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2013年1月 5日 (土)

その38 中村元著「龍樹」ー インド仏教と中国仏教じゃあ解釈が違うって・・

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「7. 空の考察」
「2. 中道と空見ーー三諦偈の解釈に関連して」を読んでいます。

中道とか中観派の「中」とか「中道」ってのはそもそもどういう
意味なのか・・・

p250
ナーガールジュナおよび中観派にとっては、中および中道という
観念がきわめて重要なものである・・・
しかるに、・・・中道という語が「中論」においてはただ一回
出てくるのみである。

p251
「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。
亦た是れ中道の義なり。」
・・・この詩句は中国の天台宗の祖とされる慧文禅師によって
注意されるに至った。

そうして天台宗によってこの詩句は空・仮・中の三諦を示すもの
とされ、「三諦偈」とよばれるようになった。

p251
われわれは空という特殊な原理を考えてはならない。 空という
のも仮名であり、空を実体視してはならない。
故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。

p254
チゃンドラキールティの註によると「それ」とは空をさしている。
空がすなわち中道であり、中国一般の解釈のように空を空じた
境地に中道が現れるのではない。

空は有と無という二つの極端(二辺)を離れていることとなる。
故に空は二辺を離れた中道である、ということになる。

p255
中国においては「非有非の中道」が説かれるが、
チャンドオラキールティの註によれば必ず「非有非の中道」
であり・・・・

こういうわけで空、仮名、中道は皆縁起の同義語である。

・・・「空を空じる」という中国の論は、理解を超えていますが、
「非有非無の中道」ならば分かります。

p256
空と無とは厳重に区別する必要があるのに、クマーラジーヴァは
(空)を「無」と訳すこともあった
から、「無」と「空」の問題
に関してはクマーラジーヴァの訳を典拠とし議論を立てることは
不可能である。

・・・クマーラジーヴァと言う人は漢訳では鳩摩羅什と書かれる人
で、いろんな経典を翻訳している人ですけど、ここでは叩かれて
いますね。 まあ、いろんな学者がいろんな説を表している
くらいですから、これは無理もないところなんでしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E6%91%A9%E7%BE%85%E4%BB%80

p256
ナーガールジュナの他の著書についてみても・・・・
「空と縁起と中道とを同一の意義をもったものだと説き給うた、
かの無比なる仏に敬礼し奉る」
といってこの三概念の同義であることを明瞭に断言している。

p258
われわれとしては、中国仏教における解釈がインドのもとの
ものと違う
ということを指摘するのである。

==その39に続く==

 

 

 

 

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2013年1月 4日 (金)

その37 中村元著「龍樹」ー 小乗仏教でも「法空」は説かれていた

    

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「7. 空の考察」に入ります。
「1。空と無自性」を読んでいます。

なぜ、理論展開の順序と 歴史的発展の順序が 真逆になったのか
についての理由をさぐっています。

p247
元来空観は仏教の根本思想であり、たんに大乗においてのみこれを
説くのではない。
仏教成立の当初から空の立場は一貫して存続している。

・・・これは、私もしっかりとは理解していませんでした。
なんとなく「空」というのは大乗仏教で始まったのかと思って
いました。

・・・とか言いながら、既に読んだ「ブッダのことば」にあったんですよねえ。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

「自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。」

ただ、これがここで言う「法空」だかどうだかは分らない。

p247
近年の研究(宇井伯寿博士や西義雄博士)によれば、小乗において
さえも法空が説かれているという。

通常いわれるように小乗は個人存在の空(人空)のみを説いていた
のではなくて、法空をもすでに説いていた。

当時説一切有部などの小乗諸派が法の実有を唱えていたのに対して、
それを攻撃するために特に否定的にひびく「空」という概念を
もちいたのであろう。

p248
・・ところが「般若経」の始めの部分が成立したころに、反対派の
人々はその主張を聞いて、空を無の意味に解し、空観を虚無論で
あるとして非難するに至ったのであろう

・・そこで後になると、・・・空の意味を一層明らかにし
誤解を防ぐために、
最初期の仏教以来重要であった「縁起」という
語をもってきて、
それを「相互限定」「相互依存」の意味に
解して空および無自性とは縁起の意味であると説明するに
至ったのであろう。

p249
「中論」が著されるよりも遥か以前にすでに大乗仏教は空を
説いていたのであるが、空に対して「疑見を生じ」る人が
現れ、「種々の過ちを生ずる」に至ったので、
・・・決して反対者の誤解するような意味ではないということを
「中論」によって蘭名したのである。

・・・ってことは、小乗仏教から大乗仏教への変遷というのは
「まったく別の宗教に変化してしまった」という話は、
「空」に関する限り、なかったと考えてもいいということかな?

p249
「中論」は歴史的には、「般若経」の各層を通じてみられるような
空観を基礎づける運動の終わりであるとともに、思想的には
「般若経」理解のための始めである。

・・この運動の最後に位し、新たに中観派を成立せしめるもと
となったのがまさしくこの「中論」である。

・・なるほど、空の思想を理解するには、この本を読むのが
一番の入門になるってことのようです。
ってことは、今後「般若経」も読めってことになるのかな?
そのエッセンスと言われる「般若心経」と、最初の「ブッダの言葉」
は一応読みましたけど。

ブッダの言葉
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html
般若心経の本
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/01/post-d8e5.html
金剛般若経はこちら
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/11/post-87cd.html

さて次回は、「中道」の話が出てきます。

==その38に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その36 中村元著「龍樹」ー 縁起ー>無自性ー>空 理論展開    

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「7. 空の考察」に入ります。
「1。空と無自性」を読んでいます。

縁起と無自性と空の概念の関係のところです。

p241
三つの概念の意味するところは結局同一である・・・
この三者の関係はどうであろうか。

p241
「縁起せるが故に空である。」
縁起が理由であり、空は帰結である

「縁起せるが故に無自性である」
縁起が理由であり、無自性は帰結である

「無自性の故に空である」
無自性が理由であり、空は帰結である。

・・要約すれば、縁起はつねに理由であり、空は常に帰結である。
「縁起ー>無自性ー>空」という論理的基礎づけの順序は定まって
いて、これを逆にすることはできない。

p243
第一の段階として、もろもろの存在は相依って、相互限定に
より成立
しているのであるから、法有の立場において主張する
ようなそれ自体(自性)を想定することはできないということ
が説かれ、次いで第二の段階としてそれ自体(自性)が無い
からもろもろの存在は空
でなければならぬといわれる。

・・・その中で縁起が根本であり、・・・
「中論」の帰敬偈において「縁起を説く」と宣言したのも
おのずから明らかであり、そうして「中論」の中心思想は
縁起であるという主張がいよいよもって確かめられることとなる。

・・・なるほど、この論理は分かりました。
縁起、相互依存の縁起が根本にあるわけですね。

そして、著者は、この三つの概念の歴史を遡ります。
そこで「般若経」をもとに展開します。
つまり、「般若経」がどのような思想的変遷をたどったのか の検討です。

p244
「八千頌般若」サンスクリット原本についてみるに、第一品
から第七品までは般若空観のたんなる説明と「般若経」護持の
功徳の讃嘆とに終始している。
ところが第八品に至って始めて、「無自性なるが故に空である」
として空観を無自性によって基礎づけようという試みがみられる。

