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2012年2月25日 (土)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (6)  4種類の修行者 神とは?

 
岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

この本は、さすがにお釈迦さんの肉声に一番近いというだけあって、
面白いです。
いろんなエピソードがあって、その場面でお釈迦さんがどう対応し、
詩のような言葉を発したのか。

さて、その一つ、一所懸命働いている農夫のところへ行って、道にたたずみ、
食物を配給しているところでのエピソードです。
(まあ、要するにお釈迦さんが托鉢をしているってことです。)

お百姓さんから、
「あんたは何にもしないで、そうやって食べ物をもらいに来たけど、
私はこうやって一所懸命働いているんだから、少しは手伝ったらどうよ。」
って言われちゃったお釈迦様の応えが次のようなもんなんです:

77.私にとっては、信仰が種子である。 苦行が雨である。 智慧がわが
   くびきと鋤とである。 はじることが鋤棒である。 心が縛る縄である。
   気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである。

いろいろもっと話すんですが、この応えを聞いた百姓さんが、
なるほどと思って、乳粥をお釈迦さんにあげるわけです。

すると、ここで、お釈迦さん曰く:

81.詩を唱えて(報酬として)得たものを、わたくしは食うてはならない
   バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわし
   ではない。 ・・・定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)
   生活法なのである。

と言って、今度は断ってしまうんですね。
そうなると、百姓さんは、その乳粥をどうすんべえ、と聞くわけです:

お釈迦さんの応えは、
「青草の少ないところに棄てよ、或いは生物のいない水の中に沈めよ。」
なんです。
意味わかんないですけどね。

言われるままに、それを水の中に投げ棄てるわけです。
そうしたら、水から湯煙があがったってんです。
それで、なんと、そのお百姓さんは、恐れおののいて、ぶったまげて、
お釈迦さんの弟子になって出家しちゃうんです。
そして、最後には聖者の一人になったんですって。

・・・・

次に鍛冶屋さんとの会話

「世間にはどれだけの修行者がいますか?」って問いに対する応え:

84. 四種の修行者があり、第五の者はありません。 ・・・・・
    ・・・ <道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する
    者>と及び<道を汚す者>とです。

その4種類というのがどんな人たちかっていうと:

86. 疑いを超え、苦悩を離れ、安らぎを楽しみ、貪る執念をもたず、
    神々と世間とを導く人、 -- <道による勝者>

87. この世で最高のものを最高のものであると知り、
    ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を、
    -- <道を説く者>

88. みごとに説かれた(理法にかなったことば)である<道>に生き
    みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを
    奉じている人を、---<道によって生きる者>

89. 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、
    傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、
    まじめそうにふるまう者、-- <道を汚す者>

これは全部修行者ですよ。
89も修行者です。
あああ、私はしっかり<道を汚す者>ですね。すんまへん。

ここで、今、ふっと思い出したんです。

宮坂さんが書いた「真釈 般若心経」で出てきた4階建て。
以前読んだ本の感想文で その「まとめ」に書いたんですけど。

屋上 = 釈尊瞑想の図 = 仏陀の居るところ (人知を超えた)
四階 = 釈尊入滅の図 = 観自在菩薩レベル (空を知る)大乗仏教
三階 = 釈尊説法の図 = 舎利子レベルのフロア(無我を知る)小乗仏教
二階 = 釈尊修行の図 = 世間レベルのフロア (自己形成)
一階 = 釈尊誕生の図 = 幼児レベルのフロア (出発)

以上のような話でした。
この一階と二階は、いずれも世間レベルの話ですから、上記の89に
該当しませんかね?
88=舎利子、 87=観自在菩薩、 86=当然、屋上の仏陀

今読んでいる本のうしろの解説には次のようにあります:

ブッダとは、世の中に多数いる修行者のうちの一種類にほかならないのである。
目ざめた人々が複数形であることに注意せよ。
ここの教えを釈尊が説いているのではない。 「私が説くのだ」とは言わない。
そういう傲り高ぶった気持ちをかれはもっていなかった。
ブッダたち(ジャイナ教やそのほかの当時の諸々の聖者たちを含めて)が
説くのである。 当時の聖者たちの説いていること、真理を、釈尊は
ただ伝えただけにすぎないのである

かれには<仏教>という意識がなかったのである。

・・・そこで、私の疑問なんですが、
上記の86に「神々」って出ているんですね。お釈迦様が「神」と言っているのはどんな神なんだろう?
それも「神々」と複数形なんです。

それに77で「信仰」という言葉もあるんです。 仏様の信仰って・・・・?

