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2013年3月23日 (土)

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その25 安保闘争のおそまつ。自立路線はやっぱ無理??

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

p209
「(CIAは)友好的な、あるいはCIAの支配下にある
報道機関に、安保反対者を批判させ、アメリカとの結び付き
の重要性を強調させた」

「三大新聞では政治報道陣の異動により、池田や安全保障
条約に対する批判が姿を消した・・・」

p210
「七社共同宣言をさかいに、安保反対を勢いよく書いていた
朝日新聞の記者が次々と地方へ転勤させられていきました。
毎日新聞にも同じことが起こりました」

==>> 日本の新聞には記者の署名入りってのが少ない
というのは、この辺りにも理由があるんでしょうか?

p212
安保闘争の中心人物のひとり西部遇は
「総じていえば、六十年安保闘争は安保反対の闘争
などではなかった。 闘争参加者のほとんどが国際政治
および国際軍事に無知であり無関心ですらあった」と
のべています。

安保闘争が一気に国民的規模にもり上がったのは、東大生だった
樺美智子さんの死去以降です。

最終段階で、日本の歴史で他に例のない大衆闘争となっていったのです。

p213
ただ、不幸なのは、それによって岸が行おうとした対米自立の
動きもいっしょに消し飛んでしまったことです。

==>> その当時の全学連の平均年齢は21歳だったそうです。
当事者たちが、上のようなことを書いているんですもんね。
要するに「たかが20歳の若僧が東京に出て来て、1年そこそこの
あいだ、酒を飲みのみデモをして暴れ、・・・」と言うように、
なんにもしらない若い連中が うまいこと米国に操られて
いたってことになります。

p213
新安保条約のどこが旧安保条約に比べてすぐれているか・・・

ー 武力の行使に「国際連合の目的」という枠をはめている・・・

ー 日本は米軍が攻撃されたときも共に行動することを約束
  しています。 しかし、そこには制限がついています

ー 米国は「自国の憲法にしたがって」という条件はつけて
  いるものの、日本を守る義務を明記しました・・・

p214
次にいつも問題になるのは中国との関係です。
・・米国は中国を潜在的なライバルとみなしており、中国が
共産主義の色彩が強いときにはこれを封じ込めようとし、
軍事力が強くなればこれに対抗しようとします。

p216
中国は日本の首相のなかで、岸首相をもっとも攻撃しました。
・・かつて満州帝国の経営にあたった人物ですし、・・
台湾総統の蒋介石とも親交があります。

しかし、岸は自分の中国政策を「政経分離」でいくと明言
していました。

もちろん米国は・・反対です。

p217
多くの人は岸信介は右翼につながっていると思っています。
しかし、(中国通商代表部での)長崎国旗事件を行った右翼は
岸信介の政策の邪魔をしています。 
戦後、親米右翼が勢力を伸ばしていたのです。

==>> はれはれ・・・、そうですか、親米右翼ですか。
反米右翼と反米左翼は、対米自立路線ってことでは
共闘できるのかな?

p218
岸首相は・・「米国の虎の尾」である「米軍の撤退」と
「中国との関係改善」に、ふたつとも手をつけているのです

==>> おお、鳩山由紀夫さんと同じようなことを
やっていたわけだ。

p219
岸を外し、首相を池田に代える。 これは米国の意向
踏まえて行われたことだったのです。

p220
欧米が植民地支配をするときは、よくその国の少数派と手を
組みます。これがセオリーです。

池田首相は・・エリートコースとはまったく縁のない、
完全に傍流にいた人物でした。

吉田が池田を(米国に)推薦したことで、・・徹底した
対米追随路線は、自民党の新しい世代にひきつがれることに
なりました。

==>> なるほど・・流石に欧米諸国は植民地政策に
よく通じていて、コントロールの仕方を心得ていたわけですか。
まあ、今でも、そういう状態にあるってことになりそうですね。

ああ、悲しいかな、悲しいかな・・・・

その26に続く

 

 

 

 

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2013年3月22日 (金)

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その24 まあ、そこまで読めっていっても 一般国民には無理だよなあ・・

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その24 まあ、そこまで読めっていっても 一般国民には無理だよなあ・・

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

p196
2009年、政権の座についた鳩山由紀夫首相が「普天間基地を
最低でも沖縄県外に移転させたい
」といって、各方面から
袋叩きにあい、政権を投げ出しました。

p197
行政協定は占領終結後も米軍が在日米軍基地を自由に使う
ためのとり決め
です。 これが米国にはもっとも重要です。

「安保条約は変えてもいい。 しかし行政協定はそのままに
しろ」というのが米側の方針だったのです。

米軍は望むだけの基地を日本国内に得る権利をもっています

==>> 今まで読んで来た流れで言えば、鳩山首相の
「思いつき」に見えた発言、行動は、自主独立派としての
立場をなんとか実現しようとしたのでしょうが、
敢え無くよってたかって潰されたということですね。
そして、それに多くの日本国民、私を含めて、馬鹿じゃないか
などと思った。
しかし、考えてみると、馬鹿にした国民自身が馬鹿だったんじゃ
ないかと思えます。

例えば、悪がきグループのボスにへいこらしていた気の弱い
坊主が、今からはボスの言いなりにはならないぞと言って
頑張ろうとしていて、ちょっと失敗してしまったのを、
それを取り囲んでいた本当は気弱な坊主と同じ考えで
心の底で支持していたはずの坊主の仲間が、よってたかって
潰してしまったようなもんですよね。

「残念だったなあ。 次はもっとしっかり計画して
頑張って出直そうよ」って言うのなら話は分かるんですけどね。

==>> ところで、その鳩山由紀夫さんですが、沖縄タイムズにはこんな記事が出ていました。

【沖縄タイムス】鳩山元首相

「日中関係改善・米軍基地見直しで米国の虎の尾を踏んだ・・」

http://news.guideme.jp/kiji/453ff5dfff59fbac60bb11c1efe00e73

p198
岸は「二段階論」を考えていました。
つまり安保条約を改定して、その後「行政協定を改定する」
方針でした。

ところが、・・・池田隼人、河野一郎、三木武夫という
実力者たちが、そろって「同時大幅改定」を主張
したのです。

難題をふっかけ、岸政権つぶしを意図していたからだと
見ることができます。

池田隼人は・・首相になっています。 ・・「地位協定」を
改定する動きをしたでしょうか。まったくしていません。

三木武夫は、占領時代から米国と太いパイプをもっていた
人物です。

安保騒動をまねいたのは、自民党内部の遅延策だったのです。

==>> 結局、昔から、自民党内部でも有力者同士での
潰しあいをやってきたってことですね。
そして、日本の根幹にかかわる問題は後回し、あるいは無視、
あるいは米国の思うつぼになってきたってこと?