・・・この第一品(ほん)とかいう意味が分からないんですけど・・・

学研国語大辞典にありました:
品(ほん)=「お経の中の編・章を表す語。「法華経二十八品」」

「般若経」の全体像についてのサイトはこちら:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E7%B5%8C

アマゾンではこのような説明があります。
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E5%85%B8%E3%80%882%E3%80%89%E5%85%AB%E5%8D%83%E9%A0%8C%E8%88%AC%E8%8B%A5%E7%B5%8CI-1-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%B6%E5%B1%B1-%E9%9B%84%E4%B8%80/dp/4122038839
多くの般若経典の中でも、インド・チベット・中国・日本などの大乗仏教圏に
おいて尊重されてきた『八千頌般若経』は、最古層に属しながらも、内容が
完備した最も基本的な経典である。その前半部第十一章までを収める

p245
クマーラジーヴァ訳の「大品般若」によると、最初の属累品
(第六六品)以前をみるに、空観を基礎づけるに当たっては
常に・・・どれも法が自性を欠いているからという意味に
解することができる。
・・・ところが第六六品以後になると、「縁起の故に無自性で
ある」という説明がみられる。

・・その無自性をさらに縁起によって基礎づけている。

・・・つまり、般若経の時代にあって、その最後の方で
やっと「縁起」が「空」の根本だという理論になってきた
わけですね。
そして、その意味合いについても変化があったことを
以下のように書いてあります。

p246
従来縁起は辟支仏(びゃくしぶつ)(独覚)に関連して述べられる
ことが多かったのに、ここでは縁起は声聞辟支仏とは無関係な、
菩薩のみの法であるという
から、「般若経」の後の部分の作者
は小乗の縁起に対して大乗独自の縁起を十分に意識して主張
していたことが明らかである。

・・分からない言葉が出て来ました。
インターネットで検索して見つけました。
http://kotobank.jp/word/%E7%B8%81%E8%A6%9A
えん‐がく 【縁覚】 
《(梵)pratyeka-buddhaの訳。辟支仏(びゃくしぶつ)と音写》仏語。
仏の教えによらず十二因縁を観じて理法を悟った者、また飛花落葉
などの無常を観じて悟った者。ともに師によらないため独覚ともいう。
声聞(しょうもん)とともに二乗といい、菩薩(ぼさつ)と区別する。

・・つまり、従来はレベルの低い修行者と縁起って言葉が
関連づけられていたのに、後代にはレベルが高い菩薩さんじゃ
ないと理解できない縁起という話になったみたいですね。
縁起の概念が高いレベルに持ち上げられたってことか?

p246
「勝天王般若」についてみるならば、・・・・
あらゆる存在は縁起せるものであるということを強調し、
あらゆる存在は相関的に成立しているから、法の生滅は
実はありえないと説く。
そしてこの「甚深なる縁起」は空と同義であるから、
縁起を観ることによって一切皆空を体得すべきであると
説いている。

・・・著者のここでの結論としては:

論理的基礎づけの順番は:
縁起ー>無自性ー>空

なんだけれども、
初期大乗仏教における歴史的発展の順序は:
空(およびその同義語)->無自性ー>縁起

と真逆になっているとしています。

次回は、何故 順序が逆になったのかを見ていきます。

==その37に続く==

 

 

 

 

空の論理 縁起とは 小乗仏教と大乗仏教で異なる 般若心経 色即是空 釈迦 ブッダ 

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2013年1月 3日 (木)

その35 中村元著「龍樹」ー 空とは無ではなく相互依存の縁起なのだ    

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「7. 空の考察」に入ります。
最初は「1。空と無自性」です。

p231
「中論」が空を説いていることはいうまでもない。
中観派は空性論者と自ら称している。

古来、空は「無」または虚無と解されやすい傾向がある

当時中観派が虚無論者であるとして他派から盛んに攻撃を受けて
いたということは想像に難くない。

p233
ナーガールジュナは次のように反駁している。
「ここにおいてわれらは答えていう。 --汝は空における効用
(動機)・空(そのもの)および空の意義を知らない。

故に汝はこのように論争するのである」

「無という語の意味は空という語の意味ではない。 しかるに
汝は無という語の意味を空の意味であると妄りに実在視
(増益)してわれわれを非難する。 ・・・」

・・・まあ、普通に理解しようとすれば虚無論者だと思われても
仕方のないような雰囲気ではありますね。
しかし、今まで読んで来たところでは そうばかりとは
言えないということもなんとなくですが分かってきました。

p234
中観派によれば空性とは縁起の意味であるという。
空とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」
と同義である。

p235
どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く

三論宗でも「若し因縁によらば即ち是れ空なり」

p236
従来中国においても、また近代西洋においても、ナーガールジュナは
縁起を否定して空を説いたという解釈がかなり行われているが、
これはかれの原意を得ていないことは明らかである。

・・・ってことは、中国から仏教を輸入した日本ではやっぱり
同じように理解していなかったってことになるんでしょうか。

p236
しかしこれも無を説いたのではなくて、諸法が自性上無い、
ということを意味するのである。 有を否定して無を主張した
のではなく、実有を否定して無自性を説いたのである。

p238
もろもろの事物(諸法)は無自性であるが故に、現象界の変化
も成立しうると中観派は説明している。

少なくとも中観派以後においては「「縁起」(とくに「相互
限定」「相互依存」)の意味にほかならない
ということがわかる。

・・・はい、今まで読んできたところで、それは重々わかりました。

p238
空といい無自性といっても、ともに「縁起」を意味しているので
あるから、・・・・実はあらゆる事象を建設し成立させるもの
である。

・・・・で、この辺りは空なり縁起なりが積極的な意味を
持っているように聞こえるわけですが、著者はさらに次のように
言っているんです。

p240
相互限定ということは、二つ以上の連関のあるものが、一方から
他のものに対して否定的にはたらくことである。
相互依存というも、一つのものが、それ自身では成立しえないが
故に他のものの力をまつのであるから、やはりそれ自体のうちに
否定的契機を蔵しているといいうるであろう。

==その36に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「空」とは何か 原始仏教 初期仏教 部派仏教 小乗仏教 ブッダの言葉 龍樹 空の理論 大乗仏教 インド仏教 中国仏教 日本仏教 般若経 般若心経 色即是空 

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その34 中村元著「龍樹」ー 「無我」って そういう意味じゃないよ ! 

