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2013年11月13日 (水)

長崎県佐世保の大先輩が 100年前のフィリピン・マニラ・バギオへ - 1

金ケ江清太郎 著 
昭和43年4月10日発行 国政社
「歩いて来た道 -ヒリッピン物語」
 から フィリピン・バギオの昔を垣間見る

著者の略歴をみると次のようなことが書いてあります:

1894年 長崎県佐世保市に生る
1909年 16歳で単身マニラへ渡航
その後、マニラの日本バザー、セブのジャパニーズ・バザー、
マニラの日本バザーを引き継ぎ、ナショナル・ゴム工業を創立
1945年 終戦のため引き揚げ

別の本には、著者について、次の記述もありました:
「戦前、戦中をとおしてマニラの邦人会の指導的地位にあった、金ケ江清太郎
なども1910年入国の際、他人のパスポートで不正入国している」

この本にはほとんどがマニラ周辺に当時在住していた日本人のことが
書いてあるのですが、ごく一部にバギオ関連もありましたので、
抜き書きしてみます:

(著者のパスポートについての記述がありました)

p34
叔父からの返事が・・・・
同封のパスポートを持って乗船するように、と指示してあった.
それには長崎県島原の人で ケン・シゲマツ という氏名が記入してあり
年齢のところだけをインク消しで消して、十六歳と書き直してあった.

その頃香港には、・・・各国の船員相手の日本人や中国人経営の女郎屋
があり、・・・・・梅屋写真店と看板の出ている家があったが、この写真館の
主人が、裏では婦女子の売買や密航者の斡旋をしている一味の、大ボスで
あることを知ったのは、ずっと後のことである.

香港へ着いてようやく十日ぶりに、人身売買の恐ろしい魔窟から解放された
わたしは、・・・・長崎を出てからおよそ一ヶ月ぶりに、マニラ湾の南国的風光に
接することが出来たのである・・・

=== う~~ん、香港を中心に日本人の人身売買をしていたんですね・・・
     わが故郷の佐世保でなにがあったんでしょうか・・・

第2章 草創期のマニラの在留邦人

p36
汽車に乗り込み、叔父が店を開いているパンパンガ州の アンへレス という
町へ向かった・・・・

わたしの膝をそっとつつく者がいる・・・・
一人の身なりの貧しい老婆が、紙袋から取り出した駄菓子を、
食べないかと勧めてくれるのだった・・・

一老婆が示してくれたささやかな親切が、身に染みてうれしかった・・・・
終戦で引き揚げるまでの三十余年間、ヒリッピン人に対して終始抱きつづけて
きた善意と友情は、じつにこの時、わたしの胸にその根をおろしたものであった.

=== 異国へのイメージというのは、こういう一人ひとりの善意が
     それを決定するのでしょうね・・・
     「ボロは着てても、心の錦・・・」なんて歌がありましたけど・・・

p37
叔父の店は・・・・
此処から数キロ離れたスタンチバーグという所に、アメリカ陸軍の駐屯部隊
いて、そこの兵隊や家族をお顧客にして・・・・

その日から 坂本商店 の店員となって、働くことになった・・・・

p38
この町での日本人といえば・・・・
アメリカの兵隊相手に商売している 2,3軒の日本の女郎屋があるばかりだった・・・

===今は昔ということですかねえ・・・・
     今のアンへレスは 韓国人や日本人がお客らしいですが・・・

p39
明治四十三年(1910)・・・・
三井物産マニラ出張所の給仕として勤めるようになった・・・

p40
スペインの植民地からアメリカの統治に移ったヒリッピンでは、・・・・英語熱が
もり上がっていた・・・・
私が日本バザーに入ってから通学するようになった ・・・夜学校では、
・・・親子や兄弟で一緒に机を並べ、初級の英語を懸命に勉強したいた・・・・

当時の この国の文化や経済は、日本に比べるとはるかに遅れており
民度は低く庶民の生活は貧しかった・・・・・一部の地主など富裕階級をのぞく
一般のヒリッピン人は、・・・・

彼らは、日本人に対して セニョル(旦那さん)と呼び、アジアに
おける先進国民として敬意を表していた・・・

===1911年の時点では、おそらく、日清、日露の戦争で
     アジアの人たちが日本を見る眼が変わっていた時期なのでしょう・・・・

p41
マニラ市内にも・・・ニッポン女郎屋が、都心から東北にあたる サンパロク街に
三十数軒もあり、そこで働く娼婦の数もゆうに三百人を超えていただろう・・・

p42
このサンパロク街には日本の領事館があり、また曹洞宗の南天寺という
お寺もあって、・・・キャッポ地区には ・・・二軒の旅館があり、
ほかに奥村医師 (長崎県人)と・・・ 大工や売薬、せんべいの行商、
それに洋妾(らしゃめん)などが住んでいた・・・

そして海岸地帯のトンド地区には、広島県から来ている漁師たちが
一郭を成していた・・

p43
マニラにおける経済界の実権は、すべて華僑の手にがっちりと
握られていたのである・・・

マニラに日本人会が設立されたのは、・・・1901年である・・・
会員の80パーセントまでが、サンパロク街の姐さんたちであり、
役職に名を連ねているのが、それぞれ前科をもった楼主たちであったのを
見ても、在留邦人の生活環境や社会的地位がどんなものであったか、
推して知るべきである・・・

=== すごい日本人会だったんですねえ・・・(笑)
      女郎屋協同組合みたいなもんじゃないですか・・・
      上記の「先進国民として敬意を表していた」との整合性は・・・???

ヒリッピン各地に店を開いていた当時の在留邦人・・・・
バギオに早川商店、 レガスピーに・・・、ホロに・・・、 オロンガポーに・・・・、
キャビテに・・・、サンボアンガに・・・、アンへレスに・・・

特別の人としては、 ダバオの太田興業の創始者である太田恭三郎氏が、
ベンゲット登山道路開通工事に日本から来ていた移民労働者を、
工事完成とともに そのうちの数百人を引き連れて、ダバオで麻山の開拓に
従事していた・・・・

p44
アメリカ総督の施政下にあったヒリッピンでは、1899年(明治32年)に
アメリカの議会で制定された排日移民法が、そのまま適用されていたため、
日本からの移住はとくべつやかましかった.

旅券のない娼婦たちは、乱暴にもセメントの空き樽に無理やりおし込み
貨物扱いにして送るのだが、マニラへ着いて開けてみたら、可哀そうに
みな窒息死していたという、・・・・

p45
未開から文明への草創期にあったヒリッピンでは、今日のわたしたちの
常識や感覚では、とうてい理解できないようなことが、至極あたりまえに
行われていたのである・・・

===ここには、フィリピン人のことというより、変な日本人のことも
    書いてありまして・・・・その内容は古書店でどうぞ・・・

ーー その2 に続く ---

 

 

 

 

 

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