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2013年8月29日 (木)

「日本語の論理ー映像と言語」を読む : その1 ウソは文化である

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「映像と言語」を
読んでいます。

p230
言葉とはこれほど複雑、難解なものであったかという反省である。
・・・文法の本質についての意見はわかれるにしても、とにも
かくにも、文法の存在を疑う人はないと言ってよい。

p231
映像にも意味はあるが、その意味がいかにして生じているのか
言葉における単語の意味についての議論ほどのこともできないのである。

映像を第二の言語としてのみとらえるアプローチを警戒しなくては
ならないのである。

p232
言語には、それがあらわしているものごととの関係を希薄にして、
一般的になろうとする一面がある。
・・・抽象的な言語が、実体とは離れて、独自の表現効果をもつ
ようになる。 

p233
「抽象のハシゴを降りろ」と一般意味論は要求する
言葉は抽象度が高まるにつれて、・・・誤解の偏差も大きくなる

p234
抽象のハシゴを降りて来て、・・・ここで、映像のもつ具体性
いかにも魅力のあるものとして登場する。

具体的な次元に立てば立つほど正確な伝達が行われるという
信仰があるわけで、これが言語の不正確な使用への警鐘として
果たした役割はきわめて大きい・・・・

しかしこの考えを徹底させると、・・・一対一の対応の言語
なってしまい、また新しい混乱がおこるのである。

==>> 「映像と言語」という章のタイトルをみて、
なんだろう・・と思ったんですが、意味論だったんですね。

確かに、言葉は物事を抽象化して伝達手段としての広がりを
持っているけれども、抽象化が進むと誤解を生みやすくなる。
話し手と聞き手の間の理解が まったく異なったものになる。

だから、誤解を生まないように話すには、出来るだけ具体的な
話にした方がいい。 でも、具体性をつきつめていくと
話し手本人にしか分からない話の内容になってしまう。
一対一の対応しか許されない言葉だったら無限の言葉が
必要になって、これまた意味がとれなくなるってわけです。

「うちの作次郎がご飯を食べないんだよ。」
この作次郎が猫だったりしたらどうか・・・

「うちの猫がご飯を食べないんだよ。」
なら聞き手にもすぐにわかるが、より具体的な猫の名前を使ったら
身内にしか通じない。

映像だったらその作次郎の姿が映る。
具体性がある。
しかし、おそらく映像には言葉も添えられるのでしょうね。

p235
言葉をものごとの束縛から解き放そうとするとなまやさしい
ことではないことがわかってくる。
英語でいうスリッパ―はわれわれのスリッパ―と同じではないが、
日本人は英語のスリッパ―という語をみるとどうしても
日本的スリッパ―を想像してしまう。

ほとんどすべての言葉において、ものごとの影があまりにも
強烈である
ために、本当の理解が妨げられる例は絶えずおこって
いる。 ・・・日本犬の好きな人にはイヌという語は秋田犬か
何かのイメージがつよくて、・・・むしろ、無色透明なイヌの
概念が必要な場合も決してすくなくない。

p236
人間が自然をのりこえて文化をつくるため発動させる作用の
ひとつに、ないものをあらわす表現活動がある・・・
・・・ウソがつけなければ文化は生まれない。

ウソも一度だけではウソにならない。 くりかえしウソをついて、
はじめてウソになる。 それほど言葉はものごとに即して
いるのである。

===>> 日本語のスリッパ―は日本の家の中で履く
ペタンと平らで足先がカバーされているあれですよね。
英語でスリッパ―と辞書を引いてみると:
「かかとのついたスリッパ、室内履き、ゴムぞうり、ビーチサンダル、
ハワイの方言、アメリカのそのほかの地方ではフリップ・フロップと呼ぶ」
と書いてあります。
ちなみに、フィリピンではアメリカ式の理解のようですね。
ゴムぞうり、ビーチサンダルのようです。
ただし、ゴムぞうりの高級なお店には フリップ・フロップと看板に
書いてあります。

日本人の手紙は「便り」ですけど、中国人の手紙は「ちり紙」、
トイレットペーパーらしいですね。

言葉による意思の伝達の難しさがわかりますね。
それに、最近知ったことですが、韓国語はハングルになってから
つまり漢字が無くなったので、元々中国から来た同音異義語の区別
つけられなくなったので、区別がつくようなより具体的表現で
分かりやすく説明的に言うのだそうです。

日本語は 同音異義語を聞くと 頭の中で漢字のイメージを
いくつか浮かべて文脈からどの漢字かを判断していますよね。
ハングルだとそれが出来ないってことで、漢字の熟語を
説明的な文章で置き換える作業をしているってことになりますか。

「ウソがつけなければ文化は生まれない」ってのは凄いですね。
確かに様々に創造しようと思えば、虚の世界が必要ということに
なりますからね。

最初のウソはウソとは思われない。(余程下手な嘘なら別でしょうけど)
何度もウソを言っていると、それが嘘であることがばれて ウソという
ことになるって話です。
この本では 「オオカミが来た」の例が書いてあります。

p238
虚の言語のもっとも発達した体系が数学であることを
思いあわせて、リアルな言語への一辺倒的な考えに走らない
ようにすべきであろう。

==>> 一番ウソから遠いような、これ以上正確なものは
ないというような数字の世界が、一番「虚」であるってのが
なかなか含蓄がありますね。

その2に続く

 

 

 

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