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「6. 縁起」 のところの
「6.否定の論理の代表としての <八不>」 を読んでいます。

さてさて、今まで「「不生」というのを読んできたんですが、
「八不」(はっぷ)というのがあるそうでして。

p216
「中論」の最初の序の詩句には八種の否定句が述べられている。
これを中国、日本の伝統的教学では「八不」とよんでいる・・・

p217
嘉祥大師吉蔵は、
「八不は既に是れ衆経の大意にして、此の論の宗旨なり」といって、
「中論」篇の眼目とみなしている。

「中論疏」では、
「八不はただ是れ仏菩薩の本なり」
「八不は即ち是れ三世の諸仏の方等の要経なり」
とさえいわれる・・・

p218
ナーガールジュナは何故にとくに 不滅・不生・不断・不常・不一義・
不異議・不来・不出 
の八つのみを選んだのであろうか・・・

ピンガラの註釈には、
「問うて曰く。 諸法は無量なり。(しかるに)何が故ぞ但だこの
八事のみを(論)破するや。 答えて曰く。 法は無量なりといえども、
略して八事を説かば、則ち総じて一切の法を破すとなす」

したがって何故にとくにこの八つのみを選んだかという理由は
依然として不明である。

・・・おっとっと・・・意外とあっさりですね。
で、著者は 既にどこかの経典に書いてあるものをそのまま
借りてきてんじゃないか、ってことで探索を続けるわけです。

p220
古来「中論」は「般若経」にもとづくと解せられているから
八不も「般若経」から受けているのではなかろうか、と思われる。

p220
玄奘訳の「大般若波羅蜜多経」をみると、八不が一連の否定句
の中に含まれて出て来る。

「大般若経」の終わりのほうになると、ほとんど「中論」の
帰敬序そのままの文句
が出て来る。

故に「般若経」のこの部分と「中論」との密接な関係を
認めざるをえない。

・・・ただし、歴史的などっちが先かという問題も
残っているようで、著者は次のようにも言っています。

p222
クマーラジーヴァ訳「大品般若」には見当たらないし、・・・
玄奘訳に見るような現形がナーガールジュナ以前に成立していた
とは断定できない。
・・反対に「中論」のほうから影響を与えて右のような説明が
附加された、ということも考えられないことではない。

・・・いやはや、歴史ってのは順番すら確定するのは大変
なんですねえ。

「7.無我」

無我とは諸法実相・・・・とあるのですが・・

p224
仏教の伝統的観念である<無我>は、「中論」ではかなり独自の
特徴的な意味
に理解されている。

「問うていわく、--真理の特質は何であるか。 どのような
しかたで真理は考察されることになるのであろうか。
答えていわく、--我(アートマン)とわがもの(我所)とを
離れることが、真理の特質
なのである。・・・」

第一八章における無我の説明は、諸法実相(事物の真相)を
明らかにするためになされていることがわかる。

・・・そしてさらに、

p225
「もしも我(アートマン)が(五つの)構成要素(五蘊)で
あるならば、我は生と滅とを有するであろう。 もしも我が
(五)蘊と異なるならば、我は(五)蘊の相をもたぬであろう」
といって、アートマン(我)の観念を否定している・・・

・・・つまり、ここまでは我というものを離れればいいのかな、
と思っていると、さらにこんな言葉が続くんです。

「<わがもの>という観念を離れ、自我意識を離れたものなるもの
は存在しない。 <わがもの>という観念を離れ、自我意識を
離れたものなるものを見る者は(実は)見ないのである」という。

p226
これは驚異的な発言である
われわれは平生は我欲に悩まされているから、我欲を離れた
境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地という
ものが別にあると思う人は、実は真理を見ていないのである

・・・確かに、これは一般的に思っている「無我」とは
違いますね。 だから、普通に想像している「無我」なんて
ものは無いってことになりますか。

p226
故に「中論」が<無我><無我所>を説くのも、上述の諸註釈
の文からみると、結局諸法実相を明かすためであるといいうる

諸法実相とは我および我所の定まった特質の不可得なることで
あると説明され、空と同一視されている

さらに無我とは無自性と同義に解されるに至った。
・・・「無我」の「我」とは「自体」(本体・本質)の意味で
あるという。 したがって無我とは「無自性」の意味であると
されている。

・・・そうですか。理解不能ですが、とりあえず、
「無我」=(無自体)=(無本質)=「無自性」だそうです。

そして、著者が言うのは、

p227
このように無我が諸法実相、空、無自性と同じ意味であるならば、
当然「無我」とは「縁起」の意味に解してさしつかえないのでは
なかろうか。

「もし法(事物)にして衆の縁に因って生ぜば、すなわち
我有ること無し。 五(本の)指に因って拳有れども、
この拳は(それ)自体有ること無きがごとし」

・・・これは面白いですね。 5本の指ってものがあるから
拳があるんであって、拳ってものがそれだけで有るってわけじゃ
ないよ、って言っているわけですね。
それが縁起なんだってことですよね。

p228
若干の学者の研究によれば、最初期の仏教における「諸法無我」
という説明は結局縁起説と同趣意であると
説明されている。

p228
仏教では古来「三法印」ということを説いた。
「三法印」とは「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」
いうのであり、「一切皆苦」を入れると四法印となる。

p230
「中論」によれば無常なるものは必ず縁起しているし、また
縁起したのではないものは無常ではないというのである。
したがって「中論」は諸行無常を縁起によって基礎づけている
ことが明瞭である。

したがって「中論」は、三法印をことごとく縁起によって
基礎づけていることがわかる。

・・・私の単純な頭では、なんでもかんでも単純化することは
得意なんですけど、
「諸行無常」・「諸法無我」・「涅槃寂静」
=「縁起」 = 「相依相関の関係」

ってことでいいんでしょうか??

次回から「空」に入ります。

==その35に続きます==

 

 

 

 

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2013年1月 2日 (水)

バギオでラーメン・・・やめといた方がいいな。 これが 79ペソ ?

バギオに最近 韓国人経営と思しきラーメン屋があちこちにでき始めたんで、ちょっと期待しながら、入ってみたんです。

前回もこのように書いてみたんです。

インスタント・ラーメン一袋で ここは65ペソだったんですけどね・・・

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-1d72.html

バギオのコリアン・ストリートという別名まで聞こえる Legarda Road に 新しいお店が出来たんで 前から気になっていたんです。

076

こういうお店で二階にまで客席があって、いい感じなんですよ。

073_3

マークも割と決まっているし・・・

しかし、この店のラーメンは RAMYUN って書いてあるんですよね。

前回のこの店では RAMYEON て書いてあったんです。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-e776.html

定まった横文字での表記ってのが決まっていないみたいです。

071

店にはこんな棚があって、ほとんどインスタント・・って雰囲気なんで、前回のお店の経験もあるし、驚かないぞ、と思っていたんです。

069

これがメニューなんですけど。

前回 インスタント1袋で ほとんど何ものっかっていないようなのが65ペソだったんで、 ここの左真ん中の79ペソってのが 写真的にも何かトッピングがありそうな様子なんで、頼んでみたんです。

ちょっとマシかな、と思って。

072_2

・・・で、待つことしばし 3分間。 (実際はもっとかかった・・・)

074

「・・・・これ?」

あの~~、前回のお店の 65ペソには、これにプラス お印程度にでも お野菜がのっかっていたんですけど~~~。

これっすか?? 79ペソが・・・・

077

さよ~~なら~~~

 

 

 

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その33 中村元著「龍樹」ー 「縁起」は「起こらない」禅問答 ?  

