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2013年12月24日 (火)

右脳・左脳と ブッダの仏教の「空」は なにか関係があるのか・・・

先日、こんなことを書いたんですが・・・
「認知症と 色即是空と 脳科学 : もしかして認知症は天国か?」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-966f.html

一部を抜き書きすると・・・・

「腕を見ると もはや自分の体の境界が分からなくなっていることに気付きました
腕の原子分子が壁の原子分子と混じり合って 一緒になっているのです
唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした

・・ってことになるわけですね・・・

これって 釈迦が言っている「色即是空」ってこっちゃないですか?

「小さな声が 「私がある」と言うことです
そして左脳が 「私がある」 と言った途端 私は 切り離されるのです
周りの人から分離されます」

・・・これが無くなって、自己が無くなる・・・無我ってことですよね・・・
自己と外界、宇宙の境目がなくなって、原子分子が混沌とした状態に
なるってことですよね・・・

=== これが 気になって、気になって・・・ 仏教の「空」とのつながり
     がないかと思ったんです.

     以前書いた下記のリンク先から拾いました・・・

「その48(まとめと感想) 中村元著「龍樹」: 般若心経の「空」とは何か
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/02/post-3882.html

p295
ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない
ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。
故に「般若経」においてはニルヴァーナは「夢のごとく」
「幻のごとし」
と譬えている。
それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない。

p446
・・・「空」の真の特質は「何もないこと」であると同時に、
存在の充実である。 
それはあらゆる現象を成立せしめる
基底である。 ・・・空を体得する人は、生命と力にみたされ
一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。

慈悲とは、<空>--あらゆるものを抱擁することーー
の、実践面における同義語である。

=== これらの「空」について書いてある文章が 上に書き出した
     右脳だけの世界に実に似ているとおもいませんか?

     自分の体が外界との境目がなくなって、溶け込んだような状態.
     「何もないこと」であると同時に 「唯一感じ取れるのは エネルギー
      だけでした」というところが 「空を体得する人は、生命と力にみたされ
      一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。」
      との記述も脳科学者の体験に近いように思えます.

     「夢のごとく」「幻のごとし」というところもそうですし・・・
     
     「そして左脳が 「私がある」 と言った途端 私は・・・」という
     ことで自己なるものが現れる・・・・

==== さらに、「ブッダのことば」からも拾ってみました.
「ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ 
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

14. 座禅をして、瞑想し、
「戒律の規定を奉じて、五つの感官を制し、そなたの身体を観ぜよ
(身体について心を専注せよ)。 」

3. 「空」の考え方は仏陀自身にあって、「事物のうちに堅固なものを
見出さない」と言う言葉がある。
すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、
かれの存在するありさまを知っている
。 すなわち、かれは解脱していて、
そこをよりどころとしていると知る。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を
空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう

24.自分などというものはこの世に存在しない。
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、
<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真理である」
と考えている。
「般若心経」に出てくる 自分は五蘊(ごうん)である、と言えるか
「釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教において
 アートマンの用語は一般的ではないと思われる。」

33. 安らぎの境地、ニルヴァーナ。
「ウパシーヴァよ。 よく気をつけて、無所有を
めざしつつ、「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。
諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

=== ここにも脳科学者の脳卒中体験と通ずるものがありますね・・

      「五つの感官を制し、そなたの身体を観ぜよ
       (身体について心を専注せよ)。 」
      
      <識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、
      かれの存在するありさまを知っている。

      自分などというものはこの世に存在しない。
      自分は五蘊(ごうん)である、と言えるか。

      ・・・ここでは、右脳に心を注げとも見えるし、
        左脳が 「私」と宣言するまで 「私」なるものは存在しない
        と言っているようにも見えます・・・

そこで、お釈迦さんがもっぱらやっていた座禅・瞑想でどんな効果が
あったんだろうと気になるわけですが、このサイトにありました:
(宣伝しているわけではありません・・・)

「瞑想は、右脳を活性化する簡単な方法です。」
http://yaplog.jp/kioku_jutu/archive/20

考えることはせず、流れに従い、思うままに任せることで、
左脳が働かず、右脳が優勢になります
瞑想を始めて、数週間で変化を感じられると思います。
特に座禅では、怒らなくなります。
また、座禅の後は、すっきりしまし、
座禅の最中になにかのイメージを見ることもあります。
数年間、毎日30~40分程度瞑想すると、
自己を超えた意識や、宇宙との一体感などを体験できるようになります。

「疲れた体は座禅で癒やす 」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20130322/245426/?ST=pc

