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2013年11月12日 (火)

日本人の女は「売春婦」、男は「ならず者」だった・・・100年前のフィリピン

「世紀転換期における日本・フィリピン関係」
池端雪浦, 寺見元恵, 早頼晋三
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所

「第2章マニラの初期日本人社会とからゆきさん」  寺見元恵 著

フィリピン・バギオ市の日本人・日系人の歴史を調べているうちに、興味が次第に
広がりまして、100年前のマニラにはどんな日本人がいたのか、気になりだし
ました.

昔はいわゆる「からゆきさん」と呼ばれる日本からの売春婦がフィリピンにもたくさん
いたというのは聞いていましたが、その歴史を読むのは初めてです.

今でこそ、「じゃぱゆき」と言って蔑まれるフィリピン人女性たちが
数年前まで日本のフィリピン・パブに大勢いましたが、海外から人身売買だとの
非難を受けて、エンターテイナーとして日本に来ていたフィリピン人女性たちは
日本から締め出されてしまいました.

私自身は、元々 英語教師などとして、フィリピン人をどっと日本へ入れるべきだと
考えている人間ですから、フィリピンのイメージが悪くなる職業ではなく
尊敬されるべき職業、日本人が頼りにする仕事で、持ち前の明るさを発揮して
活躍してほしいと思っているんです.

・・・・

さて、この資料を読んで、100年前の日本人はどのようにフィリピンと関わっていたのか
を見ていきますと、 こんな言葉が出てきたんです:

p53
アメリカの植民が始まると同時に押し寄せた日本人は、マニラではサムパーロックに
集中して住み、女は「酌婦」、男は「ならず者」のイメージをフィリピン人に植え付け
つつ日本人町は発展していった.

===ここで「酌婦」というのは、いわゆる「からゆき」さんで、売春婦ってことなんですね.
    100年前は、日本人はアメリカが植民地としたフィリピンへ出稼ぎをして
    嫌われていたってことです.
    今現在の日本でのフィリピンのイメージは 残念ながら このようなもの
    になっているんでしょうね.
    日本人だって偉そうなことは言えないってことです.

p38
1903年には、マニラだけでも一挙に1,000人に膨れ上がった.
一番多い男性の職種は約25%にあたる265名の大工職だが、女性の方は
「酌婦」がそれを上回る280人、
それに酒小売業者が33名(すべて女性)で
・・・・邦人のおよそ3分の1が歓楽街に関係する・・・「からゆきさん」のことで・・・

p39
からゆきさんについて語る時、避けて通れないのが、一女衒の書き残した
回顧録「村岡伊平治自伝」である. 

村岡が妻と他の女性14名をつれてマニラに上陸するのは1900年10月のことだが、
1903年に・・・・・長崎出身の山口某という男が台湾で移民取扱い代理人として
種々な不正行為をしていた.

===つまらないことですが、私も長崎県出身なもんですからね(笑)
     この山口某は結局詐欺師だったようですけど・・・

p43
日本領事館の報告に日本人女性が初めて記載されるのは1896年で、数は2人.
1899年には10人に増えている. いずれも居住地はルソン島で、
職業不明である.

1898年の10月にはシンガポールから2人の日本人女性が入国し、
市内の「カリカリエタ」にカフェ・バーを開店した. ・・・・この2人の女性は
ともに長崎出身で・・・・・
ヨーロッパ人の「その筋の女性」の入国が当時とみに増え・・・・

===じぇじぇじぇ・・・ここでも長崎出身・・・
    まあ、長崎は鎖国時代の中で唯一の世界への窓でしたからねえ・・・
    長崎の女性はおそらく外向きだったんでしょう.

p44
1899年フィリピン革命に参加するためにはるばるやって来た日本人志士たちの
中には、娼楼に潜んだ者もいて、からゆきさんの世話になっている.

