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2013年11月11日 (月)

南方「移民」と「南進」に見る フィリピン・バギオの歴史

南方「移民」と「南進」に見る フィリピン・バギオの歴史

以下の書籍をバギオを調査訪問中の大学教授にご紹介いただきました:

   
早瀬 晋三 著
「フィリピン近現代史のなかの日本人 植民地社会の形成と移民・商品」

東京大学出版会

第I部 フィリピンで汗を流した日本人
第一章 アメリカ植民統治下初期の日本人労働
第二章 アメリカ植民統治下初期マニラ湾の日本人漁民
第三章 南方「移民」と「南進」

・・・この第三章にバギオの歴史に関連する記事がありましたので、
一部を引用して、個人的コメントを入れてみたいと思います.

第三章 南方「移民」と「南進」

p69
本書の目的は・・・・・明治以降「大東亜戦争」勃発までの、日本と
周辺諸国との関係史の連続性を考察することにある.

(著者は、近代史の中で戦争を境にして、歴史がタブーとなったことを
 指摘し、歴史的文脈を見失ってはならないと述べています.
 本書を読んでみると、他の本とは一線を画して、かなり客観的に
 俯瞰して、歴史の全体の中で見ているように感じます)

p70
一事例として、フィリピンを取り上げ、「移民」、外交官、そして「南進」の
前兆となった軍事的工作活動について考察する.

第三章
1 南方「移民」の諸相

1868年から1941年までの国外移住者数(ただし朝鮮、満州、南洋群島など
日本の支配下にあった地域を除く)は、776,304人にのぼる.

日本人移住者の大半は、(欧米の)奴隷制廃止にともなう労働力市場を補足
する労働者として植民地開発のために雇われるか・・・・・

個人の成功・苦労談にもとづく伝記的要素の強い歴史が語られるだけであった.

(確かに、私が今までに読んだ本の多くは、戦記ものを含め個人的な内容が
 多かったと思います)

(バギオへの移民については、ベンゲット道路建設、バギオ避暑地の開発は
 あきらかにアメリカの植民地政策の一環です)

当時これらの移住者は「移民」と呼ばれたが・・・・海外出稼ぎ労働者を意味した.

フィリピン行き移住者は、「南方方面」のなかでももっとも多く、
53、115人、57.5%を占めた.

1940年のフィリピン在住日本人人口28、731人から、約半数の者が
フィリピンに定着している様子がうかがえる.

p71
1909年から19年までの11年間は・・・・
職業別人口表から、 フィリピンでのおもな職業は、
娼婦「からゆきさん」、道路工夫、農夫、大工、木挽、杣(木偏に山)職、漁民、商人
あったことがわかる.

(杣職とは林業従事者のことだそうです)

(1909年からのデータですが、バギオでは、「からゆきさん」と漁民以外は該当するようです.
 ただし、からゆきさんは数名いたがあまり商売にならなかったとの記録もあります)

「からゆき」さんは、・・・とくに公娼制度のあったイギリス領植民地や
中国東北部を中心に少なくとも数千人に達した・・・・

フィリピンでは、1898年のアメリカ領有後、駐留するアメリカ軍の強い要望で
1902年から増加し、20年の廃娼まで 全国津々浦々に少なくとも
合計300-400人がいた.

(100年前には 日本女性が フィリピンの中で顰蹙をかう仕事をしていたわけで、
 近年の日本におけるフィリピン・パブが日本の中で顰蹙をかい、アメリカなどから
 売春婦の輸入をしているとの批判をうけてこれをやめ、看護師・介護士へ
 切り替えたことを連想します・・)

1903-04年に、フィリピン行き渡航者はひとつのピークを迎える.

p72
大半は、01年から工事がはじまっていたルソン島北部山岳地帯「夏の首都」
バギオに通じるベンゲット道路工事などの、植民地開発のために雇われた
単純肉体労働者であった.

「ベンゲット移民」などの労働者は、一般に高い賃金を求めるわりに定着性が
なく、苦情の多いことで知られ、・・・・あまり評価されなかった.
そのため、ベンゲット道路開通の05年以降、日本人単純肉体労働者は、
ほとんどみられなくなった.