座禅は、最低5分間、長くて30分くらい行うと、大脳からα波の一種であるα2という
特殊な脳波が出ることが確認されている。このα2は、気持ちが落ち着き、
気分をスッキリさせる覚醒をもたらしてくれる。心理的には、緊張や不安が取れ、
元気がみなぎってくるのが感じられるだろう。

瞑想
http://www4.ocn.ne.jp/~akasikku/meisou.html
我が子の存在を感じたり霊界について知りたいという強い思いから入る方が多いと
は思いますが、  中にはこの試練の因果を解明しようとか、今後のことを知りたいとか
という、間違った学びの目的でやられることは 大変危険ですし、間違っていると思います。

=== などといろいろあるようですが、私は深入りはやめておきます.
     少なくとも お釈迦様の時代から、あるいはその前から、
     座禅・瞑想は人類の知恵として右脳なりを鍛えるようなはたらき
     があることが体験としてあったようですね・・・

== 以下は上記リンク先からの抜き書きです ==

右脳と左脳の関連で 興味深い部分だけをピックアップ

p5
仏教の伝統的用語では「空」の思想を「空観」とよぶ。
空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが
固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。

p16
大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという
理論によって、空の観念を基礎づけた。

p17
無も実在ではない。 あらゆる事物は他のあらゆる事物に条件づけられて
起こるのである。
二つのものの対立を離れたものである。・・・空とは、あらゆる事物の
依存関係にほかならない。

p60
ー 原始仏教において、世間は空であると説かれていたが
  (たとえば、「常に心に念じて、(何ものかを)アートマン(我)
  なりと執する見解を破り、世間を空であると観察せよ。
  そうすれば死を度るであろう」)

p60
ー われわれは固定的な「法」という観念を懐いてはならない。
  一切諸法は空である。 何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて
  成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないもので
  あり、「無自性」であるから、本体をもたないものは空であるといわねば
  ならぬからである。

ー 空観からの論理必然的な結論として、輪廻とニルヴァーナとは
  それ自体としては何ら異ならぬものである、と教えられた。
  しからばわれわれの現実の日常生活がそのまま理想的境地として
  現し出されねばならぬ。

==>>ここでニルヴァーナですけど、「涅槃」とも言われますが、
中村元さんによれば、「心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地」
としているようです。

p71
ナーガールジュナは「有」を否定するとともに、「有」がない以上、
当然「有」と相関関係にある「無」もありえない、と主張する。

p102」
「一切」」とは五蘊十二処十八界であるといわれ、あるいは
たんに十二処であるともいわれる。

十二処 = 眼などの六つの器官(六根)
      それらの対象(六境)
      
十八界 = 六根 + 六境 + 六入
      十八の要素で構成される主観・客観のすべての世界

有為法 = つくられた現象的存在
無為法 = それ自体で存在する永久不変の存在

五蘊は有為法のみ。

p130
中観派の哲学者たちは、自分たちの立場が論駁されることはありえない、
という確信をいだいていた。 そうして大乗仏教が、(禅を含めて)
神秘的な瞑想を実践しえたのは、そのような思想的な根拠があったから
である。

p139
すなわちいかなる個人存在もまたいかなる事物を永久に存在する
(常住)と考えてはならないし、また反対にただ消え失せて
しまうだけである(断滅)と考えてもならない。

「不断不滅」は仏教徒にとっては絶対の真理である。

p140
「何故に業は生じないのであるか。 それは本質をもたないもの
(無自性)であるからである。 またそれが不生であるが故に
(生じたものではないから)、滅失することはない」

p155
その最後の目的は、もろもろの事象がお互いに相互依存または
相互限定において成立(相因待)しているということを明らかに
しようとするのである。
すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして
存在するから、もしもその相関関係を取り去るならば、何ら
絶対的な、独立のものを認めることはできない、というのである。

p164
さらに「中論」の基づく「般若経」も縁起を説いている。
・・・縁起を説明したあとで、「善現よ。まさに知るべし。
諸の菩薩・摩訶薩は、般若波羅蜜多を行ぜんと欲せば、まさに
かくのごとく縁起を観察して、般若波羅蜜多を行ずるべし」という。

p182
「中論」の主張する縁起とは相依性(そうえしょう)(相互依存)
の意味であると考えられている。

p202
ブッダは形而上学的実体を仮定する当時のインドの思想を排斥して、
ただ人間の生存の構造を問題とした。
そうして十二因縁のうちの前の項が順次に次のものを基礎づける
という構造をおっていた。

p207
「要するに有(もの)が生ずるということは、理に合わない。
また無が生ずるということも、理に合わない。 有にして無
なるものの生起することもない。」・・・・
という論法に従って縁起が<不生>であるということを論証
しているのである。