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「6. 縁起」 のところの
「5. 不生」 を読んでいます。。

p205
小乗仏教では一般に縁起を人間の輪廻の過程における時間的生起
関係と解しているが、「中論」の縁起はそうではなくて、相依相関
関係の意味
であるとすると、ここに問題が起こる。

・・・ここは言葉の概念の問題ということみたいなんですけど、
「縁起」という言葉のなかに「起こす」という意味がはいっている
のに「不生」とかいう表現を使う事とと矛盾してんじゃないの
って話みたいです。

この辺りを読んでいると、いわゆる「禅問答」という言葉を
思い出します。
「禅問答」を辞書でチェックしてみると、
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%B5%CC%E4%C5%FA
1.禅僧が悟りを開くために行う問答。修行僧が疑問を発し、禅師がこれに答える。
2.理解し難い問答や会話のやり取り。

こちらのサイトでも「禅問答」の解説がありますが・・・
http://www5a.biglobe.ne.jp/~pedantry/pedantry/zenmondo.htm

・・まあ、でも、一般的には、何をいってるんだか理解不能な
屁理屈のような問答、ってイメージじゃないでしょうかねえ。
しかし、この「龍樹」という本を読んでいると、どういう問答を
しているのかの推測ができるような気になってきます。

・・・で、上記の矛盾に対する反論としては、

p207
「要するに有(もの)が生ずるということは、理に合わない。
また無が生ずるということも、理に合わない。 有にして無
なるものの生起することもない。」・・・・
という論法に従って縁起が<不生>であるということを論証
しているのである。

p208
バーヴァヴィヴェーカにとっては・・・世俗的立場(世諦)
究極の立場から見た真理(第一義諦)との二種の真理(二諦
の説も持ち込むことによってこの解決を試みた。
世諦においては生起がある。しかし第一義諦においてはない。

・・・この説明は中国の三論宗の解釈とも類似している。

p209
チャンドラキールティにとっては、生起は虚妄であり、縁起は
真理であり、生起と縁起とは正反対の概念であった。
また、諸事象の生起が成立したいが故に縁起が成立すると
いうのであるから、「不生」がすなわち縁起の真意である。

・・・つまり、上記の二人の解釈は正反対だってことの
ようです。
それで、結局 「中論」の龍樹さんの立場はどうかっていうと
著者は「おそらくチャンドラキールティの解釈が最も近いで
あろうと思われる」としています。

p213
要するにナーガールジュナを始めとして中観派の諸哲学者は、
「自生」「他生」「共生」「無因生」という生起のあらゆる
型を否定
することによって縁起を成立せしめようとしたので
ある。

p214
「諸法の不生」ということは「般若経」のうちにくりかえし
説かれているところであるが、縁起を不生と解する思想は
最初期の仏教までさかのぼりうる。

ブッダは苦または苦楽あるいは十二支のひとつひとつに
ついて、それが自ら作られたものでもなく、他のものによって
作られたものでもなく、自作にしてもまた他作のものでもなく、
自作にも非ず他作にも非ざる無因生のものでもなく、
実に縁起せるものにほかならぬと説いたという。

したがって縁起が時間的生起の関係を意味するのではないという
思想は最初期の仏教に由来する点もあるということは明瞭である。

・・・つまり、最初期のブッダの言葉には簡単にしか書いて
なかったことを、龍樹さんは徹底的に展開したってこと
みたいです。

ところで、ここの議論で、

「もろもろの事物が縁によって生じるという説明を一応承認
しつつ、もろもろの事物はそれ自体としては(自性上)生起
しない、
ということを主張しているのである。」

ってあるんですが、「生じる」といいつつ「生起しない」と
いうような表現上の矛盾はどうしても残るみたいですね。

これが言語の限界なのかもしれません。

次回は「八不」です。

==その34に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原始仏教 初期仏教 小乗仏教 部派仏教 ブッダの言葉 龍樹 大乗仏教 空の理論 色即是空 般若経 般若心経 

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その32 中村元著「龍樹」ー ブッダの縁起説の真意は小乗とは異なる  

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「6. 縁起」 のところの
「4.従来の縁起論との関係」を読んでいます。。

なぜ二十六章に十二有支を説明してあるのか、ってことを探っています。

p200
第二六章は「声聞法(小乗仏教)を説いて第一義の道に入ること」
を説く
のであるが、ナーガールジュナは全くこれを排斥したので
はなくて、衆生の生死流転の状態を示す説明として容認している。
後期の註釈の語を借りていうならば、「世諦縁起」を説いている
のである。

p201
従来の小乗一般の縁起が「世諦の縁起」とよばれているのに対し、
「中論」の主張する相依性の縁起を「第一義諦」(最高の真理)
であるとなす説明のあったことは注目を要する。

p202
さらに「大智度論」をみると三種の縁起を区別している。

・・・とあって、以下のような三種を書いてあります。

1. 「凡夫の肉眼に所見」のもの。
   生死流転する「凡夫人」に映ずる縁起。
   凡夫の迷っている状態

2. 「二乗
   (仏の教えを聞く声聞乗、ひとりでさとりをひらく緑覚乗)の人
   および
   未だ無生法忍(空なる真理をさとり、心を安んじること)を得ざる
   菩薩の観ずる」ところ。
   「法眼を以って諸法を分別する」
    ==上の「世諦縁起」に当たるもの

3. 「諸の菩薩摩訶薩・大智人」なる「利根」の人の観ずる縁起。
   「無生法忍を得たるより乃至道場に座す菩薩の観ずるところ

・・そして、著者は、

p202

故にこの第三の縁起がほぼ「中論」が主張しようとする縁起に相当
するのではなかろうか。

・・・としています。

ここで、なんとなく浮かんできたのが、以前に読んだ宮坂宥洪著の
「真釈 般若心経」
(角川ソフィア文庫)なんです。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/01/post-d8e5.html

上には3つのレベルの違いを書いてあるんですけど、
宮坂さんの本には、下のような4階建てを書いているんですね。

四階建ての構想:

屋上 = 釈尊瞑想の図 = 仏陀の居るところ (人知を超えた)
四階 = 釈尊入滅の図 = 観自在菩薩レベル (空を知る)大乗仏教
三階 = 釈尊説法の図 = 舎利子レベルのフロア(無我を知る)小乗仏教
二階 = 釈尊修行の図 = 世間レベルのフロア (自己形成)
一階 = 釈尊誕生の図 = 幼児レベルのフロア (出発)

上に書いたものに相当するのが、
1=世間レベル=二階
2=小乗レベル=三階
3=大乗レベル=四階

ってことになりませんか?

p203
宇井伯寿博士や和辻哲郎博士などの学者の研究によって、
ブッダが縁起説を説いた真意は小乗一般の解釈とは著しく
異なるものである
ことが明らかにされた。

すなわち最初期の仏教においては、十二因縁のそれぞれの項
はけっして時間的に輪廻の過程のうちにあって継起する因果の
関係によって順序立てられているのではなくて、
人間の生存の
ありかたの構造において順次に基礎づけあっている関係で
列挙されているのであり、その真意は、人間が迷っている
もろもろのすがたの構造連関を解明しようとするのである。

ブッダは形而上学的実体を仮定する当時のインドの思想を排斥して
ただ人間の生存の構造を問題とした。
そうして十二因縁のうちの前の項が順次に次のものを基礎づける
という構造をおっていた。