要するに、今でも、それと同じ、政権のたらいまわしが
続いている。 そして、それに国民も騙され、怒り、そして
うんざりしている。

こんないい加減な内輪もめみたいなことばっかりやってられる
のも、アメリカの軍事力で守られているという甘えですか?

p201
1960年、・・岸首相は辞意を表明・・・
全学連や総評のデモが要求した岸内閣の打倒は達成されたのです
しかし、闘争の最大の焦点であった安保条約はその後、50年
以上たった現在まで、一言一句変わることなくつづいています。
つまりこの安保闘争は、当初の目的をまったくはたせなかった
ことになります。

p203
どう考えても全学連の資金はカンパだけではまかないきれ
なかった・・・

p204
財界人は財界人で秘密グループを作っていまして・・・
「反岸」が大きな勢力になっていたんです。
・・・岸を追い落とすために安保闘争を利用したんです。
こうして全学連の動きは財界の思惑と一致していきました。

・・・国際政治という観点から見ると、米国が有名大学の
学生運動や人権団体、NGOなどに資金やノウハウを提供
して、反米的な政権を倒すきっかけを作るというのは
非常によくある話で、・・・まずCIAの関与を疑って
みる必要があります。

p206
岸首相の自主独立路線に危惧をもった米軍およびCIA
関係者が、工作を行って岸政権を倒そうとした・・・

p207
新聞は・・・・最初は安保反対・・・その後、重点は
「岸打倒」・・・「七社共同宣言」で「暴力を排し、
議会主義を守れ」と説くようになります

一般的に、安保騒動は新聞報道によってあおられ、過激化
したというイメージがあります。

==>> 左翼の運動を新聞が煽り、そのバックに財界が
あって、またその背後にはアメリカですか。

左翼運動っていうのは、井の中の蛙 だったってことか・・・

新聞が煽っておいて、最後に「暴力はやめましょう」ですか?

その25に続く

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「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その23 岸信介は怪しい人物だが・・

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

第四章 保守合同と安保改定

p180
1955年・・・自由党と日本民主党・・・合併し、自由民主党
が誕生します。

左右に分裂していた社会党が再統一・・・
40年つづく「五五年体制」が成立・・・

1960年代まで、CIAを通じて自民党に政治資金・・・

p181
石橋湛山・・・自主独立路線を次々に表明・・・

p182
米軍の駐留経費削減を要請・・
「日本が中国について、アメリカの要請に自動的に追従して
いた時代は終わった
」と語っています。

p183
米国務省・・・秘密電報内でもらしていた本音・・・
「われわれがラッキーなら、石橋は長続きしない

p184
総理就任祝賀会に出かけた石橋湛山は、突如肺炎になり・・・
退陣に追い込まれます。
主治医は「・・・体重の異常な減り方が、肺炎でやせたものと
しては理解ができない
」との談話を発表・・・

p185
日露戦争(1905年)と日本の真珠湾攻撃(1941年)
との関連をのべなさい

日露戦争で莫大な借金をした日本は、その後、満州や中国へ
利権を求め進出したのですから、大いに関係はあるのです。

p186
岸信介が首相だったときに結ばれた新安保条約(1960年)が、
現在の日米関係の基礎
になっており、しかも・・・日米安保
について根本的な見直しをしようという動きはこれまで
一度も起こっていない・・・

p187
岸首相は・・・自民党内の属米派との闘いに、一番の精力を
注いだといっているのです。

講和条約のままでは日本民族の恥さらしだと考え、安保を
もっと自主性のあるものに改定する、そのためには再軍備
も必要で、憲法も改正にまでもっていかなくてはならないと
いう考えをもっていた。
あわせて沖縄の返還を実現したい・・・

p188
「安保条約、行政協定は全面的に改定すべき時代にきている」
と答えています。

p189
岸首相は米国に対し、「駐留米軍の最大限の撤退」を求めているのです。

p193
岸首相がワシントンについてすぐゴルフをしたことで、数時間
だけですが(日米交渉の主導権をにぎっていた)ダレス抜きで
アイゼンハワーと会った時間が生まれます。
・・・アイゼンハワーはダレスに対し、「岸首相はせっかく
遠くから来たんだから、彼の立場も考えてやれよ」といっています。

現実の外交では、こういう非常に人間くさいファクターが、
交渉の行方を左右することがあるのです。

p194
たしかに岸信介とCIAとのあいだに闇の部分はありました
しかし、だからといって岸は自分の行おうとしたことを
やめたわけではありません。
逆に利用しています
「政治というのは・・・場合によっては動機が悪くても
結果がよければいいんだと
思う。 これが政治の本質じゃ
ないかと思うんです」

==>> 政治はきれいごとでは済まない。
どんなに動機が美しくても、結果が悪ければだめだ。
どんなに悪役にみえても、国民もそれに騙されてはいけない、
結果を見ろ、ってことですね。

さて、今の政治は どうなんでしょう。
私には、つまらないことで、首相が変わり過ぎると思います。
それを煽っている、つまらないネタで国民を誘導している
マスコミにはイライラします。

3.11以降、日本国民はそのあたりに気付いたんでしょうね。
もともと私はノンポリですから、難しいことなんか分かりません
けど、どうも今まで騙されていたような気がするんです・・・・

だから、こういう本も読むようになったのかな?