そこが、知りたい。

次回の(7)は こちら です。

   

   

   

   

   

 

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2012年2月23日 (木)

CANONさん ありがとう!  日本企業、がんばれ!

今日、クリーニング屋さんに預けっぱなしで忘れていた洗濯物を取りに行ったんです。

SMバギオというモールの地下にクリーニング屋さんがあるんですけどね。

・・・で、イベント・ホールで こんなものを見かけたんです。

Img_0657

おおおおおお・・・・  いいじゃないか、いいじゃないか!!

キャノンさんじゃ ないか~~。

Img_0658

な~~にを そんなに 興奮しているんだ?

ってお思いでしょうが、

これには ふか~~い、訳があるんです。

Img_0659

バギオに移り住んで、丸7年が経つんですがね、

このSMバギオのいたるところに、韓国製品が溢れ、日本製品は肩身の狭い状況なんです。

Img_0661_2

このイベント・ホールだって、華々しくやっているのは いつも韓国の自動車メーカーだったりしているんですよ。

このイベント・ホールを 日本の優良企業の製品で埋め尽くしてほしい!!

って、常々心ひそかに思っていたんです。

Img_0663

それを、CANONさんは やってくれたんです!!

ありがとう キャノンさん。 

私は 嬉しいんです。

このフィリピン最大の避暑地 北ルソンの高原都市バギオで、こういう日が来るのを待っていたんです。

トヨタさん、ホンダさん、三菱さん、ニッサンさん、そして、今、超不振の電器メーカーの日本企業さん。

なんとかして下さい。

お待ちしております。

・・・・ってことで。 今日の報告、おわり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

   

  

  

  

  

 

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「ブッダのことば」 中村元 訳 (5) インド人は内向的 ?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。
原始仏教のお釈迦様の言葉です。

「独り」って言葉がやたらめったら出てくるし、なんか人間が冷たいみたいな
文章が多くて、気になりましてね。
本の後ろの「註」にありましたよ、謎解きが。

ー 独りでいるならば、最も大切なものを失わないで済む

ー 「独り修行をする」ということはバラモン教の伝統の叙事詩などにおいても
  称賛されていたが、それと同じものを初期の仏教も受けていた。

ー 妻子に対する愛恋は堅固な束縛である。 このような観念の故に
  聖者は子をもたない。 たとい結婚して妻子のある人でも、それに対する
  愛着をすてて出家すべきである。

ー もしも仲間がいると、わずらわしい。 いつも邪魔される恐れがある。

ー 仲間から離れて独りで暮らすことをたたえているのである。
  これはインド人の伝統的な思惟とも関係がある、と考えられる。
  インド人には内向的性格があり、独りを楽しむ傾向がある

ー ひとり沈思して自己を反省し、人間主体の深奥に入り込み、直観的に
  絶対の主体を把捉しようと努める。 
  そこにおいては当然、対象論理とは異なった論理が開かれることになる。
  そうしてこのような思惟方法は、ややもすれば人間の社会性に関する
  自覚を稀薄ならしめ、人間はむしろ孤独を楽しむに至る。

そして、このようなインド人の特徴について、インドの風土からきている
として、以下のような註が続いています:

ー ギリシア人の伝えるところによると、すでに最古代において、インドの
  農業生産は、さほど労働力を必要とすることなしに、極めて安易に
  行われた。
  夏季に河水が氾濫すれば、その程度はちょうど農作物の播種・成長に
  適当であり、特別の灌漑設備をも、播種後の移植をも必要としなかった。
  収穫も一年に二度可能であった。

ー このような風土においては、農業生産のために人々が労働の共同を
  行う必要が乏しい。
  また、インドにおいては、衣服と住居とに関しても、他の諸民族のように
  積極的に外的自然にはたらきかけて、努力する必要が少ない

ー このような社会生活においては、各個人の生活の、他人への依存度が
  少ないわけである。
  そこでは、各個人の生活が孤立的となる傾向がある。
  インド人は孤独を楽しむ