・・・つまり、ブッダの真意は小乗仏教の時間的生起という
解釈とは違っているってことですよね。

要するに、(ブッダの真意は)原始仏教の十二因縁のうちで
「前の項があるときには次の項がある」という意味だったので、
龍樹さんは、これを「これがあるときに、かれがある」という
相依性として、その関係をあらゆる事物のあいだに認めるように
拡張解釈していった、ってことのようですね。

==その33に続く==

 

 

 

 

 

 

 

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やっぱり花火がないと フィリピンの大晦日じゃないよね

フィリピンの年越しは、毎度派手に花火をやるんですけど・・・

003

毎年 花火というかクラッカーと呼ばれる爆竹みたいなもので、怪我人続出で、フィリピンのあちこちで禁止になったりしているんです。

バギオでも、直前に販売が禁止という話が出ていたんですけど、業者や花火の種類なんかを限定するってことで、一部制限付きながら販売されたようなんです。

005

なので、今年の大晦日は この下宿をしている一族の恒例行事はどうなっちゃうのかな、って心配していたんです。

日本人のビジターのお二人を呼んで、フィリピンの大晦日を体験してみたら、って約束していたもんですから・・・

050

心配無用でした。  こんな風に、日本じゃあ、おそらく消防法なんかで絶対にやれそうにもない花火が登場。

065

一年前の大晦日に勝るとも劣らない花火が続々打ち上げられ・・・

072

日本人のお客さんも 超びっくりの大満足。

083

及び腰ながら、しっかり花火大会を満喫。

084

・・と、みんながちょっと騒ぎ始め・・・

(この写真の屋根の上にも ちょっとオレンジ色の点が見えていますが・・・)

087

皆が見上げる方をみたら、なんだかゆらゆらと オレンジ色のものが飛んでいるんです。

「ランタン」と呼んでいるそうなんですが、いわゆる熱気球みたいに、提灯みたいなものを火で空に上げるものなんです。

「あれは危ないから禁止されてんだよ。」

・・だそうです。 

確かに 火が燃えて飛ばす動力になっているんだから、やたらなところにひっかりでもしたら火事になっちゃいますよね。

073

なにはともあれ、大花火の大音響とともに 2013年元旦の零時を越しまして・・・

089

一族のお婆ちゃんが住む本家の母屋でのお祈り。

090
皆で 年越しのお夜食をいただきました。

097

お婆ちゃんが「博物館」と呼ぶ部屋の中では、日本人ビジターのお二人が、この家族の戦争中からの歴史などを聞かせてもらっていました。

お婆ちゃんの父上は、ターラック州の片田舎の村長さん。

それも、日本占領時代に日本軍によって指名された村長さんでした。

そして、お婆ちゃんの旦那さんとなった今は亡きお爺ちゃんは、戦前のアジア・オリンピックの東京大会でメダルを獲得したアスリート。

あの「バターン死の行進」を生き残って、収容所に入れられ、東京大会のメダリストということで解放されたという経験の持ち主。

そして、戦後すぐにバギオのこの場所に この母屋を立てて、この大家族を育んだのでした。

バギオ市の警察署長になれる実力がありながら、一番トップになってしまうと大統領からの命令で赴任地を転々としなくてはならなくなると、署長になることを辞退し、副署長のままバギオの家族と一緒にいたのだそうです。

村長さんの家族は抗日ゲリラに狙われ家族の何人かが行方不明となるなど、戦争中にもさまざまな苦難がありながら、親日家である この家族に 感謝の日々です。

 

 












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2013年1月 1日 (火)

その31 中村元著「龍樹」ー 微小なるものの中に全宇宙の神秘を見る 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「6. 縁起」 のところの
「3 「中論」における「縁起」の意義」をみています。

p194
これを前述の有部の縁起論と比較するならば、著しい相違のあることに
気が付く。 それと同時に、「中論」の主張する縁起が後世中国の
華厳宗の法界縁起の思想と非常に類似していることがわかる。

法界縁起の説においては有為法・無為法を通じて一切法が縁起
していると説く・・・・

p195
チャンドラキールティも同様にいう、
「中観派は、一つのものの空性を教示しようと欲しているのと
同様に、一切のものの空性をも教示しようとしているのである。」

一と一切は別なものではない。 極小において極大を認める
ことができる。 きわめて微小なるものの中に全宇宙の神秘
見出しうる。 ・・・実に「中論」のめざす目的は全体的
連関の建設であった。

p196
「中論」の縁起説は華厳宗の思想と根本においてはほとんど
一致するといってよい。 ただ華厳宗のほうが一層複雑な
組織を立てている点が相違するのみである。

「華厳宗」については、こちらのサイトを参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E5%AE%97
「華厳思想の中心になるのは、この世界の実相は個別具体的な事物が、
相互に関係しあい(相即相入)無限に重なりあっているという考え方
(重々無尽の縁起)である。」

ちなみに、この華厳宗は 
「中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュバゴーシャ)と
龍樹(ナーガルジュナ)を加えて七祖とすることもある。」
と書いてあります。
・・・まあ、大乗仏教ということになれば、龍樹がほとんど
関わっているんでしょうけど。

また、196ページで、著者は ジャイナ教の中にも
「一のものを知る人は一切を知る。 一切のものを知る人は
一のものを知る」 と説かれているとあります。
歴史的な連絡は今後の研究を待たなくてはいけないようです。

そして、著者は 「従来の縁起論との関係」をさらに述べています。

p197
「中論」は従来の原子仏教聖典一般ならびに小乗の十二因縁の説を
どのように取り扱っているのであろうか。

そして、「中論」においては二種の縁起が説明されている、として
以下のようにまとめています。

第一章~第二五章: 「相依性のみの意味なる縁起

第二六章: 小乗のいわゆる「十二因縁」

ここで、ちょっと疑義がでているんです。
上記の第二十六章の「十二因縁」は、時間的生起関係を示しているところ
があるらしい
んです。
そして、細かい事例が書かれているんですけど、そのあとに著者は、
それでも龍樹の主張はそうじゃない、って言っているんですね。

p199
「中論」の主張する縁起が十二有支の意味ではなくて、相依性の
意味であることは違いない。

・・・としています。

・・・ここで、言葉が混乱状態。
十二因縁と十二支って同じなの、違うの???

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81
「鳩摩羅什訳(旧訳)では十二因縁とし、玄奘訳(新訳)では十二縁起と訳す。
他にも十二支縁起、十二支因縁などと表記する場合がある。」

とありましたので、「十二因縁」と「十二支縁起」は 同じ なわけですね。

じゃあ、「十二有支」ってなに??

このサイトに下のような説明がありました・・・
http://books.google.co.jp/books?id=UHPK0270Ck0C&pg=PA85&lpg=PA85&dq=%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81%E3%80%80%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%9C%89%E6%94%AF&source=bl&ots=yqVc_O5NCA&sig=-EvjzcgNhAIJWQrq92KOwf2BYQg&hl=ja&sa=X&ei=8o3iUKqID4mQrgeI94CABA&sqi=2&ved=0CEQQ6AEwBA#v=onepage&q=%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81%E3%80%80%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%9C%89%E6%94%AF&f=false

「十二因縁
この十二因縁を、われわれ唯識のほうでは「十二有支(うし)」といって
おります。 「有支」とは、生存のあり方です。 
したがって、十二因縁とはわたしたち個々の人間存在における十二の
因果関係、因果律のことです。 まず十二の連鎖を掲げましょう。」

・・・つまり、「十二因縁」=「十二有支」なんですね?

