説かれているからです。」

と「人間の生き方」が中心的内容だとしているんです。

これに対して、宮坂氏の方はどうかと言えば、

「いまだかつて、この尊ぶべき経典の内容に関して肝心なことが何一つ
解説されておらず、ほとんどの語句が正しく説明されているとは
到底言えないということが分かって愕然としました。
・・・・この経典を読む私たちの立場からいうと、私たちが般若派羅蜜多
の修行を実践しようとするならば、このように観察しなさい と、観法の
手順が示されているということです。 結局、般若心経はマントラ念誦法の
指南書
というべき性格の経典なのです。」

つまり、この本の著者松原氏は「人間の生き方」の本だと言い、一方 宮坂氏は
「観法の手順の指南書」であると言っているんです。

そして、このそれぞれのスタンスがはっきり出ている部分がありました。
(私の理解ですよ・・)
般若心経の中で どこが一番大事なところなのか、ってことなんですが、

松原氏は、266ページでこう書いているんです:

ー 般若心経の経典としての主要な部分は、ここで終わっていると見ても
  いいと思います。 説くべきことはすべてここで説きつくされています。

  (これが般若心経のどこかと言いますと、
   「三世諸仏 ・・・ 三菩提」のところまでです。)

対して、宮坂氏は、40ページで般若心経の全体の構成を解説する中で:

ー 観自在菩薩が行った深遠な般若波羅蜜多の修行とは、一体どんな
  修行だったのか。 
  ・・・ それは「掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提、娑婆賀」の
  マントラを誦えることなのです。

  (つまり、般若心経の一番最後の部分の「掲諦、掲諦、・・・」の部分が
   念誦する内容であって、これを説くための般若心経だといっている。)

だから、二人の著作を比べると、重点がまったく逆転しているってことです。
松原氏が この後は重要じゃないと言った最後の部分を、宮坂氏は一番
肝心な部分だとしているんです。

さらに、その「掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提、娑婆賀」の
通常は翻訳しないマントラの内容をどのように意訳しているかといいますと:

松原氏:

平凡であるがゆえに(翻訳せずに)秘するのです。 誰もが知っているからこそ
秘するのです。 明かされた秘密であるからこそ秘するのです。 
・・・なんでもない普通のことに感動するには、相当の修練が必要です。 
その修練の少ない多くの人のためには秘さなければならないのです。
(こんなこと言っていいんですかねえ? 素人さんには分からないから
 秘密にしといた方がありがたく見えるってことでしょ??)
・・・と解説した上で、

「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、
さとりよ、幸あれ。」

宮坂氏:

掲諦も、波羅掲諦も、波羅僧掲諦も、菩提も、すべて般若波羅蜜多の言い換え。
般若心経は仏母たる般若波羅蜜多を本尊とする経典・・・大乗仏教徒は
般若波羅蜜多を、諸仏を生む母、すなわち仏母として尊び崇め、その絶大な
功徳を宣揚したのです。
・・・とした上で、

「母よ、母よ、般若波羅蜜多なる母よ、どうかさとりをもたらしたまえ。」

(要するにこれは、「南無阿弥陀仏」と同じようなことですよね。)

以上のように、両者で全く異なる意訳をしています。

あなたなら、どちらの解説に納得しますか?

ところで、この著者の松原氏は臨済宗の僧侶のようですが、wikipediaによれば、

「臨済宗では、般若心経を日用経典の1つとしている。また、一休・盤珪・白隠が
解釈を行っている。般若心経とは自分の心の本来の姿を現した経典であるという
主張を行うことが多い。」

とありますので、「人間の生き方」が中心的内容になっているとしているので
しょうね。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

      

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2012年2月13日 (月)

ああ、やっぱりフィリピンに居るんだった・・・

昨日、今週はいろいろ忙しいんで、ブログ更新は遅れますってことを書きました。

今日から、日本語教室の仕事が始まって、その上に3つの予定があったんです。
火曜日に結婚式、木曜日に慰霊祭、土曜日にスピーチを依頼されていたんです。

今日になってその内2つがキャンセル!
キャンセルされたの・・・ですか?  結婚式とスピーチなんです。

結婚式のキャンセル???
結婚のドタキャンじゃあありませんよ。
不幸があって 延期なんですけどね。

スピーチっていうのは、ある団体からの正式の手紙での依頼で、日本の教育制度に
ついて話してくれと頼まれていたんです。
それが、当該の学校長にキャンセルされたとの連絡が・・・・

日本の政府系の機関の人などにお願いして、日本の教育制度の資料をいただき、
昨日の日曜日は、一日つぶして翻訳や資料作成までやったというのに
・・・くっくっくっ

残っている慰霊祭・・これは日本人の予定ですから、大丈夫です。

まあ、翻訳がひとつ入っているんで、時間が空いて助かったんですけどね。

しかし、気が抜けた。

   

   

   

   

   

   