(つまり、逆に考えれば、バギオに残った人たちは、辛抱強い人たちか、
 道路建設の後にやってきた人たちということでしょうか)

(日本人が他よりも高い賃金をもらっていたのは事実です.
 日本人のことですから、いろいろ苦情も言ったでしょう
 それでも 日本人を使ったというのは それなりの理由があったんでしょうね)

p73
ダバオの日本人人口は、28年以降、フィリピン全土の約三分の二を占め、
開戦前には約二万人に達した.

大工は、・・・1905年以降、つねに数百人がフィリピン各地で兵舎の
建設などの植民地政府関連の建築工事に職を求めて、各地を転々としていた.

木挽・杣(木偏に山)職は、それらの建築工事に必要な木材の伐採に従事した.
かれらは、数十人単位でバギオやミンダナオ島西南端サンボアンガ付近の森
に入って作業し・・・・

(これは正にバギオの成功者たちの職業だったようです.
 大きな家、使用人、自動車などを持っていて、日本の親戚などへ
 仕送りもしていたとか・・・・ )

p75
2 外交官

マニラに日本領事館が開設されたのは1888年12月29日のことであった.
その目的は、通商拡大、貿易促進、移民の導入であった.

93年9月13日から96年10月26日の再開館まで、領事館は一時閉鎖
に追い込まれた.

フィリピンでは、本国アメリカの移民法を遵守して、「契約移民」は禁じられていた.

「からゆきさん」も、「ベンゲット移民」も、ダバオのアバカ栽培者も、すべて
フィリピンでは「不法外国人労働者」であった.

(時々、日本国内で 不法外国人のオーバーステイのニュースが流れたり
 しますが、昔は 日本人がフィリピンにお世話になっていたわけですね)

需給関係の成立により・・・・両国政府に黙認された.

明治以降、大規模な社会変動のなかで故郷を追われ、海外に生活の糧を求めて
いく民衆の姿があった.

(別の本では、移民が禁止されていたにも関わらず、ベンゲット道路建設を任された
ケノン少佐は、当時のカリフォルニアで「勤勉で良く働く」と評判のあった日本人を
超法規的に導入したというような主旨で書かれていました)

p76
この有望移住地は、将来の植民地と目されていた土地でもあり、そこには
優良移民を送らねばならなかった・・・

日本人外交官が期待していたフィリピンの日本人移民は、定住目的の米作農民だった.

かれらが現実にフィリピンで見た日本人労働者は、中国人やフィリピン人に比べ、
めざましい働きをしていたわけでもなく、なかには賭博・酒におぼれる者もおり、
風体もフィリピン人が衣服を正して着ているのにたいし、半裸体であった.
・・・フィリピン人の尊敬の対象とはならなかった.

(戦前のバギオに生活されていた方の話や写真によれば、バギオでは映画館に
 行くような時、子供でも正装をして出かけたそうです. 
 フィリピンの中でも バギオという高原避暑地は 特別な町だったのかも
 しれません )

(古今東西、 上下を問わず、賭博や酒や女におぼれる者はいるわけで、
 昔の単純肉体労働者にかぎらず、
 今の 大手商社員だろうが、留学生だろうが、退職者だろうが
 そういうことは あるようですねえ・・・・)

マニラの外交官の送る領事報告書では、理想と現実の矛盾する記述が繰り返し
述べられることになった.

そのもっとも典型的な例が、「ベンゲット移民」にかんする報告にあらわれた.
日本では、ベンゲット道路工事は、フィリピン人にも、中国人にも、アメリカ人にも
成し遂げられなかった難工事を、日本人の多大の血と汗と精神力で完成させた
と言い伝えてきた. しかし、この言い伝えの根拠となる原史料は、
フィリピン・アメリカはおろか、日本にさえ残されていない.
あえてその根拠をあげれば、外交官の期待した日本人労働者像の記述にあった.