でも、ここで「十二の連鎖」ってかいてあるってことは「時間的生起関係」
という意味を含んでいる言葉だと理解していいのかな??

いやはや、同じだとはいいながら、微妙な意味の違いがあるみたいですね。
参ったな・・・・

まあ、ともあれ、著者は二人の註解などをさんしょうしながら、

p200
故に最も古い二つの註釈においては、ただ縁起とのみいう場合には常に
相依性を意味していて、十二有支の意味を含んでいなかったといいうる。

・・と述べています。

次回は、なんでそういうことになっているのかを著者が探っています。

==その32へ続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピン・バギオのミッドランド新聞が振り返った2012年

毎年、バギオ・ミッドランド新聞が その年を振り返って 様々なタイトルを団体や個人に付けてノミネートする NOMINATION 2012 が新聞に掲載されまして。

005_2

このノミネーションの裏事情は測りかねますが、私が感じたことを勝手に書いてみたいと思います。

013a

まず、なんと言っても、「レストラン・オヴ・ザ・イヤー」に選ばれた 

日本料理の「CHAYA」さんですね。

ちょくちょく 食べに・・・というより 飲みに行っています。(笑)

開店してから二年ちょっとだそうですが、このタイトルは当然といえば当然のノミネートだと思います。

011

上記の内、

(1) Film promoter of the year ...... Chandler Ramoneさん。

この男性は、バギオ市のSMバギオのすぐ横にある歴史的建物 CASA VALLEJOの中にある、フィリピン政府が運営する映画館、シネマテックの職員です。

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フィリピン映画のみならず、世界中の名作、傑作を75席ほどのこじんまりした映画館で 次々に紹介しています。

日比友好月間の2012年7月~8月には、日本の映画も上映していただきました。

(2) Gossip coffee shop of the year .......Luisa's Cafe

ちょっと雑然としたお店ですが、安くて美味しいと評判のフィリピン中華料理店です。

いかにも、ゴシップ好きな人たちがリラックスしていそうな感じかな。

008_2

(3) Hush-hush of the year .... Irisan's P128M ERS machine

hush-hushの意味が微妙なんですが、辞書によれば、秘密の、極秘の、内密の、ごく内内の、沈黙させる、・・・などの訳がのっています。

バギオ市のごみ処理問題にからんでの話で、日本企業の装置が採用されていますので、なかなか内容的にも微妙なところですね。

(4) International artist of the year ....Kidlat Tahimik with the Fukuoka Prize

映画監督として世界的にも有名な キドラット・タヒミック氏が福岡賞という日本の賞を受賞されたということです。

受賞の詳しい内容は こちらのサイトでご覧ください。

http://fukuoka-prize.org/laureate/prize/cul/tahimik.php

(5) Japanese Baguio promoter of the year ....Rey Dacones

日本とバギオの交流をプロモートをした人。

この REY DACONES氏は、 ライオンズ・クラブなどで 日本の姉妹都市である埼玉県羽生市との交流を積極的に進められています。

ダコネス氏は、元名誉バギオ日本総領事の寺岡氏と姻戚関係にある方で、私もいろいろとお世話になっている方です。

(6) Last flight of the year .... Sky Pasada's Baguioflight

これは、ついにそうなったのか、ということで驚いています。

マニラとバギオの間を結ぶ飛行機のことなんですが、定期便として期待されながら、気象条件や乗客が十分に集まらないなどの問題があったのでしょう。

バギオのセッション・ロードにあるチケットを取り扱っているはずのお店で、「今は、ここでは扱っていませんから、空港にある航空会社の事務所に直接聞いてみてください。」と言われたものです。

昔は フィリピン・エアラインなども飛んでいたんですけどねえ。

ちなみに、SKY PASADA のサイトを見ると、一応 バギオーマニラ間の時刻表はまだあるんですけどねえ・・・・(2013年元旦現在)

http://www.skypasada.com/flight-sched-mb.php

(7) Last surviving original Baguio restaurant of the year ..Star Cafe

セッション・ロードにあるカフェなんですが、たしかに老舗であることを建物の表にあらわしてあります。 どうも1940年の戦争前からあるようです。

007_2

中華料理と伝統的なフィリピン・ベーカリーが一体になったようなお店のようです。

今度 入ってみます。(笑)

(8) Loan of the year .....P100M plus loan for the Blackhole machine

これはバギオ市の隣町のベンゲット州の州都ラ・トリニダッド町での話なんですが。

「ブラック・ホール」と呼ばれる、これもごみ処理装置がらみのお金の話です。

その装置の納入メーカーが、これまた日本企業だという話で、装置自体が動かないというようなことが新聞沙汰になっていて、微妙です。

装置の名前からして、怪しげなんですけどねえ・・・・

(9) Media haven of the year ..... Luisa's Cafe

このカフェの名前は 上の(2)にも出て来ました。

「メディア天国」で、おまけに「ゴシップ・コーヒー・ショップ」ってことになると、ある意味そうとう危ないお店ってことになりますか?

有名になりたい方は どうぞ お試しください。

以上、ちょっと日本がらみの部分だけをピック・アップして 勝手なコメントを書いてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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その30 中村元著「龍樹」ー「一切の仏法、皆な是れ因縁の義なり」 

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「6. 縁起」 のところの
「3 「中論」における「縁起」の意義」をみています。

p186
この相依性、すなわち諸法の相依相関関係を明かすのが実に
「中論」の主要目的
であり、そのために種々の論法が用いられ
ている。 

・・・その論の例として、<浄と不浄><父と子>が
とり上げられています。

p187
浄も不浄もともに自然的存在の「ありかた」であるから、独立に
存在することは不可能である。 

・・・古代インド人が問題としていたのは自然的存在の領域では
なくて法の領域である。
・・浄は不浄によって浄であり、不浄は浄によって不浄である。

自然的存在の領域においては父があって子が生まれるのであるから、
父は能生であり、子は所生である。 ・・・ところが「ありかた」と
しての父と子を問題とすると、そうはいえない。
父は子を生じない間は父ではありえない。 子を生ずることによって
こそ始めて父といいうる。 父と子は互いに相依っている
ので
あるから、互いに独立な父と子とを考えることはできない・・・

・・・確かにこれはお説お通りです。
自然的存在としての意味と、法=「ありかた」としての意味関係は
全く異なっているわけですね。

こういう考え方をいろいろと展開しているところが続きます。

p188
たとえば認識方法と認識の対象についていえば、「そうしてそれらは
お互いに相依ることによって成立している。 ・・・実に認識方法
と認識対象との本性上の成立は存在しない」

これを述語でまとめていえば、
もろもろの存在の「相依」「互いに相依っていること」「相依に
よる成立」を主張するのが「中論」の中心問題なのであった。

p190
たとえば「中論」においては、「Aが成立しないから、Bが
成立しえない」という論法がしばしば用いられている。

p191
いずれも一方が成立しないから他方も成立しないと主張するもの
であり、註釈中にも非常に多く用いられている。
ところが、この議論は形式論理学の立場からみるならば
決して正しい議論とはいえない。

