« その43 中村元著「龍樹」ー 眠ろうと思わなければ眠れる=解脱 | トップページ | その45 中村元著「龍樹」ー 「中論」 日本へは三論宗として伝来 »

2013年1月11日 (金)

その44 中村元著「龍樹」ー 仏のすがたをとやかくいうのは誤り

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「8. 否定の論理の実践」
「2.ブッダ」に入ります。

著者によれば、中論のブッダ論は「一般の仏教徒にとっては
恐ろしくショッキングなものである」と 断ってから始まります。

p300
「中論」においては、ニルヴァーナについて説かれたのと
ほとんど同じことが如来(修行を完成した人)、ブッダに
関しても述べられている。
ナーガールジュナは、「如来は本体の無いものである」といい、
第二二章(如来の考察)において種々の論法をもって
これを説いている。

p301
当時の教義学者たちがブッダの本体を、ああだ、こうだ、と議論
していたのは全部誤っているということになる。
それは教義学を否定することになる。
当時は・・・・美麗細微な仏像が盛んに造られていた。
しかし仏のすがたをとやかくいうのは誤りなのである。

「金剛経」の説くところは徹底している。
ーー身相をもって仏を見てはならない。あらゆる相は
皆虚妄であり、諸の相は相に非ず、と見るならば、
すなわち如来を見る。 かかる如来には所説の教えがない。
教えは筏のようなものである。 衆生を導くという目的を
達したならば捨て去られる
ーーと。

p301
真実のブッダとは何であるか。
それはわれわれの経験している世界にほかならない。

p302
如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である
如来は本質をもたない。 この世界もまた本質をもたない」

・・・こういう表現は、「光には質量がない」と言っているような
雰囲気を感じます。イメージだけですけど・・・

それに、仏像という偶像崇拝のことを言っているんでしょうか。
龍樹さんは、偶像崇拝をするな、ってことを言ったんでしょうかねえ。

p302
われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである
これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において
一致しているという「般若経」の説を受け継いだものであろう。

「中論」の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身
(仏の真実の身体)を意味している。
・・・この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味
あるという。そうしてこれらの諸語は・・・縁起と同一の意味
であるから、・・・縁起の理法そのものを意味するに違いない。

・・・まあ、生身のお釈迦様のことを言っているんじゃなくて、
形而上学的なブッダのありかたのことを言っているんですね。
神格化ってことでもなさそうですね。
ブッダ=空 だなんてことを言っていますし。

p303
ひとたび縁起の理法すなわち相依性の意義を体得するならば
凡夫はただちに覚者となり、一切諸法即如来ということが
成立するのである。

「3.縁起を見る」のところです。

p303
諸法の縁起せる如実相を体得した場合に初めて「さとりを
開いたもの」(覚者)
といわれるのであるから、「縁起を
見る」ということはきわめて重要な意味を有する。

p304
「縁起を見るものは、すなわち法を見る」の後に、
ときには次に「法を見るものは、すなわち仏を見る」という
句が附加されていることがある。

・・・そして、この辺りで般若波羅蜜が出て来ます。
「般若心経」でおなじみの言葉です。

この縁起の如実相を見る智慧が<明らかな智慧>(般若)である
「大智度論」においては、諸法実相を知る智慧が
般若波羅蜜であると説明されているが、結局縁起を見る智慧
を意味していることに変わりはない。

そして、この般若波羅蜜については、以下のように解説しています。

p307
般若波羅蜜に関しては古来種々に説明されているけれども、
要するに諸法が互いに相依って起こるという縁起の如実相を
見る(さとる)ところの智慧
であるといってさしつかえないであろう。

さらに、縁起と無明について、

p307
「この縁起の如実無顛倒なる修習の故に無明(無知)は
断ぜられる」

この般若によって縁起を見るならば、無明が断ぜられる

p308
十二因縁を説いた後で、「また次に菩薩が無明の体(本質)を
求むるに、即時に是れは明なり。 いわゆる諸法実相を、
名づけた実際(究極の根拠)と為す」

無明とは「諸法実相を解しないこと」である。
無明を断ずるというのは、人間存在の根源への復帰を意味する

p309
「(十二因縁のもろもろの項目のうちで、)それぞれの(前の)
ものの滅することによって、それぞれの(後の)ものが
生じない。 このようにして、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)
は完全に滅する

縁起を見ることによって無明が滅することは了解しやすいが、
何故に、無明が滅することによって十二因縁の各項がことごとく
滅することとなるのであろうか。

われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば
縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。

p310
法の領域においては諸法は相関関係において成立しているもの
であり、その統一関係が縁起と呼ばれる。
その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象
が全然別のものとして現れる。

・・・・この「統一関係を体得する」なんですけど、 おこがましいことながら、私が二十歳のころに、ショーペンハウエルの本などを読んでいたことがありまして、その時 大袈裟に言うならば「この世界の体系が分った」みたいな感慨にとらわれたことがあったんです。

それで、上に書いてある「無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる」ってところが、なんだか そんな雰囲気なのかなあ~~、と感じたところです。 まあ、気持ちの問題ですからねえ、こういうものは。

この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期
の仏教において説かれている。

・・・だから、著者は、この龍樹さんは、最初期の仏教の
正統な発展
を理論的に継承した人ではないかと言っているんです。

実は、私はこの「中論」に関する本を読むまでは、
最初期の仏教といわゆる小乗仏教にくらべて、大乗仏教というのは
大きな飛躍というか、かなり変質したものではないかと
思い込んでいたんです。
そして、その変質を理論づけたものが龍樹の「中論」だったのかな
と、ある意味期待していたんです。
龍樹が どのように釈迦が作ったものを飛躍させたのかを
知りたかったということなんです。

たとえば「大乗仏教は仏教じゃない」という議論があるんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC

これは曹洞宗のお坊さんが書いたサイト。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/49e5a881a152c6fb96871267cce22cde

こちらのサイトでは、キリスト教からの影響なども議論されています。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto02.htm

これらの大乗非仏教説なるものの根本のところに龍樹がいたのかな
と思ったんですが、どうも、これまで読んできた中では、
そういうところがあるようには、私には理解できないんです。

議論の核心部分がどこにあるのか、そこが問題ですね。
もっと調べなくちゃ・・・

==その45に続く==

|

« その43 中村元著「龍樹」ー 眠ろうと思わなければ眠れる=解脱 | トップページ | その45 中村元著「龍樹」ー 「中論」 日本へは三論宗として伝来 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/134315/56518475

この記事へのトラックバック一覧です: その44 中村元著「龍樹」ー 仏のすがたをとやかくいうのは誤り:

« その43 中村元著「龍樹」ー 眠ろうと思わなければ眠れる=解脱 | トップページ | その45 中村元著「龍樹」ー 「中論」 日本へは三論宗として伝来 »