(史料がないから それはなかった・・・という論法に組することはできませんが、
 ケノン少佐が不法移民である日本人を敢えて導入して、それまでに任官された
 前任者ができなかったベンゲット道路が完成した事実はあるようです.
 もちろん日本人だけが働いていたわけではありません
 バギオの中国系コミュニティーでは、中国人がベンゲット道路建設に
 大きな貢献をしたと言い伝えています )

p77
日清・日露の両戦争を経て、軍事大国へと成長し、経済的にも発展するなかで、
多くの民衆はその国家についていくどころが、その犠牲となってとり残されていった.

この二面性のなかで、外交官は国家を代表した態度を取らなければならなかった.

(外交官も なかなか辛いところですねえ・・・)

第一次世界大戦を境に・・・・マニラには本土の商社・銀行の支店が開設され、
・・・フィリピン在住日本人社会は一変し、エリート・ビジネスマンが支配的になっていった.

p77

3 軍事工作

フィリピンでも、日清戦争後、にわかに対日関心が高まり、やがて日本賞賛から
日本期待へと進展していった.

・・・日本の支援のもとに独立を達成しようとする動きが顕著になっていった.

革命結社カティプナンの指導者ボニファシオらは、・・・・日本に対して支援を要請した.

アメリカ軍は・・・フィリピン人有産階級を味方につけ、一般民衆にはスペイン時代に
困難だった教育を受ける機会を与えることによって、革命勢力から切り離す政策を
とった.

p79
マニラ湾で、日本人漁民が操業をはじめたのが、フィリピン・アメリカ戦争中の
1900年ころであった.

山根は・・・陸軍の嘱託としてマニラ湾の調査を依頼されたという.

1904年に日露戦争がはじまり・・・・
日本が有利になるにつれて東アジアでの勢力バランスは崩れ、アメリカ日本のフィリピン、
さらにはハワイへの進出に、危惧を抱くようになった.

p80
マニラには日本人軍偵が常駐し、地方の日本人軍偵や親日派フィリピン人らと
連絡をとりあっていた.
そして、マニラの領事館は、これらの軍事活動の拠点となり・・・・

・・・ほかの在住日本人もすべての者が、潜在的に軍偵の協力者になり得た.

p82
約半世紀を経て、日本のフィリピンへの軍事支援はようやく現実となったのである.
しかし、日本のフィリピン占領は、親日派フィリピン人が期待していたようなもの
ではなかった.

(結局、日本の植民地政策は 下手くそだったってことでしょうか・・・)

(私の下宿のお婆ちゃんは、日本統治時代の 日本軍に任命された村長さん
 だった人の娘さんなんですが、家族がゲリラにつれさられた経験をもちながら
 今も親日家です.
 そのお婆ちゃんから、「ばっきゃろ~~」ってどういう意味? とか
 「どろぼ~~」はどういう意味・・などと聞かれると、日本人の尊敬できない
 側面をみせられるようで 苦笑いしてしまいます )

p83

4 日本・アメリカ関係のなかのフィリピン史

アメリカのフィリピン植民地統治は、一般に寛大で、地方自治・議会制や
教育などの民主主義をもたらしたことで評価されている.

p84
フィリピン人のあいだで起こった日本人移民の制限問題でも、アメリカはむしろ
日本人を擁護する立場をとった. ・・・フィリピンでは労働者不足、資金不足が
続いていた・・・

定住していたアバカ栽培農民にしても具体的に戦略上組み込まれることはなかった.
・・・その背景には、日本人移民が現地社会にとけこんでいなかったために
現地人とともに日本軍に協力して戦うという戦略が立てられなかったこととも
関係するだろう.

結局、移民のなかにいた現地の地理に詳しく、現地語に通じていた者が、
軍偵・通訳などに利用されただけだった.

(これに関しては、バギオでも、戦争当時の悲しい悲惨な話がたくさんあります.
 日系人は 日本、フィリピンの両方から スパイの疑いをかけられ、
 殺害されたそうです )

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フィリピン・バギオ市の 日本人がらみの歴史については、 北ルソン日本人会のホームページに いろいろな情報が掲載してありますので、ご参考まで:

http://janl.exblog.jp/i10/

 

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