ー これは、ポリス的人間としてのみ人間でありえたところのギリシア人の
  眼にとっては全く異様な現象であった。

以上は、都市国家ポリスに住むギリシア人の眼でみたインド人の孤独を愛する
姿を描写しているのですが、いろいろと考えさせられますね。

まず、今は私自身がフィリピンに住んでいますので、フィリピンのことを
考えてみますけど、

風土という意味でいうならば、上に書かれているのは、かなりフィリピンと
似ていると思うんです。
特別に一所懸命働かなくても植物はよく茂って食べてはいけますからね。

じゃあ、フィリピン人が孤独を愛する人々か、っていうと、少なくとも
今の現代は とてもとても そうとは思えませんね。

大家族でわいわい、がやがややっていて、明るくて、おしゃべりで、
楽天的で、計画性がなくて・・・・ つまり内向的とは程遠いわけです。
みなさん、賛成しますか?

今現在、食べていくという点から言えば、貧しいから海外に出稼ぎにいかなくちゃ
いけないという現実があります。

そこでは、独りで住むなんてことは考えにくいわけですね。
フィリピン人同士で助け合わないといけない。
協同しなくちゃいけないってことですね。

よって、少なくとも現代のフィリピン人はギリシア人の眼にならざるを
得ないってことになりそうです。

じゃあ、日本人はどうなんでしょうね
風土的な話に戻すと、四季があって、農業はなかなか大変です。
だから助け合わないとやっていけない。 放っておけば作物ができるって
場所じゃあないですもんね。

だから、昔は、ちょっと前までは、農業が主体の日本人は大家族で助け合ってきた。

でも、急速に先進国になって、お金持ちになって、サラリーマンになって、
大きな家に個室も持てるようになって、なんでもかんでも高くなっちゃって、
子供をたくさんは育てられなくなって、個人主義になって、引きこもるように
なってきた。

おまけに、孤独死をするほど、独りで住むことを「愛する」国民になっちゃった。

上に書いてあるインド人の感覚は 今の日本人にかなり近いかもしれないですね。

これは皮肉でもあり、もしかしたら事実かもしれない。

親の稼ぎで、少なくとも親が生きている限り、あるいは、親の年金がある限りは
引きこもっていても生活はできる。

インド人の場合は、修行僧は托鉢で生きていられたわけですね。

要するに、食べることに汲々とする必要もない環境があれば、
助け合う必要が特別になければ、そのような風土環境があれば、
独り歩む、内向的で冷たい人々が増えるのが自然だということなんでしょうか・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年2月22日 (水)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (4) ただ独りで・・・

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。

原始仏教での、お釈迦様の言葉です。

さて、出家の話だけならともかく、さらに在家についても・・・

41.仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。 また子らに対する情愛は
   甚だ大である。 愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角の
   ように ただ独り歩め

43.出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。
   また家に住まう在家者でも同様である。 だから他人の子女にかかわる
   こと少なく
、犀の角のようにただ独り歩め。

ここに到ると、出家者だけの話ではなくなっています。
なかなか厳しい。

45.もしも汝が、(賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者)を得たならば、
   あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれと
   ともに歩め。

47.われらは実に朋友を得る幸を讃め称える。 自分よりも勝れあるいは
   等しい朋友には、親しみ近づくべきである
。 このような朋友を
   得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のように
   ただ独り歩め。

57.義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ
   貪りに耽り怠っている人に、みずから親しむな。 犀の角のように
   ただ独り歩め。

ここです。  相反する、矛盾するような文言が出ているんですが、
つまりは 同伴者や友は 選びなさいってことを言っているんでしょうか・・・

・・・ありました。この矛盾についても最後の「註」に次のようなコメントが
あります。
 
この二つの教えは相互に矛盾しているようでありながら、最初期の仏教の
修行者にとっては必ずしも矛盾していなかった。

「善い友だち」なるものは、世俗から離れるという方向において一致して
いたのである。 ・・・もしも聡明なる友を得たならば、共に行ぜよ、
もしそうでなければ一人で遍歴せよ、と言う事だそうです。

そして、皆様お気づきのように、「犀の角のようにただ独り歩め」が
くり返されています。

64.葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを
   除き去って、出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。

65.諸々の味を貪ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、
   戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく
、犀の角のように
   ただ独り歩め。