その24に続く

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2013年3月21日 (木)

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その22 原発は その当時必要ではなかったが・・

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

p173
鳩山首相は1956年・・・10月19日、日ソ共同宣言に署名します。
・・将来、平和条約が締結されたときには「歯舞群島および色丹島を
日本国に引き渡すことに同意する
」と書かれていました。

==>> この鳩山首相がなぜこの交渉に熱心だったかという
当時の事情については、ソ連は日本との講和条約に署名して
おらず法的には戦争が継続していた。 抑留日本人がソ連に
1500名いた。 日ソ間に国交がなく、国連への加盟ができな
かった。という3つを挙げています。

p174
日本に原子力発電所を作る動きは1950年代に確立しています。
・・それは米国の意向を反映したものでした。

1954年・・・米国は・・ビキニ環礁で水爆実験を行いました。
・・第五福竜丸が・・・乗組員には被曝の症状が現れており、
「死の灰をあびた」と報道されます。・・久保山無線長が死亡しました。

米国は被曝で病気が出たことを認めず、・・・吉田首相は米国に
抗議することをためらいます。

p176
(GHQ担当の読売新聞記者であった柴田秀利は)
原爆反対をつぶすには、原子力の平和利用を大々的にうたいあげ、
それによって、偉大な産業革命の明日に希望をあたえるしかない」
と熱弁をふるった。

このように読売新聞が中心となって、日本国内に原子力平和利用
の動きが
転かいされていきます。
正力松太郎はその後入閣し、初代の原子力委員会委員長になります。

==>> なるほどねえ・・・今回の原発事故に関しての
読売の扱い方には要注意ですね。

p177
柴田氏は1985年・・自叙伝を出版しました。
・・・自叙伝出版の翌年、・・米国に旅行に出かけ、
フロリダでゴルフ中に死んでいます。

==>> ここは あまり勘ぐっても仕方がないですね。
どんな自叙伝だったのか、読んでみたいところです。

p178
原子力を核兵器でなく、平和利用するという宣言は魅力的
です。 この動きを取り入れたのが中曽根康弘氏です。

==>> さて、ここまで、ゆっくり過ぎるぐらいゆっくりと
読んできましたので、この後の
「第四章 保守合同と安保改定」
「第五章 自民党と経済成長の時代」
「第六章 冷戦終結と米国の変容」
「第七章 911とイラク戦争後の世界」
のところは、 チャッチャッチャと読んでいきますので
飛び石になると思いますが、宜しくお願いします。

意外や意外、びっくりの内容がいろいろあるようです。
目からうろこになると思います。

その23に続く

 

 

 

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2013年3月20日 (水)

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その21 北方領土、竹島、尖閣問題は偶然ではない

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

吉田時代の後・・・・

p168
では、長くつづいた吉田時代を終わらせ、外務大臣兼副総理
重光葵を起用して対米自立路線をめざした鳩山内閣は
いったいなにを残したのでしょうか。

鳩山一郎を党首とする日本民主党は第一党になります。
新政権はまず「憲法改正」と「自主外交」をとなえました。
なかでも重視したのが日ソ国交回復です。

アリソン駐日大使は次のようにのべていました。
「新政権は米国の利益を無視し、共産圏に譲歩ばかりしている
われわれが日米関係の現状に不満だと分からせる必要がある。」

p169
実は北方領土の北側の二島、国後島、択捉島というのは、
第二次大戦末期に米国がソ連に対し、対日戦争に参加して
もらう代償としてあたえた領土なのです。

しかもその米国が冷戦の勃発後、今度は国後、択捉の引き渡し
に反対し、わざと「北方領土問題」を解決できないように
しているのです。
理由は日本とソ連とのあいだに紛争のタネをのこし、友好関係
を作らせないためにです。

==>> 日本の自立的な自主外交を米国は邪魔している
ということですね。 沖縄問題も北方領土問題も、実はアメリカ
が意図的につくっている。

この著者は、ここで、「ポツダム宣言」と「サンフランシスコ
講和条約」にさかのぼって解説をしています。

p170
日本の領土は「本州、北海道、九州、四国」と「連合国の
決定する小島」に限定される
というわけです。

==>> う~~ん、この辺りに、今の領土問題もおおいに
関係してくるというわけですか。

p170
戦争末期、・・・ルーズベルト大統領の最大の関心は
「いかに少ない米国人犠牲者で、日本の無条件降伏を
引き出せるか」という点に移っていたからです。

==>> こういう考え方は、日本軍にはあったんでしょうかね。
「玉砕せよ」でしたからね・・・

p171
大統領は・・・「千島列島がソヴィエト連邦に引き渡される
こと」という内容をふくむヤルタ協定を結びました。

サンフランシスコ講和条約では、「日本国は千島列島に
対するすべての権利、請求権を放棄する」
とされています。

吉田首相は・・・「択捉、国後両島」が「千島南部」である
と認めています。

北海道の一部である歯舞、色丹については譲らず、「千島
列島」に含まれる択捉、国後についてはあきらめることに
したわけです。

p172
なんと国務長官になっていたダレスが重光外相に圧力をかけ、
「もし日本が国後、択捉をソ連にわたしたら、沖縄をアメリカ
の領土とする」と猛烈におどしてきたのです。

日本とソ連のあいだに、解決不能な紛争のタネをうめこむためでした。

==>> いや~~、アメリカさんは、むちゃくちゃなことを
やるんですね。 「解決不能」な状態にして、日本がアメリカ側
につくようにしたってことですね。 それが「国益を守る」ってっことか。

p172
これは国際政治の世界では常識なのです。
英国などは植民地から撤退するときは、多くの場合、あとに
紛争の火種をのこしていきます。 かつての植民地が団結して
反英国勢力になると困るからです。

==>> なるほどねえ、隣国同士が険悪になるように仕向けて、
自分の方に反抗しないように、仕掛けをつくっているわけですか。

韓国にしても、中国にしても、そういう裏があるってことですかね?