===昔は「英雄色を好む」なんて言葉がありましたけど・・・死語ですかね?

p44
1901年に当時はまだ清閑な住宅街だったサムパーロックに、新しく
アメリカ兵のR&R地区がたてられた. 
当時は、毎晩・・・・・大勢のアメリカ兵がやってきた.
一般の人は立ち入り禁止で、・・・・和服を着た日本人女性もいたが、
その他にドイツ人、アメリカ人、フィリピン人、ポルトガル人などもいたという.
・・・日本人女性が一番多かったそうだ・・・

p47
1900年には、サムパーロックには既に34軒の女郎屋と200名近い女性
いたと自伝にある・・・

1903年にアメリカ植民政府のとった全国の人口調査によると、
「自ら売春婦と認める女性は、476人いて、・・・・75人が白人女性で、・・・
260人は東洋人でその殆どが日本人である」

相当の数の者が旅券無しで不法入国したとすれば、実際の「醜業者」の数は
・・・記録をかなり上回るに違いない.

戦前、戦中をとおしてマニラの邦人会の指導的地位にあった、金ケ江清太郎
なども1910年入国の際、他人のパスポートで不正入国している

=== なんと、この金ケ江清太郎ですが、長崎県佐世保市の出身
     と書いてある本がありました・・・ 再びじぇじぇじぇ

p48
実際には「アメリカ兵の肉体的必要」から売春婦の入国を、当局は見て見ぬふりをしていた.

p51
1910年代で同地区のフィリピン人女性の相場は2ペソだったそうだ.
その頃の2ペソと言えば、アメリカ製の腕時計かまたは高級な革靴が1足
買えたそうである.

ダバオでは1919年の時点で、1晩30ペソだった.
その頃の麻農場で働く日本人労働者の日給は1ペソに過ぎなかった.

===そうですか、一ヶ月分の給料だったんですねえ・・・
     そりゃあなかなか女に溺れるってこともできないねえ・・・

p51
フィリピン人の日本人像

当時のフィリピン人にとって日本人と言えばサムパーロックを連想し、
日本人女性と言えば夜の街を彩り男の客を待つ娼婦で、男性は何かというと
すぐ声を荒立て暴力をふるう者
というイメージが彼らの中にしみ込んでいった.

p53
(日本人の)男性の方は、・・・・「いつも女を怒鳴りつけるような物の言い方をする、
荒々しい男」がステレオ・タイプとして登場している.

===まあ、日本人男性はあまり変わっていないのかもしれないですねえ・・
    フィリピンで見る日本人男性の中には、何を勘違いしているのか
    偉そうに些細なことで怒鳴り散らしている人も時々見かけますもんねえ・・・
    ここは日本じゃないってことを、海外だよってことを、分かっていないん
    でしょうねえ・・・滑稽なだけなんですけどねえ・・・
    それに、戦時中も そういう態度だったから 植民地政策もうまく
    いかなかったんじゃないのかなあ~~~
    残虐な日本人・・ってイメージが残っているみたいですよ

当時の日本人女性の実際の職業は・・・「酌婦」の次に多いのは、子守、按摩など
である・・・

p54
1910年現在で・・・・
「特殊業者(からゆきさん)」の数

ボントック 0、 サン・フェルナンド 2、 バギオ 9、 オロンガポ 56、
カビテ 37、 等など

=== おお、オロンガポは 100年前から 多かったんですねえ・・・
     さすが米軍基地・・・・
     バギオは山奥でも9人ですか・・・
           1910年ころは計画都市としてのバギオ市の建設ラッシュのころでしょうから、
     景気も良かったんじゃないでしょうか.

いずれにせよ、歴史を辿れば、昔は日本からフィリピンへ多くの出稼ぎ者が
不法入国してお世話になっていたわけです・・・・ 

歴史は繰り返されるっていいますからねえ・・・
少子高齢化が急速に進む日本は、フィリピンの人たちにお世話にならなければ
やっていけない時代に突入しつつあると思うんです.

偉そうにいばって怒鳴ったりするのは やめた方がいいと思いますよ~~~.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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