いや~~、厳しいですね。 出家の勧めですから、当たり前といえば
そうなんですけど。

69.独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に
   従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角の
   ように・・・

75.今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。
   今日、利益をめざさない友は、得がたい。 自分の利益のみを知る
   人間は、きたならしい。

ここで、とにかく「独り」って言葉がやたらに出てくるんですね。
それが気になって 本の後ろの「註」をみたら、なかなか面白いことが
書いてありました。

それは、次回のお楽しみ。

 

 

 

 

   

   

   

   

   

   

   

  

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2012年2月21日 (火)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (3) さすがに修行者です・・・ 

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。

原始仏教でのお釈迦様の言葉、だそうです。

ーーーー

さて、ぼちぼちと最初のページから読んでいきましょう。

五章に分かれていまして、第一章はさらに十二に分かれ、そこには短い文章に
221まで番号がふってあります。

ここで左側に書いている番号はその番号です。

ちょっと読んだだけで、すべて考えさせられる内容なのですが、
その中から特に私の考えるヒントになったものだけをピックアップしてみます。

1.蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、
  怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世と かの世とをともに
  捨て去る。 -- 蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

上記の文章の後半の
「この世と かの世とをともに捨て去る。 -- 蛇が脱皮して旧い皮を捨て去る
 ようなものである。」

の部分は 1.から17.までの文章にすべて全く同じように繰り返し書かれて
います。

では、どんな文章が前半にあるかといいますと:

5.無花果の樹の林の中に花を探し求めても得られないように、諸々の生存状態
  のうちに堅固なものを見出さない
修行者は、・・・

この「事物のうちに堅固なものを見出さない」というのは、つまり<空>で
あるということである。 <空>の思想は、最初期にまでたどることができる
のである。 ・・・と本の最後の「註」に述べてあります。

8.走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想を
  のり超えた修行者は、この世と かの世・・・・

ここの「走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく」という言葉に
ついても最後の「註」で、
「努力精励しすぎることもなく、また怠けることもなく」の意。 つまり
中道の思想を説いている、と書いてあります。

さて、さらに、この「走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく」
という文言が この8.から13.までくり返されているんですねえ。
もちろん、上記の「この世と かの世・・・」は全部にくり返されているんですよ。

どうも、解説によれば、もともとこれは、読む為の文章ではなく吟詠されるもの
だったそうなので、暗証して歌うようなかんじだったのでしょう。

じゃあ、私がちょっとドキッとした文章を選んでみます:

9. 「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、

15. この世に還り来る縁となる(煩悩から生ずるもの)をいささかも
    もたない修行者は、・・・

さすがに修行者ですね。 「すべてが虚妄」「この世と かの世を捨て去る」
それに「輪廻」を思わせる言葉などが出てきます。

しかし、ちょっと感じるのは、私の常識からすると 明らかに相反する
文章が頻繁に
でてくるんです。

33. 悪魔パーピタンがいった、
   「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。
    人間の執著するもとのものは喜びである。 執著するもとのものの
    ない人は、実に喜ぶことがない。」

34. 師は答えた、
   「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。
    実に人間の憂いは執著するもとのものである。 執著するもとの
    もののない人は、憂うることがない。

仏教に悪魔ってのが出てくるのにも驚いたんですが、それは置いといて、
悪魔が言ったことの方が 温かみがあって、師が言っていることに冷たさを
感じませんか。
でも、確かに真実ではあると思いますね。

そして、その後にとどめを刺すようなことが:

35.あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもの
   のいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。 況んや朋友
   をや。
 犀(さい)の角のようにただ独り歩め。

36.交わりをしたならば愛情が生ずる。 愛情にしたがってこの苦しみ
   が起こる。 愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のように
   ただ独り歩め。

まさに、出家修行者の心ですね。
「子を欲するな」「朋友を欲するな」「愛情を欲するな」ってことですもんね。
世捨て人、仙人にならんといかんです。

日本の仏教、私の場合は浄土真宗ですけど、の平々凡々な感覚からいうと
ヒジョ~~~に厳しい言葉の数々です。
修行などというものからは 正反対の生活をしていますからねえ。

この後も、どんなに厳しい言葉が出てくるのか、楽しみです。

 

 

 

 

    

   

   

   

   

   

   

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2012年2月20日 (月)

言葉は世につれ、国につれ・・・

日本語教師をやっているからってこともないんですが、気になるんです。

日本で言う「ガス・レンジ」なんですけど、フィリピンでどう言うか知っています?