 

p173
ロシアとは北方領土、韓国とは竹島、中国とは尖閣諸島と、
・・・これは偶然ではないのです

==>> そして、その困難な問題を、民主党政権が解決しようと
動き始めると、マスコミを大動員して潰すってことですか。
もとより、それが自民党であっても、解決をさせることはない
ということになりますね。

ただし、国民に「頑張っているな」と思わせるだけのポーズはとらないといけない。

その22に続く

 

 

 

 

 

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「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その20 米軍の撤退は絶対にダメだ!

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

p157
「その後ワシントン政府が、積極軍備論の鳩山とか重光とか
いう人に期待をかけた」

1954年12月、吉田内閣は総辞職し、鳩山内閣が誕生します。

戦後の歴史を見ると、一時期、米国に寵愛される人物がでます。
しかし情勢が変化すると、米国にとって利用価値がなくなります
そのとき、かつて寵愛された人物は・・・新たな流れに気付かず
切られるケースがきわめて多いのです。

米国が独裁者を切るときには、よく人権問題に関するNGOなど
の活動を活発化させ、これに財政支援をあたえて民衆をデモに
向かわせ、政権を転覆させるという手段を使います。

==>> ここでこの本にはいくつかの例が書いてあるんです。
韓国の朴正煕大統領の暗殺、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム
大統領の殺害、イラクのサダム・フセイン大統領、
そして、著者は、なんと吉田首相もこういうカテゴリーに
入る、と言っているんです。

p159
重光葵は自主路線の代表です。

p160
1955年7月、重光外務大臣はアリソン駐日大使と会談して、
米軍撤退についての驚くべき要請をしています。

p161
米国地上軍を6年以内、米国海空軍を米国地上軍の撤退から
6年以内、合計12年内に米軍の完全撤退を提言している。

普天間基地ひとつ動かすことさえ、「非現実的だ」として
まったく検討しない現在の官僚や評論家たちは、
こういう
歴史を知っているのでしょうか。

p161
重光は・・・「米軍は米国の都合で日本に留まっている
ということを、彼はよくわかっていたのです。

現在の日本では、米軍完全撤退や有事駐留論はおろか、
普天間基地ひとつ海外へ移転させるというだけで、
「とんでもない暴論」とみなされてしまいます。

そうした まともな議論を「とんでもない」といってつぶし
つづけているのは、本当はだれなのでしょうか。

p167
天皇の言葉を紹介しています。
「八月二十日、渡米の使命について細かく内奏し、陛下より
駐屯軍の撤回は不可であること、また知人への心のこもった
伝言を命ぜられた」

このことからもわかるように、戦後の歴史において
昭和天皇はけっしてたんなる象徴ではありませんでした。

吉田首相の米軍基地に関する極端な従米路線には、こうした
「在日米軍の撤退は絶対にダメだ」という昭和天皇の
意向が影響していた可能性が高い
そうです。

==>> 沖縄にしても、在日米軍にしても、
天皇陛下の意向が根底にあるというのが この著者の
見立てであるようです。
それが、何故だったのかが知りたいところです・・・

その21に続く

 

 

 

 

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2013年3月19日 (火)

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その19 宮沢も怒った日米地位協定

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

行政協定=>地位協定

p148
歴史学者シャラ―も、次のように書いているのです。
「(行政協定においては)日本側が現行の基地を貸すことを
ためらっても、アメリカの権利は自動的に延長される
ことに
なっていた」

現在の日米地位協定を・・・
現在でも、合意が成立しなければ、米国は基地の使用を無限に
継続する権利をもっているのです。

なぜここまでひどい協定が結ばれてしまったのか。

p149
宮沢喜一元首相がこう批判しています・・・
・・・これでは講和が発効して独立する意味がないにひとしい。

p150
宮沢などの目にとまって具合が悪くなると、さらに行政協定
から削除し、ほとんどだれも見ない「岡崎・ラスク交換公文」に

書き込んだのです。

宮沢喜一といえば、「親米派」の代表的な政治家です。
その人がわざわざ「「岡崎・ラスク交換公文」と名前まで明記
して批判しているのですから、よほど腹にすえかねたのでしょう。

これによって米国が在日米軍基地を半永久的に使用する法的根拠
ができてしまったのですから。

==>> ふ~~ん。 こういう国家間の文書というのは、
どういうレベルで署名されると国家間の法的な根拠になるので
しょうね??
しかし、首相よりも外務官僚の方の密約が生きるっていうのが
解せない・・・

p151
つまり戦後の日本外交の極端な従米姿勢は、ほとんどこの二人に
よって決められた
ものなのです。

しかし残念ながら・・・・出世した岡崎の生き方は・・・
外務官僚のモデルとなっているようです。

もっとも問題とされる行政協定の第十七条には、
「米国は、軍隊の構成員および軍属ならびにそれらの家族が
日本国内で犯すすべての罪について、専属的裁判権を
日本国内で行使する権利を有する」
・・つまり実質的な治外法権をあたえているのです。

==>> そして、ここで、米軍軍人が交通事故などを起こした
場合、日本での裁判が実施できないばかりじゃなく、
本来の米軍による軍法会議にもかけられない、って話なんです。
つまり、轢き殺された日本人は、米兵に対してなんにも
出来ないってことです。

米軍の都合で米国の利益の為に日本の基地を使っていながら、
これは日本を守るためじゃないのに、その日本の土地で
米兵が犯した犯罪はお咎めなし、ってことですよ。

そういうことを外務官僚が許した、合意した、ってことです。

なぜ、沖縄に米軍基地が集中的にあるかっていう理由が分かる
ような気がしますね。
こういう治外法権で米兵がやりたい放題やっているのを
本州や九州などの「本土」で許したら、国民が騒ぐからなんで
しょうね。

もちろん、沖縄では大いにデモなどを行われてはいるんですけど、
地位協定のことも本土の国民はほとんど知らないから
沖縄の人たちへの共感を持てないってことを計算の上で
やっているんでしょうね。

その20に続く

 

 

 

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「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その18 鳩山首相は米国の方針に逆らった