・・・ここで、中論の論法の、形式論理学的な不正確さに
突っ込みが入っているんです。

でも、中論では「あらゆるものは相関関係をなして成立している
から、・・・これを条件文の形に書き換えると、その困難も
解決できるとしています。
要は、中論が主張する前提を加味すれば 大丈夫ってことですね。

そして、著者は次のようにも述べています、

p192
従来西洋の学者によってしばしば主張されるような、
ナーガールジュナは詭弁を説いているという説が誤解に
もとづいていることが明らかになろう。

・・・次に、著者の議論は
「縁起ということが いかなる範囲に関して いいうるか」に移ります。

p193

説一切有部においては、・・・縁起とは有為法に関してのみ
いいうることであった。 そうして有部は有為法の外に別に
独立に実在する無為法を認めていた。 ・・・そうしてこの
無為法に関しては縁起は適用されないのである。

・・これに対して、「また有為が成立しないが故にどうして
無為が成立するであろうか」という。
有為法が成立しないから無為法も成立しえないという議論は
中観派の書のうちにたびたび現れている。

有為法も無自性であり、無為法も無自性であり、両者は
相依相関の関係において成立している。

p194
「中論」は要するに「一切の仏法、皆な是れ因縁の義なり」
明かしていると説く。

・・・ここで、有為法と無為法の意味が分からず難渋・・・・

検索しました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法
などと説き、「無為法」として常住不変の法を説く。部派仏教の
説一切有部や、大乗仏教の瑜伽唯識学派などは、この存在としての法を、
五位七十五法とか五位百法とくわしく議論した。

・・・つまり、「有為法」=無常変転するもの
「無為法」=常住不変のもの、  ってことですか。

漢和大字典では:

「有為」:
〔仏教〕因縁(インネン)の結合によって生じた、現世に存在するいっさいの物・現象。

「無為」は残念ながら漢和大字典には出てきませんでした。
「有為」の反対語としては出ていますけど。

・・・なんとなく分かりました。
説一切有部は、有為法と無為法を区別して、無常のものと常住不変のもの
とを前提として 無常のものには縁起があるとするけれども、
龍樹さんは 有為法と無為法も相依っている関係にあるから
全て縁起が関係するって言っているわけね?

==その31に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その29 中村元著「龍樹」ー 縁起は 時間的生起関係か、相互依存なのか 

あけまして おめでとう ございます。

ついに「龍樹」が 年を越してしまいました。

飽きずに 続けます。(笑)

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「6. 縁起」 のところの
「2. アビダルマの縁起説」をやってます。

「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、
かれが生じ、これがないときかれなく、これが滅することから、
かれが滅する」

p176
したがってこの「・・・・」云々という文句が、縁起の根本思想
を要約している
ということは仏教各派が一様に皆承認するところで
ある。 しかしながらこの文句を いかに解するかによって
各派の説が相違してくる。

p177
これらの諸解釈に共通なある傾向を見出しうると思う。
すなわち、
「・・・」云々という句を、時間的生起の関係を意味するもの
とみなしていることである。

・・・これをのちの中観派の相依説と比較すると、そこに著しい
相違がみられる。

p178

故に<縁起>の直接の語義は、実有なる独立の法が縁の助けを
借りて生起することと解されていた。

・・・以上のようなことが説一切有部での縁起の考え方だったようです。

これに対して、龍樹さんの「中論」ではどのように解釈していたのか。

「3 「中論」における「縁起」の意義

ここで著者は クマーラジーヴァの訳によって仏教界での混乱が
続いていたことを述べて、それでは、どう解釈すべきなのかを
書いています。

p182
「中論」の主張する縁起とは相依性(そうえしょう)(相互依存)
の意味であると考えられている。

「行為によって行為主体がある。 その行為主体によって行為
がはたらく。 その他の成立の原因をわれわれは見ない」

「陽炎のような世俗の事物は相依性のみを承認することによって
成立する。 他の理由によっては成立しない。」

(苦しみの考察)においては、苦が自らによって作られた、
他によって作られた、自と他との両者によって共につくられた、
無因にして作られた、のいずれでもないことを証明したあとで、
チャンドラキールティは・・・・
「・・・すなわち相依性のみの意味なる縁起の成立によって
(もろもろのことがらの)成立が承認されねばならぬ」

・・・そして、中観派独自の解釈がここに解説されています。

p184
小乗においては、縁によって起こること、時間的生起関係
意味すると解されていたこの句が、中観派においては
「あたかも短に対して長があるがごとし」とか、あるいは
「長と短とのごとし」というように全く法と法との論理的
相関関係を意味するもの
とされるに至った。
長と短が相依ってそれぞれ成立しているように、諸法は相互に
依存する
ことによって成立しているという。

・・・なるほど、小乗の縁起と 大乗の縁起は ここが違うわけ
ですね。

そして、次回は、この部分の、龍樹さんの論が続きます。

==その30に続く==

005

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年12月30日 (日)

その28 中村元著「龍樹」ー 縁起といっても いろいろあるでよ・・・

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「6. 縁起」 のところの
「2. アビダルマの縁起説」にはいります。

さて、中心思想の「縁起」なんですが、それがどのように
変遷してきたのかを読んでいきます。

p168
小乗アビダルマの縁起説は、生あるもの(衆生)が三界を輪廻する
過程を時間的に十二因縁の各支にひとつひとつあてはめて解釈する、

すなわち三世両重の因果によって説明する胎生学的解釈である、
と普通にいわれている。

・・・と言われても、分からない。とほほ・・・
三世両重の因果」については こちらで、
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/gensi2.html

「輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7

・・・胎生学的という言葉もいまいち理解不能なんで、こちらを参考に、

仏教思想では人間の身体を発生させる過程について特徴的な説を論じている
医学的知識を使いながら、その説を宗教実践に応用している。これは、
「仏教胎生学」といえる。」
http://www.waseda.jp/bun/activities/lecture/attach/20120927.pdf#search='%E8%83%8E%E7%94%9F%E5%AD%A6%E7%9A%84+%E4%BB%8F%E6%95%99'

ありました、ありました、「胎生学的」な十二因縁の解説が、こちらに;

http://blogs.yahoo.co.jp/jojon_folk/5558836.html

p168
説一切有部の諸論の中で、縁起を時間的継起関係とみなして解釈
する考えが最初にあらわれたのは「識身足論」においてであろう。
・・・初めの解釈は諸支の関係を同時の系列とみているようで
あるが、後の解釈はそれを時間的継起関係とみなしている。

・・・その他にも説一切有部のいくつかの解釈のバリエーションを
解説してあります。

p169
その中でただ刹那縁起のみは一刹那に十二支すべてを具するという
説明であり、いちじるしく論理的あるいは存在論的立場から
解釈がほどこされているし、また「中論」の縁起説と一脈相通ずる
ところがあり注目に値する。