9img_0649

「ガス・ストーブ」なんですよねえ~~。

日本でストーブって言ったら、なんてったって暖房用のストーブじゃないですか。

・・で、英語はどうなんだって、調べたんです。

日本のガス・レンジは英語で、Burner,  Gas Hob, Kitchen Stove なんですってよ。

日本の「バーナー」って、ガス・レンジの一部、火が出てくる部分だけのような
イメージってありませんか?
あるいは、溶接の現場で使っているようなバーナーですよね。

他にも辞書にありました:

料理用のガス・レンジ = 米語 Gas Range、それに Gas Stove
暖房用のガス・レンジ = Gas Stove

・・・ってことは、日本の「ガス・レンジ」はアメリカ英語から来たってことか。

フィリピンも米語のはずなんだけどなあ・・・。 納得いかね~な~。

じゃあ、この写真をどう思いますか?

9img_0642

そんない驚くこともないんですけどね。

上から フィリピン語、日本語(漢字)、韓国語・・・って思ったんですよ。

そしたら、その下に「ポリース」ってあるじゃないですか。

ってことは、上の漢字は中国語ってことになりますよね。

中国語でも「警察」って同じ漢字でした。

日本語の「手紙」は 中国語では「信」だし、

日本語の「トイレット・ペーパー」は 中国では 「手紙」だし。

もしかしたら、警察も 中国語は 少し違うかなっておもったんです。

だから・・・・日本人向けには 「ポリース」 なわけですよ。

御丁寧に 「ポリス」じゃなくて 「ポリース」なんですよね。

日本人が相談にのっていれば、やっぱり 「ポリス」でも「ポリース」でもなく 「警察」でしょう。

英和辞書を引いたって、絶対 「Police」 は 「警察」ってでますよね。

まさか 「ポリース」なんて日本語は出ませんよね。

・・・・ 日本語をちょっと知っているフィリピン人じゃないと カタカナなんて 思いつかないしねえ。

どんなフィリピン人が 教えたんだろうなあ~~。

まあ、日本人に分かる 「警察」と「ポリース」が両方書いてあるんだから、

文句なんかはないんですけどね。

 

 

 

 

   

   

   

   

   

   

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「ブッダのことば」 中村元 訳 (2) いつ頃の話なの?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。

この本の解説の部分です:

ー ここに現れる修行僧たちは、・・・大寺院の中には住んでいない。
  せいぜい庵に住んでいた程度である。 つまり大寺院がつくられる以前
  段階を示している。

ー 尼僧が登場しない。 西紀前300年ころにインドに来たギリシャ人
  メガステネースは、尼僧に言及しているから、当然それ以前の時期の
  段階を示している。

ー ストゥーパ(聖者埋葬の塚、塔)の崇拝あるいはチャイティヤ(塔院)
  崇拝が一般にひろがる前の段階。

ー 真理に関する論議は盛んになされているけれども、・・・「四諦」の説
  とは何の関係もない。

ー 歴史的人物としてゴータマ・ブッダ(釈尊)の逝去(西紀前383年頃)
  ののちに、仏弟子たちはその教えの内容を簡潔なかたちでまとめ、あるいは
  韻文の詩のかたちで表現した。

ー 最初は古マガダ語・・・或る時期にそれがバーリ語に書きかえられて、
  現在はバーリ語聖典・・ これらの詩あるいは短い文句は大体
  アショーカ王(西紀前268-232年)以前に成立した・・・
  それらの集成のうちでも「スッタニパータ」は特に古く成立した・・

ー 第三の段階として・・・・原始仏教聖典のうちの「経蔵」(経典の部分)
  が成立。  戒律の集成説明書である「律蔵」も成立

ー 第四の段階として、 仏教教団が細かな部派に分裂。(小乗仏教)
  諸部派で経典の内容の説明・整理・註解を行い、・・・「論蔵」を構成。
  スリランカの上座部のものと説一切有部のものとが伝わっている。

