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2013年12月20日 (金)

フィリピン・バギオの山奥で その時 何があったのか・・・

川崎恵一郎著 「重機関銃分隊長のルソン戦記」 光人社NF文庫から
興味深いところだけを つまみ食いしています.
http://books.rakuten.co.jp/rb/11786385/

さて、「死の彷徨」の章に入ります.
これは、バギオ市から 今なら車で1時間ほどで行ける インチカクという
当時は日本軍の病院などが置かれたところから始まります.

今は、アンボクラオ・ダムというダムによって水没した川沿いの
地域だと思われます.

この辺りはベンゲット州ですが、そこからイフガオ州やマウンテン州に
かけての一帯に 日本軍と在留邦人は追い詰められていくことになります.

140ページ

雨期に入ろうとしているころ、私たちはインチカクに着く.
湖のある谷間の町である. ここには兵站病院があった.
バギオを四月十六日に出てから一度も軍医の治療を受けていないので、
治療を頼んでみたが駄目であった.

== この頃には、すでに医薬品どころか、食糧も自分で探さなくちゃ
    いけない状況だったそうです

看護婦さんといえば、すぐ白衣を思い出すが、・・・カーキ色の軍服に
巻脚絆、戦闘帽で、ちょっと見ても男か女か分からない.

苦しいけれどここで別れたら終わりだ.
今まで置いていかれて追及した患者は一人もいない.
二、三十人の集団であればイゴロット族も襲ってこないが、一人になれば、
必ずといっていいほど襲われるのである.

== 傷病兵は 置き去りにされ、中には手りゅう弾での自爆、
    あるいは注射などでの安楽死もあったとの戦記もあります.

145ページ

私は銃と取り、安全装置を外して一発必中を狙う.
・・・赤犬は一メートルくらい飛び上がった・・・
さっそく首を切って血抜きをする. 久しぶりにありつけた肉である.

いよいよ病院の看護婦まで腹を空かすようでは、この地が我々の
墓場になるのかなと思われた.

ここに駐留している間に、患者や自隊員(軍医、看護婦、衛生兵)の
中からも多くの犠牲者が出た. これは病気で死んだ者もあるが、
食べ物がなくて栄養失調で死んだほうが多かった.

== 犬の肉ならご馳走です.
当時は 人肉喰いの話もあり、この著者からも話を聞いたことがあります. 戦記の中には、人肉喰いがあるので警戒するようにという情報が野戦病院の隊員などに回ったというのもありました.

ちなみに、元々この地方では、伝統的に犬や猫を食べる習慣があります

.

149ページ

ある日、病院はふたたびボントック道に出てトッカンに向かうことに・・・

今現地へ行ってみるとバギオより約三十キロの地点に出たと思う.

== バギオから ラ・トリニダッドを通って、ハルセマ・ハイウエイを
    ボントック方面に向かう途中の道です.

食べ物はなにもない.
道の近くにある草や松林の中に出ているキノコなど、口に入るものは
なんでも食べた.

・・・キノコを食べた者が急に泣き出したり、笑い出したり、中毒を起こして
下痢をして倒れる者も出た.

このころ米を持っている者は 殺してでもその米を取ってしまうほど
皆腹が減っていたのである・・・

もう二ヶ月も塩分を取っていない. 最近は汗も塩辛くないようになっていた.
歩くにもだるく、段々を登れないくらいに塩分が欠乏していた・・・・

== 戦記物の中には、蛇、トカゲ、昆虫などなんでも食べたとの
    記述があります.
    ゴキブリは エビのようで美味しかったとの話もあるくらいです.

157のページ

きれいな水があっても、高度千五百メートル以上のバギオ地帯では、
寒くて水浴など出来るものではない.
私は九月十六日に米軍に投降するまでの半年間、一度も身体を洗った
ことはなかった.

== 今でこそ、バギオのホテルにはどこにでも電気温水器が
    あって温水シャワーを浴びることができますが、
    10年ちょっと前までは ホテルでも温水シャワーがあるところは
    珍しく、地元の人たちの家庭では寒くても水のシャワー、
    あるいはヤカンでお湯を沸かして使っていました.

「魚を取ってくるから手榴弾を貸してくれ」
「この手榴弾は私の自殺用ですので、差し上げることは出来ないわ」

== 兵隊はもちろん、看護婦たちも 自殺用の手榴弾が割り当て
    られていたそうです

167ページ

米軍の飛行機は・・・ビラだけをまいていく.

「日本はポツダム宣言を受諾した. 忠勇なる日本の将兵よ、
一日も早く白旗を持って米軍の所にこい」

「今マニラ湾にはあなたたちを乗せて日本に帰る船が待っている」

ボントック道九十キロ地点に着く・・・
米兵がトラックの上で手を引いてくれたり、下から押し上げてくれたりした.
非常に親切であった・・・

== 日本軍の武装解除が行われた場所のひとつが
    このハルセマ道路の バギオから90キロの地点だったそうです.
    しかし、この地点へたどり着くには、谷底から一番上の尾根まで
    急峻な山を登らざるを得ず、戦記物の中には
    日本軍がアメリカ・フィリピン軍に対して行った 有名な
    「バターン死の行進」 に対する報復だという噂もあったようです.
  

夜中にバギオの仮収容所に着く.
真夜中でも、キャンプは昼間のように明るく電気がついている.

このキャンプで、栄養失調から急に栄養のある食べ物を食べたために
下痢を起こして死んでいった兵隊が多かったことをあとから聞いた.

== このバギオの仮収容所がどこにあったのかは、
    著者が戦後に地元の人に訊いても 分からなかったそうです.

二時間ぐらいで海岸近くの平坦地に着いた. リンガエンである.
ここにも仮収容所が出来ていた.
・・・「ダモルテスという町だ. お前知っているか」

「みなさんはラグナ州のカンルーバン収容所へ行くので、幕舎の前に
集まって下さい」

・・・貨車は動き出した.
星空だけを眺めて、思いを故郷に.

・・・現地人が橋の上や丘の上に石を持って待っている.
口ぐちに、
「ドロボウ」
「バカヤロウ」
「パタイ(死ね)」
と叫びながら石を投げつける

=== この日本語は、今でも年寄のフィリピン人は よく知っています.
      私の下宿のお婆ちゃん(92歳)も たまにこの言葉を
      口に出し、「どういう意味だ」 と聞かれて苦笑いをしたことが
      あります.
      当時の日本兵たちは、よくこういう言葉を使っていたらしい.

      お婆ちゃんの発音は 「バッキャロ~」 でしたけど・・・(笑)

 

 

 

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