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

日本の再軍備・・・安保条約

p141
(1950年)9月15日、ニューヨーク・タイムズは
責任ある人からの情報として、 米国の対日講和における
次のような方針を報じました。

O 再軍備に制限を設けない
  経済と通商の自由を最大限認める。
  国連加盟などの参加を促進する。
O 米軍が日本に駐留する許可を得る。

つまりこの時点で、米軍が国内に駐留することが日本独立の
条件
になっていたのです。

・・・平和憲法といいながら、アメリカの方針は
無制限の再軍備と駐留だったわけですね。
日本人が知らないところで、アメリカ国内の二つの勢力が
凌ぎをけずった結果、現在でもアメリカがつくった
平和憲法と アメリカがつくった基地問題が国内問題の
筆頭になっているってことか・・・・

p141
その後、日本側から「われわれ(米国)が望むだけの軍隊を、
望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」ことを
変えようとする動きが出ると、そうした動きは必ずつぶされて
きたのです。

p142
鳩山由紀夫首相が普天間基地問題で「最低でも県外」とし、
「国外移転」に含みをもたせた主張をしました。
・・歴史的にみてきわめて異例な発言でした。
日本側から米軍基地の縮小計画をもちだしたケースは
過去半世紀のあいだ、ほとんどなかったからです。
・・・そこで鳩山首相をつぶすための大きな動きが生まれ、
その工作はみごとに成功したのです。

==>> 国民が大いに期待した民主党政権。
そして、それが期待外れだったことを理由に 国民は自民党へ
回帰したわけですけれど。
本当は、そのように国民を誘導したのはアメリカだったって
ことなんですね。。。。
日本国民はまんまと、マスコミなどによって騙されたって
ことですかね?
米国にとって都合のよい政権じゃないと潰されてしまう。
中国なんかと仲良くするような政権じゃ、困るってことでしょうか。
防波堤になってもらわないといけない存在ですもんね。

p144
(日米安保条約は)
きわめて不思議な条約です・・・・
シャラ―はこう解説しています。
「これらの軍隊には日本の防衛は要求されておらず、いつでも
引き上げることができ、また日本国内の騒乱にも使用すること
ができた」

「この軍隊は、(略)日本国の安全に寄与するために使用する
ことができる」と書かれています。

・・・「使用することができる」というのは、法律上は
義務ではないということを意味します。

==>> 安保条約は、一般の日本人が思い込んでいるような
条約ではないってことですね。
アメリカは日本を守ってくれるわけではない。
そんなことは約束してはいない。

p145
米国は日本国内に軍隊を駐留させられる。 しかし米国は日本を
防衛する義務を負わない。
 こうした条約をいったいだれが
支持できるでしょうか。

==>> おっしゃるとおり、身勝手この上ない条約ってことに
なりますね。 アメリカが危ないときの防波堤としては使う
けど、日本を守るためってことじゃないよ、っつう話ですもんね。

p146
吉田首相自身、それが本来、独立国が結ぶべき条約ではない
ことをよく知っていました
。 日本側で署名したのが吉田ひとり
だった理由はそこにあったのです。

p147
米軍がどのような条件で日本に駐留できるかは、寺崎太郎が
のべたように行政協定のほうがはるかに重要な意味をもって
いるのです。

・・この協定は名前を日米地位協定と改め、今日まで継続して
いるからです。

・・日米安全保障関係を論ずるときに、行政協定にまで
さかのぼって論ずることはほとんどないのです。

その19に続く

 

 

 

 

 

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「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その17 学者も研究者も、麻薬中毒

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

財閥解体のところです。

p128
占領政策の大きな柱に、財閥解体がありました。
五大財閥(三井、三菱、住友、安田、富士)は解体され、・・・

p129
財閥解体には別の目的もありました。
・・・・米国に協力することにまったく抵抗のない人々を
日本の経済界の中心にすえるということです。
その中心が経済同友会でした。
・・・まさに高度経済成長期の日本の形を決めた人たちだった
といえるでしょう。

p130
労働運動については、占領時代初期にGHQは、民主化政策
の一環として積極的に支援しました。

p131
日本の経済界やインテリ階級だけでなく、労働運動も
また占領軍のもとで育成された
ことを記憶しておいて
いただきたいと思います。

p132
「米国による日本占領は、史上まれに見る寛大な占領だった」
という定説は、はたして正しいのでしょうか。

==>> ってことは、そうじゃない、っていう著者の
主張なわけですな。
しかし、労働運動まで やらせた ってのが凄いなあ。
適当にガス抜きをやらせていたわけですね。
そして、度が過ぎてきたら 止めさせた。

p132
米国の占領政策は、自分たちの目的をもっとも効率よく
達成する方法を選択しているのです。

p133
米国の間接統治は、基本的に米国流の社会体制を築くことを
モデルとしています。
したがって日本における間接統治も、けっして「特別寛大な
占領」ではなく、米国の一般的占領モデルにすぎません。

p134
アメリカ専門の学者は、たくさんいるはずだ。 
なのになぜ今まで、「米国からの圧力」をテーマに歴史を
書く学者がほとんどいなかったのか。
 それは偶然ではないのです。

p135
まず占領時代、米国との関係を強化する目的で
米国学会が作られた・・・

学会誌「アメリカ研究」には、合衆国に批判的ないかなる
言葉も総司令部から許されなかった。

米国はこの学会に資金提供や「指導」の支援をします。
その対象になるのが東大と京大です。
東大教授や京大教授にきわめて親米的な米国研究者がいる
背景がここにあります。

==>> なるほど、実に戦略的ですね。
今の日本は、アジアやアフリカで、こういう面での戦略は
どうなんですかね?

p135
ロックフェラー財団は東京大学に20万ドルの助成金を
給付した。 東京大学が出した額は毎年千ドルだった。

p136
米国のソフト・パワーは、依存する習慣を日本の研究者に
うえつける役割をした。
 若手研究者は海外留学を
めざしていた。

==>> ふ~~ん。 最近の米国留学は 日本人は
急激に減って、中国人や韓国人が多いらしいですけど、
これにもなんらかの戦略が隠されているんでしょうかねえ・・・
あるいは、中国側の戦略か・・・

p136
ある教授から、「われわれだって事情は同じです。
留学したり、学会に出たり、米国大使館でブリーフィングを
聞いたり、米国に抵抗していいことはなにもありませんよ
といわれました。