p213
要するにナーガールジュナを始めとして中観派の諸哲学者は、
「自生」「他生」「共生」「無因生」という生起のあらゆる
型を否定することによって縁起を成立せしめようとしたので
ある。

p226
これは驚異的な発言である。
われわれは平生は我欲に悩まされているから、我欲を離れた
境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地という
ものが別にあると思う人は、実は真理を見ていないのである。

p227
このように無我が諸法実相、空、無自性と同じ意味であるならば、
当然「無我」とは「縁起」の意味に解してさしつかえないのでは
なかろうか。

p230
「中論」によれば無常なるものは必ず縁起しているし、また
縁起したのではないものは無常ではないというのである。
したがって「中論」は諸行無常を縁起によって基礎づけている
ことが明瞭である。

p234
中観派によれば空性とは縁起の意味であるという。
空とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」
と同義である。

p241
「縁起せるが故に空である。」
縁起が理由であり、空は帰結である。

「縁起せるが故に無自性である」
縁起が理由であり、無自性は帰結である。

「無自性の故に空である」
無自性が理由であり、空は帰結である。

・・要約すれば、縁起はつねに理由であり、空は常に帰結である。
「縁起ー>無自性ー>空」という論理的基礎づけの順序は定まって
いて、これを逆にすることはできない。

p254
チゃンドラキールティの註によると「それ」とは空をさしている。
空がすなわち中道であり、中国一般の解釈のように空を空じた
境地に中道が現れるのではない。

空は有と無という二つの極端(二辺)を離れていることとなる。
故に空は二辺を離れた中道である、ということになる。

p283
「もしも<五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を>取って、
あるいは<因縁に>縁って生死往来する状態が、縁らず取らざる
ときは、これがニルヴァーナであると説かれる」
と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷する
のを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と
名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナ
である。
人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場
に立つときがニルヴァーナである。

p294
輪廻というのは人が束縛されている状態であり、
解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。

両者は区別して考えられやすいけれども、その根底をたずねる
ならば両者は一致している。

p295
ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えては
ならない。
ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の
迷妄である。
故に「般若経」においてはニルヴァーナは「夢のごとく」
「幻のごとし」と譬えている。
それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない。

p302
われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。
これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において
一致しているという「般若経」の説を受け継いだものであろう。

「中論」の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身
(仏の真実の身体)を意味している。
・・・この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味で
あるという。そうしてこれらの諸語は・・・縁起と同一の意味
であるから、・・・縁起の理法そのものを意味するに違いない。

p304
この縁起の如実相を見る智慧が<明らかな智慧>(般若)である。
「大智度論」においては、諸法実相を知る智慧が
般若波羅蜜であると説明されているが、結局縁起を見る智慧
を意味していることに変わりはない。

p442
中観派の哲学者たちは現象世界における変化を否定して、
真理は言語では表現できないものであるという理論を述べた。

p446
・・・「空」の真の特質は「何もないこと」であると同時に、
存在の充実である。 それはあらゆる現象を成立せしめる
基底である。 ・・・空を体得する人は、生命と力にみたされ
一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。

慈悲とは、<空>--あらゆるものを抱擁することーー
の、実践面における同義語である。

=== さらに 最も古いと言われている「ブッダのことば」には ===

「ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ   
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

2. 洞窟や木の下で座禅・瞑想し、真理を求め、解脱することを
願う修行僧たちに、解脱の方法を問われるままに教えていた。

32. 釈迦は徹底した自力の立場を表明した。
わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ
得ないであろう。 ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、
そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。

31. 祭祀をすることは煩悩である。 
供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。
伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、
わたしはそなたに説き明かすであろう。 その理法を知って、よく
気を付けて行い、世間の執著を乗り超えよ。

14. 座禅をして、瞑想し、
「戒律の規定を奉じて、五つの感官を制し、そなたの身体を観ぜよ
(身体について心を専注せよ)。 切に世を厭い嫌う者となれ。」

3. 「空」の考え方は仏陀自身にあって、「事物のうちに堅固なものを
見出さない」と言う言葉がある。
すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、
かれの存在するありさまを知っている。 すなわち、かれは解脱していて、
そこをよりどころとしていると知る。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を
空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。

24.自分などというものはこの世に存在しない。
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、
<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真理である」
と考えている。
「般若心経」に出てくる 自分は五蘊(ごうん)である、と言えるか。
「釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教において
 アートマンの用語は一般的ではないと思われる。」

33. 安らぎの境地、ニルヴァーナ。
「ウパシーヴァよ。 よく気をつけて、無所有を
めざしつつ、「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。
諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する
欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
即時に効果のみられる、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の
消滅>、をわたくしに説示しました。

 

 

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