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2013年12月15日 (日)

インクワイアラー紙に ジョーイ・アヤラの曲が : バギオでの平和慰霊祭

フィリピンの有力紙 フィリピン・デイリー・インクワイアラー新聞にこんな記事が掲載されていました.

http://newsinfo.inquirer.net/543421/flowers-new-song-for-72nd-year-of-baguio-war-bombings

私も毎年参加しているイベントで今回が4回目だったんですけど、第四回アジア太平洋国際平和慰霊祭というものでして・・・

上記のサイトの記事を 翻訳してみました・・・おおざっぱな翻訳ですんません・・・・

 

「バギオ爆撃72年目、花と新曲を捧げる」

フィリピン・デイリー・インクワイアラー新聞

2013年12月9日

 

バギオ市のキャンプ・ジョン・ヘイ内ベル野外円形劇場で、72年前の第二次大戦の残虐行為を祈念し開催された平和慰霊祭に於いて、イゴロット(山岳民族)第66歩兵連隊の退役軍人がロウソクを灯し、薔薇を捧げました.

ビンセント カブレザ / インクワイアラー北部ルソン

 

バギオ市 - 退役軍人と平和を求める人たちが、土曜日、キャンプ・ジョンヘイのここ ベル野外円形劇場に於いて、ジョーイ・アラヤの新曲を披露しました.  この曲は、第二次世界大戦の残虐行為を、 暴力的対立を拒否するようにフィリピンの若い世代に思い起こさせる教訓にしようと期待する運動の4周年を促進するために作られました.

その曲「オープン・ハンズ」は、第四回アジア太平洋国際平和慰霊祭の為に特別に作曲されたものです. 第66歩兵連隊の制服を着たイゴロットの元兵士3名と、バギオ市初の女性市長が参列した式典の中で演奏されました.

こちらのサイトで このオープン・ハンズを聴くことができます)

それら元兵士、元バギオ市長バージニア・デ・ギア氏、そしてバギオ在住の日本人映画監督今泉光司氏は、少数のバギオ開拓者と共に集い、1941年12月8日に始まった太平洋戦争の時にその場所を襲った最初の爆撃の日に思いを馳せました.

夏の首都(と呼ばれるバギオ市)は、1941年12月にハワイの真珠湾を日本が爆撃した後すぐに、日本軍によって最初に攻撃されたアジアの都市のひとつだったのです.

その攻撃がアメリカ合衆国が参戦する契機となりました.

慰霊祭の参加者が大戦の戦没者に薔薇と祈りを捧げている間、「平和、そこはみんなが生きる地球 / 誰もが庭の花のように手を開く」、アヤラの歌が流れた.

この催しはひとつになることを提唱し、退役陸軍伍長の レイムンド・ガドガド氏は、参加者に対して読み上げた祈りの中で 一言で次のように言った:

「戦いの中で可能な(であった)次なる勝利は、平和の中でさらに大きな勝利となることを祈ります・・・・・平和的な手段でその隔たりを解消するひとつの世界を、仲間たちと共に作っていく忍耐を与えてください.

日本人はフィリピンや他のアジア諸国での戦時の残虐行為を謝罪し、「私たちはその謝罪を受け入れた. 何故ならそれがクリスチャン人生のやり方だからです.」とガドガド氏は述べた.

 

最初の日本軍の爆撃奇襲がバギオ市に行われたのは1941年12月8日の白昼で、フィリピン大学ディリマン校の歴史教授 リカルド・ホセ氏によれば、キャンプ・ジョンヘイ米軍基地とフィリピン・ミリタリー・アカデミー(軍大学)を目標にしていました. 

戦争がついに始まったことを最初に知ったバギオ在住の人は、元バギオ市長ユーセビウス・ジュリウス・ハルセマの息子で、彼は通信社の記者でした.

ホセ教授によれば、ジェームス・ハルセマは大統領公邸に駆けつけ、バギオで病気療養中であった独立準備政府の大統領 マニュエル・L・ケソン氏に伝えました.

その報告を内閣が確認するや否や、ケソン大統領は公邸から国民に対し演説を行いました.

ホセ教授は、バギオ市は開戦の前から既に国際的な都市であったと述べています. 1939年、バギオ市の人口は24,000名にのぼりました.  およそ22,000名はフィリピン人であり、一方其の外は 中国人、日本人、アメリカ人、スペイン人、イギリス人、そしてドイツ人などでした.  バギオの500名の日本人は、太平洋戦争の為にフィリピン軍から抑留を命じられ、複雑な感情が沸き起こりました、とホセ教授は述べました.

ある人々は当局から近隣の日本人を匿いました、しかしホセ教授は、同時に、日本軍の侵略後すぐに「大きな反日感情」もあった、と述べています. この反日感情は、日本人経営の商店への略奪行為という形で表れました. 

結局のところ、日本軍はフィリピンを侵略し、キャンプ・ジョンヘイを日本軍の基地として使いました.  「(将軍ダグラス・)マッカーサーがフィリピン解放に戻った時、バギオ市の日本人は撤退せざるを得ませんでした」と 1933年にバギオで生まれた イノスケ・フルヤ氏は語りました. 

(ここに名前が出てきているのは おそらく イノスケではなく エイノスケ・フルヤ氏であると思われます)

「私たちは、山下(奉文大将)の撤退ルートに従って、山道の21キロ地点から、ヌエバ・ビスカヤ州のバヨンボンやソラノへ、そして最終的にはイフガオ州のキアンガンまで逃げたのです」と古屋氏は述べました.

バギオ市は、ふたたび攻撃されました. こんどはアメリカ軍の爆撃機で、1945年にバギオ市は焼け野原にされました.

「その爆撃によってさらに多くのフィリピンの民間人が犠牲にされました」とホセ教授が述べています.

デ・ギア氏は、その爆撃を控えられたバギオ大聖堂の中にいて生き延びた、と語っています.

ビンセント・カブレザ、 インクワイアラー北部ルソン

情報提供 ローランド・ラバング寄稿

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