==>> 自由かと思っていた、学者、研究者も
がんじがらめになっていた、麻薬を打たれていたと
いうことになりますね。

p138
日本の外務省はいつから講和条約を考え始めたのでしょう。
驚くべきことに、1945年にもうすでに研究を始めて
いるのです。

・・あの重光葵です。
「いまの外務省は総司令部との折衝に暮れているが、
占領は無期限につづくわけがない。 完全に武装解除を
されてしまった日本は、どのようにして国を守っていくか、

君らは考えたことがあるか」

p140
マッカーサー自身は早期講和の提唱者でしたが、・・・
「「対日講和条約はすでに締結しているべきである
しかし日本人の責任でない理由により、近い将来締結される
見込みがない」

==>> これは、米ソ冷戦と朝鮮戦争が理由としています。

p140
軍部は当然、「日本を占領しているほうが日本を軍事的に
自由に利用できる。・・・」

ダレスはこのとき、日本に恩恵をほどこすために早期講和を
主張したのではありません。

「冷戦が起こったので、日本とドイツを利用し、ソ連との
戦争の防波堤にする。 そのためには早く独立させたほうが
よい」という考えだったのです。

==>> 結局、どちらにしても、日本を利用するということは
変わらないわけで、米国の都合ということですな。

その18に続く

その1へ戻る

 

 

 

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フィリピンのお葬式・・・こんなに笑顔があってもいいのか?

私が「バギオで暮らしたい」と思った、そのキッカケを作ったフィリピン・バギオの仕事仲間たち。 その一人の女性が亡くなった。

000b

私が彼女と一緒に仕事をしたのは1998-2000年までの二年間、駐在員時代のことだった。

今から10年ほど前に、彼女はフィリピンからアメリカに家族共々渡って、親会社で仕事をしていた。

015

昨年の末ごろ、彼女が乳癌で入院しているという知らせが、当時の仕事仲間からあった。

そして、つい2週間ほど前に、遂に訃報が届いた。

036

彼女は荼毘に付され、3月16日にフィリピンに到着。翌日17日に故郷バギオでのお別れの会となった。

033

彼女は私よりもひとまわり若いお母さんだ。 子供たちは大学生くらいの年齢。

ご主人は以前は船員だった。

今ではカナダで家族共々生活している当時の仕事仲間二人からも、葬儀に参加するのなら、是非私たちのお悔みを、彼女のご主人に伝えてくれと頼まれた。

003

・・・しかし、その喪主であるご主人は、私を笑顔で迎えた。

「えっ、これでいいの?  フィリピンでは・・・・??」

005_6

他の参列者も この笑顔・・・ 不可解・・

勿論、私がこの昔の仕事仲間と こんなに大勢で会うというのは10年ぶりぐらいのことではあるんだけれども・・・ それにしても・・・

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しかし、さすがに、仲間の代表が彼女を偲びながら弔辞を語ったときには、皆が目頭をぬぐっていました。

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しかし、チャペルを出てからは、このような同窓会のノリになっていまして・・・

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参列者全員でのお食事会。

ご主人に、私が、

「お悔み申し上げます。 カナダの仲間二人からもお悔みを伝えてくれと頼まれております。  それにしても、彼女は逝くのが早すぎた。 残念です。」

と日本式の感覚で話をしていると、

代表で弔辞を言った仲間の一人が、

「大丈夫。 彼女はもう苦しみも悲しみもないあの世に召されたのだから・・・。 私たちもすぐに彼女のところに行くのだから、必ず・・・」

と横から声を掛けた。

・・・なるほど、これがキリスト教的な感覚なのか・・・

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もちろん、仏教でもあの世が極楽で、死んだらそこに往生するわけだから、同じと言えば同じなんですけどね・・・

それにしても、この明るさはなんなんだ・・・

実は、私も父親が70の誕生日に逝った時には、兄弟姉妹で葬式の後に笑ったものでした。

「まあ、よく、子供に迷惑を掛けずに、タイミングよく、すんなりと逝ったもんだなあ・・・」

苦しむこともなく、お酒を飲んで、風呂から上がって、テレビを見ながら、そのまま逝ってしまった親父だったんです。

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食事会では、彼女を偲んで、プロジェクターでのスライド・ショー。

昔の仕事仲間が、ワイワイ、キャーキャーと、本当に楽しげに、昔を思い出しながらのお別れ会になったのです。

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そこで、ちょっと思ったんです。

日本のあの、喪服の黒に染められた、異様な光景、厳粛と言えばいいんですが、あの形式ばった堅苦しい葬式という行事は、なんなのか・・・

もちろん、家族の悲しみは笑顔の下に隠されているのでしょうが、

この笑顔は、逆に 底知れぬ諸行無常を感じさせるような気がしたんです。

合掌

 

 

 

 

 

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2013年3月18日 (月)

バギオの名所、Cafe by the Ruins 25周年、 「廃墟の傍のカフェ」

バギオの名所ともなっている カフェ・バイ・ザ・ルインズが25周年のイベントをやっているよ、と誘われてワインを飲みにいってきました。

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カフェ・バイ・ザ・ルインズ Cafe by the Ruins の由来
検索してみると、下のようなことが書いてあります:

http://members.virtualtourist.com/m/p/m/221793/
From their Facebook page: "Just so everyone knows we're called
Cafe by the Ruins because the Cafe was built by the ruins of
the gazeeboo of the 1st American-Governor of Benguet AND the
Cafe is built AROUND the ruined walls of the house of Phelps
Whitmarsh, the late American Governor of Benguet... The walls
were ruined during the 2nd World War. The bullet and bomb
marks are still scarred on those walls. Walk in to the Cafe
and look around. You'll see it."