故に縁起を時間的継起関係とみなす考えて一致しないから、
上座部のごときは種々理由をつけて刹那縁起の説を排斥している。

・・・つまり、説一切有部の中にも龍樹さんの考えに近いものを
もっているグループがいたってことでしょうか。

p170
何と言っても有部が最も重点を置いているのは「分位縁起の説」
である。 これこそ三世両重の因果によって説く有名な胎生学的
解釈であり、・・・

p171
分位縁起は生あるもの(有情)が輪廻転生する過程を示すもので
あるから、縁起はもっぱら有情に関して説かれることになる。
しかし小乗アビダルマに紹介されている説をみると、
必ずしも有情という類に入るもののみに限っていない。

p171
また、縁起とはあらゆる現象的存在(一切有為法)にかかわるもの
であるという説もある。

「縁起法(縁起するもの)とはいかなるものなりや、いわく
有為法なり。 非縁起法(縁起せああるもの)とはいかなるもの
なりや。 いわく無為法なる」

・・・まあ、いろいろあるらしいんですが、結局著者は、

p173
故に縁起に関して四種の解釈があったのみならず、さらに
その四種に関しても異説が行われていたということを認め
ざるをえない。

p175
縁起とは「縁によって生起すること」であるのに、その縁起を
常住なるものまたは実体とみなすことはできない、という。
故に有部は、縁起という特別な実体を考えることはなかった
けれども、「法」という実体を考え、その実体が因果関係を
なして生起することを縁起と名づけていた
のである。

・・・要するに縁起ひとつにいろんな解釈がすでにあった
ようでして、著者は次のように言っているんです。

p175
最初期の仏教において縁起の種々なる系列が説かれ
何故かくも多数の縁起の系列の型が説かれたのか、
現在のわれわれにははなはだわかりにくくなっているが、
それらの縁起説に通ずる一般的な趣意は

「これがあるとき、かれがあり、これが生ずることから、
かれが生じ、これがないときかれなく、これが滅することから、
かれが滅する」ということであり、これが種々の縁起の系列
に共通な思想である
といわれている。

==その29に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

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その27 中村元著「龍樹」ー ふたつの「縁起」 小乗と大乗 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「6. 縁起」 のところの
閑却されていた中論の縁起説」です。

p163
「中論」が縁起を中心問題としているということは従来の仏教研究
の伝統からみれば、すこぶる奇妙な議論
のようにみえるかもしれない。

サンスクリット原文出版以前に「中論」を読む人はすべて
クマーラジーヴァの訳でピンガラの註釈にのみ依っていたが、
クマーラジーヴァは縁起を「因縁」「衆因縁生法」「因縁法」
「諸因縁」などの語によって訳していたから、「中論」の縁起説
は明瞭に理解されなかった。

・・・ほお~~、中心思想ですら翻訳の問題が大きく関与していた
ってことですか。

まあ、哲学、形而上学についての議論だから、概念をどういう
言葉で表すかで 相当な理解の違いも出たんでしょうね。

p163
ところが「中論」の序文やチャンドラキールティの註釈が出版
されるとともに、研究者により「中論」独自の縁起説がようやく
注目されるようになった。

現在なおわが国では「中論」の縁起説は閑却されているが、
しかし、「中論」の中心思想を縁起に求めるということは
近代諸学者の承認を得ていることであり、何らさしつかえない
と思う。

・・・この中村元著「龍樹」が最初に発行されたのが2002年
となっていますから、つい最近の話みたいですね。

p164
さらに「中論」の基づく「般若経」も縁起を説いている
・・・縁起を説明したあとで、「善現よ。まさに知るべし。
諸の菩薩・摩訶薩は、般若波羅蜜多を行ぜんと欲せば、まさに
かくのごとく縁起を観察して、般若波羅蜜多を行ずるべし」という。

p165
したがって「中論」のみならず、一般に空観を説く書は縁起を
問題としている。

ここにいう<縁起>とは相依していることという意味であり、
<空>と同義である。

ナーガールジュナは変化そのものを否定した。
本性上はいかなる変化も起こらないのであり、したがって
人が悲しむべき理由もなければ、喜ぶべき理由も存在しないと
いうのである。

・・・とっとっと、ここがいきなり分からなくなりました。
「いかなる変化も起こらない」ってところ。

実にこの「人が悲しむべき理由もなければ、喜ぶべき理由も
存在しない」ってところ・・・娑婆に生きる生身の人間と
してはここが・・ねえ。

そして、次に中論には「二種類の縁起」が書いてあると続きます。

p166
故に始めの二五章に出て来る縁起は大乗の縁起、すなわち
「中論」が主張しようとする独自の縁起が説明してあり、
第二六には原始仏教聖典一般ならびに小乗の縁起が説明されて
いるといいうる。

そして、以下のように要点をまとめてあります。
p167
「中論」は縁起を中心問題としている。
「中論」は従来から小乗で説く<十二因縁>に対し独自の縁起を
説き、しかも対抗意識をもって主張している。

さて、議論は 小乗の縁起説がどんなものだったかに移っていきます。

==その28に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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その26 中村元著「龍樹」ー 「中論」は 縁起=因縁の生起=空 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「6. 縁起」 のところの
「1.中論の中心思想としての縁起」に入ります。

一応、中心思想は「縁起」だとは書いてあるんですけど、
著者は次のようにも書いています。

p158
「中論」の中心思想をどこに求むべきかは学者によって種々に
説が異なる
であろうと思う。

本邦においては普通常識的には「中論」は空または諸法実相
(事物の真相)を説く
といわれている。

しかし三論宗によれば「中論」は主として二つの真理(二諦)
説いている、と定められている。

(三論宗については こちら。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%AB%96%E5%AE%97

・・・ところがここに困難な問題が起こる。
「中論」と題する以上、「中論」の中心思想は二つの真理では
なくて、<中道>ではないか、という疑問がそれである。

・・・中心思想すら様々な説があるってんですから、そりゃあ
いろんな読み方、解釈ってものがあるんでしょうね。
専門家であっても龍樹さんの意図はなかなか掴めないってこと
になりますか。

p159
チャンドラキールティの註解によると、・・・反対者の批難に
対して、「そうではない、何故か。 何となれば中観派は
縁起論者であって
・・・」と答えている。
故にチャンドラキールティは自ら縁起論者と称しているのである。

p160
ナーガールジュナは「中論」の冒頭において次のようにいう。
「不滅・不生・不断・不常・不一義・不異議・不来・不出であり、
戯論が寂滅して吉祥である縁起を説いた正覚者を、諸の説法者の
中での最も勝れた人として稽首する」とあり、
この冒頭の立言(帰敬序)が「中論」全体の要旨である。

・・・この中の「縁起を説いた正覚者」というのがお釈迦様だった
ってことです。

p161
「中論」の最後の詩句・・・
「一切の(誤った)見解を断ぜしめるために憐みんをもって
正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰名したてまずる」
とあり、・・・・

「・・(正しい真理)を、・・・縁起という名によって説きたもうた。・・・」と註解しているから、・・・

p162
故に「中論」は最初は縁起をもって説き始め、最後も縁起をもって
要約している。 それでは、「中論」全体が縁起を説いている
といいうるのではなかろうか。

チャンドラキールティの註によれば、「一切のものが縁起せる故に
空である
ということが、「中論」全体によって証明されている」という。

・・ってことで、龍樹さんの「中論」は「縁起」を中心として
書いてあるってことに収まりそうなんですが、まだ何かありそうな・・・・

==その27に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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