   

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松原泰道著 「般若心経入門」 VS 宮坂宥洪 1回目

ここでは 松原泰道著の「般若心経入門」(祥伝社黄金文庫)を読んでいるの
ですが、先に読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」(角川ソフィア文庫)
と私なりの比較をしながら 勝手なことを書いています。

この本は、松原泰道著 「般若心経入門」で、副題に、
ー 276文字が語る人生の知恵 - って書いてあるんです。

まず、この副題が宮坂宥洪氏にとっては「大間違い」みたいなんです。
宮坂宥洪氏は、般若心経はどんな人生訓も処世訓も書いてはいない、
って言っているんですねえ。

この本を一回読んだ感想なんですけど、この本は「般若心経」の入門書と
言うよりも、松原泰道氏の人生訓・処世訓がほとんどで、般若心経は
それを説く為の材料のような感じです。
いろんな著名人のいろんな言葉が例示されていて、そのすべてを
般若心経に結び付けて意義付けをしています。
般若心経の解説書とは思わない方がいいと思います。

一方、宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」は、まさに、般若心経の原典を
詳細に検討し、歴史的背景を踏まえながらアカデミックなアプローチで
解説しているといった雰囲気です。
かなりの過激派ですけどね。 他の著作に喧嘩売っているし・・・(笑)

私はちょっと失敗したかな、なんて思っているんです。
最初に宮坂宥洪著を読んだのは、「こだわり」が出来てしまって、
他の本を素直には読めなくなったようなんです。

おそらく、この本、松原泰道著の方が世の中では一般的なんではないかと
思うんです。 人生訓を垂れるのがね・・・

で、この松原泰道さんなんですけど、

1907年生まれ、早稲田大学卒業後、岐阜県の瑞龍寺で修行、臨済宗妙心寺派
教学部長を経て、宗派を超えた仏教者の集い「南無の会」会長。
この本は30年間で110万人に読まれているベストセラー。

・・・なんだそうです。

そして、この本も、有名な薬師寺官長である高田好胤氏や、石原慎太郎氏の
推薦を受けて出版したのだそうで、
これだけで、多分、メジャーな「般若心経」理解の本なんでしょうね。

ところで、一方の宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」なんですけど、
その「あとがき」に 以下のような事が述べてあります。

サンスクリットの原意にさかのぼっての、それこそ重箱の隅をほじくるような
徹底した語句の解明なくして何が分かるというのでしょう。
皮相な読み方や誤読や曲解を避けるためには、学問的定説となっている
従来の用語解説に対しても再検討が必要であり、本書では結局、
そのことごとくを見直すことになりました。
高名な学者や僧侶の方々のご高説も基本的な理解が不十分では台無しです。

と宣戦布告をしているんです。 すごいバトルですなあ。

という事を踏まえて、次回からぼちぼち 読み比べをやってみたいと
思います。

ちなみに、前回の感想文を思い出したいかたは、こちらへどうぞ。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-e49a.html

私自身も振り返りながら書いていきたいと思っています。

    

   

   

   

   

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これが あの 松原泰道著 「般若心経入門」 です・・・・?

「般若心経」については、いろいろ、本当にいろいろ あるんです。

今回は、これを読んでいます。 飽きもせず・・・・・

5img_0546

松原泰道著 「般若心経入門」 

276文字が語る人生の知恵

祥伝社黄金文庫

  

    

この本の裏表紙には、石原慎太郎氏が

「仏が口うつしに与える一鉢の水」 と推薦文を書いています。

   

   

・・・・で、なんで 「あの・・・・」 とタイトルに書いたのかと言いますと、

以前読んだ 宮坂宥洪著の「真釈 般若心経」で こんなことが書いてあったんです。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-87b5.html

   

      

ここで、著者は「不生不滅」の意味について、一般にかなり誤解されている
のではないかとして、以下のように言っています。

ー 「広辞苑」で「不生不滅」は「生じもせず滅しもせず常住であること」と
  説明されている。 仏教用語としては間違っていないが、「般若心経」では
  そういう意味では使われていない。
  
ー ある解説書には、「初めも終わりもないということで、永久とか永遠な
  ものをさしている」(松原泰道著「般若心経入門」)とあるが、
  これはデタラメもいいところだ。
  それは「般若心経」が批判の対象としているアビダルマ論師の見解そのもの
  である。

つまり、観自在菩薩が伝授しているのは、そうした永遠のものはない
ダルマは実在しない、ということを説いているのだから、
生ずることも滅することもないということなんですね。

    

    

・・・・ ってことでですね、 公道で喧嘩しているんですね。

だからってこともないんですけど、ちょっと その喧嘩を見物してみようかなって・・・・

ちょっと趣味が悪いんですけど、比較しながら読んでいこうと 思っています。

ただ、今週一週間はいろいろと立て込んでいるんで、ゆっくり読みますね。

よろしく、お願いします。

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

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