Cafe by the Ruins と呼ばれているのはなぜか。
ベンゲット州の初代アメリカ人州知事の見晴しのよい東屋の廃墟の
傍に建てられ、又、最後のアメリカ人州知事フェルプス・ウィトマーシュ
の家の破壊された壁の周りに建てられたのです。
その壁は第二次世界大戦中に破壊されたものです。
銃撃や爆撃の痕がその壁に残っています。

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<<破壊された壁の写真は下記のサイトでご覧ください>>
http://www.driftwoodjourneys.com/a-sumptuous-breakfast-at-cafe-by-the-ruins/
“The ruins we lay claim to are the remains of a garden theater
which was later converted into the gracious home of Phelps
Whitmarsh, the first civil governor of Benguet. The house was
built early in the last century and destroyed in World War II.
A meeting place and venue of many canaos (rituals to appease gods),
the cafe occasionally hosts poetry readings, art exhibits and
dance performances as well.”

私たちがいる廃墟というのは、庭園劇場の跡地で、後に、ベンゲット州の
初代の市民州知事フェルプス・ウィトマーシュの優雅な邸宅へと
建て替えられたところです。
その邸宅は前世紀の初期に建てられ、第二次世界大戦で破壊されました。
会合の場であり、多くのカンニャオ(神様を鎮める儀式)の会場として、
カフェは折に触れて、詩歌の朗読、アート展示、そして踊りの公演なども
主催しました。

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アーティストのための発表の場ともなっている このカフェには、上の写真のように、なぜか折鶴なんかが飾ってあるんですねえ。

事情通に尋ねたところ、マウント・クラウド書店と同じ経営者が このカフェにも関わっていて、その人が折り紙が好きなのだとか。 

確かに、その書店の窓際にも、折鶴がぶら下げてありました。

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残念ながら、このカフェにはビールが無いんです。 だからワインを飲んでいるんですけどね。

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25周年のイベントに、私を誘ってくれたのは、右側の音響係にされてしまった男性です。 本来は シネマテックのマネジャーなんですが、今日はお手伝いに来たそうです。

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そして、偶然とは恐ろしいですね。

先日のバギオ音楽祭の折に、4年前に創ったミュージカルに出演してくれた舞台女優さんにバッタリ会ったんですけど、ここでも会ってしまいました。 

例によって名前が出て来ない・・・・ Rayeさんでした。

今年5月の選挙で、市議会議員に挑戦している彼女です。

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・・・そして、このなまめかしい女性・・・

地元の言葉で いろんなジョークをしゃべっているみたいで、客席から爆笑が起こっていました。

実は、男性なんですけどね。

バギオ・シネマテック映画館が入っている CASA VALLEJO(カーサ・バリエホ)という建物の中に、HILL STATION(ヒル・ステーション)という カフェ・レストランがあるんですけど、そこでよく見かける顔なんですねえ。

テカテカに剃りあげた丸坊主の男性です。

シネマテックのマネジャーに聞くと、映画監督もやっているアーティストだとの話です。

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2013年3月17日 (日)

バギオ・カントリー・ミュージック 3軒ハシゴ Baguio Country Music

先日のバギオ音楽祭の折に、カントリー・ミュージックを聞いたんですけどね、

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/02/post-5d1b.html

たまたま日本人映画監督が大学の教授と一緒に カントリー・ミュージックのライブを聴きに行くっていう話をきいたもんで、私もお邪魔させてもらうことにしたんです。

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一軒目は、バギオの中心部マグサイサイ通りにある Baguio Country Soounds(BCS) ってところです。 基本的には カントリー・ミュージックを聴かせるライブ・ハウスなんですが、 看板の下に 「 & Variety Sounds 」ってのが・・・・

013_2

今日の出演バンド名なんですけど、お店に入ったときは まだ8pmで 一番上のバンドが演奏していました。

しかし、このお店は 入店時のセキュリティーが かなり厳重でした。

荷物は入り口に預けなくてはならず、しっかり身体検査もあり。

「やばい所なんじゃないか・・・」

って心配になるくらい。(笑)

ちなみに、すぐ隣に女の子たちが踊っているディスコもありました。

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ちょっと早すぎたみたいで、店内はがら~~んとしていました。

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このお店は、元々は映画館だったそうで、天井が高く、かなり広いフロアーになっています。 舞台の前には お客が踊れるステージもありました。

ピール一本60ペソくらいで、友達数人でワイワイ飲むのにはよさそうです。

010

肝心の歌ですけど。

このお姉ちゃんが カントリー・ミュージック特有の声使いで、なかなかいい感じでしたが、全体としては バラエティー・サウンド の方でしたね。

スタイルも カウ・ボーイ、カウ・ガールの格好ではないので、今一つ雰囲気が乗ってこない。

ところで、上の写真の壁にはってある ABRA、IFUGAO、BENGUETっていうのは この山岳地帯の州の名称なんです。

日本でいえば、長崎、佐賀、熊本・・・なんて文字が貼ってあるってことになります。

イメージ的には 「民謡酒場」みたいな感じなんでしょうかねえ。

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「そんじゃあ、もう一軒行ってみるべえ・・・」

っということで、やってきたのが2軒目の ここ。

バギオのセンター・モールの裏側にある、ダンワ・バスターミナルの一角。

ライブ・レストランです。

大学教授に 

「バギオにはカントリー・ミュージックを聴かせるお店が 何軒くらいあるんですか」と尋ねたところ、

「おおよそ10軒くらいだけど、BCS以外は小さなところばかりで、カントリーを専門にしているわけでもないんですよ。」

との返事。

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このお店も あいにく カントリー・ミュージックではなかったんです。