ー 原始仏教 ・・ 「三蔵」=経蔵・律蔵・論蔵  バーリ語

ー 三蔵は紀元後にもとの俗語からサンスクリットの翻訳され・・・・

ー サンスクリット原典がシナにもたらされて漢訳され、
  ほぼバーリ語三蔵に比敵するものが漢文の大蔵経のうちに収められ、
  チベット大蔵経の中にも訳出されている。

ー 紀元後にインド及び中央アジアで大乗仏教が興起・・・
  多数の大乗経典が作成された・・・ シナ及びチベットに伝えられ・・・
  日本の仏教に特に影響を及ぼしたのは「法華経」「浄土三部経」などの
  大乗経典である。

ー もしも訳文に、いわゆる仏教的色彩が見られるなら、それは後世の
  見解をもち込んだものであり、原意からそれだけ離れていると言わねば
  ならぬ。

ー 「スッタニパータ」について少なくとも分量的にはこれだけ解明した
  書は、海外にはないと思う。

この本の最初の230ページあまりがその本文であって、お釈迦様の会話の
ような短い文がたくさん並んでいます。
そして、「註」が190ページにもおよぶ長さになっています。

要するに、研究資料集といった方がいいかもしれませんね。

この解説を見る限り、真理についての議論はたくさんあるけれども、
お釈迦さんがいったという「四諦」などについては出てきていない、って書いて
あるみたいです。

古マガダ語ーー>バーリ語ーー>サンスクリット語ーー>漢語ーー>日本語

って形で翻訳された経典が広がっていったんですね。
(この本については、バーリ語から日本語への翻訳だったようです。)

では、実際には お釈迦さんはどんなことを話していたのか、
次回から見ていきましょう。

   

   

   

   

   

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2012年2月19日 (日)

「ブッダのことば」 中村元 訳 (1) お釈迦様の生の声 ?

岩波文庫の「ブッダのことば」(スッタニパータ)(中村元 訳)を読んでいます。

私の手元に二冊の岩波文庫の本がありまして。
ひとつは この「ブッダのことば」で、もう一冊は「般若心経・金剛般若経」
なんです。 どちらも大御所の中村元氏の著書なんですね。

3img_0629

今まで「般若心経」の解説本3冊を読んできたんですが、さて、どちらを
先に読もうかと、ぱらぱらと中身をチェックしたんです。

後者の本は、いままでの解説本とは違って、まさに解説本の元になるような
基本になる「般若心経」解説と言えるかと思います。
おそらく多くの解説本の著者が この本をもとにしたのではないかと思います。
・・なので、私にはちと難しすぎるかなあ~~、と思って敬遠。

そこで一気に、大乗仏教の代表的経典である「般若心経」から、小乗仏教を
飛び越えて、原始仏教の本ともいえる「ブッダのことば」を読むことに決め
ました。

3img_0629s

この表紙に書いてあるように、「最も古い聖典」なんだそうです。

それで、この本の一番最後にある「解説」をまず読みました。
そこにはこのように述べてあります。

この「ブッダのことば(スッタニパータ)」の中では、発展する以前の
簡単素朴な、最初期の仏教が示されている。 そこには後代のような煩瑣な
教理は少しも述べられていない。 ブッダ(釈迦)はこのような単純で
すなおな形で、人として歩むべき道を説いたのである

かれには、みずから特殊な宗教の開祖になるという意識はなかった。
修行者たちも樹下石上に座し、洞窟に瞑想する簡素な生活を楽しんでいたので、
大規模な僧院(精舎)の生活はまだ始まっていなかった。

・・・ まさに、原始仏教の時のブッダの言葉を集めたということのようです。

「スッタ」=「たていと」「経」の意味
「ニパータ」=「集成」の意味

よって、「スッタニパータ」は、「歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。」としています。

日本の仏教は大乗仏教ですから、この小乗仏教の前段階である原始仏教に
ついては、中国・韓国を含めてほとんど知られていなかった聖典だったようです。

私は、これまで、我が家の宗派である浄土真宗に発して「阿弥陀経」、親鸞さんの
「教行信証」、そして、大乗仏教の代表的な経典としての「般若心経」に
ついて解説本を読んできました。

で、今回は、せっかくバギオにお住まいの知人からいただいたこの本が
手元にありますので、小乗仏教を飛び越えて、「ブッダのことば」で
その原点まで遡ってみたいと思います。

またまた、なが~~い道のりになりそうです。

   

   

   

   

  

   

   

   

   

   

   

        

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