大学教授の知り合いが ここでカントリーをやっているかも ってことで来たんですけどね。

でも、 この盲目の夫婦。

奥さんの方の声が なかなか良くて、「これもいいんじゃない?」って雰囲気でした。

昔は小汚いお店だったみたいですけど、改装されて小奇麗になったそうです。

二階の方がゆっくり落ち着いて食事も 鑑賞もできるようです。

吹き抜けになっているので、演奏の音も2階の方が よく聞こえました。

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カントリーをどうしても聞かなければ・・・

ってんでやってきたのは、バギオ市の隣町のラ・トリニダッド。

ここは、ベンゲット州国立大学の前、ベンゲット州庁舎の手前です。

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ほほ~~~、ちょっと雰囲気あるじゃないですか。

椅子やテーブルは安っぽいですけどね、それは田舎ですからしょうがない。

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入った時には、この女性が歌っていたんです。

カントリーじゃない歌でした。

大学教授の話では、

「この前の この町のお祭りの時に 確かあの子が カントリーを歌っていたよ。」

映画監督が

「おお、彼じゃないの・・・」

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この右側の男性を 映画監督が知っていたんです。

ローカルのカントリー・ミュージックの シンガー・ソング・ライターである

センドン(Sendong)さんです。

「彼の曲は、地元の庶民の生活に根差した歌なんで、好きなんですよ。」

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真ん中が フィリピン大学バギオ校の芸術学部で教えている教授なんですがね、彼がここ10年ばかり バギオから北部に広がっている山岳地帯でのカントリー・ウエスタン・ミュージックを調べているんだそうです。

それで、ちょっと映像も撮りたいってんで、左にいる映画監督を誘ったそうなんです。

教授に、「バギオでカントリー・ミュージックが流行ったのは、そもそもいつからなんですかね? 戦後ですか、あるいは戦前から」と聞いたところ、

「戦前からだと思いますよ。」

「・・でも、さっき戦前にバギオの日本人学校の小学生だった人に聞いてみたら、 彼は当時は カントリー・ミュージックを聴いた記憶はないって言っていましたけど・・・」

「じゃあ、戦後なのかなあ・・・・」

と自信なさげな返事でした。

もっとも、可能性としては 戦前からと戦後になってから 両方ともに残るんですけどね。

元々100年くらい前にバギオを開拓したのはアメリカ軍ですし、その当時からカウボーイ・スタイルは入っていたわけで。

ただ、じゃあ、ウエスタン・ミュージックが本場アメリカで いつごろ流行っていたか、も問題になりそうですね。

「じゃあ、誰がカントリーをバギオ周辺に持ち込んだんでしょうか」

「映画とレコードですよ。」

「どういう歌手が ここでは有名なんですか?」

「一番は やっぱり ハンク・ウイリアムス かな」

http://www.youtube.com/watch?v=O_cUNvswt-4

「どの世代が一番 カントリーが好きなんでしょうね。」

「30代から40代・・・50代までかな?」

・・ってことは、

ハンク・ウイリアムスは、

ハンク・ウィリアムズ(Hank Williams、本名:ハイラム・キング・ウィリアムズ、Hiram King Williams、1923年9月17日 - 1953年1月1日)は、カントリー音楽の歴史において最も重要な人物のひとりと見なされている、」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%BA

とありますから、早くても1940年代ってことでしょうね。

それに、「カントリー・ミュージック」自体については、

ヨーロッパの伝統的な民謡やケルト音楽などが、スピリチュアルゴスペルなど霊歌賛美歌の影響を受けて1930年代に成立した。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF

ってことになっていますから、1941年以前、戦前に、映画やレコードがバギオにやってきていてもおかしくはないってことになります。

バギオには、戦前には映画館が数軒あったそうです。 セッション通りだけで、2軒あって、その内の一軒は パインズ・シアターで 今でも建物がそのまま残っています。

・・・ただし、カントリーが好きな世代はせいぜい50代くらいだっていう話なので、やっぱり戦後ってことになりますか?

戦前だったら80代、90代のお爺ちゃん、お婆ちゃん、ってことになりますからね。

・・・

さて、シンガー・ソング・ライターのセンドンさんですが、

カンカナイ民族のカンカナイ語で歌っているんですけど、このカンカナイ語っていうのは、バギオの北、ベンゲット州の北部からボントックやサガダのあるマウンテン州地方の言語なんだそうです。

カンカナイ語については こちらのサイトで。

http://wee.kir.jp/philippines/phi_kankanay.html

もちろん、この地方は公用語である、英語とフィリピン語(タガログ語)、そして、地域の共通語としてのイロカノ語もありますから、その上に地元山岳民族のカンカナイ語を使っているってことなんですねえ。

・・で、このお店がある場所は、バギオ市の隣のラ・トリニダッドなんですけど、この土地は、カンカナイ語とイバロイ語が混ざっている場所でもあるそうなんです。

http://wee.kir.jp/philippines/phi_ibaloy.html

イバロイ語っていうのは、ベンゲット州のどちらかと言えば南の地域に多いようです。

教授によれば、昔はイバロイが多かったけど、最近はカンカナイが増えているという話でした。

そうなると、この辺りに住んでいる人たちは、英語、フィリピン語、イロカノ語、カンカナイ語、イバロイ語の5か国語ができても 不思議じゃないってことになりますねえ。

もう、びっくりです。

日本人なんかは英語だけで 四苦八苦してるんですから・・・・

・・・・

それで、センドンさんが昨年の12月にフィリピン大学バギオ校でのフォーラムで歌った曲が面白い歌だったんです。

タイトルは忘れちゃいましたけど、

「トクボよ、お前もゲリラだったのか!?」

っていう内容の冗談の歌なんですけどね、

これがイバロイ語とカンカナイ語の両方あるらしいんです。

「トクボ」って言うのはある草の名称だそうで、

戦時中に日本兵たちが 山の中を行軍していて、もようしたわけです。

それで、大の方だったんですが、トイレット・ペーパーなんて

ありませんから、近くに生えていた草の葉っぱを使ったんですね。

ちょうど手頃な大きさの葉っぱだったんでしょう。

それで、お尻を拭いたんですけど、

「ひえ~~~!!」と悲鳴をあげちゃったんです。

なんでか・・・

その葉っぱには トゲトゲが葉っぱの裏にたくさんあったんだそうです。

それで、その日本兵は、

「この~~、葉っぱまでが ゲリラだったのか~~」

と呻ったとか。

そういう冗談話を 戦争中のゲリラであった山岳民族の元兵士が

曲としてつくったものが、 今でも歌い継がれているということでした。

歌は世につれ、世は歌につれ・・・・

 

 

 

 

 

 

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